微熱の季節 マジェンダ藤原
「ここは禁煙ですよ。藤原先生」
火をつけ終えたばかりのライターを握り隠して、藤原文太は後ろを振り返る。その先には、プリントの束を脇に抱えた我が校始まって以来の秀才と呼び名のたかい生徒会長、高橋涼介が立っていて。
「なんだ、お前さんか」
静かに後ろ手で閉めた生徒会室のドアから向き直りながら、涼介は鞄を長机の足元に置いた。
「どうしたんですか?珍しいですね」
つい、と整い過ぎた面が鼻先まで近付く。
「あなたが、此所へ御自分から来るなんて」
決して二人きりの時にしか口にしない呼び方で、艶やかな唇が囁いた。
「あぁ、今朝の職員会議でな…」
待ち焦がれているような、その朱蕾を啄んでやって。
「多数決とやらで、全校内禁煙だとさ」
指に挟んだ煙草を再び銜え直すと、深々と煙りを吸い込んでみせる。
「御愁傷様でした」
「全くだ」
■■■■■「でも…」
余程の我慢をしていたのか、引っ切り無しに煙草を銜えこむ文太の様子を横目で見ながら、涼介が話し掛ける。
「此処に来る回数が増えるんでしょう?」
さあな、と煙りを吐き出して顳かみを掻く。
「忙しそうじゃ無ぇか」
机の上の一枚を取り上げ、興味の無さそうに斜読む。
「謝恩会の企画書ですよ。先生、生徒会顧問でしたよね」
半ば呆れた、それでいて愉し気に答える涼介の声。
「俺なんかが居なくても、お前さんみたいのが居るからイイんだろ」
およそ教師らしくも無い台詞が、この男からは自然に聴こえてくる。外見とはそぐわない勤務態度のせいか、彼は不思議と生徒達の間では慕われていた。
「任せて下さい」
笑いを噛み殺して、優秀な生徒は教師から用紙を取り上げた。■■■■■
土曜日の放課後。こんな時間まで居残っているのは部活動に真面目に励む生徒と担当顧問ぐらいなものだ。
そのどちらでも無い二人が、校舎の外れにある生徒会室で片方は忙し気に紙の束をめくり、片方はのんびりと煙草をふかしている。
「なぁ、高橋」
急に名前を呼ばれて、その動きを止める白く長い指。
「その襟、苦しく無ぇのか」
ネクタイさえも滅多に絞めた事のない不良教師は至極当り前の様に疑問を口にする。
「そうですね…」
僅かに傾げた顔には企みの微笑がゆっくりと浮かんで。崩した恰好など見せた事のない優等生は…乱れた姿を唯一知っている相手に向かって、白い喉を差し出した。
「外して下さいますか」
「仕事は?」
未だ積まれたままの、書類を目で指す。
「月曜日の放課後にでも藤…、拓海君に手伝ってもらいますから」
艶めいた瞳で詰め寄る様に、涼介は長机に両手を突いて爪先立つ。
「あぁ。成る程な」
指先で摩った紺色の制服に映える喉が微かに震えて、文太はニ本の指でフォックを弾いた。
そう言えば、自分に似て大して人当たりの良く無さそうな一人息子が、どう言う訳だか春の学生選挙で生徒会役員に名前を連ねた。
家で見るぶんには何の取り柄も無さそうな愚息が、どうしてアレだけの人望を集めたのか甚だ疑問ではあった、が。
「…先生?」
呼び掛けられて視線を戻す。その目の前の妬んだ瞳に苦笑する。
愚息と近い歳の、同じ制服の……授業こそは受け持ってはいないが、数いる生徒の一人。
誰であろうと他人を寄せ付けない雰囲気に、最初の印象は好ましくは無かった筈だが。
初めてこの部屋に入った時の生徒会役員と生徒会顧問として顔を会わせた日。喉元に伸ばされた手を、柄にも無く慌てて掴んだ指が震えているのを引き寄せて。
そう、こうして。
「先、せ…」
含んだ熱い息を、文太は今も待ち焦れている紅い唇へと注ぎ入れた。
「ぅ…ん」
閉じられた瞼が薄く染まっていくのを確かめながら、暫く嬲っていた舌を引き離すと同時に、肩に置いた手も退ける。
机の向こう側から、微かに潤んだ眼が明確な意思で誘う。ゆっくりと踏み出してくる彩を浮かべた顔に吸い寄せられる自分を、文太は口を歪めて愉しそうに嘲笑った。■■■■■
たった一箇所に突き抜けた痛みが、やがて痛い程の熱をもっていくのが判る。見られることを嫌がり、覆った手の平を払われて、涼介は思わず顔を叛けた。細かく繰返される痺れが逆上せた頭の中でゆっくりと容に為っていく。
深く呼吸をするために荒げた息の間隔がやがて短くなり、遂には湿った喘ぎになった。
「やぁ…です。先、せ…」
「自分でするか?」
震えながら上目で頭を振る、その途端に眼から熱い泪が零れた。
ざらつくような感触と、滾っていく自分の内側とが擦れながら耳障りな音を立て始める。
― 先生の、指…。
脱ぎきらない制服が膝の辺りでもたついている。片方だけの上履きに踏み潰された鞄が口を開けて、何冊かの教科書が床に散ばっている。
汚れの付いたノートを見る度に、この焼き付いた情景を視るのだろうか。しがみつく事しか出来なくなった涼介は、ボンヤリとそんな事を思っていた。
「せ、先…せ、い」
捲り上がった上着から引き抜いた手を、そっと薄い唇に圧し当て、僅かに開いた唇を塞ぐ。
「息…、殺してみな」
耳元で言ってから、わざと細い腰を乱暴に揺すり上げる。
「ふ…ぁ」
噛み締めた無骨な指に、自分の歯が食い込んで。見えない筈の絡んだ肢体を、涼介は霞んでいく頭の隅で想い浮かべる。一度として挿し入れた事のない文太を、この時だけは恨んだ。
擦れて熱を持った内壁が、意識の無い弾みで何度も絞まる。その度に襞ごと掻き乱されて、また哭く。
縋った先の唇からは、今ではもう慣れてしまった煙草の匂い。翳った陽射しに僅かに舞う埃が、文太の背中越しに見える。途端、押し寄せた衝動に涼介は逆らう事が出来ず、その蜜を散らした。■■■■■
「涼介先輩、ちょっと…いいですか」
帰り支度をしていた涼介は、目の前の後輩の真摯な声に顔を上げる。
「何だ。藤原」
おっとりとした見掛けよりも、実は仕事の出来るこの後輩は、涼介のよく知っている教師を父親として育っていた。
その後輩が『会長のお気に入り』と陰で言われているの耳にしている。確かに、時々過ぎた庇立てを吹聴する輩も居たりして、騒がしい事此のうえなかった。
余りの外野の煩さに、随分と前に、さり気なく聞いてはみたが。
「あ、オレんちオヤジが教師だから。そういう事言われんの慣れてます」
等と、拍子抜けする位の返事が返って来ただけだった。
― あの人の息子だから、かもな。
半ば自嘲気味に納得させて、また鞄に視線を落とす。
「この前、此処でオヤ…、藤原先生に何か言われたんすか?」
大きな瞳で覗き込まれて、涼介の手が止まる。
それを見定めて、拓海は面白く無いとでも言う様に口を噤む。
「いや、別に。どうしてそんな事聞く?」
暫く黙っていた拓海が、ぼそぼそと喋り出した。
「土曜日、この前を通りかかったら先輩の声がしたんで…。一回、覗いたんです」
「それで?」
他には誰も居ない部屋なのに、拓海は首を伸ばして辺りを窺う。
「先輩、オヤジに乗っかられてて……」
「ふ、藤原っ」
急に出された涼介の大声に、舌を出した拓海が、肩を竦める。
「あっと、その…変な意味じゃ無くって。何か隅の方に見えたから…」
小さく息を吐いた涼介が、言葉を遮った。
「何でも無かったんだ。気にするな」
不意に掴まれた手首を引き寄せられて、涼介はバランスを崩してよろめく。
「本当ですか?本当に何にもされてませんか」
詰め寄る拓海の目には、今までに見た事も無い威嚇の光が浮かんでいて。思わず涼介は視線を逸らせた。
「涼介先輩っ!」
「煩い。離せ…、本当だ」
― 本当に何も、あの人はしてくれなかった。
思わず浮かんだ、自分の浅ましい願望に首筋が熱くなる。
「じゃあ、何で。…顔赤くなってますよ」
その言葉に反論しかけて、からかう拓海の意図に陥った事に気がつく。
「いい加減にしろ」
冷たい涼介の一言に、掴んだままの力を漸く緩めて拓海が寄り添う様に隣に立った。
「涼介さん……、好きです」
耳元に吹き掛けられた吐息に身を硬くした涼介の頬に、拓海の柔らかな唇が押しあてられた。
それを拒まなかった涼介に、拓海の方が驚いて恐る恐る表情を盗み見る。
「ありがとう、藤原」
今度は自ら近付いて、惚けている唇を啄んだ。その薄く開けた瞳に滲む涙には気付かせずに。■■■■■
旧校舎へ続く渡り廊下で、随分と馴染んだ声が耳に届いた。
その憤った様な珍しい呼び方に、ほぉと片眉を上げてみせる。
「先…っ」
何処から姿を見つけて来たのか、随分と息を切らせて駆寄って来た涼介の掠れた声が捲し立てる。
「き、聞きました…今朝、父から…」
その面には珍しく切羽詰まった様子で、にじり寄る。
「御辞めになるって、本当ですか」
「あぁ、まあな」
あっさりと認めた文太に、今度は苛立って涼介は声を荒げた。
「どうして、ですか」
自分で聞き出しておきながら、信じられないと見張られる黒い瞳。
「異動なんざ、よくある事だ」
「でも…」
食い下がろうとする涼介に、面倒そうに溜め息を吐いた文太が、仕方無しにと言葉を挟む。
「反りが合わねぇ教師なんぞ、要らねぇんだろ」
父兄会の会長である父の電話での会話を偶然に聞き盗んでしまった、昨夜の懸念が目の前に突き付けられて。
「今度の所は、気兼しねぇで吸えるといいんだがな」
にやりと笑って胸元の煙草を指差し、縒れた背広が背を向けた。
余りに軽く言ってのける、その背に投げ付けてしまいたい衝動に駆られて、涼介は鞄をきつく握りしめる。
「オヤジ!」
廊下の向こうから、拓海が足早に近付いて来るのを見て取って。
「校内じゃ呼ぶなって言ってあんだろうが」
「っ痛てぇ!」
拳が真直ぐに振り降ろされた頭を抱え込みながら、拓海の小さな唇が尖った。
「あ、涼介先輩…」
「やぁ。何かあったのか?藤原」
背後から聴こえる、憎らしい程に冷静な響きの声に、文太の口に笑いが溢れる。
「あの、いえ…別に」
「知ってるぞ、そいつなら」
言い淀む拓海と、先程の奮いを今はすっかり隠した涼介とに挟まれて、文太は苦笑いながら息子に告げてやった。
「何だ…、じゃいいや」
不貞腐れて拗ねた顔のまま、拓海は文太に向き直った。
「大体クビって、どうすんだよ。これから…」
「人聞きの悪い事言うんじゃ無ぇ。転勤、だ」
同じ事じゃねぇか、と呟いた拓海は、文太の後ろで少し蒼褪めている涼介の顔に見入った。
「あっ、す、すいません。煩いっすよね…」
「いや。先生……やっぱり…」
拓海と涼介に挟まれたまま、うんざりとした顔を作った文太は、素早く伸ばした掌で前後の頭を一つづつ叩く。
「授業だ。さっさと教室へ行け」
言い終わると同時に、三人の頭上で古惚けたチャイムが鳴り響いた。■■■■■
「いつまでも、そんな憾みがましい顔するな」
煙草を挟んだ指で、涼介は額を突かれる。
「…簡単に言わないで下さい」
いつまで経っても扱いは子供のまま、言った処で躱されるだけで。せめて今はと、精一杯落ち着き払ったふりで、涼介は切返す。
放課後の生徒会室。刷り上がったばかりのインクの匂い。全て、何も変らなかった昨日までと同じ、其所で。
「まぁ、いいさ。その内な……」
けれど、フィルターを咥えなおした唇が、その先を告げる事は無かった。熱に浮かされた様な想いは、三度目の桜の季節を待たずに閉じられてしまったけれど。
END
パラレルって、難しいっすよ。アニキが可憐になっちったし…スイマセンm(_ _)m
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