「アニキ、居る?」
機嫌の良さそうな啓介の声に、打ち込んでいたデータの配列から振り返る。
片手に持ったカップを口に当て、もう片方の手には涼介の分の飲み物が湯気を立てていた。
「丁度良かった、お前を呼ぼうと思っていたんだ」
途端に破顔する明るい瞳、それが近付いて来て頬に甘い香のする唇が触れる。
ちらりとディスプレイに映し出された羅列を見て、啓介がゆっくりとカップを置く。
「勉強?」
「否、春からの俺達のプロジェクト用、さ」
ふぅん、と生返事をして啓介が机を離れる。
極端に頭を使う作業を嫌う啓介は、目下のところ冬の峠を自主的に走り込んでいる。
それが充分では無いと自分でも判っているからこそ、こうやって涼介の部屋に御伺いを立てに来ているのだ。
「アニキ、これ何?」
珍しく乱雑に置かれたビデオの一山を指差されて、涼介は苦笑する。
「何って、これからお前が頭に叩き込まなくちゃならないやつだぜ」
「え、これ、全部?」
「あぁ、幾らかは抜粋しようとして目は通したんだが…」
「やっぱ…全部?」
「そうだ」
うげぇ、と大袈裟にひっくり返って、ベッドに大の字に寝転がる。
「こら、あんまり皺にするなよ」
寝返りを打ちながら、ちらりと涼介の横顔を盗み見て。
取り替えられたばかりのシーツからは微かな香がする、それに態と鼻を擦りつけて、啓介は気を惹くように駄々を捏ねる。
「ヤダよぉ、オレの頭悪ぃの知ってんじゃんか」
「おいおい、啓介」
根負けした苦笑いで椅子から立ち上がった涼介が近付いて来るのを薄目で確かめてから、完全にベッドに伏せる。
「啓介、お前は頭悪くなんかないぞ。現に、この前のバトルだって理論的に戦えたって言ったじゃ無いか」
「アニキが居てくれたから、だろ」
「啓介…」
いつの間にか、すっかり操縦法を覚えられて、涼介は肩を聳やかして笑う。
クセを気にして逆立てた髪の毛を知らずに人込みの中で探してしまう事や、チームのミーティングに一人で行ってしまう背中に一抹の寂しさを感じてしまう事など…決して悟らせはしないけれども。
「ほら、啓介。起きろよ」
ただ頭を振るだけで顔を上げようともしない啓介の肩に手を置いて、その耳元に唇を寄せた。
「け、い、す、け」
途端に飛び上がる長身が、真っ赤になって耳を抑えている。
「酷ぇ、アニキ!それ反則」
■■■■■
結局のところ、皺だらけになったシーツの上に今だ寝転がったままの啓介の横に腰を降ろしながら、過保護な自分を少し疎んだ。
「アニキ、俺さ…」
「ん」
「あいつ等には負ける気しねぇから」
「あいつ等?」
「…何でも無ぇ」
鼻のアタマを指で擦りながら、横を向いた啓介の語尾が揺らぐ。
「俺がアニキの夢を叶える、絶対」
「…夢、か」
「あっ、ごめん、夢なんかじゃないよ。だって、俺が居るし」
「そうだな」
「アニキ……」
未だ何か言いた気な含みを滲ませて覗き込む瞳が、恐る恐る訊ねる。
「一年なんて、短くねぇ?」
「あぁ、そうかもな」
長い人生の中での、区切られた……自由。
終末だけが見えないゲームは、時間との闘いでもある。
そして、二人での共有できる時間も確実に………。
「俺が峠のコースレコードなんか、全部ぶっちぎってみせるから」
そんな兄の心を知ってか知らずか、しがみついた枕に顎を乗せたまま啓介が意気込んだ。
息巻くその様子を愛おし気に眺めながら、涼介は柔んわりと枕を取り上げる。
「お前はもっと速くなるさ」
「アニキみたいに?」
「いや……」
「えっ」
驚いて飛び起きる啓介の忙し無い瞬きに咎められて、涼介は言い聞かせる様に答えた。
「俺よりも、さ」
「アニキ」
「啓介」
触れそうに近づく……。
「さ、今からでも良いなら始めるぞ。机に行け」
顎をしゃくって追立たせる。
「ぁ、アニキぃ〜」
「高橋涼介直伝の最速理論をものにするんだろ?」
「…もっと違うものがいいなぁ、オレ」
尖らせた口を指で抓まれて、制された。
「さっさと動…」
咄嗟に抱き竦められ、涼介はその足元のバランスを崩す。
「啓介、離せ」
「厭だ」
どちらとも本気では無い争いは、啓介の唇が勝って終わった。
「こっちが終わったら、あっちへ行くから、さ」
仄白く光るディスプレイをちらりと眺めた啓介が、額を押しつけてくる。
「仕方の無い奴…」
言い終わらないうちに、伸びて来た指で唇を擦られて思わず熱い息が洩れる。
「な、アニキだって…」
満足そうな笑みを浮かべて裾を捲り出す啓介に溜め息を吐きながら、涼介は目を瞑った。
■■■■■
「俺さぁ、いっつもアニキを食べてるじゃん」
「そういうことになる、かな」
何時もながらの突飛な発想に甘い兄の顔を総崩す。
「でさ」
ちょっとちょっと、とベッドの縁から急き立てられ。
何が始まるのか検討もつかぬまま、涼介は傾げた面で立ち上がる。
大きめの羽根布団の端に寝転んだかとおもうと、そのままくるりと身体を回転させた目の前の啓介は……。
「っしょっと。クロワッサン!」
もこもことした羽根布団の両端から長い手足と得意げな笑顔が覗いている。
暫し呆気に取られ、やがて笑いが込み上げてきた。
くしゃくしゃに寝癖のついた啓介の髪をそっと掴んで、頬を噛む。
「…俺以外に食わせるなよ」
「う、ん」
枕元の時計を見やり、涼介が溜め息を吐く。
「明日から、にするか」
「じゃあさアニキ、もう一回…痛っ!」
今度は頬を抓られて、啓介が唸った。
「アニキぃ」
――冬はそう長くは続かない、そして次の季節も……。
END