鴬谷製作所へ引き返します



◆ いつかの存在 ◆


 掴み損ねた岩肌が、急激に目の前から離れて行く。踏み外した断崖から、浮遊する感覚。
 久し振りに見た夢は、あの頃の自分だった。今は場所さえも忘れてしまったけれど、それでも全てが懐かしくて。

■■■■■

「……代、五代」
「一条さ……ん」
 呼ばれた声に瞼を震わせながら、五代は夢から醒めた。
「大丈夫か?」
「あっ、はい。えっと」
 平たい検査用ベッドの上に横たわっているのだと、漸く理解したような五代の顔を覗き込みながら、一条は未だ不安げな視線を外そうとしない。
 そんな一条の表情を見つめたまま、五代は崩した笑顔で応えた。
「寝ちゃってました」
 髪を掻き上げながら起き上がった五代に、カルテに走らせる手を止めて、椿が声をかけた。
「少し休んでいくか?」
 普段なら一条が言うような台詞を椿がさらっと口にしたので、逆に五代は慌てて頭を振った。
「いや、いいっす。帰ります」
 身体に掛かっていたシーツを捲り上げ、足を床に置いたところで、五代は自分が何も身に着けていない事に気がついた。
「あ、れ?」
 そのまま立ち上がった瞬間に、素早く横を向いた一条と、タイミングよく振り返った椿とが目に入る。
「帰るのは構わんが、その格好で部屋から出るなよ。院内の風紀が乱れる」
 しれっと言い放つ椿の言葉に、一条が小さく吹き出す。
「酷いっすよ。俺、これでも身体には自身が……」
 冗談とも本気ともとれる口調で腰に手をあてながらむくれてみせる五代の身体には、無数の小さな痣。それも、ほんの数時間前までは正視に耐えぬ程の傷痕だった。
 仕方が無いとばかりに首を振りながら椅子から立ち上がり、無表情さを装い大股でベットに近付いた椿は、手に持ったカルテで五代の頭を小突く。
「いいから、しまえよ」
 目の前まで突き出された椿の人差し指と同時に、横から一条が検査着を差し出した。
「はい。そうします」
 いつもの調子の五代の声と笑顔に、椿と一条は互いにそっと目配せを交わし、ゆっくりと肩の力を抜いた。

■■■■■

「ところで、一条さん」
「ん。何だ?」
 院内の通用口に向かう階段を降りながら、足早な一条に五代は声をかけた。
「何で、さっき……。俺、素っ裸だったんですか」
「さぁ、な。椿の指示じゃ無かったのか」
 狭い踊り場で、立ち止まった一条と追い付いた五代は互いに首を傾げあう。
「どのみち、意味があるんだろう?」
「そうかなぁ」
 未だ不満げな五代に、今度は言い含める様に一条が口を開く。
「聴いてきてやろうか。椿に」
「えっ」
 大きく見開かれた五代の瞳に、困った様な揺らぎが浮かぶ。
「気になるんだろう?」
「いや。やっぱ、いいです」
 両手を突き出して大袈裟に慌てる五代を前に、今度は一条の方が不満そうに見返した。
「なんか……」
 小さく口籠った声を聞き取ろうと、覗き込もうとする一条の顔が不意に鼻先まで迫って、五代は慌てて付け加える。
「恐いから、聴きたくないかも」
 うん、と一人で納得した様に頷く五代を、意味が判らないと言う表情で見つめながら、取り敢えず「そうか」と 一条も頷く。
 本当にいいんですから、と念を押して、何故だか先を急ごうとする五代を追い掛ける様に、一条もまた階段を降り出した。

■■■■■

 あれだけ頭上に広がっていた空の青が、僅かに雲の隙間から見えるだけになっていた。
「降りそう、ですね」
「あぁ。そうだな」
 病院の裏手にある職員用の駐車場まで歩きながら、五代は時折思い出した様に顔を顰めた。一条からは見えない様に、半歩程下がって。
 見慣れた黒い車体の横で、五代はポケットから鍵を取り出す一条の隣に寄り添う様に立った。
 生暖かい風に一条の髪が揺れるのを無遠慮に見つめながら、五代はガラスに映った自分の表情も素早く確認する。内に残るものを決して一条には悟らせまい、と。
 柔らかい雰囲気が一瞬だけ消えたのを感じながら、それには気がつかない振りをして、一条は助手席のドアを開けた。 
「乗れ。五代」
「はい。失礼します」
 素っ気無い一条の言葉を受けて、五代はシートへと身体を押し込む。フロントガラス越しに一条を目で追って、それから気付かれない様に長い息を吐き出した。

■■■■■

「苦しいのか?五代」
 速度を落として、 何時かも感じた事のある痛い程の空気に一条は戸惑い気味に五代に声をかける。逃げ出したくなるような、けれど今は……それどころでは無いのだ。
「いえ、別に。大丈夫です」
「お前は……」
 苦々し気に、一条が呟いた。
 心地いい筈の振動が、五代の崩れそうな意識を痛みで覚ます。一瞬だけ気を抜いたところを見られたのかもしれない。
「本当に大丈夫です。それより、一条さん」
「何だ」
「青、ですよ。信号」
 間髪入れずに、後ろから甲高いクラクションが鳴らされる。
「分ってる」
 珍しく舌打ちした一条の、いつもより深く浮かんでいる眉間の皺に五代は小さな溜息を吐いた。
「痛むのか」
「いいえ」
― そんな顔、して欲しく無いだけです。
 言えてしまえば幾らかは楽になるだろう台詞は、確実に今の一条には逆の効果をもたらす事が判り切っている。
「少し、外の空気でも入れるか」
「違います」
「それなら、この先で止めるか」
「いいえ。だから、違うんです。一条さん」
 思いの外きつくなっていた言葉のやり取りに、先に気がついた五代が両手を挙げた。
「ストップ、ストップ。もう、止めましょう、ね、一条さん」
「あぁ」
 憮然とした横顔に、微かに後悔の色が浮かべて、一条も頷いた。
「済まん。感情的になり過ぎた」
「いやぁ、そう言う一条さんって、俺、もっと知りたいかな」
 言い終わった途端に五代の方を向いた一条の顔に浮かんだ困った様な、表情。
「ってね」
「馬鹿か……」
 苦笑に紛れた言葉は、先よりも柔らかく車内に響いた様に聞こえる。
「お前が何を言ってるのか判らん」
「それで、いいんじゃないですか」
 今度は、一条が深い溜息を吐いた。
「そうか」
 窓越しに入ってくる喧噪のみを聞きながら、無言でハンドルを握る一条とシートに深く座り直した五代は暮れかけた時間の中を、ただ走って遣り過ごした。

■■■■■
 
 路面を滑るタイヤが、その速度を落とす。
 あの角を曲がれば、いつもの風景が現われる。
 そして、恐くは望んでもいないのに、必ず辿り着く。
 近付いた夜は、それで終わる筈だった。

to be continue

こちらはepisode19の後日談として御覧下さい。あの3人が画面に居るだけで幸せなもんで、つい創ってしまったショートエピソードです。しかし「噂の二人」がバカっすね、これじゃ(笑)。
グレア子・チャップマン@
【 ̄◇ ̄】 拝


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