水無川ひふみ

「何度も言わせるなよ。アリス」
「判ってる」
　それは水曜日の朝。限りなく昼に近い、時間。
　大阪の夕陽丘のマンションから京都の北白川までの電話は、ツーコールで始まったまま、続いている。
「そう言うことだ。じゃあ切るぞ」
「ああ」
　どちらからとも切る気配の無い繋がりは、少し北にいる片方の舌打ちで終わりかけようとしていた。
「せやな。悪かった。すまん」
「いや、そうでも無いぜ……」
　ふと柔らかくなった口調を遮る様に、一方が受話器を置いた。
　ぐるぐると幾重にも絡まったコードを片手で直しながら、すっかり冷たくなった部屋で独り溜め息を吐いたのは、アリス。
　耳にあてたままの受話器を戻すこと無く、銜えて暫く経つ湿ったフィルターを噛みしめたのは火村。
　
　■■■■■

　猫は煙草の煙りを嫌う。
　抱きしめる優しい腕の上で紫煙が立ちのぼるなり、あっさりと擦り抜けていく。
「なんだよ。お前もか」
　浮かべた苦笑で、しなやかに去っていく後ろ姿を見送る。愛しい存在も、こんなに呆気なく。
　細めた目を乱雑な机上に移すと、堆く積まれた書籍が否応無しに火村を待ち構えていた。
　すっかり乾いたペンの先を強く紙に押しあてて、幾つも広げた文献を眺める。
　細切れに書き記された文字と、淡い色の付箋を貼りつけた頁が数だけを増やして、やがて午後の時間を迎えた火村は持ち上げたキャメルの箱の軽さに気付き、何度目かも判らない舌打ちを大袈裟に響かせた。
　埋め尽くされるべき紙面は未だ減らず、終わりから数えるのも億劫な程で。それでも、進めなければならない目の前の課題に胸が躍ることを止められはしない。
　研究者として、探究者として、己の存在意義と向き合う為の積み重ねに、誰も踏み入ることを火村は許さなかった。
　たとえ、それが唯一の在り処を秘めた存在だとしても。
「……アリス」
　指先から綴り続けるものとも目から入ってくるものとも、全く異質の名前を呟いた。その声で深く潜り込んでいた思考から、火村は机前の意識に返った。
「何時だよ」
　横目で見た腕時計の針は、直に一日の終わりを指し示そうとしている。
「腹減ったな」
　所々ささくれ立った畳に仰向けに倒れ込む。十年来住み続けた下宿の天井は、指で擦ればこびり着いた脂が曝されるだろうと知れる程、飴色に燻っているのが見える。
　口元の寂しさに、漸く起き上がると山となった吸いさしの中からフィルターに一番遠い一本を拾い上げて銜えた。
　腕を伸ばしただけで探りあてたライターで火をつけながら、ひどく不味い一服目を深々と吸込み早々に吐き出す。
「言い訳がちょっとばかり気に入らねぇ、かな」
　そんな独り言を呟きながら。
　朝が来ても、夜が来ても、未だ
　
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「なにもあいつと行かなくたってええんや」
　少し厚い紙で出来た二枚の映画招待券。出版社の担当から自社協賛のお裾分けが届いたのは今日。
　無意味に頭上でひらひらと翳してみる。
「せやかて、これどないしよ」
　誘う人選は数多、とはいかない自分が何やら寂しい気もしたが、それも仕方が無い。
「何で二枚やねん」
　と、送り主に対して勝手の違う鉾先を向けてみたりする。
　相手にしてみれば、とんだ言い掛かりである。何より、向こうは親切一心で送ってくれたのだろうから。
　それは判る。判ってはいるけれど、文句の一つも言いたくなって。聞こえないからいいか、などとも思ってしまうのだ。
「二回観ればええんや」
　口では虚勢を張ってみても、どうにも座りがわるかった。
「ナイスアイディアや」
　虚しさは簡単には立ち消えてはくれなかったけれど、そうそう、と一人アリスは頷く。
　上映期間が過ぎた頃には必ず「有栖川さ〜ん。この間の映画どうでした？僕、なんか感動しちゃったな」等と屈託なく聴いてくるに違い無いのだ。
　人の好い担当編集者に不義理をするのも申し訳なく思うし。
　切っ掛けなど、些細な、むしろこれくらいが丁度いい筈だった。
　平凡に生きている人間に、大袈裟な事件など滅多に降り掛かっては来ない。
　幸運の知らせか、それとも

　しかし、よくよく振り返ると、そうでもないか、と少しだけ滅入りそうになってくる。
　締め切りも眼下には無く、もっぱら休息の期間にあてていた月末までの時間を有効に使えると、先刻まで喜んでいた自分に
　払拭したい気分になって、アリスは戸棚の一番前に飾ってあった取って置きの貰いものを封切る事にして、ゆっくりと腰をあげた。

　
　

■■■■■
　
　自室の仕様とほとんど変わらない薄く煙った研究室で、目をしばたかせ量のある背表紙を閉じる。
　すっかり冷めたコーヒーを啜りながら暮れかけた窓の外に視線を移すと、火村はまたキャメルに火をつけた。
　途絶えることの無い唇の存在感に、かろうじて諌められる頑な物言いや、吐き出しそうになる辛辣な言葉。
　普段の何倍もの気難しさを漂わせた担当教授に竦む学生を見かねてた助手や院生から、何度となくやんわりと気遣われた事を思い出す。
「下らねぇ」
　こぼしてから、ふと嘲った。
　何がと言うのは、判りきっている。厭になる程に。それは、未だ持て余し気味の青臭い感情のせいだという事は。
　ほんの少し空いた時間に考えることは、全て一つの執着に辿りつく。
　馬鹿馬鹿しくなって、遂には携帯電話を下宿に置いてきてしまった。
「火村先生？」
　控えめな声に振り向けば、院生の一人が書類を抱えてドアの傍に立っていた。
「ああ。何かな」
「いえ、この書類を大塚先生に届けたら帰っても宜しいでしょうか」
　言われて腕時計に目を落とせば、既に拘束時間は過ぎている。しかも、今日は週末だ。
「勿論そうしてくれて構わないよ」
「はい」
　傍目にも喜色の浮かんだ笑顔で応えられて、火村もつられて苦笑する。
「お疲れさん」
「先生も。今月はお疲れ様でした」
――今月は、か。
「お先に失礼します」
「ああ」
　片手を上げて彼が退出できるタイミングを作ってやってから、静かにドアが閉まるのを待った。一ヶ月と言う長さが押し寄せる。それも、終わる瞬間の音。
　全てを聞き終えてから、ジャケットに両手を入れて鍵の束を確かめる様にゆっくりと握り締めた。　

　　

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「よお」
　来訪を告げる言葉も省略したまま、火村はマンションのドアに凭れて片手を突く。
「どうしたんや」
「煙草が切れて、な」
「はぁ？」
「お前の部屋に置いてきた分があった事を思い出した」
　短い廊下を体を擦り合わせる様に抜けて、火村はリビングのソファに定位置よろしく腰を降ろした。
　

　溶けかかった氷で色も殆ど透明になった酒精の残りをあおる。
　冷たく汗をかいたグラスで濡れた手を、無造作にジャケットの裾で拭った。
「君もやるか？」
「薄いヤツを頼む」
　何を飲んでも酔わない気はしたが、少しでもアリスの手を煩わせる様に注文をつける。
「氷は少なめで結構」
「うるさい奴っちゃな」
　半ば呆れたふうに、それでも笑いながらアリスが背を向けたのを、そっと目で追う。
　
　目の前のテーブルに投げ出された、いつか自分が忘れていったであろう少し拉げた箱を手に取る。
　軽く振ったそれは情けない音を立てて、残り僅かな本数を思わせた。
「それ。もう、無いで」
「ああ。これだけあればいい」
　首だけ振り向いて、時計を見遣ったらしいアリスが声をかけてきた。
「未だ１０分はある。買いにいこか？」
「いや」
「せやかて……」
「朝にでも行けばいいさ」
「あ、さっ……て。君なぁ」
　夜明けの販売機が危険信号色を解除するまでに、たっぷり片手以上はある。
「充分だ」
「少しは摂生の術でも覚えたんか？」
「まさか」
　ひょいと片方だけ上げた眉で切り返して、素早く寄せた唇をアリスの耳朶に直接あてながら囁いた。
「必要性が無いだけだ」　　

■■■■■

　ばかに陽気な朝の光で目が醒めた。中途半端に閉まったカーテンから、何にも邪魔されない朝日が枕元を容赦なく照らし出してくれていた。
　７階にある此の部屋は、あられも無い部屋の惨状をも眩しく曝されている。

　脱ぎ捨てられたままのシャツやアンダーウェアやらが、だらしなく床に散らばっている。が、それと同じくらいにしなだれた身体が二つ、狭いベッドの上で付かず離れず投げ出されたままあった。
「ん…っ、起きたんか」
「ああ。頭にクる程いい天気らしいぜ」
「……他人事みたいに言いなや」
　うん、と緩慢に伸びをしながら上体を起したアリスを眺めながら、火村はベッドの下を探る。
　先に手にあたったのはライター、続けて箱から半分飛び出したキャメル。
　それを同時に拾い上げながら、情けなく皺のついた最後の一本をくわえて火をつけた。
「うまいな」
　深々と吸込んだ煙りを吐き出しながら、ぼそりと呟く。それを耳聡く聞きつけたアリスが笑いながら諌めた。
「なんや、そのおっさんくさい言種は」
「ほざいてろよ、同級生」
「やかましわ」
　朝っぱらからの減らず口を塞ぐ様に、火村は軽く起した半身でアリスを抱きかかえる。
　少しだけ汗ばんだアリスの指先が、白髪の増えた前髪をくしゃりと掴んだ。
「何か予定でもあるんか？」
「いや」
「お前の言ってた映画でも観に行くくらいしか無ぇな」
「日曜やで」
　人混みの心配をしているだろう、僅かに表情が曇る。
「指定席なんだろ。いいじゃねぇか」
「せやった」
　
　通常の使われ方をしていれば、到底合わされる事のない時間にセットされたままの目覚ましを取り上げる。
　その針を僅かに早めて。
「もう少し寝かせてくれ」
「起きるんやなかったのか」
「老体に鞭打ったんでね」
「アホか」
　溢れてくるのは明るい外と同様、それ以上の聞き慣れた声。
「お前も付き合え」
「厭や。俺は起きる」
「じゃあ、勝手にしろ」
　するりと抜け出した身体を追う事もせず、火村は窪んだ枕に頬をあてて壁を向いた。
「時間になったら容赦なく叩き起すで」
「roger（了解）」
　ふん、と一息吐いたアリスが部屋を出て行く気配を背中で感じながら、火村は僅かな惰眠を貪ろうと温いシーツに意識を落とした。

〜end〜

　
　2000/11/21

『inspire　song／「許された夜」　tokyo　Ｎｏ.１　soul　set』

そしてこうして許されてゆく／まともな態度みせつけるたびに／手を振り／裏切り／ばらまき／ギリギリ／かわす世間遠ざかる頃に／舌打ちすれども付いてはこない夜／分り合えたはずなのに／いくつもの扉叩いてみても／揺るぎはしない状態をみても／今更なんだよと笑ってみせるわけよ／逃しはしない捕らえた人質／たらい回しにしても身代わりはいない／だから傷つけやしない／憎みやしないお前の事を／今日／日曜／聞く内容／そして／こうして認められていく／