昨日の今頃までは確かに小気味よい音をたてて進んでいた手元が嘘の様に沈黙してしまった。私はただ目の前の画面から弱々しいひかりを発しているだけのワープロを睨みつける。
　一体どうしたというのだ。
　夕方、コーヒーを煎れに鼻歌混じりでダイニングを横切るまでは、あんなにすらすらと言葉を紡ぎ出していた自分の脳に問掛ける。
　無駄なことは承知の上で、軽く頭を小突いてみたりしたが、案の定、駄目だった。
「なんでやねんな」
　誰も居ない部屋で虚しいツッコミを吐いてみても、応えは溜め息しかない。
「どないしよ……」
　帰社時間をとっくに過ぎた会社からかかってきた担当編集者の電話で「大丈夫です。今の俺、絶好調やから」などと、ほざいてみたのがいけなかったのか？否、あの時は本当に稀に見る早さで埋まっていくディスプレイを浮かれた面持ちで見遣っていたのだから。
「はぁ……。あかん」
　降って湧いたスランプは ―― 恥ずかしいことに、それほど珍しくもないのだが ―― 何が原因だったのかと暫し考えを巡らせてみても、思い当たることは何も無かった。
　それすらも判らない、と言ったほうがいいかもしれない。
「はぁ……」
　何度目かの深い溜め息を、私は吐いた。
　書斎として使っているこの部屋に唯一あるカレンダーに目をやれば、締め切りまで後二日はあったが、一ヶ月後に発売される雑誌への寄稿なので、締め切りを伸ばしてもらうことは絶望的だった。
　月刊誌とはかくも融通が利かないものなのだ。
　ふと、微かな音が耳に障って私は広くも無い部屋をゆっくりと見回す。しばらく泳いだ視線がベッドの上に落ちると、携帯電話が揺れていた。
　夕方の電話が終わった後、原稿に集中しようとしてマナーモードに切り替えておいたっけ。
「誰や、こんな時間に非常識やんか」
　ぶつぶつと大きな独り言で文句をいいながら、私は取り上げたディスプレイの文字を見て、舌打ちをしながら通話ボタンを押す。
「俺だ、アリス」
　世間の非常識をも己の常識に変える男、火村だった。
「……なんや」
　今の心情が思わず出てしまった声で応えてから、漸くハッとする。火村にあたっても仕方がない事なのだと。
「なんだ御機嫌麗しくないみたいだな？先生」
「ああ。最悪なんや。先生」
　ふぅん、と差程興味もなさそうな返事が聞こえてくる。
「それなら、いいか」
　わざとらしい独り言を吐いて、火村が黙り込む。
　きっと私が「何が？」と言うのを待っているのだろう、何やら胸の辺がむずむずとしてくるが今日ばかりは、乗るわけにはいかないのだ。
　沈黙が続く。
「何だ。本当に大変なのか」
　本当に、とは何だ。こっちは真剣に焦っているというのに。
「判るんか？」
「そんなに切羽詰まった声だされちゃな」
「えっ」
　電話越しで判る程、情けない声だったのかと心持ち恥ずかしくなってくる。
「仕方がねぇな」
　カチリとライターの音がして、火村が煙草に火をつけた様子が伺えた。
「ばあちゃんの土産なんだが……」
　嫌な予感がしてくる。
「何て言ったっけ」
　と、受話器の向こうから袋を探っている音がした。
「お前が去年だか取材で上州に行った時に騒いでた…」
　火村の言葉を遮って、私は叫んだ。
「ゆっ、湯の華まんじゅうか！？」
　笑い声が聞こえた気がするが、この際無視しておく。
「よく判ったな」
　可笑しくて溜らないというような声で、火村が言う。
「しかも千愁亭のやったら…」
「だったら？」
　私はごくりと喉を鳴らしてしまった。火村に聞こえない事を祈りながら、しかし。
「御名答」
　何と言うことだ。それは、銘菓とうたわれた『温泉まんじゅう』は数々あれど、ふらりと寄った取材旅行先の店で試食させてもらい、昼食をとったばかりだというのに、その絶妙な餡の具合としっとり感のある皮とのハーモニーに、おもわず唸ってしまい、その場で土産にするからと半ば言い訳めいた事をいいながら大量の購入を決め、剰え取り寄せもできるかと聴いてしまった逸品なのだ。
　いけない、すっかり頭の中がまんじゅうで占められてしまった。
「俺な、今めっちゃ疲れてんねん」
「ほぅ？」
　器用に片眉だけをあげる火村の表情が、忌々しくも浮かぶ。
「疲れた時には甘い物がええ言うやん」
「聞いたことがあるな」
　憎たらしい奴だ。
「ほんまに疲れてんのや」
「だから？」
　もう、駄目だ。
「頼む、持ってきてくれ」
　少し間が開き、次いで聞こえたのは、普段よりも柔らかい声。
「もっと早く、そう言えよ」
　言えるか、ボケ。等と思っている胸の内は知られてはいけない。私は声だけ大人しくなりながら、応える。
「ほんまに、そうやな」

■■■■■

　私は新たにテキストをたてた。三日かけて書いた文章は取り敢えずフロッピーディスクに格納し、いつかまた巡ってくる日まで御蔵入りになってもらおう。
　書き直そうとしている原稿の題材には取材先で出会った、ちいさな旅館の事を書く事に決めた。与えられたテーマも、よく考えてみればしっくりくるではないか。
　去年のちょうどこの季節だった。はっきりと思い出せる。
　近代化してゆく温泉街から少し離れた山の中で、旧い旅館を切り盛りしていた若い兄弟の話を。相次いで亡くなった親御さんの跡を誰に言われるでもなく引継いだ事を控えめに、けれど 誇らしげに話してくれた、あの二人の事を。
　食べ物で思い出した後ろめたさは多少あるものの、私の頭の中では既に文章が湧き出てき始めていた。
　壁に掛かった時計を見る。夜も深い時間になっていた。
　中途半端に閉まっていたカーテンを思いきって引いてみる。気持ちの問題かもしれなかったが、上半分だけ欠けた月がやけに明るく見えた。
　さっき不浄に立ったついでに玄関の鍵も開けて来た。後は、舌に甘いまんじゅうと、オンボロの車に発破をかけながらぶっ飛ばしてくれる、私に甘い友人を想いながら、ワープロのキーを叩いていくだけだ。
　ふっ、と彼が部屋に入って来た時の会話を思いついて、知らず笑いが込み上げてきた。
「悪いけど、茶も煎れてくれ」
「なんだよ、随分な仕打じゃねぇか。こんな夜中にまんじゅう持って遥々来てやった友人に向かって」
「縁起が悪いねん。執筆途中で茶煎れると」
「それが俄スランプの切っ掛けだったのか？」
　半ば呆れた声で、彼は大袈裟な溜め息を吐くだろう。
「そうや」
「そうか」
　ほんのり感動的な文章を打込みながらする想像では無いだろうが、きっと寸分違わぬ筈だ。
　明日は水曜日。ある程度まで書上げたなら、あいつに付き合ってやるのもいいか、などと私は自分の立場も棚にあげて思いを巡らせる。
　しかし、手は止まらない。
　そろそろ衣替えも必要かな、と余計なことまで思い出す程に空気の澄んだ晩だった。

　〜　end　〜

　
　2000/10/18