居間へ行くと、台所の方からいい匂いが漂ってきた。
今日は両親が出かけているから、栞がお弁当を作っているのね。
そのまま台所へと向かう。
「あっ、お姉ちゃん、おはよう」
「おはよう、栞」
栞は手をとめて私に挨拶すると、また忙しそうに動き始めた。
「愛しの恋人のためにお弁当を作っている…といったところね」
「そっ…そんな事いうお姉ちゃんなんて嫌いです…」
「ちがうの?」
「…そうですけど…」
あらあら、耳まで真っ赤にしちゃって。
見ているこっちまで恥ずかしくなるわ。
「それで、なんでそんなに急いでるの?」
「………」
かちゃかちゃかちゃかちゃ・・・じゅー
調理する音だけがあたりに響く。
「…待ち合わせに時間は?」
「…八時半です」
「どこ?」
「…駅前です」
近くの時計を見てみると、すでに時間は8時少し前。
この様子だと、お弁当を作り終えるまでにまだ時間がかかるし…
着替えとか、駅に行くまでに時間を考えると…
「…おもいっきり遅刻じゃないの」
「そんな事いうお姉ちゃんなんて嫌いです」
…しょうがない、手伝ってあげますか。
相沢君なら栞に待たされても、全然気にしないと思うけど、
姉として、少しだけ心苦しい。
壁に掛けてあるエプロンに手を伸ばした。
「お姉ちゃん…」
栞の声が明るくなる。
「あんまり待たせると相沢君に悪いからね」
「はいっ、ありがとうございます」
「ところで栞…」
私の方を見つめている栞の手元を見る。
「焦げてるわよ、それ」
「えっ…」
栞が手にしていたフライパンには、黒い物体がじゅうじゅうと音をたてていた。
たぶん、さっき見たときはいい加減で焼けていた卵焼きだろう。
「わっわっ」
フライパンをあわてて火から離したけど、すでに遅かったみたい。
私はフライパンの上のそれと栞を交互に見て、
…間に合うかしら
ほんの少しだけため息をついた。






…二人そろってお弁当を作るなんて本当に久しぶりよね。
この前は春にお花見に行ったときのことだった。
栞が退院した事で慌ただしかった日々が過ぎ、
ようやく皆が落ち着きを取り戻したところで、相沢君が提案した。
「なぁ、みんなでさ…花見に行かないか?」
みんなすぐに賛成した。
いざ行くことが決まると、どこへ行こう、誰を誘おう、何を持っていこう、
いつにしよう…などなど前よりもっと忙しくなってしまって、
それを指摘したら、みんな顔を見合わせて笑った。
私も…久しぶりに心から笑った。
本当におかしくて…
前からは考えられないくらい、幸せで…
そう、まるで夢でも見ているかのように…





「お姉ちゃん?」
ふと我に返ると、いつの間にか栞が私をのぞき込むように見ていた。
「ごめん、ちょっと思い出しててね」
「…お花見の事?」
姉妹だから、考えている事がわかってしまうみたい。
共有している時間が長いものね…
「楽しかったな、あの日は」
栞は遠い過去の日を見るかのように遠い目をした。
「お母さんも、お父さんも、名雪さんも、名雪さんのお母さんも、
祐一さんの友達も、私の友達も誘って…
みんなで一日中、桜を見て、遊んで、話して…
疲れたら休んで、みんなで作ったお弁当を食べて…
本当に…本当に楽しかったです」
「栞…」
「それに、姉ちゃんの泣き顔も見れましたし」
栞が意地悪そうな顔で言う。
そう、私はお花見の途中で不意に泣いてしまった。
なぜだか自分でもわからなかっけど…
見上げていた桜が不意にぼやけて…
気がついたら、涙が頬を伝っていた。
変に思われるから、顔をうつむかせていたのに、
相沢君にはわかってしまったみたい。
…ふふっ、本当に不思議な人よね。
私の心を察してくれたのか、
なにも言わないで…ただ、手を握っていてくれた。
その手が温かくて、心地よくて…
もう少し握っていたかったけど、すぐ近くに栞がいたから。
いつまでも妹の恋人を奪っているわけにはいかなかったから。
私は目の縁にたまった涙をそっとふき取って、
気をかけてくれた相沢君に、微笑んだ。
ちゃんと栞に見られていたから、後でいろいろ言われたけど、
まぁ、たまにはいいよね…なんて思った。
「もう、お姉ちゃんてば、祐一さんの手をずっと握ってたんだから…」
「ふふっ、ごめんなさい…さっ、早く作っちゃいましょう」
「ごまかしてる〜」
「ほらほら、時間がないんでしょう」
「あっ、はいっ」
私達は止まっていた手を慌ただしく動かし始めた。





「じゃっ、お姉ちゃん、行ってきまーす」
「行ってらっしゃい、あまり走らないようにね。
まだ体が弱いのには変わりないんだから」
「はーい」
二人で作ったお弁当を持って、栞がでていく。
結局、時間は間に合わなかったけど、
お弁当はおいしくできたから、大丈夫だろう。
さてと、そろそろ行かないと栞のこと言えないわね。
私は一緒に作っておいたお弁当をもって、二階へと上がり、
部屋で準備をして、玄関へ行った。
「じゃっ、行ってきます」
誰もいない家に、私の声が響いた。





「おまたせ〜」
「名雪…三十分遅刻…」
いつも通りの親友との待ち合わせ。
私が時間通りに来て、名雪が遅れる。
「ごめん、香里」
「まぁいつもの事だけどね…そろそろ直したら?」
「直そうとはいつも思ってるんだけど…」
「まぁいいわ、これ以上遅くなったら席が取れないわ。急ぎましょう」
「うん」
足の速い名雪を追いかけるように、雪道を小走りに駆けてゆく。
「到着っ…香里〜、早く〜」
「…もぅ、恥ずかしいからやめなさいよ」
息を整えて、図書館の中へ行く。
和やかな雰囲気の図書室で勉強会が始まって…
「名雪…聞いてる?」
「…くー」
ぽかっ
「香里…痛いよ」
「痛いのは生きてる証拠よ」
「う〜…ひどいよ〜」
「人が教えてるときに寝てるのが悪いのよ」
「でも叩くこと…」
「教わりたいの?教わりたくないの?」
「…教わりたい…」
「じゃっ、最初から始めるわね」
「うん」
「この問題は、与えられた方程式を楕円の一般式にあてはめて…」
いつものように名雪が寝て、それを私が起こして、
あんまり勉強が進まなくて…
「結局余り進まなかったわね…」
「そう?いつもよりは進んでたよ」
そして雪道を二人並んで歩いて帰って、
いつもの場所で別れる。
「じゃっ、また明日ね」
「うんっ」
そんな「いつもと同じ」日を不意に崩したのは…
一本の電話だった。





「ただいま」
家を出たときと同じように、私の声だけが虚しく響く。
まだ家族は皆帰ってきていない。
私は自分お部屋に戻って荷物を片づけると、
居間で自分の夕食を作り始めた。
朝作ったお弁当の食材が残っていたので、
適当に調理して、テーブルへ並べた。

プルルルルル…プルルルルル…
そこへ電話がかかってきた。
誰だろうと思いながらも、エプロンをはずし…電話を取る。
「はい、美坂ですが、どちら様でしょうか」
無言。
静寂が訪れる。
空気が重くなる。
家の中が何かに押しつぶされるような…
そんな重い雰囲気の中、受話器から声が聞こえた。
「…………香…里………」
しわがれた、抜け殻のような声。
聞き慣れたはずの声がまるで別人のように聞こえた。
…ただ事ではない。
「ちょっと、相沢君!?どうしたの!?」
無言。
私は次の言葉を待った。
数分…本当は数秒だったのかも知れない。
悪い予感だけが心を渦巻いていた。
「…………りが…………」
「…えっ?」
「…………栞が………………」
…栞に何か!?
落としそうになった受話器をあわてて支え、叫んだ。
「相沢君!今どこ!?」
相沢君が言った所は…
…近くの…病院だった。
…栞が、手術した…
…近くの大きな病院…
私は受話器を離し、玄関から飛び出した。

ツー…ツー…ツー…
電話が切れる音だけが…
家に虚しく響いていた…










Be continue...