ほのぼのノベル第2話 主人公、今回出番少ない。


神楽陽子の日記

2頁「岩と死霊と血みどろダンス」

2001年5月8日
作者:Meta


 寒さは今月中は開けないだろう。少なくとも、そう、言われた。
 朋一は頭を抑え、頭痛でもしてきそうな寒さを吐き出す曇天を窓から振り仰いだ。
 ホテルを見付けたセシリアの案内通り、中堅クラスのホテルのロビーだ。
 長めのソファには、朋一の両脇にセシリアと雅治が座っている。
 朋一が座った途端に、二人とも即座に両脇を固めた。セシリアに至っては、先程からしきりに朋一にくっ付いて回っている。まあ、旅行でもなけりゃ朋一とこんなふうに出掛ける事なんて出来やしないからかもしれない。
 ちなみに、雅治が殺気すら宿してセシリアを睨み付けているのも、さっきからずっとだ。
 ―マジで恨むぞ、宗一…。
 付いたその日に何かしなければ、と言う訳でもなかったが、雅治の情報通り、ヤクザの銃器密売を偶然に発見、自分の価値観から始末した後、何とかのホテルだった。刀はレザーバッグの中で眠っているが、無収穫なのは頭の痛い所だ。
「朋一」雅治がセシリアを睨みつつ言った。
「ん?」
「今日は、どうする?」
「そうだな…とりあえず、休もうか?」朋一が時計に視線を落とす。
 午後4時30分。時間としてはまだまだだ。ゲーセンでも行きゃあ、学生がうじゃうじゃ溜まってやがる時間帯だ。どこの町でも、それは変わりゃしない。ただ、この街に適応できるのかは疑問だった。
「…連中、やっぱ、関係ないかな?」
「すまない。……関係ない、と思う。多分……事件に、組は関係ないと思う」
 雅治が[多分]や[思う]等という言葉を使うのは、朋一との会話に限られる。例え絶対の自信がある情報でも、朋一に間違った情報を渡すのを恐れているからだ。
 朋一が溜め息を吐いて天井を見上げる。ロビーの天井は高く、溜め息さえ吸われて行きそうだ。
 ―雅治が言うんなら、そうなんだろう。……くっそ……手がかりの一つも無しかよ!
 雅治の能力は元々非常に高い。一般教養はどうだか知らないけど、身一つでスラムを纏め上げた[恐怖]を相手に植え付けるカリスマ性と、鍛え上げられた破壊工作員としての能力は、探偵業にだって応用出来る。
「ただ、一つ……」雅治が呟いた。
「ん?」
「連中の武器は、暴力団レベルじゃない」
「ヤクザの手に入れられる装備じゃ、ない?」
 雅治が、おもにろにコートの中に手を突っ込んだ。
 抜き出される手に、直系数センチの塊が乗る。
「弾?」
「トカレフ弾。……アイツ等の使ってたのは、TT33だった」
「ああ」
 確かに。
 頷き、朋一は雅治から弾丸を受け取った。「……でも、これだけで、どうして」
「今の日本には、あまり出回らない。それと、ベレッタ。……手入れもしっかりしてる」
「サタデーナイトスペシャルじゃない?」朋一が笑うように言った。
「多分……」
 雅治は小さく頷いて続けた。
「この国で手に入れやすい武器じゃない。独自のルートがあると見た方がいい。……俺なら作る」
「成る程」
 元、スラム街の支配者の言う事だ。間違いはない。……だが、今回の件には無関係だろう。それは警察の仕事であって、俺たちのやる事ではない。
「クーデターでも起こすんじゃないのか?」朋一が冗談交じりに言う。
「あの装備じゃ無理だと思う。中クラスの火器とまともな兵隊がいれば、何とか」
「……いや、そうだな」
 雅治には一切の冗談が通用しない。銃火器にしろ麻薬にしろ、捌いていたのは雅治じゃなくても、雅治にその知識はある。
「見付からなくて、すまない」雅治が静かに首を振る。
「気にしなくていいよ」
 除け者にされた気分か、つまらなそうに話を聞くセシリアが、悪戯を思いついた子供の笑みを浮かべる。
 セシリアが朋一に向かって倒れ込んでいた。「やーっと、着いたね。疲れたあ」
 今更のセリフだが、セシリアの表情は至極自然であり、わざとらしさは感じられない。黒髪の朋一と、染めた形跡のない、自然なブラウンのセシリアでは、第三者から見れば、兄と妹と取られる事は少ないだろう。
 長い髪が、朋一の肩に掛かる。シャンプーの香りは、朋一の鼻にまで届いていた。
「あ、ああ、そうだな」
 雅治の目が殺意さえ帯びて細められる。朋一は苦笑いするしかなかった。
「あ、部屋、行こうか、そろそろ」
 場の雰囲気を和ませようとした朋一のセリフは、しかし、100%逆の効果を齎す事になった。
「ね、部屋、3つ取るの?」セシリアが身を起こし、朋一の顔を覗き込む。ともすれば息さえ掛かる距離であり、鼻さえ接触しそうだ。
「そりゃ、まあ」
 経費は貰っている。このホテルになら、3つ部屋を取っても、何の問題もない。
 雅治の視線は更に鋭くなり、手まで動きそうだった。朋一がセシリアを苦笑いと共に押し離す。不満顔のセシリアは雅治を睨み付け、朋一に向き直った。
「でもさ、一緒の部屋なら、その分安く付くよね」
「そりゃ、そうだな。……えっと、外食が出来る位には。あんま高い所は無理だけど」
 ―何が言いたいんだ?
 セシリアが天使の微笑を浮かべ、朋一の手を引く。「ならさ、一緒の部屋にしようよ」
「さ、三人でか?」狭いだろ、幾ら何でも。ベッドは二つあれば良い所だから、一人は床か。俺か、雅治か。固い床で寝るのは慣れているから、別に構わないが。
 朋一の心配は多少ズレていたが、それよりも雅治が過剰な―本人にとっては当然の―反応を示していた。
「クソガキが……寝言は寝て言え。永久に眠らせるぞ?」
「雅治には言ってないもん」
「じゃあてめえは外で寝ろ。お似合いだ」
「う……何よ!」
 セシリアが泣きそうな勢いで雅治に食って掛かる。どちらがどう悪いともつかないが、セシリアの年齢は、3人の中で最も低いのは事実だ。
「私、雅治と一緒の部屋、嫌」セシリアが頬を膨らませる。
「殺すぞ、ガキが。こっちから願い下げだ」
 雅治の周囲の大気が帯電する。セシリアの優しく、可愛げな瞳が吊り上がり、朋一を中心にする二人の間で、僅かに大気が熱された。
「……止めてくれ」
 朋一の仲介の言葉が、ここに着いてから回数を増して来ている気がした。ホテルが炎上したりしたら、いくら何でも責任を取れない。それでも雅治を睨みながら引くセシリアに、雅治もまた、キツ過ぎる視線を返していた。周りには、雅治とセシリアの容貌に引かれ、或いは面白そうな見世物を見たいという気分からか、ギャラリーが増えていた。
「あ、じゃあ、私、朋一君と同じ部屋、ね、その方が安いでしょ?」セシリアが腕に擦り寄りながら平然と言った。
「二人でか?」―セシリアと?
 擦り寄るセシリアを引き剥がしながら朋一が反芻した。セシリアの口調は冗談を言っている訳でもなく、本気だ。
「あ……? ンだと、テメエ」
 雅治は再びSMGでも抜きかねない勢いだった。平然とした顔でもいきなり銃を引き抜くこの男は、感情の変化を読み取れても、行動は予測できない。周囲の人間から3人がどう見られているかは判らないが、下手をすれば、痴話喧嘩の最中とも取られかねなかった。
「じゃあ、何、雅治が朋一君と同じ部屋?」
「……そうは、言ってない」雅治の語尾が濁る。
「じゃあ、良いじゃない」
「ふざけるな」
 朝の騒動が再発しかけていた。宗一か陽子でも居れば止めてくれるんだろうけど、朋一じゃ無理だ。
「……まあ、とりあえずチェックインだけ済ませて、それから外にでも……」
 言ってから、朋一は重要な事に気付いていた。
 ―チェックインするなら、部屋決めねえと。
 文字通り火花か雷でも迸らせそうな二人を一旦引き離す為、朋一は立ち上がり、ロビーを後にしていた。セシリアの声が背中に掛かる。
「え、どこ行くの、朋一君」
 声は同時に、背中にまで急接近していた。長身の気配が近付く。
 ―結局、一緒なのかよ。
 宗一に文句を言いたい気分は消え失せ、宗一に殴り掛かりたい憤怒に転換されていた。
「飯でも、食いに行こう」
 それ位しか、やれる事はないだろう。言える事も、また。セシリアにしがみ付かれ、雅治が逆側に立つ。目立たずに過ごす事は、どうやら不可能みたいだった。







 美袋弥生の朝は早い。
 親友のオカルト少女と違い、弥生の朝は、前日4時まで―つーか、それは前日とは言わないだろう―仕事をしていたとは思えないほどに早く、5時半には既に起きだしていた。睡眠時間は1時間半ほどだったが、そんな事はまるで関係ありゃしねえ。
 徹夜で5日間仕事をして、更にその後、バギーを飛ばして50キロを爆走した経験さえある、見た目に相反してワイルド極まりない女性だ。
 寝不足でハイになっている―ワケでもないだろう、友人の低血圧姉妹と違い、影響はない筈だが、知っているヤツが見りゃあ、明らかに普段と違う事が見て取れた。
 パジャマ姿で仮眠から置きだすなり、鼻歌交じりに冷蔵庫から栄養剤とコーラを引っ張り出し―とんでもねえ組み合わせだ―、ぱくん、ごくんとやるなり、寝室に飛び込む。僅か5分足らずで部屋の外に出た弥生の姿は、薄い水色のワンピースだった。
 普段Tシャツやジーパン、もしくは白衣と言う、色気とは無縁、可愛らしさとも無縁―とはいえ、素材が良い為にそれでも目立つ―の弥生の服装からは信じられない組み合わせだ。
 陽子はセンスその物がねえから仕方ないけど、弥生は、センスはあっても目立つのがイヤでシャレた服装をしないだけなのだ。
 服装を鏡で見る事など何ヶ月ぶりか、弥生は置き鏡の前でくるりと一回転―知り合いが見たらマジで卒倒する―、自分で照れたようにはにかんで笑うと、誰も居やしないのに、こほんと咳払いした。
「ルージュは……付けない方が良いか。うん、変なトコもないし……」
 ハッキリ言って、文句の付け所なんてあるワケない。素材だけでトップモデルのファッションショーに出られる位だ。
 ワンピース自体はその辺のセールでちゃっちゃと調達できる物だけど、弥生が着たら、それだけで凄まじく高そうに見える。色白の弥生の肌が、薄い青にはよく映えるのだ。ハッキリ言って、メチャクチャにキレイで、可愛い。
 と言うより、普段はカッコに気を使うヤツじゃないのだ。服装の手入れをしているのを知り合いが―杏那辺りが―見た日にゃあ、「熱でもあんの?」とでも聞いて来るに違いない。
 自分でもそんな事は判っているのか、苦笑混じりに弥生は自分の頬を叩いた。
 ―仕事なのよ、そう。これは。
 とは言え、顔が普段よりも笑顔に近いのは隠せそうになかった。
 家には、ハイヒールはない。動きやすそうなスポーツシューズはちょこっとばかしワンピースと吊り合いが取れないけど、可愛いデザインの革靴は、本人の外見と相まってミスマッチする。
 玄関のドアを明け、弥生は目を丸くしていた。
「弥生さん?」
 玄関前、凛と透き通った、鈴の如き声が耳朶を打つ。
「ああ、凛香ちゃん。どうしたの?」弥生は驚きを押し隠して言った。
 自宅兼研究所の入り口を光子カードで電子ロックしながら、凛香に向き直る。
 カルボナードの色彩を放つ瞳が、僅かに湿りを帯びて向けられる。
 帆苅凛香。弥生の友人―っつーか妹みたいなモンで、時々、やりとりもある。
 氷のような―冷徹ではなく、透き通った印象を与える少女だ。
 陽子が捉え所のない、透き通った水、杏那が温かな火、セシリアは何もかもを覆う花か。そんなふうに捉えて行くと、凛香はまさに、夏でも溶ける事のない、見る者に落ち着きを与える氷だった。
 適当に切ったようなショートボブはそれでも清潔で、むしろ、本人の大人しさを隠すように、どこか活発な印象を与えていて、肩に付くほどに伸びた鬢が、可愛げなアクセントになっている。
 服装はあまり気にしない性質だけれど、基本的に何を着ても似合う。動きやすい服装を好む為―この辺りは、弥生や杏那に似ている―、ジーンズやTシャツを好む凛香の今日の服装は、結構珍しい、薄いブラウンを基調にしたツーピースだ。足元のスポーツシューズだけが、いつもと変わらない所だった。
「どこかに、お出掛けに?」
「そうだけど」
 眉を潜め、凛香の不安げな表情に気付き、慌てて弥生は言葉を紡いだ。「珍しいね、良いよ、私に用があるなら」
 時間がある限りなら、と付け加え、弥生が微笑む。
「その、すみません」
 すっかり、冬だ。
 空を仰げば冷気を吐き出す白であり、風物詩である異様な冷気も―ヤなだけだけれど―絶える事はない。
 薄いブラウンで締め括ったツーピースを着た凛香の黒髪が、温い排気ガスに揺れた。
 弥生にとっては、珍しい来訪者と言えた。普段来ると言えば、親友と呼べる陽子、その妹の杏那の姉妹位の物で、ごく稀に、仕事の依頼、研究の事で宗一が訪れる位だ。今回、出かける用事も、それだ。
 騒がしい住宅街を並んで歩き、弥生が口を開いた。
「どうしたの、その、珍しい」
「はい、あの」凛香が顔を伏せる。
 弥生にとって、凛香と、同居人のセシリアは、妹のような物だった。無邪気な子供のようなセシリア、すぐに落ち込む感のある凛香は、意味は違えど、守ってやらなければ、という気にさせる。実際は守ってやらなければならないほど弱くもないが、見るからに儚げなこの少女を見て、そうならない方がおかしくもあるってモンだった。
 だが、実際、尋ねて来るのは珍しい。
「……セシリアさんが、いないんです」
「あの子が?」弥生が目を見開く。
「洗濯して、それから、掃除して……戻ったら、いなかったんです」
 弥生が肩をすくめた。「いつもの事じゃない」
 セシリアは年齢よりも幼い性格をしていて―外見は年齢以上だが―、行動範囲としては商店街のゲームセンター、はては公園だ。滑り台やブランコで遊んでいる長身、美形の少女を見た人間の驚きは、想像に難くないだろう。
「でも、タンスの中が散らかってて……」
「タンスが?」
 確かに、それは珍しい。ただ外に遊びに行くだけで、着替えを持って行く訳はない。
 弥生が軽く首を捻る。
「で、私とそれにどういう関係があるのかな」
「弥生さんの家に行ったんじゃないかと思って」
 凛香の瞳が揺れる。
 弥生は僅かに瞳を閉じ、唸った。―心配するのは判るけど。
 何しろ、セシリアだ。不埒な事を考えるヤツが近付いても、氷の彫像に変えられてそのまま溶けるまでオブジェとして過ごさせられるか、こんがりとレアに焼き上げられるか、そのどちらかしかない。
 本人に遠慮無く近付いて行けるのは、弥生の知る限り、宗一とその友人、脳裏に浮かぶ一人の黒髪の青年だけだ。ついでに言っておくと、知り合いの一人は、犬猿の中とでも言うべき状態だ。無愛想な、長身の男が思い浮かんだ。
 青年―僅かに弥生の眉が顰められる。
「あの子の事だから、心配するだけ無駄だと思うけど。……こう言っちゃなんだけど、あなたより強いよ、あの子」
「それは、判ってます。でも、セシリアさん、あれで子供っぽいから……」
 ―子供っぽい? 子供その物だ。
 弥生は苦笑いして肩をすくめた。
「一緒に探したげるから、それでいいかな?」
「は、はい。すみません」
 凛香が申し訳なさそうに、言葉の中に喜びの色を混ぜた。
 ―判り易い子だ。
 くすりと笑い、隠し事の苦手そうな少女の横顔を見やる。
「でも、今から行く所あるから、その後でもいい?」
「あ、それはもちろん。お買い物ですか? お手伝いします」
「うんん、違う。喫茶店に行くだけ」弥生が指をぴっと立てる。「お仕事よ、念の為」
 凛香が笑う。「判ってます」
 ―可愛い子だ、と思う。素直で、優しい。綺麗、と言うより可愛いが、誰の目でも引き付けるのは間違いないだろう。
 ツーピースの襟元に掛かる黒髪は艶やかで、美しい。目鼻立ちの通った顔は綺麗で、文句の付け所はない。
 自分よりもやや背の低い少女の顔を一瞥し、弥生は僅かに複雑な表情を浮かべた。
 ―どう思ってるのかしら、この子。
 考え、弥生は首を振っていた。な、何考えてるのよ、私は!?
 凛香が、顔を覗き込んでいた。
「どうしたの?」内心の動揺は押さえ込んでいた。
「え? あの、いえ、何でも、ないです」凛香が慌てて首を振る。頬が赤い。
「良いから、気になるよ」
 弥生が意地悪く笑い、凛香が苦笑いを浮かべる。
「やっぱり、弥生さんは綺麗だな、って」
「私が?」
「背も高いし、その……」凛香の視線が、弥生の腹から上、胸辺りから上に移行する。
 弥生が吹き出した。「凛香ちゃんより年上だもん、私」
「でも、陽子さんや杏那さんも、セシリアさんだって」
 全員、凛香より背が高く、発育が良い。―気にしてたの?
 実際、弥生のスタイルは良かった。身長は170に届くかどうかと言う所だが、体のラインの優美さは、一流のモデルにすら匹敵する。
 普段、体のラインが出ない服を着ているせいか、あまり意識してはいなかったが、ワンピースを着ると、シャレにならない位それが良く判る。
「どうして、そんな事?」
「いえ、別に、そんなことは。……あの、朋一さん、最近、会いました?」
 弥生の頬が引き攣った。「朋一、君?」
 聞きたいのと聞きたくないのと、二つの感情が交錯する。
 弥生がヒク付く頬を堪えるように言葉を紡ぐ。「それが、どうしたの?」
「いえ、あの、ですね。……朋一さんじゃなくって、あの、その、男の人って、やっぱり背が高い人の方が、す……いい、んでしょうか?」
 朋一君……? す……何?
 軽く首を振る。関係ない事だ、私には。
「個人の好みによると思うけど。背は、高い方が良いって人もいれば、その逆もいると思うよ」―前者であった方がいいのかしら……「あの」人は―弥生が呟く。
「そう、ですよね」凛香が慌てて笑う。「あ、そうだ」
「ん、何?」
「いえ、珍しいな、って」
「何が」
「弥生さんが、そういう服着てるのって」
 弥生の頬がぴくんと引き攣る。
「弥生さん?」
「気分よ」
 できるだけ無表情を装った筈だが、成功しただろうか。弥生は、微笑んで凛香を先行していた。
 喫茶「Himinn」。今日も営業中の筈だ。
 弥生が自動ドアですらない、木製のドアを引き開ける。
「あ、入る?」
「えっと、それじゃあ」
 本当は、今日は、一人だけが良かったのだが。……仕方ない、ここで返しては可哀想だ。
 仕事の内容を聞かれると少しだけマズい気がしたが、何とかなるだろう。宗一も、そこまで無遠慮な訳でも、デリカシーがない訳でもない。
「ハイ、朝霞さん、元気?」
「あ、弥生ちゃん。うん、元気」
 肩甲骨までの美しい黒髪を靡かせ、弥生がにこやかな笑みを浮かべる。知り合いのみに見せる心からの笑みであり、朝霞はその範疇内だ。肌は白く、しかし健康的で、見る者に不快感を与える事はない。折れそうなほど華奢な体を覆うのは、水色のワンピースだ。
 朝霞が笑い返す。
 続けて入る凛香が、腰まで一礼した。
「朝霞さん、こんにちは」
「こんにちは。珍しいね、二人?」朝霞がにこやかに笑う。
「ええ、相談事があって」
 弥生が笑みと同時に言葉を投げ掛けた。
「宗一さん、は?」
「コーヒー飲んでる」
「OK。私は―」
「コーラ?」
 弥生が微笑み、頷く。Himinn最奥のボックス席に座る宗一は、弥生の姿を認めて軽く振り返った。
「凛香ちゃんは何にする?」
「え? そ、その、今日は持ち合わせが……」
「気にしないでよ、そんなの。じゃあ、弥生ちゃんと一緒でいいね?」
 凛香が申し訳なさそうに頷く。
 木製のテーブルにバッグを振り置く。宗一のコーヒーの減り具合は激しいが、ただ単に宗一が飲むのが早いだけだ。
 宗一の他には、席に付いている人間はいない。何故かほっとして凛香を振り返り、弥生が腰掛けた。
「おはよ、宗一さん。……デートのお誘い、ありがとうございます」
「性質の悪い冗談だな。……これは、また。珍しい格好だな。ふむ……凛香君?」
「こんにちは、宗一さん」
 宗一が首を傾げる。凛香が誰かといる―セシリア以外では珍しい事だ。ついでに言っておけば、今日の弥生の格好はもっと珍しい。
「白衣かジーンズの私しか知らない?」
「まあね」
 弥生が軽く肩をすくめる。どうやら、そう思われているらしい。
「……女性の服装にツッコミ入れるモンじゃないです」
「いや、すまない」
「ま、そう思われても仕方ないですけど」
 確かに、そんな服しか着てなかった気がする。
 胸元に視線をやり、弥生は首を傾げた。
「男性の視点から見て、いつもの服装はマイナス?」
「そんな事はないが」
「……別に、男に媚びる為に服着てる訳じゃないですから」
 確かに、普段の服装は女性らしさを除去した服装とはいえ、素材がそれを余るほどにカバーしている。服装は、動きやすい方が、良い。
 そもそも、男は女性に何を求めているの?自分の思い通りに動く女性、自分が優位に立てる女性……どうせ、そんな所か。例外を探すのは難しく、だが、今、自分の目の前にいる男や、少なくとも、ここのマスター、そして目の前の男の友人達、ある「一人」は例外と感じていた。
「……男性の理想って、自分に着いて来てくれる女性だったり?」
「俺に聞くのか?」
「参行までに。素直で、自分を慕ってくれる女性」
「さあな。俺に聞いても参考にはならんだろう」
 弥生が苦笑する。
「それで、どうしてそんな服を着てるのかな」
「深い意味はないです」
 そう、ない。……筈だ。何で着てきた、と聞かれても、困る。
 凛香がそういえば、といった表情で弥生を見る。
「……それで」弥生が店内を見回し、続ける。「今日で、良かったんですよね?」
「ああ……それなんだが」
「今日予定聞いて、今日出発。……違いましたっけ? 時間は、これで合ってる筈ですけど」
 宗一がわざとらしく視線を逸らす。弥生が口の端を引き攣らせた。もう一人、来る筈だ。居ないという事は、遅れているのか何なのか、どちらにしろ「幸い」だ。
「あー、その、だな。確かに合ってるんだが、今日は、君だけ」
「張り倒しますよ」
「……その、悪い」宗一が苦笑する。
 宗一がコーヒーカップを持ち上げ、口元を隠す。弥生と凛香の前にコーラのグラスが置かれた。
「何の用事ですか?」凛香が首を傾げる。
「あ、話してなかったのか。……ああ、事件だよ。聞いてるだろう?北の」
「北……北朝鮮? それとも、あの猟奇殺人ですか」
 とぼけているつもりじゃない、凛香の言っている事はホンキだった。
「弥生君をスパイに送るつもりはないよ。事件の……ああ、殺人事件の方だ」
 凛香はしっかりと新聞をチェックしている。セシリアはテレビ欄しか見ないが、この辺りは違う。宗一の知り合いで言えば、朋一と鋭一、雅治は新聞すら取っていない。
「宗ちゃんはね、2日連続でここにいるんだよ」朝霞が笑って言う。
「2日?」
「昨日は、リアちゃんと、朋ちゃんが来てたから。ついでに、さっきまで陽子ちゃんと杏那ちゃんが」
「え!?」凛香が声を上げる。
「セシリアちゃんと……朋一君、が?」陽子と杏那まで!?
 宗一が朝霞を睨む。「……俺に、何か恨みでもあるのか?」
「ある訳ないよ。ごゆっくり」
 朝霞が背を向ける。宗一の眼前には、口だけで笑う弥生が座っていた。
「セシリアちゃん?」
「あ、ああ。いや、店に来る途中で会って」
「無理矢理着いて来たのね、あの子」弥生が額を抑える。「まあ、良かったじゃない、凛香ちゃん。判ったんだし」
「は、はい」
 凛香が曖昧に頷く。
「でも、その、どうして朋一さんが?」
 凛香が宗一に聞いていた。朋一の人付き合いの悪さは、仲間内でも評判だ。
「それは―」
「良いじゃない、そんなの」
 宗一の言葉の先を、弥生が塞いでいた。
 肩をすくめ、宗一が切り返す。
「―ああ、そのワンピースは、ひょっとしてその為かい?」宗一が意地悪く聞いた。
「別に」
 内心の動揺はそのままだったが、表情は隠せただろうか? 頬が赤くなって行くのが判る。
 ―何てこと言うんですか!? 声には出せなかった。
「いや、本当なら今日は、朋一を弥生君に着けて、事件を調べて貰おうと思ってたんだ」
 ―宗一さん!? 声だけなら悲鳴だ。出せないが。
 ……ああ、何でこんな服着て来たの、私!?
 出掛けにホースで冷水を浴びせられた気分だった。何故自分でも着てきたのか、判らない。指摘が正しい……訳は、ない。それに、セシリア!? 話は読めて来た。……あの子!? 全く、見ないと思ったら……。
 思考が、ミキサーでムリヤリ回転させられている気分だった。ついでに言えば、手入れが最悪の。
「悪いな、君と朋一で行くなら、何も問題なく済んだんだろうが」
「え?」凛香の瞳が不安げに揺れた。「弥生、さん?」―二人っきり、で……?―凛香の呟きが耳にまで届く。
「あ、違う、よ、凛香ちゃん。その、頼まれたから」
 我ながら、無茶苦茶な理屈だと思った。支離滅裂で、筋も通っていない。曖昧に頷く凛香の視線が痛い。
「で、朋一君は先に行った、と」弥生が苛立ちを紛らわせるように言う。
「あ……」凛香が身を乗り出していた。「ちょっと待ってください!」
「あ、ああ」
「と言う事は、セシリアさんは朋一さんと一緒に出かけたんですか!?」
「そ、そうなる、な」
 凛香の剣幕は、いつもと掛け離れた物だった。宗一がコーヒーを置く。
「宗一さん!」
「あ? あ、ああ、ああ」宗一の首が動作一つのカラクリ人形さながらに、コクコクと上下に振られる。
「良いですか!? その、セシリアさんは14なんですよ!? 保護者なしで―いえ、何かあったらどうする気なんですか!?」
「いや、だから朋一が一緒で―」―アイツなら間違いは―宗一の言葉が掻き消される。
「そんな、朋一さんと二人きりでなんて……旅行じゃなくても……と、とにかく、駄目です!」凛香が一人で首を振り、呟くように叫んでいた。
 ―つまり、朋一君じゃなかったらいい訳ね。
 弥生は、なぜかそんな事を考えていた。
 凛香の握るグラスの氷が―ぴしっ―表面から凍り始める。店内の温度は30度前後だ。水がいきなり凍るなんて、とてもじゃないがフツーじゃない。氷のような少女―まさに、凛香は「その通り」だった。
「そ、そうだ。雅治も一緒だ。だから、問題はない」宗一がグラスに目を落として言う。
「雅……はあ?」弥生が眉根を寄せた。
 刹那的、暴力的、病的な残虐性、加えて、朋一としか会話すらしない性格―長身、美形の男が頭に浮かぶ。朋一以外の人間とは、仲が悪い―所か、関わろうとすらしなかった。一歩間違えば、ホットゾーンクラスの精神病院に、半永久的にでも閉じ込めておかなきゃいけないヤツだ。
 隣で、凛香が僅かに身をすくめていた。凛香は、確か雅治が苦手だった。
 問題を解決する気が、本当にあるのだろうか。少なくとも、問題ごと、消滅してしまいそうな可能性の方が遥かに高い気がする。
「大変ね、彼。それじゃ」
「だろうな。タイプが同じ人間の集まりだ」
 宗一が大袈裟に溜め息を吐く。
「どうして、あの二人を?」
「行きたい、と言われた」
 セシリアはともかく、雅治は、という所だが、雅治はイコールで朋一なので、納得はできる。……どうして行かせたの!?
 宗一が弥生の言葉に肩をすくめる。「断ったらどうなるか? ……この店が地球上から消えるな」
 事実だろう。弥生は大袈裟に肩をすくめていた。
「OK、判りました。取り敢えず、私も行きます」弥生が苦笑混じりに言う。
「すまないな」
「別に」
 グラスの中で氷の揺れる音が店内に響く。流れるのはCDからのケルトミュージックで、有線は入っていなかった。
 宗一が小さく笑った。
「何ですか」
「いや、あの二人と同じ反応だったからな」
「二人?」
 二人―弥生は宗一を見返していた。
「陽子と、杏那だが」
 頭を抱えたくなった。……つまり、セシリアだけではないと言う事だ。
「まあ、アイツ等に頼んだのは、根本的な問題の解決だ。朋一達がああだから、仕方がなかった」
「それは、そうですね」事実だ。
「君達で言えば……弥生君が陽子、凛香君が杏那、と言う所か?いや、杏那とは似ていないか」
 宗一が冗談めかして言う。
「……綺麗ですから。杏那さんは」凛香がぼそりと言った。
「いや、そう言う訳じゃ―」
「杏那さん、背も高くて、頭も良くて……」
「いや、その、性格だ」
 これ以上の墓穴を掘るのは避けられたらしい。凛香が顔を上げる。
「……私も行って、いいですか?」
 弥生が真顔のまま、内心の動揺を押し隠していた。―この子―?
「あ? いや、君が?」
「駄目ですか?」凛香の表情が曇る。
「俺は構わないが」
 確かに、凛香は頼りになる。邪魔になる事などありえない。諜報能力、武器の扱い、どれを取っても超一流だ。
 日常生活では必要のない知識と技術かもしれないが、「こういう場合」に限り、それは非常に使える物だ。
 だが。
 弥生が言う。
「ね、私一人でも十分だよ。待ってたら? 連れて来るから」
「……お邪魔ですか?」
「そ、そんな事ないけど」弥生が凛香を見る。黒い瞳が、弥生を見返していた。「……OK、行きましょう」
 凛香の顔が明るく開く。「私、頑張ります」
 ―連れて行かない訳にはいかない。どうにかなる、だろう。
 コーラを飲み干し、弥生が立ち上がった。
「じゃあ、用意はもう済んでますから、凛香ちゃん連れて、行きます。……良いですね?」
「良いも何も。頼むよ」
 凛香が弥生に続き、立ち上がる。ケルトミュージックの4サイクルが終了し、宗一は顔を上げた。
「大変だね、昨日も、今日も。宗ちゃん?」
「大変だ」
 不機嫌そうに朝霞を見返し、宗一は冷めたコーヒーを啜った。







「替え玉」
 冬のこの街にもラーメン屋の屋台はあるってモンで、寒いこの中、結構な憩いの場として、かなりの人気を誇っていた。
 当然替え玉もあるらしく、そこまでは普通だけれど、今現在お代わりを注文したヤツの場合、それはちょこっとだけ違っていた。
 屋台にふらりと現れて数分、ひたすらラーメンを啜り続けている。背は並外れて高く、2メートル近い。そこから見れば食欲旺盛なのは頷けなくはないけど、かなり異常なペースと量だった。
「兄さん、本気か? 8杯目だよ」屋台の店主の、心底からの驚嘆の声だった。
「あー、大丈夫だ、全然。あ、ネギ大盛で」
 ギャラリーまで集まって来る始末の屋台は、町の中心、巨大なビルの裏側に出ている。寒風吹き荒ぶ外気は、暖簾を一歩潜れば吹き付けて来るだろう。
「あー、くそ、寒過ぎんだよ、ここはよ」大男が言う。
 店主が丼に替え玉を放り込み、笑う。ここまで豪快に食べる男は、逆に気持ちが良い物だ。
「兄さん、ここの人間じゃないだろ」
「ああ。……来るんじゃなかった。ここは寒過ぎるぜ、マジでよ」
「旅行か何かかい?」
「ンな上等なモンかよ。……使い走りだよ、くそ」
 男は悪態を付きながらも豪快に麺を啜り、ほんの数秒で丼の半分ほどを片付けちまいやがった。
「へえ、一人で?」
「んー、ああ。一緒に来ようと思ったヤツが留守だったモンでさ」
 スープがみるみる減って行く。8杯目は、僅か30秒で撃沈した。
「あんたの良い人かい?」
「いや、男だ」僅かに残った豚骨スープに紅しょうがを放り込んだ男が、水の入ったグラスを傾けて溜め息を吐く。「知り合いの女共は、ツラは良いけど性格の悪いヤツが多くてよ」
「へえ、そりゃあ……また」
「頭は良いけど性格最悪の小娘と、オカルトマニアで何考えてんのかわかんねえ奴に、機械オタクと、訳のわからねえ奴ばっかだ」
「そりゃまた……変わった子達だね」
「同情してくれ。……ああ、所でさ」男がスープを飲み干す。「この辺でさ、変な奴見かけなかったか?」
「変? どういう風に」
 そりゃまあ、いきなり「変なヤツ」とか言われたって、判るわきゃあない。男が水を飲み干して続ける。
「そうだな……挙動不審だったりとか、深夜徘徊とか」
「それは、その辺りにでも居るんじゃないかい?」
 男が溜め息を吐く。
「そうだよなあ……。無茶言うぜ、ウチの依頼主さんはよ」
「探偵さんかい?」
「だったら、良かったんだけどよ」男が苦笑いを浮かべた。
 大男が、左腕に巻かれたデジタル時計に目を落とした。「ご馳走さん。……勘定頼むわ」
「1500円で良いよ」
「安いな。どうしてだ?」
「食いっぷりが良い……ハハハ、アンちゃんのお陰で凄い客足だ」
 先程から大男を見ていた人間は多い。宣伝効果もかなりあったとみえ、店の周りには客が集中していた。
「そうか? 悪いな、遠慮はしない性質だぜ」大男が笑い、暖簾を潜る。「また、来させて貰うぜ」
 寒空にロングコートを靡かせ、大男は巨躯を揺らがせた。
 ビル群はしかしそれほどの物でもなく、目立つ妖しげな場所はない。
「ここじゃねって事かね?」
 足を街の郊外に向け、男の足はそこで止まっていた。
 廃ビルといっていいそこには、冷気だけが満ちており、人の気配はない。口の端を歪めた男が、ビル内部へと足を進める。
「あーらら? ビンゴか」
 呟き、足を進める男の靴音が、階段を上る音として反響する。
 最上階、何に使われていたのか、ホール上のフロアで、男は鼻を鳴らして肩をすくめた。
 僅かな―ほんの僅かな、血の臭い。
 ―ビンゴ、か。
 フロア内を適当に歩き回り、男はコートのポケットからマグライトを取り出していた。
 光が這い回り、円状に闇を照らし出す。光はやがて、一点である止まっていた。
 マグライトはそのままに、ポケットからデジタルカメラが取り出される。
「クソッタレが」ようやく、かよ。
 冷気は、まだまだ抜けそうになかった。







 快速電車の中、眠そうに目を擦っていた陽子は、「眠そうに」から、眠りへと移行していた。席をボックス型から二人の形に移行していた杏那は、窓際の席で眠る姉に一瞥をくれ、溜息を吐いた。
 姉の長い髪が頬にかかり、くすぐったい。それほどは混んでいないが、乗り込んだ時から注目されていた二人は、席に座った今でも注目の的だ。眠る姉の寝顔は、それこそグラビアのトップを飾れる。無防備だとは思うが、あまり目に付かない位置で、良かった。何しろ、顔は殆ど―全く―自分と同じなのだ。姉の寝顔=イコール自分の寝顔だ。自分がいるのと、窓側の位置だからこそ安心しているのだろうが、あまり見られるのは、良い気分では、ない。
 ウェアラブルPCから繋ぐ端末を取り出す。衛星経由でネットに繋ぎ、小さな画面に、目的地のマップが表された。
 先程、携帯を使い、セシリアにアクセスしようと試みて、失敗だった。セシリアは、携帯を持っていかなかったのだろう。故意にか自然にか―恐らくは故意だ。元々は軍事用、発信機の代わりをするような物を、あの子が持って行く筈がない。そんな事をすれば、「チャンス」は減るし、せっかくの―彼女にとっては―楽しい旅行が台無しになるだろうからだ。
 いつもはただ腹の立つだけの存在―雅治を思い出し、何故か頼もしく思えた。アイツがいる限り、少なくとも「二人きり」では、ない。朋一に着いて回る分だけ、その効果も増す。さっさと合流できれば、それでOKだ。
 雅治が巻かれた可能性―頭を振る。あってはならない、そんな事は。
 ―こんな時位、役に立ちなさいよ、ホントに。
 自制心―と言うより、興味その物を示さない「あいつ」の事だ。まず間違いはないが、念には念だ。セシリアは外見だけはあれで整っているのに、中身が子供で、それが尚の事厄介だ。そんな簡単な事じゃ……違う、何考えてるの、私は! そう、これは「彼女の為」だ! けして、私の為じゃ、ない。
 無理矢理自分に言い聞かせたけれど、かなり無茶があると思った。―それでも納得するしかなかったんだけど。
 それにしても、だ。
 杏那が窓の外の景色に目をやる。
 ―何、この天気は!?
 外は白い。正に白銀の世界だ。
 北海道じゃあるまいし、今の季節を何だと思っているのだろう冬は寒いが、中部だ。限度という物がある。……誰に言っても始まらないが、少なくとも、向こうでジャンパー位は買う羽目になりそうだ。トレーナーでは、まして、Tシャツでは凌げまい。
「む、ん……」
 姉のあまやかな息が首筋に掛かる。男なら、これ一発で―一部を除いて―落ちるだろう。
 陽子の穏やかな寝顔は、まさに女神といっていい。写真に撮ってそこらに飾っておけば、誰もが―特に男だろうが―足を止めて見入る事だろう。耳元で「うん……」とか可愛げな寝言を囁かれた日にゃあ、それこそ、同性でも理性崩壊は確定だ。
 頭に、数人の知り合いが浮かぶ。
 朋一と、宗一がまず浮かんだ。恐らくは、朋一なら何も言わないか揺り起こす位だろうし、宗一なら「寝るならちゃんとした場所で寝ろ」とでも言うに違いない。雅治は論外で、鋭一に至っては話にすらなりゃしねえ。雅治は朋一にコバンザメ状態で、鋭一は行動範囲が広くて外交的だけど、結局は同じだ。朝霞は朝霞で、たぶん朋一と同じような反応だろう。
 姉さんに見惚れてるあいつら、って言うのも、面白いかも。
 ちょっと想像できなかったが、宗一となら絵になるかもしれない。雅治もスタイルは悪くない。朝霞さんは、ダメか、恭子ちゃんがいるし。
 そこまで考えて苦笑し、最後に一人の顔が残った。
 首を振る。
 ダメだ、そんな事は。
 姉と、趣味と味の好みが酷似した男だ。ついでにいえば、性格も似ている気がする―内向的だったりする―。見惚れている所など、天地がひっくり返ろうが想像できやしないが、なぜか、ヒドく面白くなかった。姉は、その男の前では、借りて来た猫みたいに大人しい。普段から大人しいけど、それに輪をかけて大人しいのだ。
 朋一達の目的は、自分達とは別……どちらかと言えば、自分達がメインとなっている。事件の解決は、むしろ、こっちの仕事扱いだ。
 だが、だからと言って、このままで言い訳はない。固まって動いた方が、何かと便利には違いないから。
 自分へ対する言い訳めいた気がしたが、どうでも良かった。ペットボトルのスポーツドリンクを啜る。―出たら、恐らくはホット系のに切り替えるだろう。
 ウォークマンのイヤホンを耳に付け、スイッチを入れた。プログレッシブ・ロックと、R&B、クラシックを一纏めに入れた小型ディスクが、最初に入れた80年代のプログレを流し出す。変わった取り合わせ、と姉に言われたが、言い返してやりたかった。姉は、それこそクラシックと妙なテンポの音楽―民族系―しか聞いていない。
 腕に妙な感触があった。
「……コーヒー」
 隣から声が響く。姉が不機嫌そうな声と表情で起き上がっていた。耳の傍で響く音楽のせいか。
「ブラックよ、これ」
「……なら、良いです」
 半ば嫌がらせのつもりだったのだろう。目の前に置いておいたコーヒーに手を伸ばした姉は、手をそのまま戻していた。ブラックを人類の敵だと言い切る姉は、苦い物が駄目だ。……緑茶など、どうする気だろう。ニガウリなど、食べられないに違いない。
 不機嫌な顔はそれでも眠そうで、どこか可愛かった。姉に「可愛い」は変だが、事実、そうだ。よく、姉は自分と間違えられる位だ。……姉のようなタイプの方が、好まれるのだろうか? 別にどうでもいい事の筈だが。
 リモコンで曲を飛ばす。R&Bに移行した。
「This is our Nite baby、This is our Nite、We’re gonna make This a Nite to remember……」
 イヤホンから流れて来る声と、別の声がイヤホン越しに耳朶を打つ。杏那が視線を脇にやった。
 本当の英国人歌手かと思うような歌声が、耳元で響いていた。
 自分と同じ声―姉の物だ。今、耳元で流れている曲の1フレーズ―姉さん!?
「ねっ……何よ、姉さん」
「R&Bって、こういう歌詞が多いんですか」
「はあ?」杏那が眉を顰めていた。恋愛を歌った物、と言う事か? 確かに、そういう曲も、ある。今聞いているこれも、そうだ。
 陽子が目を擦る。「家でも聞いてましたよね、これ」
「そうだけど」
「……With an open heat I welcome love……」
「なっ、何なのよ、急に」―何が言いたいのよ!?
 続ける姉に、杏那はイヤホンを耳から外していた。少なくとも、気に触る事をした憶えは、ない。それに、曲だ。いつ、憶えたのだろう。発音は、まさに歌っているヴォーカルその物だ。TVに出ても映えるのは確実だろう発音は完璧で、流石と言わざるをえなかった。少し、羨ましかった。
「これ、どこで?」
「は? そ、そんな事」
 何が言いたいのだろう、杏那が首を傾げ、陽子がぼそっと言った。
「朋一さん、これ、聞いてたんですけど」
「あ、ああ、そう」
 それはそうだ、と杏那は思った。「これ、朋一から借りた奴だし」
「……いつ」
「この間。アイツにしては、珍しいな、と思って。ああ、まあ大方、セシリアちゃんか誰かに貸して貰ったんだろうけど」それ位だろう、何しろ、「あいつ」だ。
「……あの、貸して貰えます、今度」
 つまりは、羨ましかったのか? 杏那が乾いた笑いを浮かべる。
 そういう事らしい。自分と、朋一「だけ」が、同じ曲を聞いているのが嫌だったのだろう。まるで、子供だ。
「変わった、曲ですね」
 姉の感覚では、「そう」なのか。思い、杏那は、浮かんだ疑問を口にしていた。
「……待って、じゃ、ヴォーカルの名前も知らなかった訳?」
「はい」
 杏那は溜息を吐いた。―よく、聞いただけでテンポまで覚えた物だ。
「あいつから借りれば良いじゃない」杏那が素っ気なく言う。
 陽子が沈黙する。杏那は肩をすくめた。
「……判ったわよ」
「ありがとうございます」
 変な所で、やたら時を使う物だ。宗一や弥生さん、私にはまるで遠慮などしないと言うのに。ただ、照れているだけか!? まさか。
 窓の外に目をやり、陽子が溜息を吐いた。「寒そうですね」
「気温、マイナスオーバーするかもね」
 言って、自分で後悔した。予想は、下手をすると真実だ。姉も自分も、寒いのは苦手だ。
「もう、着いてるんでしょうか」
「でしょうね。ホテル位は決まってるんじゃないかな」
 言い、隣を見る。
 陽子の目が細められていた。綺麗だけれど、知り合いから見ればヒドく怖い。
「急がないといけませんね」
「……え、ええ」
 妙な所で―本来の目的以外の場所で意思が高まっているような気がした。恐らくは真実だろう。或いは、目的が入れ替わったか。
 外は、やはり寒そうだった。







 朋一はポケットに手を突っ込み、寒そうに背を丸めて冬の町を歩いていた。
 比較的都会なのか、人通りは多い。どっちかっつーとイナカ―閑静な場所―が好きな朋一は、人通りが多い所をヒドく嫌う。単に根暗だとか内向的だとか言われる事もあるが―言ったヤツはあとで酷い目に合う事が多い―、とにかくイヤな物はイヤなのだ。
 加えて、両隣を歩く二人はエラく目立つ。しきりに腕を絡ませようとするセシリアに苦笑いを浮かべ、それを睨み付ける雅治にも苦笑いを向ける。
 ―何で、一緒に歩きたがるんだよっ。
 一人で歩き回る時間があるなら、適当にブラ付くのも良い。金を使うのは嫌だから、それが朋一の上道コースだ。だから陽子に似ている、と言われるのかも知れない。
 こうやって歩いているのは悪くないんだけど、周りからの視線は結構激しく、「ねえねえ、あの人カッコよくない?」とか、「背ぇ高い、カッコいい!」とか「モデルみたい」とか言う声が耳に入って来る。無論、雅治に対する意見であり、「あの子、可愛いじゃん」とか「何、イイ感じ、あのコ」とかいうのは、セシリアに対する意見だ。
 当の二人はそんな声には耳を貸す事なく、ちらりとも視線を向ける事なんてありゃしねえ。静かにしたくても、二人と一緒にいる限り、そいつは120%不可能だ。
 耳にイヤホンを突っ込み、CDの再生ボタンをオンにする。
 こうしていれば、周りの音は聞こえない。音量をMAXまで上げ、朋一は再び歩き出した。
 突然、右の耳に入れたイヤホンが外れ―外されていた。
 振り向き、朋一は眉を顰めていた。「セシリア?」
 セシリアがイヤホンを片手に、にこにこと笑顔を浮かべ、朋一の隣に並んでいた。左の耳にはイヤホンがブラ下がったままだ。
「な」
 に―言おうとした朋一の声が塞がれていた。
「They say that love can drive you crazy〜」
 耳元で、左側から流れる声と、同じ言葉が紡がれていた。
「な、何だよ」
「Then I’m insane coz I’m addicted to your love……」セシリアが続ける。
「お、おい?」
「Bay it's amazing the way that this feels〜……どう?」
 セシリアがにこやかに笑う。
「どう、って何が」どう、答えろって。
 そりゃあ、いきり「どう?」なんて聞かれても、返答に窮するのは必死だ。
 セシリアが、イヤホンを取り返そうとする朋一の手から身を守る。
「この歌」
 イヤホンを取り返すのを諦め、朋一は溜息を吐いた。
「洋楽だな」
「そうじゃなくって」
 背伸びしたセシリアが、朋一の肩を掴み、自分の方に無理矢理引っ張る。
 セシリアは、女性にしては背が高い。朋一だってそう低い訳じゃないのに、10センチも違わないのだ。同居人の凛香と比べれば、それこそセシリアは10センチほども高い。
「どう?この曲」セシリアがイヤホンを掴んで言う。
「ああ」
 確か、セシリアに借りた―と言うか、ムリヤリ押し付けられた曲だ。CDを渡された挙句、「絶対聞いてね、一回は」とか言われたので、聞く物も特になかった朋一がたまたま持って来ていたのだ。
「いい声だな」
 それ位しか、朋一にできる返答はなかった。
 何しろ、洋楽を聞いている時の朋一は、何となく、ああ、そういう曲か、とかしか思わないのだ。陽子がクラシックを好むのとはまた違うけど、朋一はとりあえず音楽であればいい、と考えているタイプなのかもしれない。
「これ、採ったんだ、私の声。今の曲だけね」
「へえ……ああ、成る程」
 ―言われてみれば―朋一が頷く。音楽を編集する機械が、凛香の家にでもあったのか。
 セシリアがむっとした顔になる。朋一のリアクションはそれだけだった。
「歌詞聞いて」
「歌詞? ……いや、俺、判らないし」
「……そうなの?」セシリアが意外そうな顔で朋一を見る。歌詞は英語だ。
 歌詞は全体的に、というかカンペキに、恋を綴った歌だ。自分の声を録音してまで渡すんだから、何かの意図があったのは当然なんだけど、あんまりにもやりかたが回りくどいと思えなくもない。英語をカンペキに理解できるセシリアと違い、朋一にそいつは酷な話ってモンだ。
「きゃっ、ちょっと、何?」
 雅治がおもむろに朋一とセシリアの間に割って入っていた。
「いい加減離れろ。……殺すぞ?」
 さっきから不機嫌そうだった雅治の顔に、あからさまな怒りの色が浮いていた。言葉その物に、性格を表す危険さが滲み出ている。
 セシリアが素早く雅治と逆側、朋一の左隣を確保する。「あなたにそんなコト言われる筋合いないもん」
 衆人観衆の真っ只中だ。さっきのセシリアとのやりとりでさえ、「何、あの二人?」とか、「兄妹? でも、あの子、日本人?」とか言う会話が耳に入って来ていた。このまま行けば、ナニやら妙な三角関係とか誤解されかねない。そんな事は考えないまでも、朋一はこれ以上目立つのが嫌だったみたいだ。
 素早くセシリアの首根っこをダッフルコート越しに引っ掴み、雅治を手招きする。
 とにかく、これ以上目立ちたくはない。
 セシリアを半ば引きずり、雅治を従え、朋一は人通りが少ない場所に早歩きで歩み出した。







 寒空を見上げ、瞳はコートの前を掻き合わせた。
 ―寒い……もっと着てくれば良かったなあ……。
 髪は黒のセミロング、きめの細かい白い肌、日本人形そのままの瞳は、「この」土地に来ても、やはり人目を引いていた。
 外見だけでも、どこかの事務所にでもいけば、アイドルと間違われるだろう。歩いていてナンパされた回数は、それこそ両手の指では足りやしない。親戚の家に今は宿泊しているが、「元」の土地では、ここよりも回数が多い。ここは、まだ、マシだ。
 聖瞳、15歳。遅生まれで、高1だ。
 寒いが、やらなければいけない事は、多い。
 人通りが多い表通りを抜け、オープンテラスの喫茶店前で足を止めた。ここなら、足を止めていても変ではない。
 気合を入れ直すように眉間に手をやる。―スイッチ―
「さてと」
 手をすっぽりと覆う形の手袋を外し、水晶の数珠を握り出す。
 ―米占が出来ないのが、辛い所だ。この土地では。
 じゃらりと鳴る石の擦れ合う音が、白銀の世界に残響する。
「駄目か」
 溜息が、自分の耳にまで響いた。
 時間がないのに!
 焦る気持ちは、冷静な思考を妨げる。判ってはいるが、どうしようもない。
 もう一度溜息を吐き、テラスの椅子の一つに腰掛けた。―何か頼まないと、変かな。
 店内の受付まで足を運ばず、外の、「持ち帰り専用」に近い場所で会計を済ませる。ホットコーヒーを一つ、無難な選択だ。
 猥雑な店内では、思考をまとめられまい。寒い外で暖かい物でも飲めば、少しは考えも出るだろう。
 ―慧、私の、妹―
 そう、判っている。目的は。……私が、助けなければ!
 ウエイトレスに頭を下げた瞳は、熱いカフェインを嚥下し、思考をまとめるのに集中した。
 ふと、正面、自分と同じようにオープンテラスに腰を落ち着ける客と目が合った。距離はそう遠くない、判る。目の脇に傷、身長は……座っているから良く判らないが、自分よりは高いだろう。他に特徴と言えば、脇に置いたレザーのバッグか。……何だろう、中身は。
 両脇に座っているのは、男性と、女性。目付きが悪くて、背が高い人と、何だか背の高そうな、大人っぽい、綺麗な―どこか可愛い人。
 普段なら目を止める訳もないが、かなり異色の取り合わせだった。日本料理とアメリカ料理と、スイスのデザートを一緒に合わせたような。
 瞳は3人の前に置かれた物を見て、苦笑した。
 目付きの悪い男の前には小さなカップ―多分、ホットコーヒーか。女性の前には同じくカップと、あれは、シフォンケーキか、傷の男の前にはチョコレートパフェが置いてあった。―何だか、おかしい。
 個人の好みだ、笑っては失礼だ。思い、瞳は内心自分を批判していた。
 水晶の数珠は手首に掛けてある。変わったアクセサリーと思われるかもしれないが、構う物か。今は、そんな事を構っている場合じゃない。
 家の事、「今回の事」……冷えた空気が、思考を妙に落ち着けて行く。
 だが。
 今、気にするべき事は一つ、慧―!
 数珠に反応はない。
 コーヒーを啜る。
 ―お願い、何か反応を……っ!
 数珠を握り、一つを摘む。常人には理解出来ない「力」……。だが、それは、瞳の今の目的を達成するのに、必要不可欠な物だった。
 音が鳴り―そして。
 瞳は立ち上がっていた。唐突に立ち上がったせいで、席に備え付けられたパラソルが揺れたが、瞳は気にしていなかった。
 立ち上がり、走っていた。ここは前払い式だ。
 コートのポケットに手を突っ込み、瞳の指先に、1枚の紙片が付随していた。
 瞳の口から呟きが漏れ、紙片が寒風に舞う。
 いつからそこにいたのか、白い鳥が羽ばたいていた。
 ―慧!




 オープンテラスのカフェ、店内でなく、外にしたのは朋一の提案だった。
 ホットココアを啜り、セシリアは視線を隣の朋一にやった。
 ―何だか、絵にならないなあ。
 セシリアは小さく溜息を吐いた。
 かなりの偏見だが、男が甘い物、と言うのは絵にならない気がする。
 ええっと、ドラマだと、男の人はこういう時コーヒーだし。女の人が、うん、甘い物で、正面では恋人がコーヒー飲んでて……。
 ヴィジョンを思い描き、視線を朋一にやる。さっきからパフェを黙々と突っ突いている朋一を見るセシリアの頬に、幸せそうに、それこそ「にま〜」ってな自然な笑みが浮く。頭の中では、「はい、あ〜ん」とか言う、二人だけの空間が出来上がっちまってるんだろう。声をかけるのもはばかられる位に可愛げな笑みだけど、肝心の本人は、チョコパフェの底にたまったアイスクリームと格闘中だ。
 ―でも。
 視線を逆の脇、コーヒーを啜る雅治にやった。
 ―邪魔。
 どうして、こういう事になったのだろう。本当なら、朋一君と二人で来る筈だったのに……。あのまま行けば、朋一君と弥生ちゃんが二人で出掛ける筈だったし。……それは、困る。だけど、だからって、どうしてこいつが。宗一君のせいだ、絶対。
 元々来る予定のなかったセシリアを、ここに来るように配慮してくれた恩人にカド違いに腹を立て、セシリアは改めて雅治をこそりと睨んだ。
 雅治が来る事になった経緯は判らなかったが、弥生から伝わったと言う事はあるまい。だとすれば、答は一つ。宗一だ。
 普段、朋一と会う機械は少ない。セシリアがいくらそれを望もうが、朋一はどこに現れるか判らないのだ。家に行く事があるのは宗一か鋭一くらいのもので、簡単に言えば、判らない。普段朋一と常に一緒に居るのは、朋一に付き従う、二人―二匹―の狼だけだ。
 ―もう、どうしてこう、邪魔ばっかり! 「きせいじじつ」を作っちゃえば、それでいいのに。―らしいのに。どういう物か、知らないけど。
 だからといって、朋一と一緒にいれば、それが作れる、とは思っていない。ドラマとかでは、「せっきょくてきに」動けばいいらしい。
 知り合い―特に身近に多いのが、やたらと外見の整い、尚且つ中身まで最上級の女性だった。神楽姉妹―陽子、杏那、美袋弥生、帆苅凛香……。仲間で、友人だ。
 あれだけの人達なのだから、他の人でもいいのに。―宗一君とか、朝霞君……は、無理か。京子ちゃんが居るし。鋭一君も居るのに。……雅治は、嫌だろう。みんな、きっと。
 陽子ちゃんは口には出していないが、絶対、私と同じだ。杏那ちゃんは、顔には出さないけど、きっと、そうだ。凛香ちゃんはそうだし、弥生ちゃんは……どうなんだろう。
 弥生に関しては、どう、と言う物ではない。一緒に居る時、何となく、とでも言うべきか。
 ごく、まれに視線がそちらに向いている、その程度だ。
 ―だけど。
 「そう」に違いない。勘だけど。だから、困る。陽子ちゃんも杏那ちゃんも弥生ちゃんも、綺麗で美人だし、凛香ちゃんは凄く可愛い。頭も良いし。
 それを言うなら、セシリアだって十分以上に可愛いんだけれど、周りがモノ凄い上に、年齢差が結構ある。事実、その本人からは、子供としてしか見て貰った事などなかった。と言うか、周りの男性陣は、外見的に凄いのが何人もいるんだけど―宗一なんかは、特に―、問題は、そっちに行く人間が少ない―いない―コトだ。
 とりあえず、こいつを巻かないと。
 セシリアは、チョコパフェのグラスの影で、ちらりと雅治を見やった。―視線が僅かに合う。気付かれてはいないだろう。
 問答無用で凍らせちまうというのも考えたが、相手も同等の能力者だ。勝てるかどうか―それ以前に、そんな事をしている場合ではない。
 朋一がパフェを半分以上片付けた所で、ふと、視線が止まっているのに気付いた。―何を見てるの?
 数メートル離れた席、雪と同色、白のコートに身を包んだ少女が目に入った。肌も白い。儚げで、今にも消え入りそうな―陽子と、凛香を足して二で割ったようだ、と、セシリアは思った。つまり、美人、または可愛い。
 朋一が視線を固定している。
 セシリアはぷうっと頬を膨らませ、ぼそっと言った。「どうしたの?」
「あの女……じゃない、あの人」
「あの人?」
 セシリアが朋一の視線の先を見る。―さっきの人だ。
「どうかしたの? あの人が」
 美人だ、とかではあるまい。そんな気の聞いたセリフが言えるのなら、陽子や杏那は言われて然るべきだ。
「―いや、あれ、数珠か? よく判らないけど」
「あれ……あの腕の?」数珠、と言うのは、確か、日本のお坊さんが持っている奴だ。確か。凛香ちゃんに教えて貰った。
「そうだ……と思うよ、ああいう形の、見た事あるもの。クリスタルだね」
 雅治がちらりと視線を向ける。
「確かに、数珠だな。……どうかしたのか、朋一」
 セシリアが面白くなさそうな視線を雅治に向ける。
「―いや、水晶の数珠、か」
 視力は、セシリアと雅治の方が朋一より遥かに上だ。標準値を大きく上回る二人に、標準値か、それを下回るかもしれない朋一が勝てる訳はない。
「どうかしたの?」
「どうかしたのか?」
 怪訝さと心配を綯い交ぜにした言葉を、セシリアと雅治は同時に投げ掛け、お互いの言葉に嫌悪していた。
 朋一が苦笑して首を振った。「いや、何でもない」
 席を立ち、朋一が今にも冷機の塊を降らせそうな空を見やった。ここに着てから、ずっとこの天候だ。
「ちょっと、何か頼んでくる」
「あ、私、ストロベリームース」
「ああ」
「まだ食うのか、テメエ」雅治が言う。
 雅治に視線をやり、その後ろの少女に視線を向けた。―あれ? どこか、行くのかな。
「私も行くよ、朋一君」雅治と一緒はやだし。
「巻く気か、クソガキ」
「凍らせるよ」
 言い、朋一を見た。既に離れている。―雅治のせいだ。
 後ろの席の少女は、慌てた様子で走っていた。朋一は会計の場所に向かった筈だ。―やだ、雅治と二人!?
 早く返って来てよお……セシリアは思い、ホンキでプランA―雅治の排除を実行するか否か迷い出していた。




 何だ、あの女は……?
 会計にチョコレートムースを注文に立った朋一は、僅かに眉を潜めてセシリアと雅治の席の奥の少女を見た。
 立ち上がり、少女が走り出す。向きは会計、朋一の脇を抜けた奥、ビルの路地裏だ。
 何が気になる訳でもない、外見で言うなら、それこそ美しい者は、今までにも見ている。
 気になる「何か」。それだけだ。
 数珠、という一点ではなかったが、敷いて言うならば雰囲気か。周りとは違う、どこか浮世離れした―知り合いにも似たのがいる―雰囲気。
 空になったグラスをカウンターに置き、朋一は少女の走り去る方角を見た。チョコレートムースの注文は、ここで、できる。
 朋一はグラスだけを返し、足を路地裏へと向けていた。
 少女の足は速い。仲間達ほどではないが、運動不足か、引き離されないだろうか。
 少女の手に、紙片が握られていた。―紙……符!?
 朋一の視線が、前方を走る少女の手に注がれた。符―符術に用いられるタイプか、視力がもっとあれば、何が書いてあるか読めたろう、どちらにしろ、「当たり」だ。少女は、何らかの「術」師だ。
 考え、朋一の前方、少女の前に、白い鳥が羽ばたいていた。
 ―間違いない! ……しかも、あれは……陰陽道か!?
 式神の一種か、むしろタイプとしては道教の剪紙製兵法に近い。紙をそのまま、一個の存在に変える―。
 サマナーかよ、あいつは。
 自分や、陽子とは違うタイプの召喚術だ。或いは、陽子ならば自分よりも高位の術、多岐に渡る術を扱うマジックマスターだからして、それも使えるのかもしれない。少なくとも、自分には、無理だ。
 朋一が召喚できる数は限られている。目の前の少女の術には、少なからず興味を抱いた。
 だが、何故気付かない!? これだけ至近距離で走っているのだ、あれほどの術師なら、気配で察してもいい筈だ。手から離れた式神のコントロールではあるまい、その行方を追うのに必死、という可能性もないだろう。……何かを気にしているか、どうか、だ。
 ふと、セシリアと雅治を思い出した。―しまった、言付けしてくるのを忘れた。
 ―ケンカ、しなきゃ良いけど。
 恐らくは無理だろう。引き返すという選択肢も頭にはあったが、そうする気にはなれなかった。全く関係ねえかもしれないけど、オカルトの欠片も見えやしなかった雪の大地で、ようやくそれらしき術師に出会ったのだ。ヤクザをブチ殺している場合ではない。
 走り、ビルが立ち並ぶ場所を抜けていた。―人気のない所で幸いだ。これでは、まるで、あの女を追いかけているようだ。
 廃ビルが立ち並ぶ場所に出ていた。連想されるのはスラムか、こんな所に好き好んで来る者は居ないだろう。荒くなった息を整え、朋一はスピードを落とした。
 前方、少女が立ち止まっていた。
 朋一は慌てたようにビルの影に身を隠していた。
 ―何で隠れるんだよ!?
 思ったが、内心舌打ちをするだけで理由は判らなかった。着けていた、という後ろめたさか。
 きょろきょろと辺りを見回す。
 人は居ないだろう、そう思ったが、そうでもないようだ。朋一は人知れず溜息を吐いた。
 ガラの悪い、何を考えているかも判らないような男達―学生か、どの道まともな考えをしてはいまい。ビルに背を預け、あるいは立ち尽くしている。こういう人間は、どんな場所にでも、少なからず居る者だ。
 世間知らずか判っていないのか、自分がその視線の先に居る事に、少女は気付いていないようだった。
 式神使い―判らないが、放っておこうと思った。他人に手を出す必要はない。一々そんな事をしていれば、キリがない。そういう物だ、全て。今までそうだったし、これからも、そうだ。
 そうする予定だった朋一の予定は、最初から狂っていた。
「よお、兄ちゃん」
 目の前に、サングラス―まるで似合っていない―を掛けた男が立っていた。歳は朋一より上か下か、どちらにしろ、「どうでもいい」。
「俺か」朋一が、意外そうに、自分に指を向ける。が、実はよくある事だった。
「お前以外に居るかよ」
 男の手が朋一の凭れる壁に伸びていた。―少女の方を向く事を邪魔された。
「なー、いきなりだけどさ、金くんない? ハハハ、いや、平和的解決、万歳?」
 男の背後にニヤ付いた連中の姿が見える。―邪魔だ。戦った事などないのだろう、絶対に。
 朋一は嫌そうに溜息を吐き、それが終わらない内に、正面の男のパーマの髪を掴んでいた。押し下げ、レザーバッグの先端に叩き付ける。先端は刀の柄部分、下手をすれば顔面が割れる。
 悲鳴を上げ、男は口から血と歯を吹いていた。
 少女の方を見る。―まだ、居たのか。こちらの連中よりも、向こうの方が多い。
 怒号と共に殺到する男達を頭から無視して、少女の方に足を向けていた。
 面倒だが、仕方ない。




 数珠の反応―方角しか判らないが、この周辺の筈だ。廃ビル……まさか、中!?
 コートを掻き合わせ、瞳は背後の怒号に気付いた。
 この辺りに居た男の人達だろうか、だが、急がなければ。
 目の前に、口髭を生やした男が立っていた。まだ若い、ファッションのつもりだろうか、似合っていない。背後に振り向き、かなりの数の男達が立ち上がっているのに気付いた。―敵意……じゃない、でも、害意だ。判る。
「ねー、君、どうしてこんな場所に居るの?」正面の男が言った。
「探し物を……」事実だ。
「へー、手伝って上げようか?」男の手が伸びる。
 知らず、壁に追い詰められていた。―時間がないのに!
「結構です」
「そー言わないでさ」
 言う男の体が、横殴りに「飛んでいた」。雪の中に体を埋没させる男からは、立ち上がる意思が感じられない。何かに吹き飛ばされて―瞳が視線を向ける先、もう一人の男が、「飛んでいた」と気付いた。自分から飛んだ、と言うより、何かに投げ出された、という感じだった。脇からブッ飛んで来たこの男が、髭の男を吹き飛ばしたのだろう。―何の為に!?
 何の為、というよりも、明らかに自分から飛んだ物ではない、と言うのは明らかだった。二人とも、ぴくりとも動かずに雪と一体化しちまっている。
「何やってるんだ、お前は」
「えっ」
 瞳は背後の声に気付き、振り向いていた。振り向いた瞬間には目の前に立たれていて、顔が見えなかったが、声から男だと判る。どこかで見たような―どうでもいい。誰? 恐らくは、自分より年上だ。
「中々帰って来ないから探しに来てみれば……ったく、さっさと帰るぞ」言いながらも、声の青年は振り返ろうとしない。
 ―えっ!? だ、誰!?
 少なくとも、身内ではなく、泊まっている家の親戚でもない。友人の中に、男の顔は―と言うより男は―居ない。
 左手を後ろにやっているのに気付いた。人差し指を、ビルの奥に向けている。「さっさと行け」という事か。
 害意を感じられない声だった。少なくとも、周りの男達よりも余程、信頼出来る。
「誰だよ、テメエは! さっきからよ!」
「吠えるなよ、素人。兄貴だよ、こいつの」青年が親指を後ろ―瞳に向ける。
 芝居だと判った。「あ、ありがとう……ございます」
「兄貴相手に丁寧語使うなって言っただろうが」青年が合わせる。
「う、うん……」合わせていた。
 心の中で、ありがとうございます、ともう一度言い、瞳は場をさる為に間合いを計る事にした。時間がない……待って、この人は大丈夫なの!?
 男達の数は覆い。幾ら親切心とはいえ、見ず知らずの人間を―手伝えるだろう、「腕」には自信がある。
 思ったが、無用だと、次の瞬間、思い知らされていた。
 男の一人の手にバトンが伸びる。―警棒!?
「エアーウェイトかよ、素人が使ってんじゃねえよ、非力!」
 警棒の一撃が青年の腕を狙い、青年は呟きと共にレザーバッグを突き出していた。リーチの長いバッグの先に押され、男が吹き飛ぶ。ブン回される警棒など気にも止めない青年は、喧嘩慣れ、格闘技をやっている、と言うだけとは到底思えなかった。
 このバッグ……え!?
 続き、青年の追撃だった。倒れた男の腕を踏み付け―折れたかもしれない―右の足が回し蹴りとなって近くにいたサングラスの男の顔面を襲う。プラスチックのフレームのサングラスの上から鼻を一撃され、男は昏倒していた。レンズが割れ砕け、顔面から血を流す。
 怖い戦い方だ。
 思ったが、この人は味方だ、と思っていた。これならば―瞳は軽く頭を下げ、走っていた。




 ド素人が。
 朋一はサングラスの顔面を蹴り砕き、呟きかけていた。レンズが砕け、フレームが弾け飛ぶ。
 隣で身をすくませた男の首を無造作に掴み、投げ落とす。雪があるから、死にはしないだろう。―多分。死んだら死んだ時だ。クズに存在価値などない。
 ブラックジャックなど流行らないのか使う気にならないのか、現代の日本では警棒が主流だ。アメリカなら別だろうが、少なくとも、ここはニューヨークのスラム街では、ない。
 ブラッククロムのバトンを溜息交じりに片手で受け―男の顔が驚愕に歪む―朋一は無造作に男の腹を蹴り飛ばしていた。ストラップを付けたバトンは手に握られたままだ。
 背後、朋一は僅かな風の動きに、後ろ蹴りの体制で足を突き出していた。ジャストタイミングで、スタンガンを握る男にヒットする。
「馬鹿が、素人がよ!」
 朋一が反転、男に急接近する。
 男の顔が歪む。朋一の手がスタンガンを捻り取っていた。厚手のジャンパーの上からは、効果を発揮しない筈だ。この程度の連中が、改造を施しているかどうか―判らないが、スイッチを入れた。
「や、止め……」
 朋一の意図をどう察したのか、男が悲鳴を上げる。
「使った事、ないのかよ」―持ってるのに―呆れた物だ。
 朋一は首を傾げて溜息を吐いた。
 僅かな間さえおかず、男の首筋に、スイッチを切ったスタンガンを押し当てていた。男の肩はしっかりがっちりホールドされ、下手に動きゃあ、腕の骨がイッちまう状態だ。
「改造してあると死ぬからなー」世間話の口調で朋一が言う。
「やめっ……」
「してねえだろ、素人」スイッチを入れる。
「おあっ……」
 男が目を見開き、失神していた。元々スタンガンは、そういう物だ。―STUN―良いだろう、これで。
 元々、放出電圧が高くても、ボルトが高いだけだ。殺したいならアンペアを上げるべきだ。ケンカには十分だろうが―ふと、雅治を思い出した。雅治の電力、電圧は、どの位だろう。相手を消し炭に変え、焼き殺す位だ。
 朋一には、学生連中など、平和に、楽しげに日々を送っている奴等、としか映らない。偏見がバリバリだが、「こういう」連中に対しての感情がメインなので、さほど問題はなかった。相手を傷付け―暴力で押さえ付け、しかし、そこに「殺意」がないのとは違う。「やるつもりはなかった」等と、後から言い訳めいて言うバカとは違うのだ。つまり、殺して、後から後悔するようなヤツじゃない。
 そもそも、マジな殺し合いを繰り返して来た朋一―ってかナンバー―相手に、ちょっとばかし格闘技を齧ったからって、まともに戦える訳なんてない。それ所か、「人間」じゃ、どの格闘技の世界チャンプだって同じ事だ。
 角材を握る、近くにいた男の鳩尾に肘を突き入れ、腰を掴む。―くるっ―朋一と男の天地が回転、男は背中を大地にしたたかに叩き付けられていた。
 身長は平均か少し高い程度、ウエイトもそれほどでもない。格闘技の経験は浅く、技にそれほどの自信がある訳でもない朋一は、それでも圧倒的に強い。
 ―数が多いな。
 舌打ちする朋一の指がレザーバッグのジッパーに掛かっていた。
 男達の目の前、白銀の白の中、文字通りの白銀が浮かぶ。
「て、てててててテメエ! そ、それえ!?」
「「て」が多いな。何人だ?」
「か、かかかか刀あ!?」
「「か」も多いぜ」
 朋一の手に、長刀、二尺八寸の刀―日本刀が付随していた。下方に下げられた刀は、構えすら取られてはいないが、文字通りの「恐怖」だ。先程まで素手で自分達を圧倒していた相手だ。そんな人間が殺傷武器を手に下げているのに、恐怖を抱かない訳がない。その先入観から「危険」と感じられているのだ。
「妹には言ってねえけどな、ああ、えっと、そうだ、居合だよ、居合。半殺し位にしてやるけど、死んだら恨むなよ」言い、自分でも無茶苦茶な事を言っていると思った。居合は実際にはやっている訳ではないし、剣術は我流だ。
 朋一の足が雪を踏み締める。後ずさる男の一人の目の前、1メートルに朋一が接近していた。
 手が動き―ひゅっ―男は、鈍い音を足元に感じると共に、悲鳴を上げて雪に埋もれていた。
 峰が男の足を払っただけだが、骨は折れたかどうか、恐らくは折れただろう。十分な加速を持った刀の峰は、人間の骨を圧し折る位は容易い。大袈裟に転げまわるアンちゃんの横っ面を蹴り飛ばして失神させ、朋一はゆらゆらと歩き出した。これじゃあ、ハッキリ言ってどっちが悪者かわかりゃしねえ。日本刀を持った、危ない兄ちゃんとも取られかねない―と言うか、男達にはそう取られているだろう。
「てめっ!」
 数人の男が色めき立つ。
 悲鳴と共に、他、数人の男達が逃げ去っていた。少女の走った方向に逃げた男はいない。いれば、その場で追いかけて潰すつもりだったが、それを悟ったのか、どうでもいい事だった。
 少女の姿は、既に影もない。
 脅しに使うつもりだったが、どうした物か。胸中の蟠りを、目の前の馬鹿共にぶつけるのはどうかと思ったが、思考は冷静だ、多分、まだ。
 後、数人。
「面倒臭い……」
 呟き、朋一は「はあっ」てな溜息と共に男達に歩み寄った。




 見失ってしまった白鷺の式を見付けるのに時間が掛かったが、何とか、だ。
 頭上を見上げる。―白い鳥が旋回している。
 安倍清明が用いた術の一つにも、式神を用いた探し物―あるいは探し人を見つけ出す術はあった。瞳が使ったのはその一種で、式神を鳥に変え、対象物の気を探査させるという、かなり高等な術だった。
 瞳は陰陽道、聖流の術師だ。
 土御門家、加茂家とは違う、独特の発展をした―高知県、物部村のいざなぎ流と同じだが、それとも違う発展をした陰陽道、原型は土御門にあるが、江戸の後期に分かれた家の系譜だ。ゆえに、修験道に埋もれる事なく、今でも家は存続している―当然、規模は縮小され、小さくはある物の、続く術の全てを、瞳は忠実に受継いでいた。
 瞳は廃ビルの一つ、白い鳥が旋回する、鉄骨の散乱する建設途中のビルに足を踏み入れていた。
 入った瞬間、冷気とも悪寒とも知れぬ風が吹き付けて来る。剥き出しの筈の壁が、何故か厚い膜のように思えた。
 油断なく辺りを見据え、コートのポケットに手を入れる。―どうして!? こんな、普通の場所に……。
 手掛かりとはいえない。ハズレの可能性の方が、遥かに大きいと言って良いだろう。だが、手掛かりはここしかねえのだ。
 剥き出しの階段を上り、足場の悪い通路を行く。
 頂上付近まで上り、悪寒は更に増していた。―何か判らないけど、いる!
 確信となった悪寒は冷たい汗となって背中を滑り落ちて行った。
 フロア―建設途中で放棄されたのか廃棄されたのか、何かは判らないが、凄まじい圧迫感が全身を捻じ伏せて来る。
 瞳はフロアの中心、悪寒の最大限の場に足を踏み入れていた。
 屈み、足元を探る。
「……何、これは……?」
 専門外だった。足元に描かれていたのは、円と線で構成される円、色は、何故か乾いた赤のような―
 はっとなり、その場を離れたい悪寒に駆られていた。赤―血―
 西洋魔術で言う、サモンサークルか、専門外だから判らないが、ここで、「何か」があったのは間違いない。
 周囲を見渡し、瞳は口元を押さえていた。
 ―やだ……。
「これ……」血!?
 部屋中を覆っていた染みの正体が、やっと判った気がした。血だ。間違いなく。ここ数日中か、この極寒の地ならば、血の状態が一気に変質してもおかしくはない。異臭を押さえる効果を果たしたのも、やはり冷気だろう。
 瞳はその場を飛んでいた。瞠目すべき反射神経、女性、という物は関係なく、文字通り、「凄まじい」と言った方が当て嵌まる。
 間を置き、サークルの上に灰色の―黒と灰色をミックスした「モノ」が覆い被さっていた。瞳が飛び退くのが遅れていれば、瞳が覆い被さられていただろう。
 ―な!?
 反射的に、コートから符を引き出していた。
 瞳の眼前、「モノ」が動く。―反流動体、蠢くそれは、意思を持ったかのように―持っているのか!? まるでスライムの形状、灰と黒のゼリー質の中に、粘液に濡れたオレンジ色が覗く。
 な……こ、これ!?
 「モノ」が動く。
 瞳に向けて、水滴が垂れ動くように這っていた。瞳が横方向に走るや、向きを変えた粘液が動く―意思を持っている、間違いない!
 瞳は視線を粘液に向け、眉を顰めた。―コンクリートが、溶けてる!?
 溶解性か、液は、「その」性質を持っている。つまり、危ない。
 怖い―それもあったが、瞳の口はその言葉を紡ぐよりも先に、別の言葉を紡いでいた。
「花をいさみて三五斎幣、これのりくらえ、天神、水神、宿りの剣、呪縛、外縛、火の印掛けて、八方奈落に焼き落とし、魂魄掻き割り打ち詰める、さらさら陽向なりたまえ―」
 瞳の指先に挟まれる符が、冷気に包まれて眼前、流動体が近付く数メートルで、5芒星を切っていた。
 ―悪霊を退治した事は、少なからず、ある。
 淡い光が瞳の指先で散る。殆ど間を置かず、光は符を押し包み、中空で巨大な光の塊となっていた。瞳が腕を振り下ろす。
「行って、お願い―朱雀!」
 瞳の前方、光が赤い燐光を散らし、瞳を守るかのようにそこに「在った」。大地を離れるその姿は、巨大な鳥―伝説上の鳳凰を思わせる。瞳の十八番、戦闘用の式神だ。人間相手に使っちゃいけないのは当然で、今飛んでいる鳥だけでも、手熟れの戦士を抱えた軍隊を丸ごと一個なくしちゃうのも簡単な位だ。
 陰陽師が使う、呪い専門の式神とは違い、肉を持ち、具現、その身を持って外敵を排除する特殊な存在で、その姿は千差万別、術者の力量、イメージによって異なる。
 一声鳴き、鳳凰―朱雀はスライムへと飛んでいた。火炎を散らす羽ばたきが流動体の表面を焼き、嘴の一撃がゼリー質を抉る。
 効果が、ない!?
 妙だ、幾ら何でも、朱雀の攻撃を受けて―何しろ、切り裂けない金属など、ない。
 瞳の視線がオレンジ色の球体に注がれる。
 ―そうか!
「朱雀!」
 式のコントロールは、術者の精神とリンクして行なわれる。朱雀は流動体の上で急上昇し、続く急降下で、嘴をオレンジ色の球体に突き刺していた。
 流動体の蠢きが停止する。
 何かの支えを失ったように流動体のゼリー質の粘膜が乾き、崩れ出した。
 ―恐らくは、術の核……聞いた事がある。確か、ローマでもこのタイプの悪霊―ラルヴァが存在する筈だ。支えとなる核―コアを失った事で、存在を維持できなくなったのか。
 だが。
 どう言う事だろう。まるで、私が来る事を予知していたような―違う、これ自体がスペル・トラップ!? 術者の気に反応するか、近付いた者を抹殺する為の……。
 元来は単なる死霊、が、これその物が術の罠か。
 と、なれば!?
 瞳は視線を天井に向け、声を失っていた。
 無数の目―オレンジ色の―コア。
 堪え難い嫌悪感が全身を襲う。虫が全身を這い回る感覚、瞳は手元に符を握り出し、朱雀を肩に寄せていた。
 流動体の一つが動き―じゅっ―天井から垂れる粘液が、コンクリートの一部を溶かす。文字通り、酸の雨だ。
 瞳は首を振り、天井を睨み据えていた。ほぼ全域を覆う流動体、ならば!
 朱雀が意思を読み取り、舞う。炎の羽ばたきが瞳の真上部分を焼き貫き、その部分だけを傘のように守っていた。朱雀の炎の羽に炙られ、ラルヴァ達は声にならない悲鳴を漏らしながらぼふぼふと燃え尽きて行く。
 ―動けない……!
 即座に溶かし殺される事はなくなったが、状況は良くなったとは言い難い。
 辺りに視線を飛ばす瞳の耳朶を、予想だにしない声が叩いていた。
「驚いた、何、女の子じゃない」
 窓側、桟もない窓枠に、屈み込んだ男―まだ若い、20代か―が口元を驚いた、とでも言う表情に歪めていた。髪は自然なブロンド、しかし口から漏れているのは自然な日本語―国籍は判らないが、日本人ではあるまい。
「ふーん、駄目じゃん、アイシャってば、こんなコ一人始末できないんじゃさ」
「あ、あなたは!?」
「うん? ああ、知らなくて良いよ。どーせキミ、ここで死ぬし」男が微笑む。
 男の白い歯が笑みの形に並んだ。
「「ジュツシ」だろ、キミ。奇遇だね、僕もさ。一応名乗っとこうかな? 「ブシ」の嗜みとして。ええっと、名前はジョエル=ベン=シャーウッド。ああ、ジョンで良いよ。ちなみに、僕は」ジョンが右手を掲げ、弾く。手品のように出現したナイフが、瞳の足元に投擲されていた。「カバリスト。ちょっとマイナーかな?」
 かなりメチャなブシだ。平然と笑い、ジョンは小首を傾げた。
 言葉が終わらぬ内に、瞳の目の前に突き立ったナイフが変化を見せていた。銀で構成されているのか、鈍い輝きを放つナイフの柄は美しく、細工も一流だ。だが、そんな事は問題ではない。―ビルが、揺れていた。
 振動が瞳のバランスを崩し、天上の流動体のいくつかが地面にぼとぼとと落ちる。
「か、カバリスト?」
「そ。古の知識の探求者って奴だよ。うーん、良いね、僕。はははっ、でも、今の僕、単なる殺し屋だから」
 カバリスト―瞳の知識の中では、ゴーレムや、生命の樹として思い起こされた。―ゴーレム!?
「ははっ、そう。驚いてくれたら嬉しいよ」ジョンが笑い、そのままに呟き出した。「Nescio quis sim、 Nescio unde veniam、 Nescio quo eam. Quaero……! カモ〜ン、コットス!」
 フザけた口調のジョンの声は、殆ど耳に入らなかった。
 瞳の目の前に、大地が「起き上がりつつあった」。非現実的なそれを証明するのは、眼前、3メートル近い、天井に頭をぶつけそうな巨人だ。コンクリートを刳り抜き、突如として出現した巨人の首筋に、銀細工のナイフが輝く。
「ま、そのラルヴァが全部焼き尽くされたら動かすよ。君、結構やるみたいだし」
 ―最悪だ。あのスライムだけなら、何とかなったかもしれないけど……。よりによって術師が出て来るなんて!
 カバリストを自称する男はかなりの使い手だ。殺し屋を名乗り、ゴーレムを操る嘯く実力も凄まじい。
 確実に言える事は、あの巨人が動き出したらマジでヤバイってコトだ。
 それは確実だ。朱雀を数倍するサイズは、ジョーク抜きに朱雀をブッ潰しかねない。オマケに、どういう原理で動いているのか―ゴーレムはカバラの知識において、生を与えられた泥人形とあるが、かなりオリジナルな形態の混じったヤバげなヤツだ。
 相手の術の解除方法が判らないのは、術の打ち合いにおいて、果てしなく不利だ。まあ、目の前の外人が陰陽道の事をどれだけ知っているかはわかりゃしねえけど、とにかく数において既に不利を強いられているのだ。
 ともかく、あんまり嬉しくない状況だった。
「……あなたですか」
「ん?」
「あなたが、慧を―私の妹を呪っているんですか!?」
 瞳の目的―つまりは、それだった。現在の瞳を動かす全ての行動理念であり、唯一の目的だった。
「判らないな。キミは。とりあえず、死になよ」
 ジョンに話を聞く気はなかったようだ。笑い、視線を送り続ける。
 視界が怒りに揺れ出した。
 朱雀を召喚して精神力の消耗は激しいが、やるしか、ない。
「大荒神、水神、神木、古木、大天神、四足、すそ、山すそ、大すそ、天神の、地の矛持ちて微塵に裂きて、神が守目、神楽の役者、荒神穿ちて我とあるべし、地裂き天裂き等しく去らん―」
 朱雀が天井のラルヴァを焼き払いに掛かる。面白そうに視線を投げ掛けるジョンを意識から切り離し、瞳の呟きは続けられた。祭文が大気を震わせ、神霊を具現化させる。
 符の輝きは大地と同色だった。「来てっ、六合!」
 質量が瞬時に数倍―数十、数100倍化、符は、強烈な光と共に実体を持って具現を始めた。
 輝きが極大に膨れ上がり、大地から伸び上がる大蛇と化す。瞳の身長を軽く5倍する蛇は、伸び上がれば、ゴーレムよりも大きいだろう。ジョンが歓声を上げる。「へえ! 凄い」
 かなりデカい―って言うか、マジにバカデカい蛇だ。10メートルを超える蛇は、ぬらぬらしているというより鱗が鎧みたいで、もはや神秘的さを欠いた龍にも思える。体長は飛び回る朱雀の数倍で、確かにあの巨人とも渡り合えるだろう。人間なんぞ、それこそ一瞬で絞め殺すか食い殺しちまうのは確実だ。尾の一振りは、家の一つを倒壊させるのにも、一撃で十分だろう。
 瞳が召喚できる式神の内、かなりの大物である事は間違いない。朱雀も大物だけど、用途が違う。言わば、朱雀は高速戦闘用の戦闘機であり、六合は、陸専用の重戦車だ。
 蛇の首の一撃が、ラルヴァの数対を薙ぎ払う。
 肩で息を吐く瞳は、朱雀に守られながら、六合を操り、反撃に転じていた。
「良いよ、それじゃ、行こうか」ジョンの目が細められる。
 ゴーレムが動き出していた。コンクリートで出来たとは思えないほど自然な動きで、六合の頭を掴みに掛かる。
 慌ててコントロールを集中し、瞳は意識を六合に向けた。六合が体をくねらせ、ゴーレムのバカデカい手を避ける。
「くっ……」
 ―不利だ、明らかに。強力な術師に加え、まだ、天井には数体のラルヴァがいる。朱雀のコントロールを弱める訳には行かないが、六合のコントロールを緩めれば、即座に叩き潰されるのは目に見えている。……もう一体、召喚するのは、駄目だ、それこそ、今の状態では自殺行為だ。白鷺の法を使わなければ……。
 六合がゴーレムの体に巻き付き、ゴーレムのパワー溢れる拳が六合の頭を潰しに掛かる。
 コントロールに集中していてか、気付かなかった。―頭上のラルヴァに。
「きゃっ……」
 身を防ぐ……間に合わない!?
 目を瞑り、開けた。―無事!?
 ラルヴァが眼前に落ちていた。直撃の寸前、強い力で体を引かれていた。
「クソが……ウザってえのが居やがる」
 レザーバッグが視界に入る。
 目の前に立つ人影が、頭上に落下したラルヴァから守ってくれた、と言うのが判った。―一体!?
 黒髪、肩に掛けたレザーバッグ―まさか―
「誰、キミ」ジョンが言う。
「うるせえよ、テメエか、今回の黒幕は」
 黒髪が寒風に靡く。乱暴な言葉遣いでジョンを黒幕扱いし、「それ」は瞳を守るように立っていた。
「黒幕?」
「まあ良い、テメエを殺して、今回の馬鹿騒ぎも終わりだ」
 思い出したかのように、レザーバッグの影が振り向いていた。
「無事か」
「あ……」
 視線が定まらない、視界が波打っている。胸郭を叩く鼓動が、ドラムの速さでビートを刻む。
 ―この、人、は―
 冬だ、動いたからだろうか、体が熱いのは。何故か、こんな状態でも、安心できた。
 駄目だ、言わなければ、ここは―
「あの、逃げて下さい、ここは……陰陽師なんです、私は、だから」
 ―何を言ってるの、私は……。
 判る訳はないかもしれない。陰陽道などと言っても、こんな事は。だが、こんな場所に平然と立っている人だ。何らかの事は知っているかもしれない。
 ―逃げ……。
「死にたくないなら、じっとしてろ」
 逆らう気には、なれなかった。




「信じられないな、溶解性だよ、その粘液」
 窓枠に座る外人が言葉を紡いでいたが、どうでも良かった。
 朋一は何とか少女に追いついた事に安堵していた。
 入って来てみれば、数体のスライムが地面に、無数のスライムが天井に、気味が悪い事この上なく、正面ではゴーレムが蛇と取っ組み合いを演じ、炎の鳥が宙を舞い、外人が窓枠に腰掛けていた。さながら、人外魔境の真っ只中だ。
 態度から外人を悪人だと判断した朋一の行動は素早かった。
 ニヤ付きながらラルヴァとゴーレムを従えた外人、対するは自分が追っていた少女、どっちの見方をするかなんて、考えるまでもない。
 ほぼ最上階、少女に歩み寄る朋一の足取りは、すこぶる重かった。
 ―そもそも、何でこう、足場が悪いんだ、ここは。
 高い―それだけではない。このフロアだけでも、壁を通過して空が見える場所すらある。ここに上って来るのは、それこそ地獄だった。
 高所恐怖症の朋一にとって、目の前の外人よりゴーレムより、ついでにウザったいラルヴァより、場の高さこそが何よりの天敵だ。
「うるせえよ」朋一は言い、バッグの上から鞘を掴み、刃を引き抜いていた。
「あ、あの……」少女が言葉を紡ぎ掛ける。
 怖かったのだろうか、言葉が震えている。顔が赤いのは、今までこの連中―人間は外人一人か―と戦っていたからか。
 ―えっと、確か、どうすればいいんだ、こういう時は。
 朋一は少女の頭に手を乗せ、言った。「もう、大丈夫だ」
 セシリアは、確かこれで落ち着いた筈だ。言葉は、少なくとも、以前、似たような状況に陥った時、宗一の言葉で、自分は安心できた。
「は、はい」
 少女がコクンと頷く。心なしか、顔が赤く、声もしどろもどろになっていた。
 ―心拍が高い、か? 式神の使用は精神力を相当使うのか……どちらにしろ、マズいのか。
 頷き返し、朋一は刀を下方から脇車に移行していた。「覚悟は良いか。外人」
「質問に答えないね、キミは。何だい、ナイトかな、キミは、その子の」
「知った事か」
 返答の変わりに、朋一が刃を薙ぐ。下方に接近するラルヴァを文字通り弾き散らし、返す刃がもう一体を砕く。
「凄い……」瞳が呟く。
 瞬きして朋一の動向を見守っていたジョンが、パチパチと音高く手を打ち鳴らす。
「凄い、強いよ、キミ」
「ザコが。ネクロマンサーか、テメエは。……ゴーレム?」朋一が視線を正面、六合と組み合うゴーレムに向ける。
「ん? ああ、違う違う。僕はカバリスト。このラルヴァは……借り物だよ、ははっ、強いね、そのコ以上だ。物理攻撃でそれ壊すなんてさ」
「カバリスト? でもって知り合いはネクロマンサー? ロクなヤツじゃねえな」
 ―という事は、この女か、あの蛇を使っているのは。……あの鳥は!?
 朋一が後ろに首だけを向ける。
「……あの鳥と、蛇、もしかして?」
「あ、あの」
 少女の声は返答になっていなかった。朋一が舌打ちする。
 とりあえず、邪魔だ、コイツ等は。……「呼ぶ」か? 駄目だ、この女が見ている。止むを得ない、斬り殺すしか―
 思い、どうしようか考えていた。どうせ、刀を持っているのを見られている。今更、召喚や「力」を見られたからといって、どうだというのだろう。
 耐えられなくなったのか、ついにゴーレムが大蛇を叩き潰し、弾き飛ばす音が、耳に届いていた。
「六合っ! ……あうっ!?」
 少女が胸を押さえ、屈み込んでいた。首筋が薄く出血する。
 さっきまで動いていた蛇は、薄い煙と共に、瞳が握っていた符に立ち戻っていた。
「だ、大丈夫か!?」朋一が声を上げて少女の元に屈み込む。―視線は外人とゴーレム、ラルヴァに向けたまま。
「す、すみません。……返りの風……式返しです」少女が苦笑する。「判りませんよね、こんな事言っても」
「そうでも、ない」
 これか。式神を返された時に―倒された時に術師を襲うという、呪いは。
 式神とは、それその物が即ち呪い、鬼神の召喚であり、それを返されれば、召喚者を傷付ける。「返りの風」と言うのは、高知県物部村に伝わるいざなぎ流の呼称であり、一般的には呪詛返しと言われていた筈だ。
 とりあえず、あのゴーレムは、この少女には荷が重いという事だ。
 少女の目の前、朋一は刀を蜻蛉の構え―僅かにそれよりも前方に傾いた―構えとなって走っていた。
「へえ」
 ジョンが声を上げてそれを見据える。朋一の進行方向には無数のラルヴァが落ちている。溶解性の液は、人間を―
「クソが、退いてろ、低級!」
 ジョンの目が見開かれていた。朋一の構えが一瞬解かれ、左手が振られる―瞬時の閃光が視界を支配、目を開いた時、ラルヴァの半数が消滅していた。
 ルシファーの閃光は、この世の全てを破壊する。たかが低級霊が、その洗礼を浴びれば、その末路は決まったような物だ。
「くたばれ、デカブツ!」
 朋一が軽く跳躍、信じられない行動に出ていた。
 振り被られた刀が、次元流の一の太刀の形でゴーレムの肩口にめり込む。コンクリート製、大蛇を叩き潰した巨大な人形は、50口径弾にすら耐えるだろう。
 刀が弾かれ―ジョンも、瞳もそう思った。或いは、折れる。
 ジョンが目を見開き、瞳は口から歓声とも驚嘆ともつかない溜息を漏らしていた。
 ゴーレムが肩口から腰の辺りまでを一刀両断に斬り伏せられ、崩れていた。
 尚も動き、朋一に手を伸ばすゴーレムを冷徹に睥睨し、朋一はその手を斬り飛ばすと、肩口を踏み付けた。
「死ね―壊れろ、木偶人形」
 朋一の刀が顔面に突き立てられる。朋一は尚も顔面の半分を斬り飛ばすと、うつ伏せに倒れるゴーレムの首筋に突き立つナイフを目に止めていた。
 所詮は意思のない木偶人形―例え、意思があったとしても、容赦するつもりなどない。壊す事に躊躇いはない。殺す事に躊躇いは、ない。
「成る程な」
 無造作にナイフを掴み、放り投げる。
 ゴーレムから紫とも緑ともつかない煙が吹き上がり、ゴーレムは既に動かない―朋一に刻まれて動く事すらできなかった―コンクリートの塊となっていた。
「ご自慢のデクは死んだぜ、どうする?」
「みたいだね。凄いよ、君」ジョンが肩をすくめる。「まあ、良いけど」
 ジョンの手がトレーナーの後ろに伸びていた。「さて、僕が行こうかな、それじゃ」
 再び翳されたジョンの腕の先、黒い塊が付随する。
「……どこかで見たな、どう見ても粗悪な密造銃、って訳じゃないな?」
「見た? ふむ、まさか、とは思うけど」ジョンが手先でハンドガンを振る。「キミ……いや、まあ、良いや。行くよ」
 ジョンの左手に数本のナイフが出現していた。足元でラルヴァが蠢く。攻撃の選択肢は、多い。
「あー、動けるか、その」
「……瞳、です」
 少女―瞳が蹲ったまま言う。「ごめんなさい、私のせいで」
「いや、いい……や、じゃない、です。その、まだ、動かせるか……じゃない、ますか、あの、式神」
 瞳が目を瞬かせる。朋一の口調が急変した事にだろうが、朋一の性格はそんな物だ。相手が丁寧な口調であればそれに合わせる、名前を聞いてしまった以上、口調が敬語となったのは、朋一にとって仕方がない事だった。
「は、あの、ええ、一体位なら……」肩口で朱雀が旋回する。
「それで自分の身を守れ……守ってて下さい」
 朋一はさも言い難そうに言い放ち、刀を構えたままジョンに向かい合った。
 構えるのとほぼ同時に、ハンドガンのマズルが閃光していた。H&K社、USP。使用ブリッドは……45ACPか、40S&Wか。
 冷静に考えている場合ではない。それに、見ただけでは、雅治ではないし、判らない。朋一は舌打ち一つ、殆ど反射的に瞳に飛んでいた。
「きゃっ……」
 瞳の腰を掴み、朋一が壁際にまで飛ぶ。人間同士での殺し合いなどした事がないのだろう。それが自然であり、当然だが、この場において、それは死を意味する。この国では銃を扱う事自体が極めて稀で、その職務にある者でさえ、使い慣れていないという有様だ。警察でさえ、シューティングポジションが固定されている。精神錯乱を起こした犯人や、錯乱した人間に、一々決まった体勢で銃を扱えと言うのは、間違いでしか、ない。
 ―クソっ、何て正確な腕してやがるっ!
 顔に笑みさえ張り付かせてトリガーを絞ったジョンには、その行為に対する忌避など微塵もないようだった。腕も良い。朋一が飛んでいなければ、どうなっていたか―。そもそも、45ACPの速度自体は「遅い」物とはいえ、あくまで、他の弾丸に比べ、僅かに、だ。人間に反応できる速度ではない。式神を持っていても、実戦に対する経験が浅過ぎるのだ。年齢で見ても向こうは20半ば、この仕事を続けて来たと見るならば、瞳には荷が重過ぎる。
 ジョンが感心したようにハンドガンのマズルを下げ、すぐに笑みを浮かべて朋一と瞳にポイントしていた。
 「力」を使えば……駄目だ。
 瞳が朋一を心配そうに見詰めている。―つまり、見せられない。無関係の人間を巻き込む訳には―
 ―この場合、巻き込まれたのは俺だよな。
 内心悪態をつき、顔には出さず瞳を連れて走っていた。遮蔽物もなく、正確な狙い、しかも近距離―回避できなくても、単なる弾丸なら、今の状態の結界でもどうにでもなる。
 ジョンがハンドガンを僅かに持ち上げていた。
 ―弾切れか。
 どうする、斬り殺すか―
 今なら容易い、そう思った朋一は、腕の中、猫のように蹲る瞳に視線を落とした。……ショックは、強いだろう。
 ジョンの左手が振られる。
 投擲されたナイフは、朋一達の左脇に突き立ち―
 ゴーレム!? させるかっ!
 瞳を下ろし、左手を振る。―かっ―閃光は瞳の目に入るより先に、ナイフを消滅させていた。
「不思議な力だね。君は、どこの、何ていう魔術師だい」
 ジョンが笑い、マガジンをリリースしていた。スライドが閉じられ、素早くチェンバーに初弾が装填される。
 ―フェイクか!
 知り合いの、ある科学者ならば、超音速鉄鋼弾でも持ち出して、文字通り、瞬時に相手を殲滅する所だが、下手に力を使えない上、相手は厄介な魔術師だ。
 さらに厄介な事に、傍らの少女は戦闘経験の浅い、尚且つ、どう見ても戦闘向けではないと来ている。マガジンをどれだけ持っているかは知らないが、どのみち、長期戦にするべきでは、ない。
「魔術師じゃねえよ、俺は」
「妙だね、それは。どうでも良いんだけど」
「なら、言うなよ。……死んどけ!」
 朋一が走り込む先、天井から、視界を埋め尽くすほどのラルヴァが降っていた。進行と視界を妨げられ、朋一が苛立たしげに刀を振り払う。
 瞳の式神で急所を焼き、破壊したラルヴァは、朋一の一撃のみで単なる塊と化し、霧散していた。
 開けた視界の先、立ち尽くすジョンに―いない!?
 朋一が振り返り、飛んでいた。
 立っていた空間を、マズルフラッシュと共に45ACP弾が焼いていた。あるいは、専用にカスタムされたカスタム弾かもしれない。単純な身のこなしも素早い―
 だが。
「クソがっ! 死にやがれ、毛唐!」
 殺せる。ナンバーほどでは、ない。
 ああ、もういい。ショックが強くても、死ぬよりマシだ。
 大上段に振りかぶられた刃が、ジョンの前方数メートルで朋一の姿ごと掻き消えていた。
「っと、危ないな」
 ボクサーのサイドステップよろしくその場を跳ねたジョンの脇を、銀光が閃き薙いでいた。USPのマズルが斬り飛ばされ、スライドストップ近くまで詰められる。
「ちっ……」
「参ったね、これは」ジョンが、朋一と瞳、宙を舞う朱雀に視線を這わせ、言う。「勝てない……ははは、駄目だ、勝ち目はないや」
「次はねえ。この場で死ね。―手前は、生きてると、危ない」
 刀を構え直す。―いかに瞳の前とはいえ、この男は、危険過ぎる。ラルヴァを召喚したのが別の人間とはいえ、放っておけば、大変な事になる。殺すべきであり、そうするのが義務だ。―判らないが、意識の一部がそう告げていた。
「そうは、いかないさ」
 ジョンがその場を飛び、壁端、手摺さえない窓の桟に飛び乗っていた。ここは8階、10mを優に越えている。朋一が眉を顰めた。
「……逃げ場は、ないな」
 ラルヴァは朋一と朱雀―瞳に排除し尽くされ、残るはジョン一人だ。単純に考えても2対1、朱雀を含めて3対1、ジョンに勝ち目はない。
 冷徹な刃が、命を噛み砕く顎となってジョンに向けられる。「今度こそ、死ね」
「そう、思うのかな、君は」
「えっ!?」瞳が目を見開く。
 二人の視線の先、ジョンの体は揺らぎ、そして消えていた。
 ―自殺!?
 朋一が走り、そろそろと窓枠に立つ。高い所は、駄目だ。
 眼下には、ミンチとなった死体はなかった。視界に、器用に配管を掴むジョンが映り見える。
「生きてんのか、手前!」朋一の右手が配管を先端から薙ぎ払う。
「物騒だな、ホントに」
 笑い、ジョンが左手を腰のポーチに移動させていた。配管は先端を切り崩され、傾き、大地に引き寄せられている。
 左手の先端、銀細工のナイフが取り出される。「プレゼントだよ、これは」
「てめえっ!?」
 銀光が閃き飛び、ビル側面に突き立っていた。ジョンの手が配管から離れ、地上5メートルほどの距離で飛んでいた。危なげなく着地したらしいジョンの姿が、ビルの合間に消えていく。届くはずのない笑みが、脳裏に浮かんで消えていった。
「……逃げられた、か」
 朋一は、瞳の元に足を返していた。ビルに突き立ったナイフの事は、頭の中から消えていた。




二頁目、終了


美袋弥生 陽子、杏那の親友。科学者。詳細不明(と、言う事に)。

帆苅凛香 セシリアの同居人。ナンバー。強力な破壊工作員。性格は非常に大人しく、一度悪い事を考えるとそっちに突っ走る傾向あり。杏那や陽子、弥生に非常に強いコンプレックスを抱く。

ラーメンを啜る男 正体バレバレ。

聖瞳 陰陽道「聖流」の術師。番外編から出張。メインに関わるかも。朋一サイド。

ラルヴァ 悪霊。ローマと言うより、イメージ的には魔術的な方からです。

ゴーレム 朋一に瞬殺された。弱くはない筈。

ジョエル=ベン=サーウッド エセカバリスト。笑いながら銃を乱射してゴーレムをバカバカ生成していく。何人だろう。愛称がヘボ過ぎるのもご愛嬌。


後書き

 予定より長くなってしまいましたが、どうにも。次の話まで食い込んでますので、次で調整したいです。
 主人公の筈の陽子があまり出ていないのは、ちょっとマズいですが、そろそろ到着します。というか、朋一は番外編の方が出番が多い気がしてきました。主人公ではないのに。
 題名、本当は「北の大地だよ、全員集合」でした。全員じゃない上、どうにも。本当なら、今回は朋一がチンピラを片付ける所で終わっていたのですが。
 主人公は陽子、セシリアはサブの筈です。…目立ってます…どうしよう。朋一は相変わらず主人公でない時の方が目立ってますし…。
 ちなみに、瞳はもう一つの番外編、「世紀末音楽会!」の主人公です。…いっそ、混ぜてしまおうかと。
 それでは、失礼致します。

 良ければ、感想など頂ければ幸いです。

 HP


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