カノン「時を越えた微笑」


 午後9時30分。
 ファミリーレストラン「Piaキャロット」の終業時間である。
「お休み・・・」
「また明日・・・」
「お疲れさま」の挨拶と共に、店員やバイト達は三々五々帰宅していく。
 だがそこにはいつもの様な覇気は無かった。
 皆どこかうつむき加減で、足早に家路を急いでいく。
 10日前・・・ある事件がこの店に暗い影を投げかけていた・・・
 
「それじゃ、店長、オレも美奈ちゃんを駅まで送って帰りますから・・・」
 耕治はそう言って事務所を出ていこうとする。  
 わざと快活を装ってはいるのだが、その面もちは何処か暗い。
「あっ、前田君・・・」
「何です?」
 急に呼び止められて、耕治は扉のノブを持ったまま振り返る。
 その耕治を祐介は少し痛々しげな視線で見つめた。
「その・・・今度のことは本当に残念なことだった・・・でも、キミのせいじゃない・・・あまり自分を責めないで欲しい・・・」 
 数瞬の沈黙が二人の上にあった。
「・・・大丈夫ですよ、オレ、こう見えてもタフですから・・・それじゃ、美奈ちゃんが待ってますから・・・」
 扉がばたりと閉まると、祐介はふうと大きくため息を付く。
「自分を責めるなと言っても、無理なんだろうね、前田君。本来ならそれがキミの良いところなんだがね・・・」
 祐介の瞳はあくまでも暗かった。

「本当に今日は大変だったね・・・」
「ええ、でも仕方ないですよ、ともみちゃんも紀子ちゃんもまだ出てこられるような状態じゃないですし・・・残ってる人たちで何とかしないと・・・」
 と言いつつも美奈の顔にも疲労の色が濃い。
 実際問題、今年入ってきた新人ウェイトレスの3人、ともみ・紀子・ユキが突然居ない状態になってしまったのである。
 美奈やつかさ・葵・涼子に掛かる負担は大きくなる一方だ。
 唯一の救いは、ここのところ客足が減ったお陰で一人当たりの負担が比較的すくなくなった事ではあるのだが、 これはこれでお店としては決して良いことではない。
 早急な体制の立て直しが必要なのは明白だった。
 しかし皆が受けた精神的なダメージを考えると難問であることは間違いがない。
 まさに前途は多難である。
「ところで、美奈ちゃん。日野森の具合はどう?」
「あずさお姉ちゃんですか・・・」
 姉のことを聞かれて美奈の表情は少し曇る。
「相変わらずです。あの日以来、具合が優れなくてずっと寝ています。ここ何日はようやくご飯が喉を通るようになったみたいなんですが・・・」
「そう・・・」
 耕治はため息を付く。
 余程あの時のことがショックだったんだろうな、と耕治は思う。
 実際、自分だって全くあの時のことから立ち直っている訳ではない。
 でも頭を切り換えていかなけりゃ・・・無理にでも・・・
 それから二人は取り留めのない会話を続けながら、駅へとたどり着く。
「それじゃ、美奈ちゃん、また明日ね」
「耕治さん・・・」
 先ほどとまでは違う、押し殺したような美奈の声に耕治は振り返る。
「どうしたの?」
「・・・その、余り無理はしないで下さいね・・・耕治さんに何かあったら、美奈も悲しいですから・・・ううん、 美奈だけじゃなくて、葵さんも涼子さんも、つかささんも・・・みんな、みんな悲しくなりますから・・・」
 しばし無言の二人。
 重苦しい沈黙だけが横たわっている。
「オレは大丈夫だよ」
「でも、耕治さん、最近余り寝ていないんじゃないです?」  
「そんなこと無いよ・・・美奈ちゃんは心配性だな・・・涼子さんの影響かな?」
「もぉ、そんなこと無いですよぉ」
 とちょっと美奈はむくれる。
「じゃあね、美奈ちゃん、お休み・・・」
 と耕治は足早にその場を離れる。
 だが彼の足は寮へ向かうわけでもなく、人気の少ない公園の前で止まる。
 街灯も少ない暗い闇の中で耕治の息づかいだけが響く。
 息は上がり、汗が流れ落ちる。
 苦しかった。
 呼吸がでは無い。
 生きていることが苦しかった。
 こんな体験は前田耕治の20年という年月の中で初めてのことだ。
 耕治はゆっくりとした足取りで、公園の中の一角へと足を進める。
 そこは人気のない公園の中でも更に暗い場所である。
 がさり・・・
 耕治の足が何かを踏みしめた。
 耕治は視線を足下に移す。
 彼の周囲には花束がまるで絨毯のように一杯敷き詰められており、お供え物であるかのようにジュースやお菓子の袋などが置かれていた。
 ここで・・・この場所で・・・あの子は・・・
 
 泣き叫ぶ少女の悲鳴
 荒々しい獣じみた息づかい 
 引きちぎられる衣服
 まだ幼く少年のように薄い胸があらわになる・・・

 ・・・以前からドラマやニュースでは良く見かける光景である。
 ここは人が死んだ場所なのだ・・・それも、普通でない状況で・・・

 男のシルエットが半裸になった少女の上にのしかかった
 必死で逃げようと地面に爪を立てる少女
 振り乱される長い黒髪・・・
 その必死の抵抗も空しく、引きずられる少女の身体
 地面には血の跡の付いた少女の爪痕だけが残される

 そして響き渡る破瓜の痛みに耐える悲鳴・・・
 
あの子は・・・あの子は・・・
 死んだんだ・・・違う!殺されたんだ!

 耕治は周囲に並べられた花束を怒りのこもった視線で睨み付ける。
 彼自身、ふつふつと沸き上がる怒りをどうすることもできない。
 一体、この花は何なんだ!
 これを捧げた人の中で一体どれだけの人があの子の痛みを、苦しみを理解して居るんだ!
 その場限りの安易な気休めで、自己満足の同情を押しつけているだけじゃないのか!
 あの子を救えなかった免罪符をこなんもので買おうとでも言うのか!
 耕治は思わず花束を踏みつけようとした。
 が、彼はすんでの所で怒りを留めた。
 それは人として、してはいけない行為なのだから。
 いかなる理由があろうとも、人の死を悼む気持ちは尊い物なのだから・・・
 耕治は力無くその場にへたり込むと、ここのところずっと持ち歩いている小さな日記帳を取り出した。
 彼の掌にすっぽりと収まってしまうような、小さく少女らしい可愛らしい表紙の日記帳。
 中を開いてみると持ち主の性格が見て取れる、几帳面な文字が連ねられている。
 ・・・もっと素直になりたい。
 大好きな、あの人に正直な自分の気持ちを伝えたい・・・
 耕治が開いた最初のページにはそんな言葉が記されていた。
 思わず耕治の瞳から涙があふれる。
 ユキちゃん・・・
 神塚ユキ・・・それが10日前の8月5日にこの場所で陵辱され殺された少女の名前だった。
 享年15歳・・・まだ高校生になったばかりの少女である。
  
 神塚ユキ、彼女と耕治との出会いは2年前、耕治が高校3年の夏休みの時、Piaキャロットでバイトをしていた時のことだった。
 その時は彼が清掃中に間違って水をかけてしまった愛沢ともみの友達。ただそれだけのというだけの存在の筈だった。
 せいぜいが、キツそうな言動と瞳から、当時折り合いの悪かった日野森あずさを小さくしたような子だなと言う印象でしかなかったのだが、 バイトを続け彼女たちのことを色々と知るようになってからは、ユキの言動が早く一人の女性としてみられたいという、 少女らしい背伸びから来る物だと言うことが分かり、以来耕治にとってはちょっと生意気な妹とでも言える存在になっていた。
 そしてともみ達が高校生となってキャロットにバイトとして来るようになってからは、
彼女は「生意気な妹」から「ちょっと気になる女の子」に格上げされる。
 以来、何かと耕治は気を利かせてユキのフォローに付くことが多くなったのだが、当のユキは耕治のことをどう思っているのか、 何かあればすぐに「子供扱いしないで!」と眉間にしわを寄せて来るのだった。
 それでも苦笑混じりで彼女の面倒を見てしまうのが耕治の耕治たる所以であるのだが・・・
 そんな関係が4ヶ月ほど続き、夏休みに入った耕治は思い切ってユキを遊園地に誘ってみた。
 忘れもしない、それが8月5日の終業時間後のことである。
「遊園地?」
「そう、今度の日曜日・・・どうかな?」
「もう、遊園地なんて子供が行くところじゃないの」
 とユキは言ってみるが、どう見ても彼女自身がまだ子供の範疇に入る容姿なので説得力がないこと夥しい。
「そんなところならともみでも誘えばいいのに。あの子なら喜んで付いて行くわよ」
「オレはユキちゃんと行きたいんだけれどな・・・」
 その言葉に心なしか、ユキの頬が赤く染まったように見えたのは気のせいだったろうか?
「もう・・・私、子供じゃないのに・・・」
「やっぱりダメかな・・・」
 耕治はわざとらしく落胆してみせる。
「えっ・・・あ・・・」
「・・・じゃあ今日は遅いからもう帰ろうか、ユキちゃん、駅まで送るよ」
 途端にぶすっとするユキ。
 目尻がいつの間にか20度ほど普段よりつり上がっている。
「もう・・・私そんなに子供じゃないわ!一人で帰ります!」
 言うが早いか、ユキは飛び出すように事務所を出ていく。
 そんな彼女の子供っぽい様子に、やれやれと苦笑する耕治。
 実際ユキは耕治が優しくしようとすると反発する傾向があり、それを知っていて耕治もまた面白がっている所があった。
 仕方が無いなと、耕治は少しロッカーの整理をすると店を出る。
 するとそこにはあずさが一人佇んでいた。
「あれ日野森?珍しいな」
 日野森あずさは耕治と共に2年前にこのお店で一緒に働いた同僚であり、その後大学に入ってからは二人ともまたこのお店に復帰していたのだった。
 出会った当初は本当に険悪な二人ではあったが、2年という年月の中で信頼関係も生まれており、今ではとりあえず友人として、 普通の会話が出来るという関係にはなっていた。
「一体どうしたの?ユキちゃん、泣きそうな顔して駆けてったわよ・・・」
 耕治はちょっと照れて苦笑する。
「ユキちゃん、遊園地に誘ったんだけれどね・・・」
「断られれたの?」
「そう・・・」
「それは誘い方が悪いのよ」
「そうかい?オレは普通に誘ったんだけれどね・・・」
 あずさはちょっとため息を付く。
「あの子、難しい子なのよ・・・照れ屋なのね・・・」
「日野森、良く分かるな・・・やっぱり同類だからかな?」
 同類と言われて、ちょっと複雑な表情をあずさは浮かべる。
「そう・・・そうかもね・・・あの子を見てると、ちょっと昔の私を見ているみたいな気がするのよね・・・」
「オレ、あの子に嫌われてるのかな?」
「それは無いと思うわよ・・・ただ照れてるだけ。優しくしてくれる人にどうすれば応えてあげられるのか、その事が分からなくてきっと悩んで居るんだと思う・・・」
「そう言って貰えるとオレも嬉しいよ・・・また明日、あの子を誘ってみるよ」
「それがいいわね。きっとあの子も前田君が声をかけてくれるのを待ってると思うから・・・ただ約束してね・・・」
「約束?」
「あの子がどんな言い方しても、怒らないでね・・・正直な自分の気持ちを言うことが恥ずかしいだけだから・・・」
 そう言ったあずさの表情は何処か寂しげだった。
 それから二人は取り留めのない会話をしながら、駅へと向かう。
 それは何処にでもある日常のありふれた光景だった。
 だが二人が公園のに近くに差し掛かったとき、何処からともなく悲鳴が聞こえる。
「前田君、今の!」
「オレも聞いた、女の子の悲鳴だった!」
 嫌な予感とでも言うのだろうか、その時の耕治の脳裏にはユキの名前が浮かぶ。
 耕治は慌てて声がした方へと駆け出す。
 その公園は表通りから少しだけ奥に入った場所にあり、街灯も少なく夜中になると人が余り寄りつくことのない寂しげな場所であった。
 少女が自分から進んで足を踏み入れる場所ではあり得ない。
「くそっ!こんな表通りの近くで!」 
 耕治は悪態を付きながらも必死で走る。
 公園の中に入り、何回か茂みを越えると、暗がりの中に伸びている細い2本の足が見えた。
 明らかに少女の物だ。
 耕治はその暗がりへと猛然とダッシュする。
 すると暗がりの中で何かが動く気配があった。
 同時に微かな街灯に反射する光。
 ナイフか!
 耕治は直感的にそれに気付くと、身体を右側に傾ける。
 数秒前まで彼の身体があった場所を何かがすり抜ける気配があった。
 同時に左手に焼けるような痛みが走る。
 切られた!
 きわどいタイミングで耕治は男の一撃をかわしたらしい。
「この野郎!」
 耕治はそのまま逃げ去ろうとする男の背後から飛びか掛かった。
 二人は組み合ったままゴロゴロと地面を転げ回る。
 だが起きあがると男は滅茶苦茶にナイフを振り回した。
 そしてその切っ先が耕治の頬をないだ。
 鼻腔を血の香りがくすぐる。
 耕治は思わずひるんでしまった。
 その隙を逃さず、男は一目散に闇の中へと消えていく。
 しまったと思うがもう遅い。
 耕治は2〜3歩男の後を追おうとするが、もはや闇の中に紛れた男の姿は定かではない。それよりも先ほどの少女の方が余程気になる。
 耕治は痛む腕を庇いながら、先ほどの場所へと戻る。
 遠目に見ると既にあずさがその場に居るのが見えた。
 だがどうも様子がおかしい。
「どうした、日野森?」
 耕治の問いかけにも、その場にへたり込んで嗚咽を漏らしているあずさは何も応えない。
 胃の中が痛くなるような気持ちの悪い感覚が耕治を襲う。
 耕治はおそるおそる倒れた少女の顔に目を向ける。
 信じられない光景だった。
 いや正確には信じたくない・・・
 倒れた少女は涙と血と男の体液でべとべとになった酷い顔で、無念の思いが余程強かったのか、かっと目を見開いたまま微動だにしない。
 着衣にしても殆ど全てがはぎ取られ、裸に近い状態にされ、そして露わにされてしまった股間は鮮血にまみれていた。
 そして何よりも、白い顔所の首筋には紫色に変色した男の手形がはっきりと残っている。
 既に事切れていることは明白だった。
 そしてその少女は・・・ユキだった。
 ほんの少し前まで快活に耕治に悪態を付いていた彼女が・・・
 既に物言わぬ骸とかしている・・・
「ユ・・・ユキちゃん? ユキちゃん!」
 名前を叫びながらユキの体を抱きしめる耕治。
 だが彼女の身体は何の反応も示さない。
 耕治は愛おしげに彼女に頬ずりする。 
 まだ温もりが残っている。
 しかし鼻腔からも、愛らしくちびるからも吐息が漏れる気配は無い。
「ユキちゃん・・・ユキちゃん・・・」
 いつの間にかあふれ出した耕治の涙がユキの頬を濡らす。
 だが、彼女が目覚めることは永久になかった。
「・・・日野森・・・」
「・・・う、うん」
 涙に咽びながらあずさは応える。
「頼む・・・警察を呼んできてくれ」
 あずさは無言でよろよろと立ち上がる。
「あなたは?」
「俺はここにいる・・・居させてくれ・・・ユキちゃんを1人にさせたくないから・・・」
 それからあずさが数人の警官を連れて踊ってきたとき、耕治は必至になってユキの瞼を閉じさせようとしているところだった。
「前田君・・・」
「ダメなんだよ・・・ユキちゃん、どうやっても目を閉じてくれないんだよ・・・」
 その腕をあずさは強く握る。
「余程、辛かったんだよね・・・苦しかったんだよね・・・」
「前田君、お願い・・・もう止めて・・・」
「嫌だ!ユキちゃん、お願いだからもう目を閉じてよ・・・もう遅いんだよ、眠ろうよ・・・良い子だから・・・」
「前田君!」
 耕治ははっとなる。
 瞳の焦点があずさに合う。
「・・・日野森?」
「ユキちゃんを連れて行かなくちゃ・・・お父さんとお母さんにも会わせてあげないと・・・」
 耕治は無言でユキの身体を抱きかかえるとゆっくりと立ち上がった。
 
 その後、現場に落としていった遺留品から犯人は捕まり、余罪も明らかになったが、
 失われたユキがそれで戻る訳もなく、耕治は生きる屍となって日々を過ごしていた。
 その彼に追い打ちをかけるように投げかけられたのは、駆けつけたユキの母親が耕治に投げかけた 「あなたがちゃんとしていれば、ユキは、うちの子は死なずにすんだんです!!」という金切り声だった。
 自分でもそのとうりだと思う。
 それは後日、ユキの母親が彼女の日記を携えて耕治の許を訪れたあとも変わらない。
 ユキの母は残された娘の日記を読み、耕治の辛く当たったとをわびに来ていたのだった。  そして手渡された日記を読んで耕治の心を更にえぐる。
 そこに書かれていたのは、彼女の耕治への想いと、素直になれない自分へ野苛立ち、そして早く耕治に釣り合うような 素敵な女性になりたいという、女の子らしい願いだった。
 ユキが耕治に子供扱いされて反発するのも、本当は早く彼に似合う様な女の子になりたいという想いの裏返しだった。
 そして彼は何かに誘われるかの様に、この場所へ・・・ユキが死んだ場所を訪れるようになっていた。

 ふと耕治の襟元を風が薙いでいた。
 背後の闇がふらりと揺らめき、白い影のような物が現れていた。
 耕治は振り返らない。
 いつの間にか影は人の形を・・・少女の姿になっていた。
 ユキ・・・      
耕治は呼びかける。
 うん・・・
 寂しげな笑みを浮かべてうなずく少女
「ここにいればユキちゃんに又会える・・・そう思っていたよ」
「会いたかった・・・」
「私も・・・」
 そして恥ずかしそうに小さな声で付け加える。
「お兄さん・・・」
 えっとなって振り返る耕治。
「一度でいいから言ってみたかったんだ・・・私ね・・・本当はずっとともみちゃんが羨ましかった。 耕治さんのことを『お兄さん』って素直にいえるあの子のことが・・・私、子供扱いされるのが嫌だったの・・・
 早く、早く耕治さんに釣り合いが取れるような女の子になりたかった・・・
 大人になりたかった・・・
 ・・・あずささんみたいになりたかった・・・」
 あずさみたいに・・・その一言が耕治の心をえぐる。
 自分たちはそういう風にも見えていたのかと、改めて思い知らされる。
「やっぱり、私、バカだったんだね・・・
 死んじゃったら、素直になれるなんてね・・・バカは死ななきゃ直らないってのは本当 なんだね・・・」
 寂しそうに笑うユキ。
 耕治、その笑顔を見ているとやるせなくなる。
「バカなのは俺の方だよ・・・ユキちゃんの本当の気持ちに気付きもしないで・・・あの日だって、俺が一緒についていってあげれば!」
「・・・耕治さんのせいじゃないよ・・・」
 そういいながら耕治の首に腕を回そうとするユキ。
 だが彼女の腕は耕治の体をそのまますり抜けてしまう。
 瞬間、ユキの顔は悲しみでいっぱいになる。
 涙が溢れている。
「・・・もう、私、耕治さんに触れられないんだね・・・耕治さんの温もり感じられないんだよね・・・ごめんなさい・・私、素直じゃなくて」
「ユキちゃん!」
 必死ですがりつこうとする耕治だが、やはりユキの体をすり抜けてしまう。
 目の前にいるのに触れることが出来ない。
 二人はもはや別の世界の人間なのだから ・・・
 それでも耕治は両の腕で彼女の体を労るように抱きしめるような格好をした。
 ユキも触れられないと分かりながらもされるままにしている。
 二人とも本当はもっと早くこうなりたかったのに・・・
 それは既に叶わぬ夢となってしまっていた。
「・・・ユキちゃん、苦しかったんだよね・・・痛かったんだよね・・・・」
 ユキは泣きながら頷く。
「私・・・私ね・・・ずっと耕治さんの名前を呼んでいた・・・男の人に色々されたときも、これが終わればまた耕治さんに会える、 そう思ったから我慢が出来た・・・必死でいま私を抱いているのは耕治さんなんだって思って、耐えてた・・・」
「ごめん・・・ごめんユキちゃん・・オレが間に合わなかったせいで・・・」
「耕治さん・・・」
 二人はそのまま瞳を閉じて、唇を重ねる。
 実際には互いの体を感じることは出来ない。しかし確かに耕治の唇はユキのそれを感じていた。
 そうして二人はずっと抱き合ったまま無言で時を過ごす。
 二人だけの時がゆっくりと流れる。
 だが微かに東の空が白みかけた時、夏の早い夜明けは無情にも二人に別れの時を告げた。
 ユキの体がゆっくりと耕治の腕をすり抜けた。
「耕治さん・・・」
 自分の名前を呼ぶ彼女の瞳に何か決意の色があることを耕治は感じる。
「私、決めたよ・・・もう一回生まれ直して来る・・・もう一回、耕治さんにめぐり会って、今度こそちゃんとした恋人になってみせる」
「ユキちゃん?」
「・・・耕治さん、・・・それまで待っていてくれる?ユキが耕治さんを探し出すまで待っていてくれる?」
「約束するよ・・・オレ、ずっとユキちゃんのこと待ってるから・・・絶対、待ってるから・・・」
「うん・・・私、耕治さんのこと何処にいても必ず見つけてみせるから・・・それまで・・・」
 ユキは耕治に向かって右手の小指を差し出す。
 耕治もその指先にそっと自分の小指を絡める。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます」
 それはどこか悲しげな響きを持った、子供らしい約束の仕方だった。
 背伸びをしていない、本当のユキという少女の顔。
 素直になった彼女は本当は年相応の女の子だったのかもしれない。
「ユキちゃん・・・」
 ユキは黙って左手の手のひらを耕治に見せた。
 そこには小さな黒子が三角形の形になって並んでいる。
「・・・これがユキの目印だからね・・・耕治さん、忘れないでね・・・」
 耕治は力強く頷く。
「絶対に、絶対に忘れないよ」
 ユキは頷くと少し耕治から離れる。
「それじゃね、耕治さん」
「・・・さよならユキちゃん」
「違うよ、耕治さん」
「えっ?」
「・・・またね、だよ・・・」
「うん、そうだね・・・またね、ユキちゃん」
 やがて朝日が二人の姿を照らし出し、ユキの姿は光の中にふとかき消えた。
 周囲からはいつの間にか蝉の鳴き声が響き渡っている。
 何気ない夏の朝の始まり。
 その日も暑い日になりそうだった。

 しとしとしと・・・
 まるで涙のように雨が降っていた。
 その降りしきる雨の中で耕治は身じろぎもせずに立っていた。
 目の前には警察署があった。
 あのユキを殺した男が取り調べを受けている場所である。
 ユキが死んだあと、前田耕治の中で一つ変わったことがあるとすれば、それは「殺意」と言う物が芽生えたことであろう。
 ユキを陵辱し、殺した男だけは何があっても許せない。
 ユキを殺した男が今ものうのうと空気を吸い、飯を食い、生きている。それだけが何を置いても許せなかった。
 だから耕治はポケットにナイフを忍ばせながら毎日ここで数時間を過ごしている。
 隙があれば、チャンスがあればあの男を殺すために・・・
 本当にバカなことをしているとは自分でも思う。
 だが自分自身が犯罪者になると言うことについては、何の躊躇も無い。
 あるいはユキが死んでしまったのに、自分がのうのうとして生きていることが許せないだけなのかもしれない。
 自分は今、狂っているのかもしれない・・・そう感じられるだけの理性はまだ幸いにして保っている。
 それに耕治が今していることは、あの夜のユキとの約束を破ることになるのではないのか?という疑問ももちろんある。
 ユキは自分の仇を売って欲しいなどとは一言も言っていないのだから・・・
 ましてや耕治が犯罪者になる事など微塵も思ってはいないはずだ。
 結局全ては耕治の自己満足なのかもしれない。
 そんなことを考えていると、両脇を警官に固められた1人の男が連行されてきた。
 見間違えるはずがない。あのときの男だった。
 ユキを・・・耕治の愛しい少女を殺した男・・・
 耕治は忍ばせていたナイフに手を伸ばす。
 そして駆け出そうとした刹那、彼の腕は誰かの腕にからめ取られる。
 耕治は驚き一瞬振り返る。
「あずさ?」
 久方ぶりに見る、旧知の少女の顔がそこにあった。
 耕治は一瞬呆気にとられる。
 そしてその間が彼のチャンスを奪った。
 二人の前を男を乗せたパトカーが通り過ぎていく。
 耕治は怒りのこもった瞳であずさを睨み付けた。
「・・・何のつもりだ?!」
「それはこっちの台詞よ・・・前田君こそ、何を考えているの?」
「オレは・・・許せないんだ、ユキちゃんが死んだのにあの男が、・・・ユキちゃんを殺した奴が平然と生きていることが・・・」
 あずさは悲しい瞳で耕治を見つめる。
「そんな事しても、誰も喜ばない・・・誰も幸せにはなれないのに・・・」
「分かってる!それでもオレは・・・」
 耕治の顔を見つめるあずさの表情がふっと緩んだ。
「本当に前田君・・・あなたって人は・・・
 でも良かった・・・間に合って・・・」
「オレが犯罪者にならないで済んだ事がか?」
 あずさは首を左右に振ると、耕治に向かって黙って左手を差し出した。
「?」
 その瞬間、耕治は思わずあっと叫びだしそうになる。
「・・・これがユキの目印だからね・・・耕治さん、忘れないでね・・・」
 ユキの声が耕治の脳裏に繰り返し響いていた。
 思わず目眩がしそうになる。
 あずさの左の手のひらには、小さな黒子が三角形になって並んでいたのだ・・・
 紛れもなくそれはユキが耕治に語っていた自分自身の目印だ。
「・・・これを忘れたとは言わさないわよ・・・お兄さん・・・」
 しばし無言で見つめ合う二人。
 耕治の脳裏に様々な事象がせめぎ合う。
 あずさ、ユキ・・・ユキの死、そしてあずさとの出会いと反目・・・
 まるで「KANON」の楽曲の様に繰り返される二人との出来事・・・
「・・・何時気づいたんだ?」
 耕治はかろうじてそれだけの言葉を喉の奥から絞り出す。
「私が・・・ううん、ユキちゃんが死んだときよ・・・あの時、私の中で気持ちの悪い感触が有ったの・・・ユキちゃんがされた事、                まるで自分自身がされたみたいに感じたわ・・・
 当たり前よね、自分の『体験』だったんだから・・・」
 耕治は思い出していた。
 あの事件以来、あずさがショックを受けて体調を崩していたことを・・・
 それは事件を目撃したことではなくて、事件そのものの経験が甦ってしまったことによるものだったのだ。
 耕治はもう一度目の前の少女を見つめる。
 あずさであり、ユキである少女を・・・
 魂は時間という鎖に束縛される事はない。
 1人の魂が同じ時に存在することも可能なのだ。
 だからこそ、目の前の彼女の中には今同じ少女の二度の人生の記憶が紡がれている。
 一度自分が死んだ記憶、それを持ちながら生きることはきっと辛いことなのだと思う。
 それでも彼女は耕治と同じ時を生きたいと願った。
 何処にいるとも知れない、名も知らぬ1人の男をずっと探し続けていた。
 あの日、駅前での耕治とあずさとの出会い。あれすらも偶然などではなかったのだ・・・
 全ては「時」という輪の中を巡る物語の一部であり、輪廻の輪は今閉じられたのだ・・・
 そうして1人の少女の願いが、今目の前にある。
 これが「奇跡」と呼ばれる物の姿なのだろうか?
「ねぇ・・・私、今度は前よりも素直になれたのかな?私・・・前田君、ううん、耕治さんに相応しい女の子になれたのかな?」
 恐る恐る尋ねるあずさ・・・いや、ユキ・・・
 時を越える想い・・・
 耕治は黙って目の前の少女を抱きしめた。
 今度はちゃんと暖かく柔らかい感触が彼の腕の中にある。
「・・・お帰り」
「うん・・・ただいま・・・」
 二人はそのままずっと堅く抱き合う。
 その二人を涙のような雨は、優しく包み込むように何時までも降りしきっていた。


あとがき

 皆様お久しぶりです。
 構想5分。執筆1日という超安直なSSが出来てしまいました。
 今回の発想はじつは、じろーさんが棒チャットで話されていた、
「ユキちゃんてミニあずさという感じ」という一言がヒントになっています。
 じゃあ、そう言うの書いちゃえと・・・(苦笑)
 と言う割にはユキちゃんは惨い目に遭うし・・・
 で、こういうオチなんですけれども、どうでしょうか?
 作者なりには怖くない怪談話がそれなりに書けたかなとは思うのですが?

 

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