カルナバルの町オルロからアルゼンチン国境
の町ビジャソンへ走る列車の旅

今回のルートはコチャバンバからオルロにバスで行ってオルロでカラカラという田舎へ行ってきた。
そこにはインカ時代の壁画があるという情報があったのでそれが目当てだった。
観光地ではなかったので、交通手段がなくタクシーをチャーターしてカラカラの村にに向かった。
約1時間半後村に到着し村の人に壁画がどこにあるのか案内してもらってようやく見つけたのだが
、期待したほどではなく小さな絵が数箇所あっただけであった。
その周りには磨製石器などが落ちていて保護されていなので、壁画も土器や石器もこのままだとな
くなってしまうのではないかと心配になった。

オルロから、今度は列車にのった。この列車は週に2便あり、豪華寝台特急とオンボロ各駅停車。
曜日の関係でオンボロ各駅停車にのる事になった。
6人で向かい合う対面シートタイプ。列車の通路は荷物だらけ。
この列車に乗っていた人は、みんな衣類や食料が入った大きな袋を何個ももっていた。
商用のためラパスかコチャバンバで仕入れをして、他の村やアルゼンチンなどに売るためであろう。
乗客のほとんどがチョリータと呼ばれるインディオ系の昔ながらの民族衣装をまとった人々であった。
横の席は小さな子供を4人連れたチョリータさんだった。
子供は一人は赤ちゃん、2人は1歳から3歳ぐらい、もう一人も5歳ぐらいだと思う。
列車は一応座席は指定されるのだが、この家族は席を一人分しか買っていないらしく二人がけのスペ
ースにチョリータさんは赤ちゃんを抱え、横に二人子供を座らせ、足の下の荷物の上に一人を座らせていた。
その横になってしまった私は、席にはお尻半分だけ座り、足は通路へ投げ出すという体制であった。
通路には沢山の荷物が置かれ、始発駅以外から乗り込んでくる席のない人達が座り込む。
網棚の上に人が寝るほどではないが、まさに澤木耕太郎の深夜特急の世界だった。
赤ちゃんがギャーギャー泣くし、横の子供は私の服の上にヨダレや飲み物をこぼすし、真横でオシメを取り
替えるためウンチの臭いがプーンとしたりと凄かった。
夜になったら、足元で座りながら子供がウトウトしているので可哀想になって俺のスペースに座らせてあげ
た。
その後は開けっ放しの電車の入口の階段の所で壁に寄りかかり半分顔を外に出して景色を見ていた。
オルロとウユニの間に、沼のような水溜まりが何個所かあり、そこではピンク色をしたフラミンゴの群れ見る
ことができ感動的であった。
標高3500mから徐々に標高がさがって行くにつれて景色が変った。
ディズニーランドのビックサンダーマウンテンのような岩山の間を列車は下っていく。
途中何個かトンネルがあり、車内が真っ暗になる。

段々と緑が増えてきて、最後の見所はサボテンの咲き乱れる谷間。
赤茶けた大地に緑のサボテンの先端には白い大きなサボテンの花。
こんな列車の旅を楽しみながら、21時間後アルゼンチンの国境の町であるビジャソンに着いた。
ビジャソンは期待外れの町だった。特に何か印象に残るような感じではなく、ただアルゼンチンへ出入りす
る人達が素通りするさびれた町だった。
ビジャソンから今度は今回の目的地タリハへとバスで向かった。
断崖絶壁の山の中、舗装もされていない道を行く。
車一台ようやく通れる道のため窓の外を覗くと遥か下の谷底まで見えて足元がすーっとする。
8時間この恐怖のバスにのってタリハの町に着いた。
大晦日の晩、除夜の鐘のように一つ二つと数えながら宿の窓から90連発の花火を2本あげて年越しをし
た。しかし今年のボリビアでの年越しは大雨であった。

タリハの町は良い所だった。今までボリビアの中ではコチャバンバが一番だと思っていたがタリハはスペイ
ンの文化とボリビアの自然がうまく融合していた心落ち着く町だった。
人種も混血のないスペイン系の白人が多く、ヨーロッパにいるようだった。 

今回の旅は腹の調子が悪くて年がら年中トイレを気にしていた。
幸い列車の中にトイレがあったから良かった。
あとは青空の下、草むらに隠れて野XXを何度した事か。

1998年 年末


この旅行の後、病院に検査に行った結果アメーバ赤痢に感染していた事がわかりました。


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