私のボリビアでの仕事について



青年海外協力隊について

・青年海外協力隊までの道のり
私は、青年海外協力隊のメンバーとして1997年12月にボリビアにやってきました。
青年海外協力隊の活動期間は2年間で、多種多様な分野から参加する事ができます。
私の職種は、「電話交換機」という仕事です。

協力隊の募集は、職種別に募集要項というのがあります。 
私の受験した電話交換機という職種は、ボリビアの他に、アフリカのマラウィーとモンゴルがありました。
応募の際の願書に、希望順位を明記する欄があり、第一希望 ボリビア、第二希望 マラウィー、第三希望 モンゴル
の順で書きました。 何故ボリビアだったかというと、南米は行ったことがなくて未知の世界でしたしアンデスやアマゾン
などの大自然が魅力的だったからです。 それとスペイン語ができるようになれば、将来的に旅行の範囲が広がるという
思いもありました。

学生時代途上国に目覚めてしまった私は、社会人になってもなんとか途上国と関わっていきたいと思い、それを現実にする
ために、たどり着いた選択は協力隊への参加でした。
協力隊には、現職参加制度というのがあり、多くの企業でボランティア休暇を利用することにより休職という形で参加する事
を認めています。  大部分の人が仕事を辞めて参加しますが、私はこの現職制度を利用して参加しました。

それでは、協力隊合格までの道のりを簡単に説明することにします。
まず一次試験は、語学(英語と疑似言語という訳のわからない言葉を例文などを参考に規則性を見つけて分析するテスト)
と適正試験、職種別の技術テストがあります。 

一次試験に合格すると、約二ヵ月後二次試験があり二次試験では、志望動機などの人物面接と専門分野の知識、経験を
問う技術面接を行います。 また、あらかじめ指定された項目に関して健康診断を受診し、その結果を提出します。

2次試験に合格後、自分の都合に応じて 1次隊(夏)、2次隊(冬)、3次隊(春)の3隊次の中から出発時期を選択する事
ができます。 私の場合は仕事の関係があり、2月に合格して9月から80日間研修を受けて12月に出発となりました。

協力隊の研修は、8割が語学の特訓という感じです。 全寮制の研修所に入り、1日6時間近い語学のレッスンと、その他
2時間ぐらい一般教養のような講義があります。
最後に語学や一般教養などの総合試験が行われ、それに合格すると晴れて協力隊候補生から、正隊員として認められ
皇族へご挨拶をして出発となる訳です。
(私達の時は、皇太子夫婦でした。皇太子殿下と一言二言会話を交わし、政子さんを目の前で見て感動しました。)


・ ボリビアでのボランティア活動について

ボリビアに到着後、5週間現地の語学学校で更にスペイン語の特訓が行われます。
それを終えると、各自がそれぞれの任地へバラバラに派遣され、いよいよボランティア活動がスタートします。

私の派遣された組織は、コチャバンバという都市の電話会社でした。
まず、最初にびっくりしたのがボリビアに来る前まで自分の抱いていたイメージとは全くかけ離れた世界がそこにあった事
です。 何と、20階建のガラス張りのインテリジェントビルが私のこれから働く会社だったのです。
ビルの一階には、洒落たレストラン、喫茶店、ブティック、美容院などが入っていて、ここはボリビアか?っと疑う程でした。
職場に行くと、みんなビシっとネクタイにスーツ姿、しかも机の上には各自一台パソコンの最新モデルが乗っていたのです。

私の場合は通信という仕事上、協力隊の中では特例だとは思いますが、協力隊の仕事というよりは外国の企業に転勤して
日本と変らぬサラリーマンをやっているような感じです。

最初に配属された部署は、企画部の設備投資計画を行っているところでした。
簡単に言えば、都市の人口の伸びなどから将来の需要を予測をして、これだけ投資したら、将来的にこれだけ儲かりますよ、
っといった企画書を作って、経営者を説得する仕事。
正直言って、日本でこんな仕事したことはなかったので、全くの素人でした。 勉強が仕事だったといった感じでした。

次にやった仕事は、同じ企画部の技術開発担当というところで、新規事業参入の企画でした。
これも仕事を簡単に言えば、携帯電話サービスを始めようとか、ケーブルテレビサービスを始めようとかいった企画です。
もう私がボリビアに行ったころは、その会社でもインターネットプロバイダーサービスが行われていてびっくりしました。
主に私は携帯電話サービスについての調査が仕事で、一時期PHSを導入したいが、採算の見込みはあるか?との調査
と分析を受けたのですが、儲かる見込みなしということで却下になりました。
結局、PHSはやめて携帯電話のみでサービスすることになり、今年中にはサービスが開始されます。
しかし携帯電話は、ボリビアでは既に2社サービスを提供していて値段も安く、今や日本のように大学生や高校生までもが
携帯を持っている現状です。 既にインターネットはあるし、ケーブルテレビまで年内にサービスを開始します。
ボリビアと言えども、通信の進歩はホントに早いと感じます。

そして最後に依頼された仕事が、社内システムの研究開発。 一例は電話料金の明細システムなどの開発。
交換機から、どこに、いつ、何時に、何分間、電話したかなどの履歴を遠隔かつリアルタイムに見れるシステムの開発。
私は、ソフトフェアの開発も通信プロトコルもずぶの素人だったので、この仕事は全く手がでませんでした。
日本のシステムの紹介だけやって、後はこちらも勉強のみで終りました。

私の仕事は主にパソコンに向って企画書を書いて出来上がったら、管理者にプレゼンテーションをするといったような仕事を
していました。
日本での社会人経験や専門性が役立ったかいうと、最初の募集要項の説明はいったい何だったのだろうか?と首をかしげ
てしまう程、全く関係ない仕事をやっています。逆に言えば、最初の募集要項通りの仕事だったという人の方が少ないのかも
しれません。 

帰国3ヵ月前に、電話会社から経営コンサルタント会社に活動先を替えて、今は日本のQC活動(業務改善)をボリビアに広め
るために経済隊員の手伝いをやっています。

私の今までの活動から感じたことは、ボリビアでは仕事とは決して与えられるものではなく、自分で仕事を見つけ出し自分の
居場所を自ら作る事が、とても大切だということです。 大学を出ても仕事がなくタクシーの運転手をしている人が多い中、企業で
生き残っていくには自分だけができる仕事を見つけ、存在価値をアピールすることが必要なのです。
自分の仕事が他の人にもできてしまうとまずい訳で、日本のように仕事をマニュアル化して誰にでもできるように単純化する事は、
敬遠されます。 
自分がいかに難しい仕事をしているかを表現するために、仕事をどんどん複雑なものへと変えていきます。
難しい仕事をいかに単純化し、誰にでも簡単にできるようにするのが大切といった日本的な改善思想が定着するには、やはり
もっともっとボリビアの雇用状況が良くならなれば難しいのだと思います。
現在のこういったボリビアの状況が、発展を妨げ、更なる雇用を生み出せず、悪循環しているのだと感じています。

写真 :会社の管理者に対してプレゼンテーションをしている様子。
                                        (2時間の発表、1時間の質疑応答でなかなか疲れました。) 

私の協力隊での活動は元々エリートである優秀な人々を更に優秀にするといった感じの仕事であり、協力隊としてこれで良いのか
という疑問がずっとありました。
優秀な人材が更に優秀になって金持ちが更なる金持ちになれば、いつの日か貧しい人にもその恩恵がめぐってくるのだろうか?
一人の貧しい人に手を貸したところで、この国が変らないのも分かってはいますが、自分としては、目の前にいる貧しい人々のため
に少しでも直接的な力になりたいとやっぱり思ってしまいます。

なかなか 国際協力ってのは難しいですね。

1999年9月 


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