ウユニ塩湖→ラグーナベルデ(チリ国境)をめぐる旅

 
ウユニ塩湖にて リャマの親子
今回の旅の見所写真集(Photograph)
ウユニ塩湖 ( Lake of Salt)
アンデス山脈と湖 (Andes and Lakes)
フラミンゴ (Flamingos)
アンデスの動物達 (Animales)
その他もろもろ (Others)




コチャバンバから夜行バスに乗って標高4500mの町、ポトシに向った。 
通常12時間の道のりであるが途中の山道でビールを輸送していたトラックが急な曲がり道で転倒していたため、
その先が通行不能となっていた。

バスがようやく一台通れる細い一本道であるため、バックすることもできずに立ち往生した。
この道は、ポトシ意外にスクレ、タリハなどの主要都市に抜けるための重要な道であるためバスやトラックが閉ざされ
た道の前に長い列を作っていた。

季節は真冬、標高4000m以上、しかも一番冷え込む真夜中に山の上で孤立してしまったのだ。 
バスには暖房なんてものはない。  車内のガラス、廊下が凍りつく寒さである。
大部分の客は持参した毛布に包まりじっとして寝ていた。 外に出て、枯れた草むらに火をつけて暖をとるものもいた。 
私は寝袋にくるまり寝ていた。

明け方夜明けとともに、バスの乗客で力を合わせて何とかしようということになった。
こういうところは、ボリビアってすごいなと感心する。 
誰ともなくリーダーシップをとる人物が現われ、倒れたトラックの上に立ち、みんなに指示を与える。
トラックの荷台からビール瓶やケースを運び出すことになった。

アメリカ映画に出てくるような長いトラックの荷台には500ケースは優に超えたビールが積まれていた。
ケースから瓶を一本一本取り出す気の遠くなるような作業であったが、アリが力を合わせて城を築きあげるかのように
2時間ほどで荷台からビール瓶は全て取り出された。

その後、トラックの後ろにけん引されていた長い荷台の部分をみんなで一斉に力を合わせて押しのけた。
トラックの車体の部分は半分は崖に落ちていたので、これでバスがぎりぎり通れるスペースができた。
試しに一台バスが慎重に通過すると、みんなが一斉に歓声をあげ、手をたたきあった。

こんな、ハプニングから今回の旅は始まった。 

結局ポトシの町には予定よりも5時間遅れての到着となった。 

ポトシの旅行代理店でウユニに行くツアーを探したが、6人集まらないと出発しないということだった。
ツアー会社の人に、ウユニに直接行ってメンバーを探した方が早く集まると言われ、さらにバスを乗り継ぎウユニに向った。
5時間の道のりを経てウユニに着いたのはコチャバンバを出てから24時間以上も後の事であった。 

自分の持っていた情報では、ウユニにはツアー会社があまりないためポトシで申し込まないとウユニ塩湖には行けないと
いう話だったが、実際ウユニの町に着くと20件近いツアー会社が客の争奪戦をしていた。

観光客通りと思われる町のメイン通りはキレイに整備され、洒落たレストラン、ビザ屋、ホテルなどが集まっていた。
どこのレストランも繁盛していて、店の中は白人の観光客で賑わっていた。

ウユニ塩湖のツアーは、大きく別けて2つあった。 1つは日帰りツアー。(昼食付きで30$)もうひとつは湖を巡り、チリ国境
まで行く3泊4日のツアーであった。(宿代、全食事付きで70$〜80$)

ウユニ塩湖はウユニの町から車で1時間半ほどの距離なので塩の砂漠を見たいだけみるなら、日帰りツアーで十分であろう。
私は、ラグーナベルデ(コバルトグリーンの湖)も見たかったので3泊4日のツアーに参加することにした。


二日目 (ウユニ塩湖 → サンペドロ)

ツアーは午前11時出発だった。
ツアーのメンバーは、フランス人熟年夫婦(フランシスコとドナマリー)、オランダ人新婚夫婦(レオンとニコル)、運転手兼ガイド
(エミリー)、料理係(オリビア)、そして私という総勢7名であった。

トヨタランドクルーザーの屋根にはガソリンタンク、家庭用の大きなガスボンベ、バーナー、水の入ったタンク、食料の入ったダン
ボール、クーラーBOX、スコップ、スペアータイヤなどが積まれ、ツアーというよりはラリーに参加する車のようであった。

車は砂埃をあげて、広大な乾燥地帯を走った。 
舗装などされてなく、かなり激しいダートコースである。
1時間ほどすると大地はだんだんと白く変化していった。
やがて道は滑らかになり水平線の彼方まで、真っ白い塩の砂漠が続いた。
世界最大のウユニ塩湖である。 

アンデス山脈自体、遠い昔、大陸と大陸が衝突して突起したと言われているが、その際浮かびあがっ
た海の部分が長い年月をかけて干上がり、それが塩になったと考えると、その説は納得できる。
その規模は、120km X 100km、20億トンという真っ白い塩の砂漠が続く。
360度地平線まで続く白い平坦なその景色は、昔、植村直巳の映画にあった南極物語の景色とだぶ
るものがあった。

車は、ウユニ塩湖の真ん中にある、塩のホテルと呼ばれる場所へ着いた。
ここは、観光の見所とあって、続々と4WDが集まってきた。 
何故かその全てがトヨタランクルであった。

その後、また永遠に続く塩の砂漠を進み、イスラ・デ・ペス(魚の島)に着いた。 
この島は遠くから見ると魚の形に見えるために、そう言われているらしい。

昼食となった。 
調理係のオリビアが、ナイフ一本でキュウリ、トマト、ハムなどを切り簡単なサンドウィッチを作ってくれた。
青空の下、水平線まで続く真っ白い景色をみながらの爽やかなランチだった。

昼食後1時間ほど車で進むと、やがて塩の砂漠はなくなり、今度は乾燥地帯独特の大粒の砂漠へと
変化した。 

夕方5時頃、サンペドロという小さな村に着いた。
あどべ作り(土を固めて作ったレンガを積み上げた家)でできた一軒の民家で一部屋を借り、それがこの
日の宿となった。

小さな部屋にみんなで相部屋となり、雑魚寝といった感じだった。
そんな訳で、ツアーのメンバーとは24時間共同生活となった。 

一つのテーブルでみんなで夕食をとった。
フランス人の主人は母国語の他に英語、スペイン語が話せ、その奥さんはフランス語のみ、オランダ人の
新婚夫婦は母国語の他ドイツ語、英語、フランス語が話せた。

英語で会話するとフランス人の奥さんが話題に入れず、フランス語だと私がさっぱり分からない。
スペイン語が分かるのは、フランス人の主人と私だけなのでボリビア人と話す時に時々使う程度だった。

そんな訳で、会話は英語になったりフランス語になったり、スペイン語になったりした。
私はひとり言で、誰にも分かってもらえない日本語をつぶやいたりした。
日本語とは何と孤立した民族の言葉なのであろう・・・・・今回あらためてそう思った。

この村は、電気はモータによる家庭発電であったため夜9時には消灯となった。
相部屋なので男子も女子もなく、みんなパンツ一枚になって着替え寝袋にくるまった。
オランダ人新婚夫婦の奥さんのニコルはいきなり服を脱ぎパンツ一枚にノーブラとなって着替え始、
めたためビックリしてしまった。 こちらが目のやり場に困り、下を向いてしまう始末であった。

部屋が暗くなってから10分もしないうちに 「ゴー ゴー ガー ガー Zzzzzzzzzzz・・・・」 
部屋中に豪快なイビキが響きわたる。
フランス人のご主人のフランシスコのイビキであった。

私もイビキをかくが、先にやられてしまったようだ。 
オランダ人カップルも私もその晩は寝れず、結局朝までそのイビキを聞いていたのだった。
(ニコルのヌード姿が目に焼き付いて寝れなかったわけではないです・・・。)



3日目 (サンペドロ → ラグーナ・コロラダ)

朝7時起床、8時にはトヨタランドクルザーは宿を出発した。 車はアンデス山脈の谷間を進んでいく。 
ラパスなどのパンパと呼ばれる平原の景色とは大きく異なり、赤茶けた砂漠に大きな岩が点在するような
景色が続いた。
 
5時間ほどのドライブの後、野ウサギが群生する大きな岩の固まりの下で車を止め昼食となった。

前日と変らず、トマト、キュウリ、チーズをパンにはさんだサンドウィッチという食事だった。
岩の周りを見渡すと、ピーターラビットのような色をしたウサギを何匹か発見できた。
キュウリの皮を、投げるとウサギはそれを手に取り、ボリボリの食べ始めた。
このウサギはシッポが長かった。 ウサギってシッポは長かったかなぁ???などと考えながらしばらく
その行動を観察していた。

昼食後、また茶褐色の乾燥地帯を進んだ。
途中、湖が広がった。湖といっても乾季であるため水があまりなく干上がった沼といった感じだったが、そこ
にはピンク色をしたフラミンゴの姿があった。
最初の湖ではフラミンゴは50羽程度遠目にしか見れなかったが、次の湖では数百羽という数のフラミンゴを
間近に見ることができた。
湖の向こうには、雪をかぶったアンデス山脈が続き、何ともその景色は美しかった。

この日も、7時間ほど移動して、オレンジ色の湖で有名なラグーナ・コロラダの湖畔にある小さな家の一
部屋を借りて寝ることになった。
この村は電気はなく、ロウソクの灯りの中で夕食をとった。
ツアーのメンバーは、すっかり仲良くなっていてテーブルを囲んで会話がはずんだ。

とにかくこの日の夜は寒かった。 標高が4000m〜5000mあるためらしい。
寝る前に、外で立ちションをした。 女性陣は、宿から数十メートル離れた湖畔にポツンとある壁だけで
覆われた真っ暗な便所で用をたしていた。こんな時、男は本当に得である。

夜空を見上げると、そこには天然のプラネタリュームがあった。
天の川がくっきり見えた。天の川を英語で何ていうのか知らなかったので、直訳して「スター・リバーが奇麗
に見えるねー」とオランダ人の奥さんのニコルに言うと、私の粗末な英語は通じなかったらしく「はっ????」
という顔をさたが、星の河の軌跡を指でなぞると 「あー ミルキーウェイの事言ってるのねー」とニコルは言った。
なんだ、ミルキーウェイってそういう意味だったのかと今更分かり、自分の無知さが少々恥ずかしかった。

この夜もサンフランシスコのイビキが豪快に部屋に響き渡ったのは言うまでもない。



4日目 (ラグーナコロラダ→ ラグーナベルデ → ロタ )

5時30分起床。 
またまた 良く眠れなかった。 オランダ人夫婦も同様で、朝、「寝れた?」と聞くのが最初の挨拶
となった。 お互いフランシスコのイビキの話題などは出さないが、暗黙の了解であった。

この日はかなり移動しなければならないらしく、夜明け前に宿を出発した。

途中、火山の活動地帯があり、ものすごい勢いの蒸気があがっていた。 
車を止めると、湯気が一面にたちこめ、その湯気のもとを覗くと大地がブクブクとうなっていた。

その一番大きな穴を覗こうとしたとき、ガイドに足を滑らさぬよう気を付けるように言われた。
数日前に欧米人が二人、足を滑らせて穴に落ち亡くなっているのだそうだ。
そう言われると確かに、穴の周りは蒸気のためベタベタとした粘土質で滑りやすそうだった。

それから一時間ぐらい車で進むと、小さな湖の入り江から湯気があがっていた。
それは温泉であった。
3日間シャワーすら浴びていなかった私は、息が白くなるほど冷え込んだ空気の中、シャツ、ズボン
を脱ぎパンツ一枚となり温泉の中に足を運んだ。

足先が冷え切っていたため、最初に入れた足は熱いと感じたが、慣れると40度ぐらいの心地よい温度
だった。 オランダ人夫婦のレオンとニコルも温泉の中に入った。
ニコルは白い下着姿のまま、何の恥じらいもなく入っていた。 欧米人はホントに大胆である。
湖の表面は完全に凍っていて、そんな寒さの中で入る温泉は最高であった。

温泉から上がり着替えると、頭の上からポカポカと蒸気があがった。 
周りは寒いのだが体の芯はあったかい、あの懐かしい湯上がりの感覚だった。

その後、湖にアヒルのような鳥が群生していたので、それをみるために湖畔へと歩いた。
厚く氷が張っていたため、その上を慎重に一歩ずつ確認しながら歩いてみた。
少しきしむが、丈夫な氷であった。

そこへフランス人の夫婦がやってきた。 氷の上に乗れた事を自慢しようと再度、私は氷の上に右足を
乗せ、左足を放し体重をかけた瞬間・・・・「ズトーン」・・・・
私は湖の中に落っこちてしまった。

不幸中の幸いでさほど深くなかったのだが、あれが深かったら私は今頃どうなっていたことやら・・・・。
その後凍りつくかのように足先が冷えて、湯上がりの心地よい気分が一気にふっとんでしまった。

昼前に、チリ国境のラグーナ・ベルデに到着した。 
ベルデとはスペイン語で「緑色」の事であり、この湖はエメラルドグリーンに輝くことで有名なのだが、
その日は湖はエメラルドグリーンには変化しなかった。
あまりの寒さに、湖の表面が凍っていたためである。 
湖の表面が風で波打った時に奇麗なエメラルドグリーンに輝くのだそうだ。

チリ国境で、オランダ人夫婦と別れる事となった。 
彼らはそのまま国境を越え、チリにぬける計画であった。
たった数日間であったが、朝昼晩と食事も寝起きも伴にしたので何だが別れが妙に寂しかった。

その後5時間ほど移動し、夕方、 ロタという村に着いた。 
この村の周辺では何百匹という数のリャマやアルパカ(アンデス特有の動物、)の放牧が見れた。
アンデス山脈のふもとに広がる平野でみたその壮大な景色は、サハラ砂漠で見たラクダを放牧する
ノマド(遊牧民)の姿を思い出させた。 

この日の晩は、オランダ人の夫婦が減ったため、家族の一員が抜けてしまったようであった。
それでも夕飯時は、会話が盛り上がった。 
今まで行ったことのある国の話で、お互い熱くなって話した。

2日間丸々寝れなかったこともあり、その晩は、寝袋に入るなり睡魔が襲ってきた。
3日目にして、ようやくフランシスコより先に寝付くことができた。
次の日の朝、今度はフランシスコが寝不足だったようだ。 (私のイビキもひどかったのだろうか?)


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5日目 (ロタ→ウユニ)

いよいよ 最後の日となった。 ウユニの町に午後3時ごろに到着した。
レストランに入り、フランス人夫婦とコーヒーを飲みながら住所の交換をした。

このツアーは、言わば集団合宿のような感じだったので、同行するメンバーによって楽しさが
大きく変ると思うが、今回私はとても良い仲間に恵まれた。

最後の晩にフランス人のご主人との会話の中で、日本の映画(黒沢作品、北野たけし作品)や
日本の文学(川端康成、三島由紀夫)の話題が出され、私より色んな事を知っていることに驚ろかされた。

逆にフランス・ワインの話などで、彼らが知らない事を私が細かく知っていたことに驚ろかれた。

当たり前の事だが、フランス人は毎日、日本でイメージされるフランス料理を食べているわけでなく、
良いワインを飲んでいるわけでもなく、日本人だからといって日本映画に詳しい訳でもない。
お互い、他国の事に興味がある反面、自国の事は案外知らないものだと笑ってしまった。

今回の旅は、自然との触れ合いばかりでなく、人との触れ合いがある良い旅だった。

1999年8月



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