一人暮らし

勤務地であるコチャバンバの町に来て約3ヶ月間、ボリビアの家族にホームステーをした。
場所はMUYURINAという高級住宅街の大きな家の一部屋だった。約6畳ほどの部屋にセミダ
ブルのベットがある部屋であった。ボリビアの大きな家には、たいていお手伝いさんがいてこの
家も例外ではなく、お手伝いさんがいた。お手伝いさんはチョリータと呼ばれるアンデスの民族
衣装を着て腰のあたりまで髪の毛を伸ばし三つ編みをし、スペイン文化の影響よりもインディオ
の文化を重んじている人々である。しかし経済的には貧しいため、裕福な白人階級の下で日
本の時代劇ドラマに出てくるでっち奉公のように働いている。
私のいた3ヶ月間で3人のお手伝いさんが変わった。これは、仕事がきつすぎるためと、どのお
手伝いさんも若いためであると思われる。
年齢的には15歳前後、学校には行っていない。
朝、暗い時間から家の外の掃き掃除、庭の掃除、朝食の準備をして、家族が起きる頃に家族
の部屋に食事を運び、夜は家族が寝るまで一日中、本当に良く働く。いや、働かされるといっ
た表現の方が適切であろう。
生まれ育った環境によって明らかに身分のような物が存在する。これは一つの途上国の特徴
なのであろう。途上国とは全てが貧しい訳ではなく、貧しさと豊さが共存し、その差がいちじる
しい状態の国を言うのであると感じる。
 約3ヶ月過ごしたホームステーを出て、その後一人暮らしをする事にした。その理由としては
独立した生活をしたかった事と、ホームステー先での生活はお手伝いさんが何でもしてくれる
ので協力隊員としては少々快適すぎる環境であるように感じていたためであった。

 現在いるコチャバンバの町には、物件がないのか先輩隊員は同じアパートの1階から3階ま
で全室日本人という環境で生活している。
私の時はそのアパートに空き室がなかった事と、できれば、そのような環境は避けたいという
事から、新しい物件を探すことにした。
新聞の広告を見ては電話をして、部屋を見に行くという事を繰り返した。そのような事を繰り返
すにつれてボリビアで一番重要なのは大家さんであると感じた。
昔の日本のように大家さんとの付合いというのが、その後とても大切であり、また、トラブルも
沢山あるからである。
結局、会社から徒歩5分程度の大家さんの家と同じ敷地の離れにある小さな平屋の一軒家に
住む事にした。リビング、寝室、キッチンにバスルームという1LDKという間取りである。
引越し当初、生活用具がないため日本から持参したキャンプ時に使う携帯食器で料理をして
寝袋で寝るという生活をしていた。
料理と言っても一人暮らしの経験がなかった自分が作れるものといったら、インスタントラーメン
、スパゲッティー、野菜炒め、チャーハン程度しかなく、一日5食もの食事をしていたホームス
テー先での生活と比べて、かなり食生活は質素になった。いや、かなり食生活が不健康にな
ったと言った方が良いかもしれない。朝食はとらず、昼はレストランに行ったり行かなかったり
で、通常はサルテーニャという日本の肉まんのような物を2個買って家で食べるだけで、更に
夕食は具なしのインスタントラーメンのみという生活になってしまった。
健康はよく食生活からだとは言うがやはり本当であった。一人暮らし一ヶ月目にして、二日間
程、5分に一度はトイレに駆け込むという下痢になった。汚い話だが、この時は出る物は一日
数リットルに及ぶ水であった。米のとぎ汁のように白かったので、コレラかとも思うぐらいひどか
った。約5日間、何も食べれずベットとトイレを往復し、水分の補給という事を繰り返した。

 下痢が治って元気になった後、2週間ぐらいすると今度は風邪をひいてしまった。日本では風
邪などは何年かに一度しかひいた事はなかったのだが、やはり体力が落ちていたためであろ
うか、過去最高の39.7度という高熱が出てしまい、その後2日間は38度後半の熱にうなさ
れ、4日目にしてようやく37度代まで熱が下がってから病院に行けた。
日ごろから料理が苦手な自分が病気になどなると何も作れる訳がなかった。
この間の数日間は水と日本から持参した風邪薬で暮らした。それが一ヶ月間に二度もあると、
ズボンのベルトはゆるゆるになり、7キロ程のダイエットに成功していたのであった。


ボリビア人から見る日本人

ボリビアの町を歩いていると、すれ違う人、バスの中、タクシーの運転手、子供などから、良く
「Chino(チノ)」と呼ばれる。
Chinoとは中国人の事で、彼らにとっては東洋人(黄色人)はみんな中国人に見えるようだ。
しかしながら、このChinoという言葉は差別的な言葉に使われているようで腹が立つ。
おそらく日本人が、白人の事を「外人」と言ったり、アジア系の顔の黒い人を「フィリピーナ」とい
ったり、アラブ系の人を「イラン人」と言っているのと同じ事なのであろう。
ある時、レストランにとても可愛いい4歳ぐらいの子供がお母さんと来ていて、人形のようだなと
思ってみていると、私と目が合った時、その子に、「Chino cochino!」(汚い中国人)と言わ
れてショックを受けた事があった。
私は、差別的にchinoと呼ばれた場合によく 「No Chino.Japones.Te mato!」
(中国人ではない。日本人だ。お前ぶっ殺すぞ!)という台詞を言い返す。
しかし、ボリビア人が持つ日本に対するイメージはとても良い。
みんな日本にはとても興味を示す。自分が日本人というだけで、日本におけるアメリカやヨーロ
ッパ人のように、もてはやされる事が多い。

日本の車、電気製品など多くの物がボリビアにも存在するおかげで日本という国を知らない人
はいない。
日本は、国、技術、経済など全体としての知名度は高いが、一個人として世界で知られるよう
な人は残念ながらいないと感じる。
今、強いてボリビアで一番有名な日本人をあげるとすれば、フランス・ワールドカップで活躍し
た中田選手であろう。


ボリビア人が日本を見て感じた事

先日、日本に3ヶ月ほど行ったことのある人と話したことがあった。
日ごろ日本人にとっては何とも感じない事が、彼の目にはとても興味深かったらしく、熱く私に
話してくれた。

(1)秩序を持った国、日本

大きな交差点などで、たくさん人が歩いていて、信号が赤になると一斉に人々が立ち止まり、
青になると一斉に歩く姿、朝の通勤ラッシュ時の駅構内などにおける右側通行、整列乗車、誰
もがルールを守るその姿に感心したのそうだ。それはとても良い習慣であり、日本社会におけ
る秩序は尊敬する点であると言っていた。

(2)犯罪に対する感覚

コンビニエンスストアーの前の、誰もいないのにエンジンのかかった車、彼は泥棒の経験はな
いが、あれを見ると盗みたくなると言っていた。
店の前の傘入れに入った傘も、よく誰も盗まないと感心していた。
彼との話の中で私が腹をかかえて笑った話は、デパートに行った時の話だった。
デパートのトイレに入ると洗面台の上にカバンや買ったばかりの電化製品がのっていたのだそ
うだ。周りを見渡すと自分以外には誰もいない。
ボリビアだったら間違いなく、あっという間に消えているだろうと考えていると、トイレの中から
「ウー、ウー」という奇声が聞こえてきて、びっくりしたそうだ。
この話を聞いて、確かに日本のトイレでは良くある光景だとうなずかされた。
この自分の荷物などを手放しておいても何とも思わない日本人の感覚にはびっくりするそうで
ある。

(3)コミュニケーション

町の中を歩いていてすれ違いざまに、時間や道を聞いたりすると日本人の多くはワッと脅され
たかのようにびっくりした表情をするのだそうだ。
また、町を歩いている人々は目の周りに囲いをされたかのように、ひたすら歩いているように見
えるらしい。
例えばボリビアでの朝の出勤の時、町を歩いていると、すれちがう人は目が合えばBuenos 
dias(おはよう)と挨拶してくる。
さて何処であった人かと考えるが知らない人であることが多い。
バスにのったり、トルフィーと呼ばれる小さなバスにのる時も、周りの乗客に挨拶をしてから席
に座ったりする。
町の通りで知人に会えば、まず握手をしてComo estas?(調子はどう?)と会話が始まる。
確かに日本にはこういう雰囲気はなく時間に追われるように目的地に向かう。
知らない人に話しかけらけると、キャッチセールスか宗教の勧誘かと思ってしまう。
日本は挨拶のない世界だと感じるらしい。
あっても形式的な感じでコミュニケーションをとっているようには見えないそうだ。
挨拶とは、話を始めるきっかけなのだと途上国に来る度に思う。
「おはよう。調子はどう?何か良い事はあった?」
ボリビアでは、会うと挨拶がこのように始まり、会話がここから始まる。

最後に彼は、日本での日々はとても楽しかったが、日本に住みたいとは思わなかったと言って
いた。
私は日本に戻ってから、ボリビアと同じようにしようとは思わないが、今養っているコミュニケーションのスピリットは失いたくないと思うのであった。


ボリビアの子供

何度も述べている気がするが、ボリビアだけでなく途上国とは全ての人が貧しい訳ではない。
貧富の差が激しいことが、一つの共通した特徴であるように思える。
見ていて一番辛いのは子供である。
オシャレな喫茶店に家族で来てパフェやアイスクリームを食べている子供が存在し、その店の
外で店に入る人々に手を出してお金を求めてくる子供達が存在する。
物乞いをしている子供に生気を感じる事はないが、同じ貧しい中でも色々食べる手段を生み出
している子供達には感心する。

例えば、交差点で車が止まったら勝手に窓を奇麗に拭いてお金を求める子供達。
店の前に止まっている車を勝手にピカピカに磨いて待っている子供達。
バスに乗っていると、ギター片手に乗り込んで来て歌を歌って乗客にチップを求める子供達。
タバコやお菓子を日本における野球場の弁当売りのように売り歩き、レストランを巡回する子
供達。
「おまえの靴は汚いから磨いた方が良い」と言ってくる靴磨きの子供達。
彼らには、貧しさというよりもむしろ力強いエネルギーのような物を感じる。
私が関心する事はいくら貧しくてもボリビアにおいては、物取りの子供が少ないことである。
私の目に映る子供達の姿は、自ら仕事を生み出し正当な手段で一生懸命に生きているたくま
しい姿であり、仕事というものの原点、1Bs(25円)という一枚の硬貨の価値を学ばされる。


ボリビアの車

ボリビアの車の80%は日本車である。日本では買い手の付かなくなった車を輸入して売って
いる。
右ハンドルの車を無理矢理、左ハンドルに改造してある。
ワゴンの営業車などは、日本語が書かれたまま走っている。
見ていて面白いのは、マイクロバスである。
バスの横には「割烹料理xx」、「温泉旅館xx」、「xx幼稚園」、「xx高校サッカー部」などと日本
語でかかれたままボリビアの町を走っているのである。
「ゆったり露天風呂、取れたての海の幸」などと書かれてあるバスなど見ると、そのままバスに
乗って本当に行けたらと妄想していまう。
最も驚いたのは日本で自分が働いていた会社のワゴン車がそのままの社名とマークを残し、
私のいるコチャバンバの町を走っていることであった。
他の都市で同じように走っているを何度が見た事もある。
日本においては少なくとも通信会社のレッテルをつけた取り扱いに気をつける必要のある車で
あったはずだが、ボリビアではタクシーとして使われていたりする。


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