◆戦 果◆

   撃 沈  大 破  中 破      戦艦アリゾナ 完全喪失  戦隊司令官、艦長戦死
 戦艦    4    1    3     戦艦ウエストバージニア 擱座  艦長戦死
巡洋艦      2    2     戦艦オクラホマ 転覆
駆逐艦      3       戦艦カリフォルニア 擱座
その他    2    1       標的艦ユタ 転覆完全喪失
合 計    6    7    5     機雷施設艦オグララ 繋留移動後沈没

航空機  188機 真珠湾攻撃調査委員報告の完全喪失機数
   231機 「真珠湾攻撃記録」米国上下両院合同調査委員会
戦死、行方不明 2402名 含 一般市民68名
戦傷 2382名  

 軍事施設以外を攻撃しないように目標を厳重に限定したため、一般市民に与えた被害は少なかった。
 航空機の被害実数は上記のように確定せず、諸説存在する。


 ◆損 害◆

    戦闘機 急降下爆撃機 水平爆撃機  雷撃機
第1次攻撃隊    3機       1機     0機    5機
第2時攻撃隊    6機      14機     0機   − 
喪失機 計   29機      
要修理機  122機      
戦死搭乗員   55名      

 特殊潜航艇5(乗員9名戦死 1名捕虜)

 ニイハウ島に不時着した飛龍戦闘機隊 搭乗員 西開地1飛曹は自決。
 また帰路を失した瑞鶴艦爆隊の1機は、「われ不時着す」と報告し行方不明となり戦死した。

 
 ◆機動部隊の第2撃問題◆

 0922(現地時間1350)ごろ、機動部隊は全攻撃隊の収容を終えた。
 各艦からの報告を総合し攻撃成果は十二分に達成したと判断したので、南雲長官は再攻撃を下令せず北上を続けた。
 機動部隊指揮官が第2撃を下令しないのに対して、赤城の搭乗員の間には
 「この好機に乗じて再度攻撃しべし」との意見があったが、強く司令部に意見具申した者はなかった。
 山口第2航空戦隊司令官は、「第2撃準備完了」と信号しそれとなく催促したが、
 「南雲さんはやらないよ…」と漏らして意見具申は行わなかった。
 次席指揮官たる三川第3戦隊司令官だけは、更に攻撃を加えるべきであると意見具申している。

 南雲機動部隊指揮官が第2撃を断念し、引揚を決意した理由は

  1 第1回空襲によってほぼ所期の目的を達成し、第2回攻撃を行っても大きな戦果は期待できない。
  2 第2回攻撃が純然たる強襲となるのは確実で、戦果の割には犠牲は著しく増大する。
  3 我が艦隊の概位は米軍に推定されており、一方敵空母、潜水艦等の動静は不明である。

 さらに出撃前、母艦を損傷しないよう軍令部より強く要望されていることが南雲長官の決断に影響した とされている。

 第1航空艦隊参謀長 草鹿龍之介中将は、
 「攻撃は一太刀と定め周到なる計画のもとに手練の一撃を加えた」 のであり
 「なぜ攻撃を反復しなかったのか? 工廠や油槽を破壊しなかったのは何故か? という批判は
 兵機戦機の機敏に触れないものの戦略論であると思う」 と戦後語っている。

 
 ◆本作戦の影響◆

 山本長官が本作戦に期待していた「米国海軍及び国民の士気を喪失させる」目的は、相当の成果を収めることができた。
 キンメル大将に代わって太平洋艦隊司令長官となったニミッツ大将が真珠湾の廃墟に立ったとき、
 最も苦慮したのは、沈滞した艦隊将兵の士気を回復させることであった。
 ハワイへの不意打ちを怒り自尊心を傷つけられ憤慨した米国民は、その指導者に対しても同じように憤りを感じていたのである。

 しかしこうした士気の低下は一時的な現象に過ぎなかった。
 我が最後通告がワシントンの日本大使館の後世に残る不手際のため‘事後通告’となったことが
 思わぬ‘贈物’となってしまったのである。
 もともと「戦争はすべて正々堂々とやって、どこからも非難されない」ことを、我が政府も統帥部も特に意図していた。
 山本長官もこの戦争の実施は「最後通告手交後」の攻撃を大前提としていたである。

 米国はこの無通告の奇襲という事態を最大限利用した。
 ‘だまし討ち’の宣伝と米西戦争の故事にならった‘真珠湾を忘れるな!’のスローガンは、
 戦意の喪失どころかたちまち米国民の敵愾心をあおり、全米を対日戦に結集されてしまったのである。

 だがこれは、米国民の意思を参戦に転換させるためルーズベルト大統領がしかけた罠
 故意に日本艦隊の情報を現地に知らせなかった とする説は根強い。

 一方ハワイ作戦による大戦果と、2日後のマレー沖海戦(海軍航空隊による英2戦艦の撃沈)は、
 我が航空部隊の術力を示すとともに航空機の威力が戦艦を制し得ることを立証した。
 こうして海軍部内においても航空機についての認識が高まったが、多年にわたって培われた作戦思想が
 簡単に変わるものではなかった。
 戦艦は依然として海上の主兵である、という伝統的な思想から完全には脱却するには、まだ時間を必要としたのである。

 しかし米海軍の思考はこれとまったく対照的であった。
 彼等はハワイ作戦は海上戦闘に新時代を画したものと判断し、戦艦が海軍の主役を演じる機会は永久に過ぎ去ったと結論した。
 真珠湾の戦訓を正しく学びとったのは、この海戦で大敗した米国海軍自身であったといえよう。
 彼等はやがて航空母艦を中核とする作戦思想に転換し、これを主兵とする航空母艦を基幹とする機動部隊が
 機動奇襲作戦に適することが確認され、その後大いに活用されたのである。

 
 ◆幻の布哇上陸作戦◆

 真珠湾攻撃で意気上がる海軍は、12月中旬(13日?)ハワイ攻略作戦を陸軍に提案してきた。
 この構想の源は、山本長官による「敵戦力の回復に先だって絶えずこれを反復撃破する必要があり、
 このためには米反抗拠点布哇(ハワイ)を攻略して、その効果を確実にしなければ勝てない」、とするものであった。

 だが陸軍は、南方作戦一段落後長期持久の態勢に移り、兵力を浮かしてビルマからインド−西アジア打通を図って
 北アフリカでのドイツ・イタリアと連携することによってまず英国の脱落をめざしていたのであった。
 即ち海軍の対米との東向き短期決戦に対して、陸軍は西向き長期持久作戦であった。

 その後の情勢の変化により、西亜打通作戦など現実性がないことから、陸軍としても海軍の戦略思想に歩み寄り
 従来「進軍の限界を超えるもの」として反対してきたハワイ攻略作戦にも、陸軍は熱意を示すに至った。

 その結果、昭和17年5月23日にはハワイ上陸作戦を予期して第2、第7師団に上陸訓練を実施、
 大陸指第1159号による、第53師団を併せた3個師団をもって10月頃ハワイオアフ島を攻略する研究を行い
 6月3日から5日にかけて作戦構想を概定している。

 だが6月5日のミッドウェー海戦によってその機会は永久に失われ、陸軍はハワイ攻略のための特別訓練の無期延期を発令した。
 田中新一作戦部長の業務日誌、6月6日のところには「ハワイ断念」と書かれている。