◆比島攻略作戦◆

◆作戦の背景◆

開戦初頭企図された比島作戦は、主としてルソン島にある首都マニラと南部ダバオの占領であった。
マニラは米国の極東における根拠地であり比島の軍・政・経の中枢であった。
またミンダナオ島のダバオは、比島南部の軍・政・経の要衝であり、
両者を占領すること即ち全比島占領を意味し、戦略目的は達成できると考えられたのである。

比島攻略の大きな障害は米空軍、特にB17爆撃機が驚異であった。
航空母艦はハワイ作戦に充当していたので、基地航空部隊による航空撃滅戦を実施し制空権獲得後
マレー作戦のような奇襲ではなく、正攻法にて上陸作戦を開始することが検討された。

◆航空撃滅戦◆

12月8日早朝、南部台湾に集結した陸海航空隊約500機は比島にむけて出撃した。
一方在比島空軍は約200機、濃霧のため敵機を発見できなかった部隊もあったが
1330 クラークフィールド、イバの両基地を攻撃し撃墜炎上100機の戦果を収めた。
第1撃を以て勝敗を一挙に決してしまったのである。

以降約1週間、第11航空艦隊と第5飛行集団による掃討作戦をもって航空撃滅戦は目的を達成した。

◆比島上陸◆

先遣部隊が12月10日、12日に上陸したのち
第14軍主力は12月22日 リンガエン湾に、第16師団主力は24日ラモン湾に上陸を開始した。
マッカーサー大将は、日本軍の戦力を過大に算出し、前進を遅滞させた上で米比軍の主力は
バターン半島へ後退した。
なお、南部のダバオは12月20日に占領し、ミンダナオ島は掃討作戦にすでに入っていた。
日本軍は南北からマニラに進撃し、1月2日これを占領した。

だがこれは、日・米比の戦略の相違であった。
マニラ湾要塞に対して関心の薄い 大本営や南方軍はマニラ占領で比島作戦は残敵掃討の段階に入ったとし
部隊の一部転用 (第48師団を蘭印作戦へ、第5飛行集団を泰方面へ)を行うが、
バターン半島への退路を断たれなかった米・比軍は、ここを拠点として抵抗を示すのである。

◆バターン半島 第1次攻撃◆

前述の如く当時、軍の主眼はマニラにあり、バターン半島への認識は全くなかった。
敗退した部隊などは簡単に撃破できると考えていたのである。

第65旅団(旅団長 奈良晃中将)は抽出された第48師団に代わり追撃の任を受けた。
1月12日より攻撃準備を企図したが、敵砲兵の攻撃と猛烈なる逆襲のため死傷者が続出、膠着状態となる。
第14軍は、この戦況を打開すべく木村支隊(歩兵第20連隊基幹)を招致したが、
これもまた敵の包囲するところとなり、2月を迎えてしまった。
2月8日、軍司令部において爾後の戦争指導に関して幕僚会議が開かれた。
本間軍司令官は熟慮の末一旦攻撃を中止し、防勢に転じることに決し、大本営にその旨報告した。
反転命令による木村支隊の敵中突破を最後に第1次攻撃は中止された。

バターン半島の戦線膠着は大本営と南方軍を憂慮させた。
敵は完全に包囲下にあり、そのまま封鎖を続けていれば遠からず自滅することは確実であった。
しかし各部隊の損耗甚だしいことに加え、敵側の宣伝謀略による精神的影響は重視せざるを得なかった。

曰く、「シンガポールは落ちたがコレヒドールは健在である」 と

◆第2次攻撃◆

大本営は、十分なる準備の後兵力増強を発令し、特殊地形の訓練を実施し、第2次攻撃に備えた。
4月3日(神武天皇祭)に第2攻撃は開始された。
軍砲兵隊は、北島驥子雄中将指揮のもと0900効力準備射撃を、1000攻撃準備射撃を実施。
続いて、第1次破壊射撃と第2次破壊射撃を実施、軍航空隊の爆撃と併せて敵砲兵・敵陣地を制圧した。
この戦機を逃さず夜にはいっても攻撃を続行、敵第1陣を突破することに成功した。
その後攻撃の手をゆるめず追撃と力攻を重ね、4月9日夜第4師団と第16師団は
バターン南端のマリベレスに突入、米比軍指揮官キング少将は降伏し組織的抵抗は終わった。

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その後、捕虜約10万の移送に関していわゆる「死の行進」なる事件が起こった。(4月9日〜27日)
これは、移送手段は「徒歩」によるものが一般的な日本軍と、「車両」によるのが一般的な米軍の
認識の相違で、当時の日本では常識的な対応だったのである。また糧食の不足やマラリア等で
敵捕虜の多くが既に体力を消耗しており、このことをもって日本軍の「残虐行為」などとするのは
不当と言わざるを得ない。
この「事件」の戦後の裁判は、敗将マッカーサーの本間中将への復讐劇でもあった。

◆コレヒドール要塞攻撃◆

コレヒドール島

コレヒドール島にはスペイン統治時代より外敵を阻止するための要塞が設置されていた。
米軍は第1次大戦後、地下発電所を持ち坑道には電車の走る本格的地下要塞を建設した。
昭和17年当時やや旧式ではあったものの、沿岸砲台23、要塞守備隊13000の兵力を有していた。
また、近接するフライレ島、カバロ島、カラバオ島も沿岸砲が設置されマニラ湾の入り口を制していた。

4月14日我が砲兵隊は、占領したバターン南端よりコレヒドール要塞へ砲撃を開始した。
直ちに同要塞からも反撃が開始され、約10KMの海を挟んでの砲撃戦が連日続いた。
軍砲兵隊は、5月5日2245 第4師団の左翼隊上陸支援射撃を実施し、左翼隊は2310上陸に成功した。
5月6日早朝より米軍の反撃が行われ混戦状態となったが、同日1130ウェーンライト中将が降伏を申し出た。
会見の結果、コ要塞に限定して降伏を申し入れたので、帰還させ攻撃を続行した。
5月7日、ウェーンライト中将は改めて全米比軍の降伏を申出た。
そして2350マニラ放送を通じて全米比軍に投降命令を発し、幕僚を各地に派遣し伝達させた。

ここに比島作戦は終了した。
なお敵将マッカーサー大将は、米大統領命令により家族・政府首脳とコ要塞からオーストラリアに脱出、
後任をウェーンライト中将に託し、ミンダナオ島の飛行場よりB17でメルボルンに既に逃れていた。

◆戦果・損害◆

日米両軍の兵力の一覧及び損害は以下の通りである。

  第14軍 軍司令官 本間雅晴中将
    第16師団 師団長 森岡皐中将
    第48師団 師団長 土橋勇逸中将
    第65旅団 旅団長 奈良晃中将

    第5飛行集団 集団長 小畑英良中将

 

  極東米陸軍司令官 マッカーサー大将 のち ウェーンライト中将

    2個軍団 8個師団主力
    計 73000 (在米軍23000名 比島軍50000名)
 

 戦果 (第14軍のみ 飛行部隊・海軍を除く)
   遺棄死体   ? 確実な資料なし
   捕虜       83631
   捕獲兵器   各種砲751門 航空機12機、戦車装甲車77両

 損害
   戦死    4130
   戦傷    6808
   行方不明  287

   飛行機喪失 38機 (戦闘16、偵察10、爆撃12)


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