◆キスカ島 撤退作戦◆

 昭和18年5月20日 大本営はアッツ島増援作戦の中止を決定する。
 この決定は直ちに北方軍司令部に連絡され、秦参謀次長が札幌の北方軍司令部を訪れて説明を行った。
 だが、アッツ島守備隊の上級司令部たる北方軍はこの決定に納得しなかった。
 樋口季一郎(21)北方軍司令官は秦参謀次長に、
 「キスカ島守備隊の撤収する保証を得なければアッツ島増援中止は受け入れない」
 と断固とした態度で臨みキスカ島撤収の約束を取り付けた。

 『ケ号作戦』と呼称するキスカ島撤収作戦は、このときから始まったのである。

 5月30日 アッツ島守備隊は玉砕した。

 さらに東方/米国寄りに位置するキスカ島は、米軍の制空・制海権下にあり完全に孤立した。
 島周辺は強大なる敵艦隊に十重二十重と包囲された上に、その米艦艇にはレーダーが装備されていた。

 キスカ島撤収作戦は例えるならば、
 「小笠原に上陸した敵部隊を、米艦隊が撤収を行うようなもの」 であるとして
 奇跡でも起きぬ限り成功はおぼつかない とする意見が大本営内でも多数であった。


 ◆第1期作戦◆

 第1潜水戦隊司令官(古宇田武郎少将)が指揮する15隻の潜水艦兵力によって、撤収作戦はまず開始された。
 しかし、米艦艇による警戒が厳重になり、
 「伊24」 「伊9」 消息不明、 「伊7潜」 擱座 という被害を受け5月末、作戦を中止した。
 この間撤収した人員は、負傷兵を中心に約820名であった。


 ◆一水戦 司令官◆

 海軍の北方担当部隊は第5艦隊(河瀬四郎中将 38)であり、
 その指揮下にある第1水雷戦隊が第2期撤収作戦の中心部隊であった。
 昭和18年6月10日 脳溢血で倒れた森友一少将に替わって第1水雷戦隊司令官に任命されたのは
 木村昌福少将(41)である。
 木村司令官は、1)気象士官の配属 2)新鋭駆逐艦の手配 3)その中にレーダー装備の高速駆逐艦の配備
 以上の要望を申し出て、直ちに1水戦の指揮下に加えられた。


 ◆第2期−第1次作戦◆

 7月の濃霧に紛れて水上艦艇による一挙撤収… これこそが唯一成功の鍵であった。

 7月 7日 第1水雷戦隊に増強した駆逐艦と軽巡「木曾」を加えた部隊を主として千島/幌筵を出港した。
 7月10日 キスカ島南南西300浬の海面まで到着する。
        数日間気象状況・敵状などを慎重に検討するも、特に霧の状況が芳しくなかった。
 7月15日 木村司令官は突入を断念、反転して幌筵に帰投した。


 ◆第1次作戦失敗の波紋◆

 帰投後、直ちに第2次作戦の計画に着手した。これには3つの大きな制約があった。

  1  霧は7月末までは期待できるが、8月からは減少が予想された。
  2  作戦用燃料はあと1回分しかなかった。
  3  米軍上陸は霧の晴れる8月〜9月と予想された。

 これにより次の第2次作戦が最後の撤収の機会となった。

 突入を断念した水雷部隊の慎重なる行動は、大本営。聯合艦隊、それぞれが批判的であった。
 7月20日 聯合艦隊参謀副長小林謙五少将、軍令部岡田貞外茂少佐は東京から出張し、
 直接第5艦隊司令部と作戦成功について打合せをおこなった。これは「督戦」の意味を持っていた。

 上級司令部たる第5艦隊司令部も1水戦の行動には大いに不満であった。
 「なぜ突っ込まなかったか?」とする空気が司令部内に蔓延していたという。
 一方、1水戦司令部内では木村司令官の突入中止は、その状況から当然と考えていた。
 第5艦隊からの非難は全くの心外と考えており、両者の感覚の相違は拭い難いものであった。


 ◆第2期−第2次作戦◆

 第2次作戦では、河瀬長官以下、参謀長、先任参謀等を帯同して「多摩」に乗艦、直接指揮を執ることとなった。
 だが、第5艦隊の意気込みとは別に、「無理をしてはならない」というのが水雷部隊(1水戦)の多数意見であった。

軽巡 多摩/河瀬長官座乗
  阿武隈/木村司令官座乗
  木曾
駆逐艦 朝雲 薄雲
  夕雲 風雲 秋雲 響
  若葉 初霜 長波
  長波 島風 五月雨
補給艦 日本丸
海防艦 国後

 7月22日 水雷部隊は再び幌筵を出港した。
 7月26日 「阿武隈」と「国後」が衝突、その後「若葉」「初霜」「長波」も衝突するという事故が発生した。
        「国後」が分離行動中であったことと、濃霧が原因であった。
        この事故のため突入を延期し、「若葉」「国後」は反転帰港した。

 7月29日 前日夜からの濃霧が増大し、気象状況は絶好の状態となった。
        河瀬長官は突入を決意、またキスカ島の秋山司令官からも好機と認める連絡を入電した。

  0700  「多摩」は反転、支援配備についた。
  1340  「阿武隈」以下は予定を4時間繰り上げてキスカ湾に入泊。
        キスカ港外は深い霧に包まれていたが、港内は視界良好、撤収作業は順当に実施された。

  1435  陸海軍全将兵を収容して、艦隊は出港した。
        その後「阿武隈」は浮上潜水艦を発見したが間もなく潜航した。(米潜が味方艦隊と誤認した?)

 7月31日 (〜8月1日)参加各艦隊は幌筵に帰投した。

 昭和18年8月2日
  0600  第5艦隊司令長官は「8月1日を以てケ号作戦完了す」と発電した。
  1100  参謀総長と軍令部総長は列立拝謁して「ケ号作戦」の完了を上奏し、
        陛下から優渥なる御言葉を拝受した。


 ◆戦果・損害◆

 日米両軍の参加兵力一覧及び損害は以下の通り

   陸軍 北海守備隊司令官    峯木十一郎少将(28)
   海軍 第51根拠地隊司令官  秋山 勝三少将(40)

    歩兵2大隊
    工兵1中隊半
    連隊砲4門
    大隊砲2門
    高射砲8門

  計  5200名 (陸軍2400名 海軍2800名)


  チャールス・H・コーレット少将
    計 34400名 (米軍29100名 カナダ軍5300名)
      −−−−−−−−−−−−−−−−−−
   8月15日 無人のキスカ島に米軍は上陸し、各所で同士討ちを展開した。

          島内を捜索すること数日、結局米軍の見たものは、
          一部が破壊された食糧、軍需品、弾薬と、3−4匹の雑種犬に過ぎなかった。

  戦 果
     死者95名 :陸上同士討ち25名 海上機雷によって70名
     負傷78名 :陸上同士討ち31名 海上機雷によって47名

  撤収人員
   陸軍    2410名
   海軍    2773名
   計    5183名 (5219名 5187名 諸説有)


  木村1水戦司令官の冷静な指揮、各級指揮官の技量、周到なる計画、陸海軍の緊密なる協力などが
  撤収作戦成功の要因であった。 まさに「天佑」であった。
  匹夫の勇で、第1次作戦のときに突入を強行していたら果たしてどうなっていたことか。

  しかし何よりも、アッツ島の玉砕はキスカ島撤収と表裏一体の同一作戦であって、
  アッツの玉砕がキスカの撤収を助けたのである。
  即ち、アッツ守備隊の英霊がキスカ守備隊を救ったと言えるのではないだろうか。

 
◆木村昌福◆

 海兵41期、卒業時の成績は 118名中107番で、海軍大学校は卒業していない。
 41期同期には、草鹿龍之介、田中頼三、大森仙太郎、保科善四郎 などがいるが、
 彼等が少将の時にはまだ大佐であった。
 当然省庁での中央勤務などとは無縁で、海上勤務特に小型艦艇で過ごすことが多かった。

 しかし同期の誰からも好かれ、部下の信任の厚い提督であった。
 柔道5段の堂々たる体躯と、見事なヒゲがいかつい、それでいて人間的に温かく慈父であり厳父であった。
 接する人を魅了するショーフク(本名はマサトミだが、同期からはそう呼ばれた)提督は、
 同時に卓越した統率力を持つ、経験豊富なたたきあげの海軍軍人であった。

 その後「礼号作戦」などの指揮をとり、同期草鹿中将の推薦で聯合艦隊司令部附となって最終的に中将に進級した。


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