大東亜戦争開戦経緯/参考資料


   三国同盟 支那問題 駐兵と汪政権 通商その他
日米諒解案
  4月 9日
日本−軍事上の義務はドイツが
現参戦国以外の国から攻撃
された場合のみ発生 と解釈

米国−一方を援助し他方を攻撃しない

米国は次の条件で和平を勧告
・支那独立
・日支協定に基づく日本軍の撤兵
・非併合・非賠償
・蒋介石・汪兆銘両政権の合流
・満州国承認
太平洋海空兵備の制限
物資供給の提携
通商金融の提携
平和的手段による
日本の南方資源取得を支持
日本側
最終提案 甲案
 11月 2日
条約の解釈と履行は日本政府が
決定するが拡大解釈はしない

(米国が先にドイツを攻撃しない
     限り参戦しない)

北支・蒙彊の一定地域と海南島に
一定期間駐兵(概ね25年)

他地域は和平後2年以内に撤兵

通商無差別原則が
全世界的に適用されるならば
支那でも適用に合意
ハル・ノート
 11月26日
米日英支蘭ソタイ間に
不可侵条約締結

三国同盟からの脱退・空文化

支那及び仏印からの
全兵力・警察力を撤去
満州からの即時撤兵
蒋介石政権以外の否認・不支持
通商協定の協議を開始
資金凍結の撤廃

 

===== ハルノートに対する反応 =====
 
 =東條首相=
 11月26日附覚書は日本に対する最後通牒である。
 この覚書は我が国としては受諾することができない。かつ米国は日本の受諾し得ざるを知って通知して来ている。
 以上のことから米国側においては既に対日戦争の決意をしているものの如くである。
 それ故いつ米国より攻撃を受けるやも知れず、十分警戒を要する。

 =東郷外相=
 出席者の各員総て米国の強硬態度に驚いた。軍の一部の主戦論者はほっとした気持ちがあったらしいが、
 一般には落胆の色がありありと見えた。
 米国が今迄の経緯及び一致する範囲を凡て無視し、従来執った最も強硬な態度さえ越えた要求をここに持出したのは
 明かに平和的解決に到達せんとする熱意を有しないものであり、ただ日本に全面的屈服を強要するものである。
 結局長年にわたる日本の犠牲を全然無視し、極東に於ける大国の地位を捨てよと云うのである。
 これは日本の自殺と等しい

 =大本営機密戦争日誌=
 米の世界政策、対極東政策何等変化なし。現状維持世界観による世界制覇之なり
 (参謀本部第20班による業務日誌)

 =宇垣聯合艦隊参謀長=
 帝国の主張する処は一も容るる処なく、米本来の勝手なる主張に各国の希望条件さえ織込まれてあり。
 今更何の考慮や研究の必要あらん、米国をやっつける外に方法なし。
 (戦藻録 11月29日附)

 =嶋田海軍大臣=
 之では将来日本は大陸における特殊地位を失い、満州・支那においての投資開発はその根拠がなくなり、
 更に朝鮮の現状維持も困難となるだろう。之は政府も国民も到底受諾し得る条件ではない。(中略)
 或いは先方かた積極的行動に出る危険も考慮せねばならず、我が国としてはこのハル・ノートを
 実質的には最後通牒と諒解するの外なかった。

 =パールインド代表 極東軍事裁判所判事=
 真珠湾攻撃の直前に米国国務相が日本に送ったものと同じような通牒を受け取った場合、
 モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえも戈をとって起ち上がったであろう

 =オリバー・リットルトン 英国軍需大臣=
 米国が戦争に押し込まれたというのは歴史を歪曲するのも甚だしい。
 米国があまりにひどく日本を挑発したので日本軍は真珠湾で米軍を攻撃するの止む無きに至った。
 =1944年6月20日 ロンドンでの演説=

 =ロバート・クレイギー 駐日英国大使=
 ハル・ノートは日本の国民感情を全く無視したもので、あれでは日本として立たざるを得なかった。
 イギリス政府が私の意見に耳を貸さなかったのは、かえすがえすも残念だ。

 =太平洋艦隊司令長官 キンメル大将=
 1941年12月7日(米国時間)朝の攻撃は、
 コーデルハル国務長官の11月26日の対日最後通牒に対する烈火の回答であった。

===== 開戦に至る米側のうごき =====

ルーズベルト大統領は独自の考えで、11月6日ころ「6ヶ月間軍事行動を停止し、その間日支両国が和平をはかるよう提案しても良い」として、スチムソン陸軍長官の意見を求めた。スチムソン陸軍長官はフィリピンへの兵力移動は中止すべきでなくまた支那と日本とを交渉させるべきではない として反対した。 同大統領の構想は、冒頭に6ヶ月間と期限を特記していることから見ても時間稼ぎの意味が強いものであった。
スチムソン陸軍長官の日記
「我々が大きな危険にさらされる事なく、最初の発砲をするような立場に日本人をいかに追いこむか」
(how we should maneuver them into the position of firing the first shot) が米国の狙いであった。

他にも11月11日提出の国務省による暫定協会案−できるだけのことをする我々(米国)の努力を記録にとどめることをねらいとしたもので、全体を通じて米国の主張する原則からは一歩も後退せず、日本の歩みよりを求めたものや、 11月17日起草 国務省極東部による『太平洋における若干の領土と日本の艦船を交換する提案』などがあった。

ハミルトン極東部長は提案にあたり「あらゆる可能性を探求するようにとの(ハル)長官の要求に照らしてこれを進達するものであります」として、米国務省はいかにも真剣に日本との戦争回避を希望していたかのようである。
だがコーデル・ハルの回想録には、「時間を稼ぐ」ために「藁をもつかもう」としたことを物語っているかのような記述があるのである。仮にハル及び国務省当局が真に対日戦争を回避して太平洋の平和を念願していたとしても、その為に主義・原則についての自説を謙る考えはいささかもなかったことは明確であった。
開戦の詔書に「彼は毫(すこし)も交譲の精神なく」という文言は「今や自存自衛の為蹶然起って一切の障礙を破砕するの外なきなり」と共に、開戦の直接の契機を表す詔書の眼目である。

ハルは回想録で「11月26日 野村・栗栖両大使に手交した提案(ハル・ノート)は、この最後の瞬間においても、少しでも常識が東京の軍部の心に浸透するようにとの望みをもって、我々の会談を継続するための誠実なる努力であった」と記している。
だが一方で、翌11月27日 ハルはスチムソン陸軍長官に対して「自分は日本との暫定協定を取りやめた」 さらには「私はこのことから手を洗った。今や問題は貴方及びノックス海軍長官 即ち陸海軍の掌中にある」 と語っているのである。これは一体何を意味するのか?
ハル国務長官自らが今や交渉を放棄して開戦を決意したことを明かに証拠だてるものではないのか? ハル・ノートが日本に交渉を断念させるものであることは、ハル長官以下国務省全員熟知のことであった。

ルーズベルトは英国に愛着を抱くとともにソ連にも好意的な感情を終始持ち続け、他方ドイツと日本を激しく嫌悪していた。ヒトラーの脅威から英国を救うために米国が対ドイツ戦に参加できるよう、参戦に消極的であった世論・米国議会を無理やり日本との戦争に引きずり込んだ結果であった。 根底にあった米国による対日謀略を見逃してはならない。

 
ともあれ日本は、真珠湾攻撃の戦果に狂喜しながらも戦争の前途に緊張を禁じ得なかったが、米国は真珠湾の大敗(実は大敗でもなかった)を喫しながらも、戦争突入に安堵を禁じ得なかった、という奇妙な現象が見られた。これは我が国が米国(英国)の政治的狡猾さを過少評価し、世界の変乱における自らの試練の未熟さというものを物語るものであろう。



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