◆シンガポール攻略◆

 昭和17年1月31日、第5、第18、近衛の各師団の作戦参謀、軍砲兵隊長、防空隊長、渡河作業隊長
 を第25軍戦闘司令所に召集しシンガポール攻撃準備命令を下達した。

 地上総兵力は計約5万。
     歩兵27大隊(近衛歩兵3連隊を除く)
     砲兵14大隊(砲140門、速射砲・歩兵砲は含まず)
     戦車3連隊(135両)
     舟艇180隻
 航空支援は、南方軍のスマトラ作戦への転用から、第3飛行集団(菅原道大中将)の兵力は削減され
     戦闘機    60
     軽爆撃機  60
     重爆撃機  60
 であった。

 軍砲兵の準備射撃の後、2月8日深夜、各部隊はジョホール水道を渡河した。
 右翼を第18師団、中央を第5師団、左翼を近衛師団であり、近衛師団の一部は陽動作戦として
 ウビン島に上陸した。
 第18師団長牟田口中将が負傷するといった混乱もあったが、9日夕方にはテンガー飛行場を
 早くも占領し、第25軍司令部を進出させた。

 攻撃3日目の2月11日、その日までに主要陣地を次々奪取した各部隊からの状況により
 いよいよブキテマ高地に進出可能と判断した司令部は、あらかじめ準備していた「降伏勧告文」を
 飛行機から投下した。
 紀元節にシンガポールを陥落させることを目標にしており、戦況は概ね順調であったからである。

 だが、ブキテマ高地に突入するや、敵の砲火が集中第5師団第31旅団(杉浦英吉少将)と、
 第18師団に集中し、各部隊は釘づけになってしまった。
 11日0730頃より、敵は南方から攻勢に転じ、有力なる砲兵隊の支援のもと反撃を開始したのである。
 敵の抵抗は峻烈を極め、第5師団歩兵21連隊と同42連隊の損害は続出し戦況は進展をみなかった。

 敵の抵抗はシンガポール市街の周辺で強化された上、我が方の弾薬は全く欠乏していた。
 2月13日、14日は戦局の前途に見通しがたたず、軍司令部では攻撃の一時中止
 −−弾薬の追送を受けたあとの攻撃再開も検討されていた一番苦しい状況であった。

 

◆英軍降伏◆

英軍降伏軍使 2月15日1400 杉浦部隊の正面に突然英軍の軍使が現れた。

英軍参謀長ニュービギン少将 インド第3軍団参謀ワイルド少佐、
マレー総督府書記官長の3名で、 空襲と砲撃により送水管・水道管が破壊され、
シンガポール市内の給水状態が悪化したことが
パーシバル司令官が降伏を決定した原因であった。

さっそく第25軍は情報参謀杉田一次中佐 他2名を派遣し、
降伏申入れ条件を提示した。


 1830 英軍軍使一行がブキテマ高地北方ノフォード自動車工場に到着した。
 パーシバル司令官、トランス少将、ニュービギン少将、ワイルド少佐及び通訳1名で
 1900 山下司令官が幕僚を従えて着席し交渉が開始された。
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  山下     先に軍使に渡した要求事項を見たか。
  パーシバル      見た
  山下     それを詳しくしたものがここにある。実行してもらいたい。
  パーシバル      (別紙に目を通し)市内は混乱しているので1000名の武装兵を残置願いたい。
  山下     日本軍が進駐して治安は維持するから心配ない。
  パーシバル      英軍はシンガポールの事情をしっているから1000名の武装兵を有したい。
             非戦闘員もいるし、市内では略奪が起こる。
  山下     武士道精神をもって日本軍が保護するので安心願いたい。
  パーシバル      (時間的)空白ができると混乱が生じる。英・日両軍のために好ましくない。
  山下     日本軍は目下攻撃を続行中である。夜に入っても攻撃するようにしている。
  パーシバル      夜間攻撃は待って欲しい
  山下     話し合いがつかなければ攻撃は続行される。
  パーシバル      1000名の武装兵はそのままにしたい
  山下     (池谷作戦参謀に向かって)夜襲の時刻は?
  池谷参謀    2000の予定です。
  パーシバル      夜襲は困る。
  山下     貴軍は降伏するつもりか?
  パーシバル      (しばらく考えて)停戦したい。
  山下     貴軍は降伏するのかどうか、「イエス」か「ノー」で返答せよ。
  パーシバル      「イエス」 1000名の武装兵は認めてもらいたい。
  山下     (あっさりと)それはよろしい
  杉田参謀   武装兵の配置は「当分の間」と了解されたい。
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 以上で会見を終わり、降伏申出に対する回答書にサインを終わった。
 かくして2月15日2200をもって停戦になり、シンガポール攻略作戦は終了した。

 情報参謀・杉田一次中佐(のち大佐)は、後年

   ‘山下中将が「イエス」か「ノー」か?と卓をたたいて威圧したかのように巷間伝えられているが、
   パーシバル中将は、自分の意見を申し述べ納得した上で降伏文書に署名しようと考えていた。
   ところが山下閣下は、こまかい話合いは後回しだ、無条件降伏するのか、しないのかをまず決めよ
   という態度であった。このような行き違いから生じた空気を新聞記者が「山下将軍激怒す」 と
   報道してしまったものであろう。’
 として、報道が先行したやや誇張された実状について語っている。

 2月16日1730 侍従武官がシンガポールに到着。天皇の聖旨、皇后の令旨を伝達した。

 

◆戦果・損害◆

 シンガポール島攻略作戦間の戦果・損害について第25軍は以下のように発表した。

   兵器各種
     野山砲     約300門
     要塞砲       54門
     小銃    約60000挺
     重機関銃  約2500挺

   捕虜      約10万人(諸説あり)

   捕虜中主要なものは、
           マレー軍司令官
           インド第3軍団長
           シンガポール要塞司令官
           インド第11師団長
           英第18師団長
           豪州第8師団長

   損傷戦死     1713名
      戦傷     3378名