◆ 南太平洋陸軍作戦 ガダルカナル島作戦3 ◆

 ◆ 第17軍の攻撃準備 ◆

 第2回総攻撃計画は、今までの夜襲とは異なる堂々たる正面作戦であった。
 第2師団を主力とする歩兵17500名、火砲176門、糧食30日分を輸送する予定であったが、
 実際に揚陸させる輸送/補給に問題があった。度重なる海戦は日米互角とも思えたが
 制空権は米軍の手中にあり、10月14日の輸送は揚陸途中で失敗し火砲は38門しか揚陸できなかった。
 このような状況下で、大なる火砲での正攻法を180度転換
 前回の川口支隊同様の夜間奇襲攻撃を再度敢行することに決した。

 右翼部隊長を任じられた川口少将は、自身の反省に基づき「勝利の見込み無し」として
 迂回攻撃を主張したが、第17軍司令部の容れるところではなく攻撃直前にして罷免された。
 第1回総攻撃の敗戦の責任者としては、とかく「弁解過多」と言動が批判的であったことが背景にあった。

 海岸方面からの作戦部隊として、中熊部隊(第4聯隊基幹)、岡部隊、砲兵隊をもって編成された
 住吉部隊は、第2師団の迂回企図を秘匿するため米軍主力に対する牽制作戦を実施した。
 10月22日 2200 戦車中隊を加えた攻撃が開始された。
 一部が米軍陣地の一角に突入したのみであまり芳しいものではなかったが、
 相当の牽制効果を収め、軍主力の攻撃を待った。

 
 ◆ 第17軍の戦闘 (第2回総攻撃) ◆

 昭和17年10月24日 第2回総攻撃が開始された。
 1400からガ島一帯はものすごい豪雨となり、第2師団の両翼隊は1700突入の命令に基づき前進したが
 起伏の激しい密林は地点の標定ができず、さらに日没を過ぎると全くの暗黒となり、
 突入予定時刻になっても豪雨は止まなかった。雨が止んだのは1900過ぎであったが、
 第1線部隊は米軍と接触していなかった。また予備隊と支援砲兵部隊は後方を主力に追及中であった。

 右翼隊
 罷免された川口少将に代わって、攻撃直前に指揮を執ることとなった東海林俊成大佐の
 第230聯隊は、右翼から攻撃を開始した。
 その行動については諸説あって詳細は不明であるが、防御陣地の前に前進は頓挫し25日夜明けを迎えた。
 統帥が混乱したまま右翼隊の攻撃は失敗に終わったのである。

 左翼隊
 仙台夜襲師団の名を担う那須弓雄少将(25)の指揮する第29聯隊主力は、勇戦奮闘敵陣に突入した。
 敵哨戒線は突破したものの、第2第3の堅塁に阻止され猛砲火のため損害続出し攻撃は進捗しなかった。
 第29連隊長古宮大佐は聯隊旗とともに行方不明となり、大隊長、中隊長の大半を失うに至った。

 このような事態にもかかわらずこの夜飛行場占領の発信があり、後に訂正されるという醜態を示す一幕もあった。

 日本軍の戦法は、米軍の準備した陣地に対し偵察を行うことなく遭遇戦同様、行動縦隊から逐次戦闘加入し、
 しかも火力を発揮せずに陣地の間隙部から潜入、白兵突撃で勝利を獲得しようとするものであった。

 10月25日 丸山第2師団長は左翼隊が敵陣に突入している状況から、
 再度全力を挙げて夜襲を敢行する命令を下達した。
 特に左翼隊は、新たに増加された第16聯隊を増加しこの正面に重点を保持して夜間攻撃を開始した。
 第16聯隊の一部は鉄条網を突破したが夜明けとともに米軍の機関銃や迫撃砲がますます峻烈となり、
 死傷者が続出した。那須少将は重傷後戦死、第16連隊長広安大佐も戦死、第29連隊長古宮大佐は
 依然として行方不明であった。(のち健在が確認)
 第29聯隊の損害は2日間で戦死522名にのぼり、戦傷と併せ損害は50%に達し、
 積極果敢なる辻参謀でさえも陣地突破は望み得ない意見を述べた。

 第17軍百武司令官は10月26日 0600 攻撃中止を発令した。
 かくて一木支隊、川口支隊に続き、日露戦争以来の伝統に輝く第2師団の攻撃も失敗に終わったのである。

 
 ◆ 爾後の第17軍持久戦 ◆

 当時大本営においては、南太平洋海戦の戦果もあり今一押しすれば局面打開できるという空気が強かった。
 即ちこの度の攻撃失敗は、航空戦力の不十分、海上輸送の困難、攻撃準備の不十分、将兵の体力消耗等
 制約された条件下に攻撃したことによると考えており、航空戦力を強化し、輸送を計画どおりに行って
 攻撃すれば成功疑いなしという考えは全員共通のものであった。

 補給の途絶した状況は「10を計画して6を送り、6を送りて3を揚陸せしめ、2を使用しうるがごとき」であった。
 第17軍戦闘指揮所では、食事は1日1合の飯または少量の乾パンだけでまれに味噌がつく以外に副食はなかった。
 この飢餓の状態は時間の経過とともに悪化の一路をたどり、「耳かき1杯の塩と手の平一つのかゆ」や「絶食数日」
 という部隊はめずらしくなかった。

 このころガ島戦闘可能人員は、全部で7500名と見積もられた。
 上陸総人員27000名のうち、現在人員が19700名であり戦闘可能な者は半分もなかったのである。
 密林内の陣地は、雨と日光不足のため不衛生で、栄養不良と相俟って多数の患者の発生をみた。
 第17軍司令部には蝋燭やマッチが払底、通信用紙もなくなり命令を煙草の包装の裏に書きつける状況であった。
 百武軍司令官・宮崎参謀長(二見少将の後任)以下の幕僚は、階級章や参謀肩章をとり一兵士と同一の軍装となり、
 作戦命令や戦闘日誌は地中に埋め、突撃可能の準備を整えていた。

 11月5日 第38師団の主力が上陸。後発の第51、第6師団と併せて第3次総攻撃を12月下旬とした。
 しかし士気旺盛な新着の第38師団が上陸後に揚陸された糧食は数日分にすぎず、
 11月下旬には早くも飢餓が襲っていた。
 当時ガ島に対する補給は月明のため駆逐艦によることが困難で、やむなく潜水艦による輸送
 (その構造上輸送量は少量に留まった)が行われているに過ぎなかった。

 制空、制海権を有する優勢な米軍に対し、守勢による長期持久は不可能であった。
 そこで積極的に欺瞞、陽動、局部的な積極行動を行い、絶えず敵に危惧・圧迫感を与えることが必要であった。

 第228聯隊第8中隊は岡部隊の命に基づき、11月30日陣地を出発、東から西に米軍を攻撃し攪乱させた後に
 12月1日早朝 無事もとの陣地に帰還した。
 また工兵第38聯隊の中沢勲少尉は、部下4名を指揮し12月6日陣地を出発米軍飛行場に潜入
 飛行機2、給油車輛2、照空燈1を爆破炎上した。
 同じく寺沢孔一少尉以下4名は、砲兵陣地1、幕舎2を爆破して全員無事に帰還した。
 他にも米軍陣地に対して小部隊(大多数の将兵は戦闘不能であった)による奇襲がさかんに行われ、
 多くの戦果を挙げたが、我が損害も少なくなく戦局の大勢を変えるにはほど遠かった。

 
 ◆ 撤退作戦 ◆

 12月 6日 作戦部長田中中将は、ガ島作戦継続のための船舶増徴165000tの要求に対して、
 85000tしか閣議が認めないので東條総理大臣に食い下がり、「馬鹿野郎」と怒鳴ったため謹慎の上更迭された。
 12月 8日 海軍は駆逐艦によるガ島へのドラム缶輸送を中止する、という申し入れが陸軍側になされた。
 (翌月再開される)

 12月31日 永野軍令部総長と杉山参謀総長は、ガ島撤収作戦案を上奏した。
 陛下は「この方針に最善を尽すように」と決裁され、
 昭和18年1月4日 大本営の撤退命令が下った。大本営参謀が撤退を考えるようになってから
 ほぼ2ヶ月が経過していた。この間ガ島の日本軍では飢餓と病が加速度的に進行していたのであった。

 明けて昭和18年。
 1月14日 撤退援護のため第38師団の補充兵によって臨時編成された矢野大隊(750名)とともに
 撤退命令伝達のため方面軍の井本中佐と佐藤少佐がガ島に上陸した。
 撤退命令は直接百武司令官に伝達され、説得の結果2月1日、4日、7日の3日間にわたり
 駆逐艦20隻による撤退作戦は実施された。

 第1次撤退 2月1日乗船 :  第38師団、軍直轄部隊の一部、海軍部隊、患者の大部
 第2次撤退 2月3日乗船 :  第2師団、軍直轄部隊の大部 (第17軍司令部)
 第3次撤退 2月7日乗船 :  残余の部隊

 撤退行動は概ね予定どおり成功した。
 補充大隊である矢野大隊の陽動作戦は十分なる効果を示した。
 近く大規模な逆襲が行われるのではないかという印象を米軍に刻んだのである。
 撤退準備中、後退した第38師団の間隙をぬって米軍が侵入したため、
 撤退命令の届かなかった第4聯隊の内藤大隊は、大隊長以下全員戦死した。

 
 ◆ 戦果と損害 ◆

日本軍 米 軍
上陸兵力 31400 60000
撤退前離島 740 − 
撤退人員 10652 − 
死亡 20800  
戦死 約5000 1000
戦病死 約15000
負傷 不明 4245

 ガ島を「飢島」たらしめた責任は後方の司令部、大本営に在る。
 その結果第1線の将兵は悉く飢餓に瀕し、病に冒されたのである。 軍の戦力は極度に低下し
 個人を見ても軍隊を見ても悉く半身、否全身不随になっていたのであった。(撤退直後の井本日誌)

 第17軍司令官 百武晴吉中将は、撤退後敗戦の責任をとって自決する覚悟であった。
 だが、2月14日 第8方面軍司令官 今村均中将から「あなたが兵を飢えさせたのではない。
 2万の戦友の霊を見守るためにも生きてください」と説得され、ようやく自決を思い止まった。
 (だがその後百武中将は脳溢血に倒れて半身不随となり、それを知らされた今村中将(のち大将)は
 あのとき自決を許すべきだった、と後悔したという)

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  敗戦濃厚の12月15日 海軍大佐黛治夫は連絡参謀に急派され、百武・宮崎の小屋に仮宿した。
  未明、森のなかから斉唱の声が聞こえる。
   一つ、軍人は忠節を尽すを本分とすべし
   一つ、軍人は礼儀を正しくすべし ・・・
  以下、五箇条の「軍人勅諭」であり、終わって、「突撃用意」「突っ込め!」の突撃号令の訓練を聞いた。
  黛大佐はその前日、よろめき歩く兵隊の痩せ衰えた姿を思い合わせ、
  襟を正して第17軍将兵の精神力と軍紀の厳正に頭をさげたのであった。


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