日本へ出港したドイツ潜水艦

 独潜の同型艦を大量生産し、日本海軍がインド洋作戦を積極的に実行することにより
 イギリス側の補給路を攻撃して欲しいというドイツ側の要望に基づき
 ヒトラー総統からの寄贈潜水艦2隻が日本へ向かった。

 「さつき1号」と仮称したU511潜はドイツ海軍将兵が乗り込み昭和18年5月10日 ロリアンを出港した。
 ペナンを経由して8月7日無事呉軍港に到着し、同日付 呂500潜水艦と命名され帝国海軍籍に編入された。
 便乗者は、軍事首席委員野村直邦中将と杉田保軍医少佐、ドイツ人技術者5名であった。

 「さつき2号」(U1224潜)は、さきの伊8潜に便乗して渡独した将兵が昭和19年3月30日キール軍港発、
 7月中旬ペナン着予定で大西洋航行中5月11日以降消息を断った。
 戦後連合軍の記録によれば、5月13日米駆逐艦により撃沈され乗田艦長以下全員戦死と認定された。
 「さつき2号」の日本への帰国便乗者は、江見哲四郎大佐、山田精一機関大佐等4名であった。

 昭和20年3月24日、キール軍港を出発したU234潜は、日本に向かったが、
 5月にドイツが連合国に降伏したため、南米ニューホントランド沖で5月13日米海軍に降伏した。
 同艦には日本への便乗者として、ケスラー空軍大将を含む13名のドイツ人と
 我が海軍の技術士官2名が乗艦していた。
 天才技術者と謳われた友永英夫・庄司元三の両技術中佐である。
 同艦の降伏により虜囚となることを潔しとせず、技術士官であったが艦内で自決した。

 ほかにもう1隻、同年2月にもノルウェーを出港した独潜が日本に向かったが、
 北海付近で撃沈されたものと認定された。
 同艦にはレーダー技術を修得して帰国する技師と海軍嘱託(三菱商事)の2名が便乗していた。

 
 日本へ出港したイタリア潜水艦

 伊潜ルイギ・トーリー(Luigi Torelli)は、昭和18年6月16日 仏・ボルドーを出発、
 スマトラ島サバンを経由して8月30日シンガポールに到着した。
 便乗者は陸軍の佐竹技術中佐とドイツ人レーダー技師1名であった。
 日本に到着したの伊潜はこの1隻のみで、他の3隻はすべて撃沈された。

 
 日独技術交換 主要事項(その一部)

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      ドイツ から 日本 へ

     対空射撃指揮装置の製造技術
     潜水艦魚雷方位盤
     照準角発信装置
     電気溶接技術
     駆逐艦用ワルター タービン・減速装置図面
     魚雷艇用ダイムラー、ベンツ機械
     750トン型独潜
     対戦車砲特殊弾
     電波探信儀・電波探知機
     20ミリ4連装機銃
     ヘンシェル社生産技術特許
     ハインケル機製造権
     Me163、Me262の製造権
     ラインメタル13ミリ機銃MG131型
     マウザ20ミリ機銃
     戦闘機用無線電話機
     固定航空写真機RMK各種
     爆撃照準器、ロトフエー各種
     急降下爆撃照準器、PZA1型
     航空機用方位測定機、電信機
     各種ロケット爆弾

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      日本 から ドイツ へ

     零式偵察機
     航空魚雷設計図
     93式酸素魚雷
     潜水艦自動懸吊装置技術
     漏油防止ポンプの図面
     甲標的乙型、新中型潜水艦の図面計画書
     航空用91式魚雷
     潜水艦用95式魚雷

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 他に日立航空社とハインケル社と合弁で、独式飛行機大量生産方式を導入しようと工場設立を計画したが、
 操業には至らなかった。
 飛行機製造権、ラインメタル航空機用機銃、爆撃照準器などは、日本の工業技術では参考試作程度
 にとどまり、実戦に寄与した部分は僅少であった。
 これら以外にも音響魚雷や水中高速潜水艦の図面など、途中沈没や製造能力の関係上
 実現に至らなかったものは多数のぼった。

 以上のように、日独(伊)両国は非常な困難と危険を冒して技術導入に務めたが、
 結果だけみれば軍備・戦備の増進に寄与し得たところは多くなかった。
 これは戦局の進展急変が激しく、導入技術もこれを実用するに必要な期間と施設とを得られなかった
 ということである。


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