日本軍がメルボルン放送を傍受して橘丸拿捕を知ったのは8月5日のことである。
スラバヤの第11連隊長 佐々木五三大佐(26)は、
それは国際法違反の責任からではなく、
南方軍総司令官 寺内元帥は、「爆撃機をだして撃沈せよ」とまで激怒した。
報告を受けた第5師団では師団首脳が召集され対策会議が行われた。
軍旗とともに飛行機で先発しており無事であったが、師団長あてに進退伺いを打電した。
師団参謀長 浜島厳郎大佐(33)は8月6日 カイ島にて
師団長 山田清一中将(26)は8月15日 セラム島山中の師団司令部にて それぞれ自決した。
戦列部隊の将兵を無抵抗裡に敵手に委したという道義的責任からであった。
第5師団上層部は、病院船の不法使用が国際法違反となることを承知していたのである。
自決した師団首脳がその責任を負えば、新たな処罰者/責任対象者を造る必要がない。
陸軍刑法では捕虜になった者、捕虜となる行為を助長した者は厳罰に処せられたからである。
しかし、第5師団としては「上からの責任の押し付け」は当然受け入れられないことであった。
裁判と判決
昭和20年12月18日 「戦争犯罪被告裁判」として横浜裁判が開始された。
橘丸事件としては、公海上を故意かつ不法に赤十字標識を使用したとして
関係者で起訴されたのは、以下の9人であった。
中将
沼田多嫁蔵
南方総軍総参謀長
中将
和知 鷹二
南方総軍参謀副長
中将
長沼祐一郎
第16軍司令官
中将
豊島房太郎
第2軍司令官
少将
渡辺 三郎
第3船舶輸送隊司令官
中佐
森 康則
第5師団後方参謀
少佐
安川正清
第5師団第1大隊長
軍医少佐
大森 繁
第5師団 軍医
軍属
安田喜四郎
橘丸船長
最高責任者たる寺内元帥は病死していたので、次席指揮官たる沼田・和知中将が召喚された。
南方総軍は第2軍同様、師団長と参謀長は既に自決していたので、第5師団に対外的な責任をとらせようとしていた。
連合軍(検事)側は、国際法違反を認めさせ、それを命令によって第5師団に実施させた ということを立証しようとした。
被告側は
1) 戦況によって前線と後方が変化し、後方に患者を輸送しようとした正当な行動である。
2) 赤十字条約第8条第3項により、個人の携行兵器は個人装備に含まれるので赤十字条約違反ではない
また、野戦兵器勤務令により患者が病院に行くときは、兵器弾薬も携行することになっている。
さらに
1) ハーグ国際条約の違反国は、赤十字条約保護を受ける権利を剥奪されることにより制裁は終了する。
2) ハーグ国際条約違反を犯した場合、自国で罰する規定であり、他国が罰する規定はない。
3) 禁制品を病院船が輸送した場合、船と積載品を没収する規定になっており、個人に対する処罰規定はない。
として、全員無罪を主張した。
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昭和23年4月13日 橘丸事件の判決が言い渡された。
重労働7年
沼田中将
重労働6年
和知中将
重労働3年
豊島中将
重労働1年半
安川少佐
他は全員無罪であった。
末端指揮官たる安川大隊長は有罪判決となった。
裁判手続きは被告人側に一定の配慮がなされたものではあったが、東京裁判同様の奇怪さ不合理さ、は否定できない。