◆老河口作戦◆

 昭和20年1月29日 支那派遣軍は、北支派遣軍及び第6方面軍をして飛行場覆滅を目的として
 老河口及び(止)江攻略作戦を実施するに決定した。
 北支那方面軍(下村定大将)は第12軍/第110師団 第115師団 戦車第3師団 騎兵第4旅団を以って
 3月中旬末攻撃開始の構想の下に準備を進めた。

 3月22日 軍は一斉に攻撃を開始、前面の敵陣地突破、各兵団は所命の如く前進を続行した。
 特に活躍が目覚しかったのは騎兵第4旅団(旅団長 藤田茂少将)であった。
 当時既に騎兵は自動車化に改編しつつあり、支那大陸の特性に鑑み最後にのこった唯一の騎兵部隊が同第4旅団であった。

 果敢な急襲によって3月27日 老河口飛行場を占領次いで老河口市街の陣地を攻撃したが
 城門突破は阻止され成功しなかった。
 老河口は防備強固なるため重砲・第13戦車隊を招致、さらには第115師団と協力し、
 4月8日 これを占領した。

 これは世界戦史における騎兵の最後の戦闘と言われ、我が騎兵第4旅団は見事に最後を飾った。

 この間老河口攻略作戦に協力すべく第6方面軍は、第34軍(軍司令官佐野忠義中将)をして襄陽方面に作戦を展開。
 第39師団を主力とする部隊は、3月21日から漢水に沿う地区を北進し、
 敵を撃破しつつ襄陽、次いでその一部は毅城を占領した。

 しかし優秀な米軍の支援を受けた支那軍の反撃を受け、4月初旬には現駐屯地へ反転の止む無きに至った。

 
 ◆蕋江(しこう)作戦◆

 蕋江(湖南省西部)は敵の首都重慶の370KM南東に位置し、その地形上老河口よりも難攻が予想された。

 本来蕋江作戦は、支那派遣軍において四川省方面に対する挺身作戦との関連において研究されていたが
 まず蕋江にある敵前進飛行場の覆滅の目的をもって、上記の如く老河口作戦と併せて1月29日実施を命令した。

 第6方面軍(岡部直三郎大将)は第20軍(板西一良中将)にこの作戦を遂行せしめることとして準備を開始した。
 坂西司令官は、隷下の第116師団、新たに内地より派遣された第47師団、第11軍に属する第34、第58師団をもって
 4月中旬から作戦を開始し、5月には敵野戦軍主力を補足撃滅し、
 其の上で蕋江の飛行場基地を覆滅する計画を立案した。

 しかし内地から転進して来る第47師団の渡航は船舶不足等により著しく遅延し、作戦発動に重大なる支障を来した。

 衝陽の西100KMの宝慶を主力として3方面より進撃を開始した我が軍は、兵の疲れと地形の険しさとに災いされていた。
 雪峰山は超えたものの、各所で猛烈なる反撃を受けることとなった。
 支那軍は軽戦の後で退却し、我が軍はこれに追尾して進撃したが、山が深くなるにつれ敵の抵抗は頑強になり、ついに
 4月25日 宝慶より90KM前後進出した地点で各隊の進撃を止めざるを得ない状況となった。

 このころ蕋江飛行場には完全に米軍式装備をした重慶からの増援兵団が続々空輸されていた。
 4月末 敵は総攻撃に転じた。
 米式装備による豊富な火力、密接なる空地協同、果敢な近接戦闘、迅速なる増援部隊の派遣など、
 従来の支那軍からは想像できないものであった。
 第20軍では『支那兵は弱い』とすることの不可能なことを悟っただけでなく、実際の戦場においては
 局所的には圧倒されるような事態さえも生じた。

 即ち、我が軍の第一線の制空権はなく、兵站線は延び補給は続かず、攻撃は夜間に限定され、
 彼我戦力の格差は開くばかりであった。

 強気な坂西司令官はなおも作戦を強行しようとしたが、支那派遣軍の参謀の間には
 事態の重大性を認めて作戦再考を促す動きがあった。
 現地を視察した派遣軍総参謀長 小林浅三郎中将(24)は作戦の中止を意見具申、
 全般の情勢を判断した岡村総司令官もこれを容認し、
 5月9日 作戦中止の命令を下した。

 その後の撤退行動も困難を極めた。
 優秀な米空軍と支那軍との追撃を受けて反転する部隊の苦難は著しく、
 支那大陸始まって以来最悪の戦場離脱行動であった。
 秘術を尽して反撃また反撃を繰り返し、圧倒的に優勢な敵の包囲のなかを連続突破したのである。

 軍主力となった第116師団第109聯隊は、一時は玉砕を覚悟しその救出のため師団全部が危険に陥るおそれすらあった。

 その第109聯隊は755名が戦死、大部分が負傷した。
 また参加部隊全体の戦死者は約2400名と言われ、戦傷者を含めると損害は28000名にのぼった。

 支那大陸において全戦全勝を誇った日本軍は、ついに最後の一戦において敗退したのである。
 同時に全軍壊滅の完敗に終わる前に撤退を決断したことは、他の戦線にはみられない英断であったと言えよう。

 
 ◆対米戦準備◆

 昭和19年12月 支那大陸には27個師団、34個旅団、計100万の大軍を擁し、
 その大半は大陸の奥深くに展開していた。

 支那派遣軍総司令官 岡村寧次大将は、100万の将兵が大東亜戦争全局に寄与するには、
 重慶政府を屈服させ蒋介石政権を連合国側から分離して単独講和を図ることにある、という結論に達した。
 昭和19年12月中旬 この意見が大本営に伝えられたが、大本営は、対米戦備に転換するよう要請した。

 岡村総司令官は、従来の西向き戦面を東向きに大転換することには反対であり、四川進攻作戦実施について
 大本営に意見具申を行ったが、大本営はこれを認可せず、
 昭和20年1月22日 『支那派遣軍の基本任務は対米作戦を主務とする』と新任務を発令した。

 昭和20年1月29日 南京で軍司令官合同を実施し軍総軍命令を下達した。

  1) 第23軍は、3月末までに東南中国沿岸(2個師団増強)に防衛準備を完整
  2) 第13軍は、初夏までに揚子江下流の上海・杭州地区に防衛準備
  3) 北支方面軍は、初夏までに山東半島方面の防衛準備

 支那派遣軍は6月『対米作戦計画大綱』を定め、対米、対ソ作戦準備への全面的転換を開始した。

 米軍の上陸を香港・広東地区、揚子江下流、青島半島等に予想し、
 対米戦態勢を造ることを主眼とし、支那軍に対しては思いきって戦面を縮小しようとするものであった。
 (在中国米軍は、6月から広西省西部に攻勢をとり、10月ごろ、広東、香港を奪還する計画であった。)

 また対ソ戦備としては、従来の関東軍担任地域の1部を北支方面軍が担任し、関東軍に策応しようとするものであった。

 しかし敵の制空権下において追撃や妨害を受けながら、広大なる支那大陸での態勢の転換には非常な時間を必要とし、
 終戦時、なお多くの部隊が転戦途中の浮動の態勢であった。


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