◆戦闘経過◆

 2月27日 米軍の地歩拡大と共に守備部隊の損耗は増大した。
 兵団戦力は約二分の一、第一線は約五分の一に低下、火砲・弾薬も三分の一に減少した。
 栗林兵団長は、主陣地の大部分が上陸部隊に占領された状況から各地区の戦線を整理し、
 極力持久をはかることを決意した。

 一方の米軍の被害もまた著しかった。
 第4海兵師団のある小隊では、小隊長が5人かわった。4人目の曹長が戦死すると5人目は少尉が着任した。
 間もなくその少尉は戦死したが、6人目は不要となった。
 その小隊は全滅したのである。
 同師団第23連隊のE中隊では中隊長が7人も交替した。
 戦闘経験のある指揮官が欠乏し、戦闘力が低下する結果となったといわれている。

 連日の激戦で疲労した米軍は、3月5日一時前進を中止して部隊を休養させ、部隊の交替を実施し新たな攻撃を準備した。

 3月 4日 我が残存兵力は約4100名であった。
 3月 6日 1日の休養ののち、米軍火砲132門の砲撃で戦いの幕をあけた。
 3月 7日 混成旅団長 千田少将は、栗林兵団長から玉砕は止めるよう指導されていたが、切迫した状況から
        海軍硫黄島警備隊司令 井上大佐とともに、同地残存約800名で総反撃を敢行することに決定した。
        千田旅団長は、総攻撃の命令を下達した。
 3月 8日 1800 旅団砲兵は残存火砲全弾を使用して一斉射撃を開始した。
        2330 夜襲企図を察知した米軍と各所で白兵戦を展開した。
        未明までの戦闘で千田旅団長以下大部分は戦死、生存者100名は旧陣地に復帰した。
        米軍の損害は、戦死90、負傷257 であった。

 3月10日 この日までの日本軍捕虜は111名(内44名は朝鮮人軍属)で、すべて意識不明の状態であったという。
        しかし栗林兵団長以下いささかの士気のおとろえも見せなかった。
 3月14日 第5海兵軍団司令部で公式国旗掲揚が行われた。
        対照的に我が歩兵145連隊の軍旗奉焼が連隊長 池田大佐により行われた。
 3月15日 海軍部隊指揮官 市丸少将は、栗林兵団司令部に合流した。
        この時の残存兵力は、約900名であった。
 3月16日 米軍は硫黄島の完全平定を発表、以後は掃討戦を実施。
 3月17日 栗林兵団長は、大本営に決別電報を発信した。
        同夜、階級章、重要書類、私物等を焼却、司令部洞窟内に全員を集めてコップ1杯の酒と、
        恩賜のタバコ2本ずつを配った。
         「たとえ草をはみ、土をかじり、野に伏すとも、断じて戦うところ死中おのずから活あるを信ず。
          ここに至っては一人百殺以外にない。本職は諸君の忠節を信じている。
          私の後に続いてください」
        栗林兵団長はこう述べ、出撃に備えた。

 3月25日 栗林兵団長、市丸海軍司令官は白たすきで先頭に立ち最後の総攻撃が開始された。
        大須賀少将、池田大佐、高石参謀長など総員約400名であった。
        いわゆる万歳突撃ではなく、混乱と破壊を起こすことを狙った計画であった。
        翌0515頃、米軍野営地に突入、同地一帯は約3時間彼我入り乱れての戦況となった。
        敵米兵約170を殺傷したが、兵団長以下大部分は壮絶な戦死を遂げたのである。

        ここに栗林兵団の硫黄島における組織的戦闘は終了した。
        これより先 大本営は、3月17日の決別電報に基づき、
        3月21日 1200 同島の玉砕について発表した。


◆戦果・損害◆

日本軍 米軍
戦 死 19900名 6821名
戦 傷 1033名(含軍属) 21868名

 はじめの5日間で日平均1200名以上の被害者を出し、上陸した海兵3名に1名が戦死した。
 戦闘終結時、米軍各師団の戦闘能力は50%以下であった。

 
平成7年 石井様撮影    現在の硫黄島 全景

  HP 硫黄島探訪より

 
 ◆小笠原諸島の防備と終戦 ◆

 硫黄島の戦闘終結に伴い陸軍中央部は、第109師団を再編(立花芳夫中将 25)、
 小笠原諸島の父島、母島、兄島、南鳥島等の防備強化を図った。
 海軍も父島方面特別根拠地隊(森 国造少将)を基幹として防備を強化していた。
 昭和20年7月31日 父島の海軍部隊は北硫黄島(硫黄島北方70KM)所在の陸海83名の救出作戦を実施
 うち38名を魚雷艇にて決死救出を行ったが、45名は一時残置された。

 しかし米軍は小笠原方面に上陸することなく終戦を迎えたのである。


 ◆栗林忠通◆

 戦前2回にわたり米国・カナダに駐在武官に勤務の経験を持つ、海外通の軍人であった。
 対米戦争には反対であったと言われている。
 父島から司令部を硫黄島に進出してからは、一歩も島外にでることはなかった。
 第31軍小畑司令官の事例に対する自戒と部下と苦楽を共にする率先垂範の現れであった。

 だが、兵団長の性格については賞賛とともに批判がある。
 頭脳明晰で合理的な考えを持つあまり、能力絶対主義で陸大専科出身者を軽んじたというのである。
 通常現場の多くは部下に任せるのだが、兵団長は細部にわたり自ら対処した。
 その結果部下の参謀や部隊長達との軋轢が生じ、司令部内の融和を害したとの批判は少なくない。
 (例えば更迭された堀・前参謀長は、栗林中将とは口をきかなかったという)
 冷厳な兵団長と性格的に合わない参謀が多かった、という証言があるのも事実である。
 ただ生還者の証言では兵の評判は好かったと異口同音に言っている。

 昭和20年3月17日 史上最若年の陸軍大将に任じられた。


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