◆海軍部隊の玉砕◆

 海軍部隊は那覇西方の小禄地区を拠点としていた。
 上海事変以来海軍屈指の陸戦の権威であり‘海軍歩兵少将’と称した大田實少将以下約1万名を数えた。
 そのうち小禄地区に約8千名を配置していたが、設営隊や航空隊整備要員などの後方勤務要員が多く、
 陸戦隊としての既教育兵は約3000名にすぎなかった。
 その正規・陸戦隊も多くは陸軍の指揮下として首里戦線に投入されており、
 今や小禄半島を守るのは小銃は5人に1挺しかない、大部分が現地召集兵からなる「竹槍部隊」であった。

 5月26日〜27日 首里撤退の第32軍命令を受け重火器・施設を破壊して南部・島尻に転進した海軍部隊は、
 第32軍から「過早後退」と断じられ、復帰命令を受けて再び小禄地区に引き返した。
 (公刊戦史によると、海軍側が命令を誤解していたことによる とされる。
  しかし海軍には陸軍の撤退援護を期待されており、連絡の不徹底による陸軍側の不手際である可能性が高い。)

 既に重火器は破壊してあり飛行機からはずした機関銃や手榴弾を主に戦ったが、既に米軍は目前に迫っていた。

 6月 4日 小禄正面に敵上陸開始。もはや陸軍との合同は不可能と判断、小禄死守を打電。
 6月 5日 第32軍牛島司令官より撤退命令がでたが、大田司令官は『武人の最後を全うする』旨返電。
 6月 6日 米軍は小禄飛行場と周辺海岸線を制圧、海軍部隊は司令部壕を中心に半径2KMの地域に包囲される。

 同 1723 訣別電報と辞世の句を打電
 同 2016 『沖縄県民斯ク戦エリ』を打電。 (7日 1805 再送)

 6月 9日 陣地は半径1KMに圧縮、急造爆雷による肉薄攻撃隊の出動を命令。
 6月10日 牛島司令官より最後の激励電報と親書が到着、謝礼を返電 各部隊は司令部壕に全員合流。
 6月11日 早朝より司令部に対する攻撃熾烈。牛島司令官に2度目の訣別電報発信。
 6月12日 司令部のある74高地は米軍に占領される。
 同 1335 戦況電報を発信 これを最後に通信連絡を絶つ。
 同 2000 最後の非常呼集 整列した者約270名。自力脱出可能な者に脱出を命令

 6月13日
 同 0100 大田司令官以下前川大佐、棚町大佐、羽田大佐、機関参謀山田少佐らは、司令部壕内で自決。
         傷病兵約300名も自決し海軍部隊は玉砕した。

 
 ◆戦闘経過◆

 喜屋武半島における最後の戦いは、第44旅団正面において開始された。
 米第7師団の追撃は非常に急で、早くも6月6日湊川正面から、6月10日八重瀬岳方面から それぞれ猛攻を開始。
 第44旅団の陣地は急速に危機に瀕し、第62師団に増援を命じた。
 だが、第62師団ももはや戦力になり得ず、粉戦状態のうちに我が軍は刻々と戦力を喪失していった。
 一方左翼の第24師団は、6月12日から米海兵2個師団の攻撃を受け、6月15日頃から陣地は逐次崩壊した。

 6月17日 独混44旅団の主陣地は突破され、鈴木旅団長は最後の総攻撃を準備したが、軍命令により摩文仁に後退、
 同じころ独立臼砲第1聯隊は、連隊長入部中佐(33)以下戦死者続出、指揮班長久保少佐以下4名を残しほぼ全滅、
 また、第22聯隊本部は爆雷攻撃を受け、連隊長吉田大佐(32)以下全滅した。

 6月18日 ついに軍司令部付近に敵戦車部隊が現れるまでとなった。
 47ミリ速射砲により多くの戦車を破壊してきたが、各戦線は分断され個々の洞窟で各個が戦う状況となっていた。

 6月19日 軍司令部と各兵団間の連絡はほとんど断絶する状況となり、もはや統一指揮による戦闘は不可能であった。
 軍砲兵隊の砲の大部は破壊され弾薬はほとんど尽き歩兵戦闘に移っていた。

 牛島軍司令官は軍の運命もいよいよ尽きたことを知り、
 「局地における生存中の上級者これを指揮し、最後まで敢闘して悠久の大義に生くべし」とする最後の命令を下達。
 その頃第89連隊長金山大佐(26)と工兵第24連隊長兒王大佐(27)の戦死が報告された。

 同 夜半 軍司令部で、缶詰と酒による幕僚全員の訣別の宴を行った。
 牛島軍司令官と長参謀長は、貴重な体験を本土決戦の戦訓に活用させようと各参謀に任務を与えた。
 八原参謀は大本営への報告、木村・三宅参謀は地下工作、薬丸・長野参謀は遊撃戦の指揮
 そして司令部要員約20名は洞窟を出撃した。
 (航空参謀神参謀と司令部附森脇大尉は、作戦連絡の命令で先に出発し既に本土へ帰還していた)

 6月20日 敵の攻撃は摩文仁高地に及び、軍司令部の洞窟も頭上から直接攻撃を受けるに至り、
 残った女子軍属を含む軍司令部要員と軍砲兵要員も総員斬込を敢行した。
 6月22日 司令部付近の戦闘は激化し衛兵は次々斃れ、軍司令部の最後は目前に迫った。

 6月23日 0400 牛島軍司令官と長参謀長は坑道口外の海面に屹立つ断崖上で辞世の句を残して自決。
 その直後、軍経理部長 佐藤三代次大佐も拳銃で自決、第32軍の組織的戦闘は終結した。

 なお、第62師団長藤岡中将は6月22日、第24師団長雨宮中将は6月30日、それぞれ自決
 混成第44旅団長鈴木少将は残存将兵とともに敵中を突破し、遊激戦を指揮しつつ遂に戦死。
 島田知事は荒井警察部長とともに殉職した。

 
 ◆その後の遊激戦◆

 6月23日以降、各部隊の組織的戦闘は概ね修了し、洞窟陣地ごとに各個の戦闘が続いた。
 なお相当数の残存兵士が各地に潜伏しており、米軍は投降を呼びかけると共に掃討作戦を続けた。

 歩兵第32聯隊は、島尻南部で連隊長北郷大佐(27)以下棚原高地で敢闘した第1大隊(伊東大尉)との連絡を確保
 約180名の兵力で食料・兵器弾薬などを収集し戦闘を続行した。
 同 第2大隊(志村大尉)も、聯隊本部との連絡は途絶したが約200名の兵力で首里北方前田高地で健在であった。
 8月末、降伏勧告に来た米軍将校に従い武装解除を行うまで、戦闘は断固として継続され、米軍に出血を強要したのである。

 8月28日 明治31年以来の伝統と栄光に輝いた軍旗は、将兵の涙とともに奉焼が行われ戦闘は終結した。

 
 ◆国頭地区の戦闘◆

 北方・国頭地区では、支隊長宇土大佐(27)が遊撃戦を任務として中野学校出身者を多数擁し部隊の展開を行っていた。
 支隊本部は八重岳に戦闘司令所を置いたが、その主陣地も4月16日敵手に落ちた。さらに米軍の攻撃を受けるに従い
 各隊に国頭北部に分散潜伏して遊激戦を実施することを命じたが、士気は低下し食糧の欠乏が甚だしかった。

 国頭地区は平地が殆どなく農作物も少ない上に避難民が相当数所在したため、食糧事情は極度に逼迫していた。
 だが食糧・弾薬が不足している状況下にあっても、国頭地区の多くの部隊は遊撃戦を展開、終戦まで戦闘を継続した。

 宇土大佐は本部の将校会議を開き10月2日戦闘を停止、第4遊撃隊長岩波大尉(55)も同じ頃米軍に収容された。

 一方第3遊撃隊長村上大尉(55)は、宇土大佐以下が戦闘を停止したことを知ったが降伏することはなかった。
 部隊本部の若干の兵も行動を共にし、米軍や収容された日本軍将校の使者による勧告を拒否し続けた。
 昭和21年となり、先に収容された八原大佐からの手紙を手渡すに至って下山、ようやく米軍に収容されたのであった。

 
 ◆戦果・損害◆

  日本軍 米軍
戦死・行方不明 75000名 7613名(他海軍4907名)
戦 傷   31807名
戦闘神経症等   26211名
捕 虜 7401名(将校200名以上)  

 第10軍司令官 バックナー中将、第96師団副師団長 イーズリー准将も戦死した。

 軍は昭和20年1月から、適正検査に合格した男子中学生に通信員教育を、女子生徒には看護婦教育を開始した。
 また師範学校・中学上級生は学徒隊を組織し、各部隊に配属され各種の業務に服した。
 男子学徒は鉄血勤皇隊と命名され、戦況不利となり損耗増加に伴い切込隊や肉薄攻撃などの決死戦闘にも挺身した。
 女子学徒も傷病兵の増加に伴い、看護業務は多忙となり戦況悪化によって死傷者も生じた。
 6月20日前後には各病院は解散し自由行動となった。
 学徒たちはあるいは南部への突破を試みあるいは自決を選び多大の犠牲を生じた。

 男子学徒 1685名中、732名戦没
 女子学徒  543名中、249名戦没

 多くの沖縄県民は自ら防衛隊を組織し、積極的に軍の作戦に協力し一億総特攻の先駆けとなって軍と運命を共にした。
 一般住民の死亡者は約10万以上と推定される。
 破傷風により、負傷した者の多くが手当てのできない状態だったため死亡率が上昇した。
 また県職員は、戦時下の行政を担当し戦意の高揚・増産などに必死の努力を傾注して軍に協力した。
 そして島田県知事以下多数の殉職者を生じたのである。

 
 ◆戦後の確執◆

 司令部を脱出した各参謀たちの多くがその消息を絶った。
 その中で2名の参謀が生還した。航空参謀の神少佐(のち中佐 44期)と軍高級参謀の八原大佐である。

 八原大佐は難民に紛れて北方に脱出を計った。
 計画は成功するかと思われたが、身分が露見し7月26日頃 ついには捕虜となった。

 一方航空優先、飛行場奪還を主張していた神中佐は、上記の如く命令により東京に帰還していた。
 八原大佐と作戦構想で根本的に相入れなかった神中佐は、軍中央に対し持久作戦に固執する八原大佐を
 批判的に報告せざるを得ない立場にあった。

 この神中佐から漏れ聞く話に加え、八原大佐が米軍の捕虜となったことがわかると、
 「八原は軍人の面汚しだ」とする悪評が軍人の間に広まった。
 さらに神中佐は戦後の手記 『沖縄かくて壊滅す』の中で八原大佐の持久作戦を批判したため、
 沖縄戦は消極的過ぎたと非難されることとなった。
 帝国軍人にとって八原大佐の生還は断じて許しがたいものであり、ひいては大佐の作戦思想そのものが
 自己生存主義と解釈されたのは当然のことであった。

 それに対し八原大佐は、実質的に捕虜になったとは思っていないと語ったが、多くを反論することはなかった。
 戦後の陸士同期会でも沖縄戦については語らず、同期生も八原の心中を察してその話題には触れなかった。

 しかし従来の沖縄戦の記録があまりに表面的で一方的であり実態とはかけ離れている として
 昭和47年に『沖縄決戦』を出版、作戦主任参謀の立場からの第32軍作戦思想−持久作戦の正当性を主張した。

 米陸軍戦史はこう述べている
  『 沖縄における日本軍は、まことに優秀な計画と善謀をもって我が進攻に立ち向かった 』


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