樺太・千島の対ソ戦

 樺太の防備計画

 樺太国境の警備は、昭和14年以前は少数の国境警察が担任するのみで具体的準備は皆無であった。
 大東亜戦争以降新編された樺太混成旅団は、アッツ島玉砕以降は対米作戦の重点として
 昭和18年5月には歩兵第125聯隊を編入、
 昭和19年3月には従前の樺太混成旅団と第30警備隊を併せ樺太兵団が編成された。
 同時期、第5方面軍(北方軍)は、千島・道東に来攻する米軍に対する反撃体制強化のため、
 第7師団を道東に移駐させた。
 これによって全樺太の防衛は樺太兵団独力で実施することになり、兵団任務も専守防御に転じた。

 昭和19年11月27日 海上機動第4旅団長・峯木十一郎少将が樺太混成旅団長に発令された。
 キスカ島守備隊の指揮官であった峯木少将は札幌で樋口方面軍司令官から
 「樺太は一部をもって対ソ、主力をもって対米作戦に備えるようにせよ」との指導をうけての着任であった。
 昭和20年2月28日 樺太混成旅団を基幹として第88師団が新編された。
 第25、第125、第306聯隊からなり編制定員は20388名である。
 峯木少将は中将に昇進、そのまま師団長を拝命した。

 師団の作戦構想は、主力を南部、一部を北部に置き、重点を人口5万の中心地・豊原方面におく
 ことを方針とした。
 また指導要領としては南部・北部ともに海岸付近の主要陣地で敵を撃滅阻止、
 止むを得ない場合は山地寄りの複郭陣地に拠って持久し、機動集中は行わず、
 南北両地区ごとに自戦自活し、相互に赴援しないことを本則とした。
 樺太の終戦時在住人口は季節労務者等を加えて約40万人であった。

 
 樺太におけるソ連軍の動向

ソ連軍 樺太・千島侵攻経過  昭和20年早春、国境線から遠くない
 ソ連領森林地帯からは数十条の白煙が望見され、
 トラックの往復も急速に増加した。
 国境正面のソ連軍は増強され、進攻準備は
 ほぼ完成したようであった。

 欧州戦線からの移送状況も逐次通報され
 第88師団司令部は、以上の諸状況より
 ソ連軍の8月攻勢は必至と判断、
 6月下旬には従来の対米戦から対ソ戦への転換
 について上申した。

 だが方面軍の回答は
 「現態勢(対米戦)に変化なし」であった。

 方面軍が対ソ戦への作戦方針の転換を
 正式に確認したのは、
 ソ連侵攻直前の8月3日のことであった。

 
 樺太における対ソ戦

 昭和20年8月9日早朝、札幌の第5方面軍から、ソ連軍が満州国内に越境し関東軍が交戦中
 との通報を受けた師団長峯木中将は、直ちに対ソ作戦実施を決意、命令を発令した。
 方面軍は、北樺太のソ連軍は陸路進攻するものと判断していた。
 日本軍は国境に既設陣地があり、国境兵力は3個大隊を有していた。

両軍の兵力装備の比較
  日本軍 ソ連軍
中隊 10個 37個
28門 282門
重機関銃 42丁 180丁
軽機関銃 94丁 454丁
戦車 95機
飛行機 100機

 8月 9日 国境線沿いの警備電話は各所で分断された。
 ソ連軍小部隊が既に越境し威力偵察を開始していたのである。
 その0730 武威加の警察官派出所に対する砲撃から対ソ戦闘は開始された。
 8月11日 ソ連軍は戦車を伴い陣前に進出、延59機のソ連軍機も飛来し攻撃を総攻撃を開始した。
 半田集落にあった2個小隊と警察隊計100名は、ソ連軍主力の前進を丸一昼夜にわたって阻止した。
 日本軍は米軍上陸に対する海岸防御陣地をとっており、日ソ国境付近には主力を配置してはいなかったが
 正面攻撃を断固阻止し、18日に停戦するまで主陣地を確保して善戦、ソ連軍の南下を許さなかった。

 一方西海岸北部の塔路に16日 狙撃1個大隊と海兵1個大隊が上陸した。
 これに対しても日本軍は特設警備隊、国民義勇戦闘隊等一丸となって善戦、
 一時はソ連軍を敗走させた後に東方に撤退した。
 西海岸南部のほとんど無防備であった真岡に対しては、20日猛烈なる艦砲射撃の後に
 第113狙撃旅団と海兵1個大隊が強襲上陸、我が一般住民を見境なく攻撃して大惨事を巻き起こしたが、
 この方面も23日には休戦となった。

 樺太の戦闘が全面的に終息したのは8月25日のことである。

 
 千島の地勢

 大小30余りからなる千島は、地理的には千島列島、色丹島、歯舞諸島からなり、
 激しい戦闘が行われたのは列島最北端の占守島(シュムシュ島)である。
 種子島よりもやや小さく概ね平坦な島であり、カムチャッカ南端とは10KMの占守海峡を挟んで相対していた。
 住民の大部分は漁業従事者で各集落は散在し、各島間・同島内の交通は海路に依存、
 陸路の整備は限定されたものでしかなかった。

 終戦時の在島人口は、
 歯舞諸島4455人、色丹島920人、国後島7370人、択捉島3760人、計16505人と推定され、
 ほかに北千島に若干の定住者がいた。
 ソ連にとって千島列島の戦略的意義は、南樺太と共に極東ソ連から太平洋の出口を遮断していることにあった。
 このためスターリンは早い時期から一貫して千島列島を奪うことを希求していたのである。

 
 千島の防備計画

 昭和18年 米軍がアッツ島に上陸したころの北千島守備隊兵力は歩兵4個大隊を基幹として
 占守島と幌筵島に配備されていた。
 その後配備兵力は逐次改編され、千島全体の最終的な配備兵力は、
 北千島(占守島と幌筵島)は第91師団、南千島は第89師団の担任となった。
 大本営の本土重視により北海道本島及び千島からも有力な兵団が抽出され、
 千島からも有力部隊の転用が続く中、第91師団の任務は「幌筵海峡周辺地区及び占守島の要域確保」とされた。
 師団兵力は総兵力23000名、そのうち占守島には8000名が布陣、
 重軽火砲約200門、戦車64両(一式中戦車19、九七式中戦車20、九五式軽戦車25)を有し、
 装備、弾薬備蓄ともに当時としては比較的優良であった。

 ソ連軍上陸正面となった北部遊撃隊(独立歩兵第282大隊 村上則重少佐)の戦闘計画概要

 1) 敵の上陸に当たっては極力水際において打撃を与える。
 2) 敵侵入後は神出鬼没敵を奇襲しその前進を遅滞せしむるとともに、その後方部隊を攻撃して攪乱する。

 
 千島における対ソ戦

 8月15日 それまで連日行われていた米軍機の空襲は全方面で中止されたが、
 同日夕、濃霧の中を国籍不明機(ソ連軍機)が占守島を爆撃した。
 第91師団長 堤不夾貴中将は「玉音放送」を拝聴、その他の諸情報から終戦は確実と判断、
 「万一ソ連軍が上陸した場合は戦闘を行わず爾後の命令指示に従い行動せよ」と指示した。
 その後方面軍より正式に戦闘行動停止の命令が届き、兵器処分のための海中投棄やその準備が行われた。
 終戦確定後にソ連軍が上陸作戦を実施しようとは考えていなかったのである。

 8月17日 0130 突如ソ連軍の上陸援護砲撃が開始された。
 0200頃 海上エンジン音聞こゆ との至急電が入電、上陸正面の独歩282大隊長 村上少佐は、
 軍使が夜中に来ることはない、と的確に判断、直ちに「全員配備につけ」を命令した。
 村上少佐がソ連軍上陸正面の竹田浜に配置していたのは、
 歩兵2個小隊、速射砲3門、大隊砲3門、臼砲4門、野砲2門で、
 後方の大隊本部には10センチと15センチの加農砲各1門と高射砲2門があった。
 0230 強襲上陸して来たソ連軍に対し海岸の守備隊は応戦を開始、千島における対ソ戦が開始された。
 薄暗く霧は深かったが十分な訓練を積んでいた成果はたちまち現れた。
 我が野砲、速射砲ほかは激烈なる砲火を浴びせ、撃沈、擱座させた艦艇は確認しただけでも13隻以上に達し、
 海中に投げ出されたソ連兵は3000名以上、戦死者も同数を下らないものと推定された。

 ソ連軍にとって不幸なことは、上陸指揮官の乗った舟艇が撃沈され無統制になってしまったことと、
 天候不良のため空軍の援護が散漫だったことであった。
 このため辛うじて上陸した部隊も著しい損害が続出していた。
 0210 第一線から報告を受けた堤師団長は全兵団に戦闘準備を下令、
 0230 戦車第11聯隊に対し、上陸せる敵を撃滅するよう命令した。
 連隊長・池田末男大佐は、「上陸軍を一人残さず海に叩き落すまで奮戦せよ」と訓示、
 戦車聯隊の意気は旺盛であった。
 濃霧の去来する各所で紛戦が起こり、戦車聯隊は2回の攻撃でソ連軍歩兵を蹂躙、高地の麓まで撃退した。
 ソ連軍は火砲はなかったが多数の対戦車ライフルを有しており、このため多数の戦車を失い、
 池田連隊長、指揮班長丹生少佐らが戦死、我が損害も少なくなかった。

 午後になり、海軍北東航空隊派遣隊と陸軍飛行第54戦隊残留隊に出撃命令が下された。
 九七艦攻4機、一式戦隼4機の陸海混成部隊は、上陸地点の艦船やソ連カムチャッカの拠点に反復攻撃を行った。
 さらに堤師団長は、歩73旅団(杉野巌少将)と歩74旅団(佐藤政次少将)を集中させ、両旅団を並列して
 一挙にソ連軍を壊滅させるという攻勢準備を進めていた。
 ところがその準備中の8月18日午後、第5方面軍から戦闘停止の命令が届き、
 小戦闘は続いたが21日には停戦が成立した。

千島での対ソ戦における戦果と損害
日本軍死傷者 1018名  
ソ連軍死傷者 1567名 うち戦死者516名

 残留していた一般島民は、島の産業維持のためソ連軍に引き止められていたが、
 昭和21年から段階的に日本へ送還を行った。

 また千島全部で約5万の日本軍捕虜の多くが樺太経由でシベリアに移送、強制労働に従事させられた。
 その後ソ連軍は9月5日までに歯舞諸島に至る全千島を占領、
 ソ連及び後継ロシアによる実効支配占拠は今日に至る。

 
 対ソ戦の意味

 ソ連は終戦翌日の8月16日、捕虜のソ連領移送は行わないと指示しておきながら、
 8月23日 日本軍捕虜60万人のシベリア移送計画の極秘指令を発し、
 最長11年余にもわたる長期間、劣悪な環境下に抑留、労役させ、約6万人の死者を出した。
 この不当なる長期抑留は、ソ連の北海道占領断念の代償である可能性が高い。
 (シベリア抑留に関しては関東軍密約説などという裏面史が散見されるが、「南京虐殺」程度の信憑性である)

 すなわち、ポツダム会談での米ソ軍事境界線は千島方面が明確でなかった為、
 既成事実を先に作りたかったスターリンは、樺太占領の後に北海道北部占領作戦を計画していたのである。
 北海道侵攻作戦を中止した大きな理由は米トルーマン大統領の拒絶にあったが、
 作戦を強行して米軍と衝突した場合、地上部隊はともかく海空軍が圧倒的優勢な米軍に対し、
 ソ連軍に勝ち目がなかったことも理由であろう。
 さらに樺太・千島での日本軍の善戦が北海道侵攻を未然に防いだことも事実である。

 このようにソ連は和平仲介を依頼しつつあった日本との「日ソ中立条約」を破棄して攻撃を加え、
 南樺太・北千島のみならず歴史的にみても日本固有の領土である千島列島、歯舞諸島までも占領し、
 多数の日本軍将兵を長期抑留させた。
 さらに略奪暴行によって多くの在留邦人が犠牲となり、その災禍は満州の多くの都市、樺太の真岡、
 北海道への引き揚げ船撃沈など枚挙にいとまがない。

 ソ連は極めて短期間の軍事作戦によって極東における巨大な利益を得ることができた。
 一方我が国のソビエト及び後継国ロシアに対する不信、反ソ感情は拭いがたいものとなり、
 冷戦状況下の対立は、領土問題の解決を見ない21世紀の今日もなお継続しているのである。


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