ブラウン環礁はトラック島北東1240KMにある直径28KMの円形の環礁で、約40個の島々からなっていた。
日本海軍は大艦隊の良好な泊地として昭和17年11月 海軍第4施設部の手で飛行場が建設され、
昭和18年3月 中攻の滑走路約1300Mが完成していた。
同島の警備は昭和18年1月 クエゼリン島から派遣された少数の監視哨から始められ、
10月頃には海軍警備隊分遣隊61名が上陸していた。
昭和19年1月 海上機動第1旅団が満州から進駐、本格的な防備を進め、
1月上旬末までにエンチャビ、エニウェトク、メリレンの3島に配備された。
旅団長西田少将は旅団司令部をメリレン島に置き、海軍第61警備隊分遣隊を指揮下に入れた。
旅団長はブラウン島に上陸するや、同島がほとんど無防備であることを見て、直ちに島内を偵察、
各島に守備隊を派遣するとともに1月8日 メリレン島守備部隊に対し展開命令を発令した。
1月22日旅団長は、米軍の上陸兵力を最小限歩兵3個師団と圧倒的な進攻兵力を予想した。
その上で2月5日に「防御戦闘要領」を発行。
「この際祖国に殉じる決意を固め、犠牲的精神を発揮することが必要である(中略)
最後の段階においては皇軍の伝統と旅団の名誉のため捕虜となることを禁ずる。
戦闘に堪えない傷病者は自決する」 と示した。
守備隊は築城に多大な努力を払ったが、 食糧の欠乏と気候の不順、時間不足のため 完成には至らなかった。
それでも地下に掩体を構築し
またエンチャビ島には多数のセメント、トタン、木材があり、
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エンチャビ島の作戦経過
1月31日 |
艦載機による初空襲。当時ブラウン環礁には10数機の陸攻があり、ブラウン来襲に備えていた。 1600 戦爆連合で来襲、空中退避中の4機は行方不明、他は全機地上大破炎上した。 |
2月18日 |
高速空母と護衛空母による猛烈な準備攻撃開始。 艦砲も少なくとも2800トンの弾丸をエンチャビ島に撃ちこんだ。このころには各島の地上防御施設は コンクリート地下壕を除き、地上にあるものはほとんど破壊されていた。 だが人員の被害は少なく、約40〜50名に止まっていた。それも倒木や建築物の倒壊などの 間接的な原因によるものが多かった。夜になり一晩中米軍砲火が吹き荒れた。 しかし艦砲は弾道が水平すぎていたため平らな島を通り越して水面に水しぶきをあげることが多かった。 守備隊はこの砲撃の合間をぬって陣地の補修、増強を実施した。 この日の砲爆撃によって人員1/3に損害があったようであるが、総員の士気は盛んであった。 |
2月19日 |
0544 隣接する小島からの支援射撃を含む米軍の一斉砲撃と航空攻撃の中、上陸用舟艇が海岸に殺到した。 ワトソン准将指揮の8000名の陸軍と海兵隊である。 日本軍の火砲の大部は砲爆撃で破壊され、残った擲弾筒などで激しく対舟艇射撃を実施、 間もなく米海兵第22連隊の3500名が上陸を終えた。 日本軍は西半部の滑走路付近で頑強に抵抗、敵上陸の約1時間後突撃ラッパとともに全員突撃を敢行した。 0730 米戦車数台が全島を蹂躙、守備隊は組織的戦闘力を失った。 その後は個々の抵抗を続けるだけであった。 1340 ワトソン准将はエンチャビ島占領を宣言した。 |
戦果・損害
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海上機動第1旅団長・西田實少将 第2中隊長 松下勲大尉
軽戦車 3両 |
エニウェク島の作戦経過
エニウェク島は長さ4200M、幅が220M、北に行くに従い細くなっていく珊瑚砂の島である。
米軍は最初エニウェク島とメリレン島には日本軍守備隊が配備されていないか、
または少数の兵力のみと判断していた模様であった。
エンチャビ島から押収された書類によって両島に防備兵力があることを知り、
利用できる全兵力で逐次攻略することに計画変更した。
2月20日 |
この日までの連続した航空攻撃や艦砲射撃により、集積した弾薬は歩けないほど誘爆し、 食糧や兵器も大半は爆砕され人員の損害も約200名に達した。 0618 米上陸部隊第一波は海岸に到着、後続部隊の計3個大隊も続いて上陸した。 守備隊は海岸でわずかな抵抗をしただけであったが、敵上陸部隊の行動は緩慢で混乱していた。 0930 米軍は島を縦断する道路の線を突破して南方に進出したが、 守備隊は至るところに拠点を占領、迫撃砲や小火器で頑強に抵抗した。 米軍はさらに予備隊を上陸させ1250 ついに日本軍の陣地は突破された。 米軍は夜間も攻撃を続行した。 |
2月21日 |
早朝 守備隊約40名は海兵大隊の戦闘指揮所に突撃、海兵隊は作戦係将校ら10名が戦死した。 この間北に向かった上陸部隊は次第に日本軍を島の北端に圧迫していた。 午後 約50名の突撃によって米軍に対する組織的抵抗は最後となった。 この攻撃を撃退してからも米軍の動きは緩慢で、翌日になって北部地区の掃討を終えたのである。 |
2月22日 | 1330 ハリー・ヒル提督はエニウェク島の占領を宣言した。 |
戦果・損害
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第1大隊長 橋田正弘中佐
軽戦車 3 |
メリレン島の作戦経過
先に占領したエニウェク島で我がメリレン島防御計画資料を入手した米軍は、
艦艇と飛行機によって3日間にわたり昼夜連続してメリレン島を攻撃
さらに環礁の北側に隣接するジャプタン島に砲兵を揚陸、支援射撃を展開した。
しかしいずれも日本軍の地下施設のため十分な効果を得ることはできず、
エンチャビ島と同様に艦砲の弾道が近距離で低伸のため平らな島を通り越し、
水面に水しぶきをあげることが多かった。
2月20日 |
0608 米攻略部隊上陸開始。 戦車を第1線とし、その直後に爆破隊と火炎放射機隊を続行させ、日本軍陣地を焼き払い、爆発した。 日本軍は速射砲と地雷をもって対抗したが 1030 米軍戦車と徒歩部隊は島の北岸に達し、島の南部も1630までには占領された。 ワトソン将軍はメリレン島の占領を宣言した。 だがこの後、地下壕にもぐった守備隊を掃討するため、多大な死傷者を出した。 |
戦果・損害
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第3大隊長 矢野年雄大佐
軽戦車 3両 |
作戦の終末
昭和19年2月25日1600 大本営は、第4艦隊長官の詳細な報告を受け、
クェゼリン、ルオットの玉砕をラジオにより発表した。
一方ブラウン島の玉砕については、国内に与える士気上の影響を心配してか、とうとう未発表に終わった。
中部太平洋方面作戦の目的は、わが東正面における哨戒索敵による米進攻部隊または
その支援機動部隊の早期補足であった。
しかし広範な海域に対し、消耗を続けた我が航空戦力で哨戒・索敵は極めて困難であった。
我が海軍は、当初、島嶼の防備は制海の確保で維持できると考え、陸兵による防備はあまり重視していなかった。
しかし制海確保が得られなくなって陸軍の増強が開始されたが、制空権のない陸兵増強は、
制海の確保にはとって代わりえなかった。
すなわち支那事変と同様、「点」、せいぜい「線」の確保はできても「面」の確保は不可能であった。
米軍は、島嶼への進攻にあたっては機動部隊をもって徹底的に我が制空権を排除した後上陸してきた、
守備隊は勇戦敢闘したが衆寡敵せず全員壮烈なる玉砕を遂げた。
その陰には制空権なき島嶼の防衛は成り立たないことを立証したのであった。