テニアン島他の作戦

 在テニアン島の陸海軍首脳

 テニアン作戦経過  第1航空艦隊司令長官
 同 参謀長

 第56警備隊司令
 第1021航空隊司令官
 第121航空隊司令

 第50聯隊長

 角田覚治 中将
 三和義勇 大佐

 大家吾一 大佐
 粟野原仁志 大佐
 岩尾正次 中佐

 緒方敬志 大佐

 海軍は警備隊と防空隊が計1400名
 その他基地業務や司令部要員などが3000名弱

 12センチ高角砲14門、25ミリ連装機銃24門
 14センチ砲9門、3年式12センチ砲4門

 陸軍は歩兵4個大隊、砲兵1個大隊
 九五式軽戦車9両などで、約4000名

 在留邦人については、婦女子及び防衛生産に
 不必要な者の内地引揚の方針が立てられていた。
 だが具体策は確定しなかった。また帰国を諦め
 最後まで同島に踏みとどまり軍に協力する
 という人も多かった。

 内地に引き揚げた人員は約2300名
 米軍来攻時には15700名(内朝鮮人2700名)
 の邦人が在島していた。

 
 テニアン島における日本軍の作戦準備

 当初第29師団は、歩兵第18聯隊をテニアン島に配備する予定であったが
 途中の海難のため大損害を被ったので、歩兵第50聯隊主力をテニアンに派遣することに変更した。
 なお同聯隊のなかでも第1大隊・砲兵1中隊はサイパン島へ、第10中隊・速射砲1分隊はパガン島守備隊であった。
 歩兵第50聯隊はただちに陣地構築に着手、3月15日ごろまでに応急の野戦陣地を構築した。
 その後小畑軍司令官は、根本的にマリアナ群島内の配置を変更し、第50聯隊はロタ島に転用し、
 第1派遣隊(のちの独混47旅団)をテニアンに派遣する予定であったが、
 6月11日からのマリアナ空襲によって移動・転進は不可能となった。

 6月15日 サイパン島に上陸した米軍に対して、テニアン島北西部の山砲中隊が砲撃したが、
 米軍の巨弾を受けて沈黙した。海軍の14センチ砲台は米戦艦に命中弾を与え、これを大破・炎上させたものの、
 サイパン島守備隊の勇戦を目前に見ながら、米軍艦艇の封鎖のため積極効果的な支援はできなかった。
 テニアン守備隊はサイパンの戦況を逐次詳細に報告し、大本営に再三にわたって援軍の投入を要請した。

 6月中の敵の艦砲や空襲による我が損害は比較的少なく、戦死25、負傷35であった。
 しかしテニアン市街の大部は破壊され、陣地施設も地上にあるものは相当の被害を受けた。
 7月に入り中央からの命令によって1航艦司令部や飛行機搭乗員の潜水艦による脱出が企図されたが
 いずれも失敗に終わった。脱出計画は軍と邦人の士気に微妙な影響を与えたという。

 
 テニアン島の作戦経過
7月24日 0605 米軍上陸用舟艇100隻以上は一斉に前進を開始した。
米軍上陸部隊が海岸から200−300Mに接近した瞬間、一斉に重砲が攻撃を開始
米軍を撃退して上陸企図を挫折させた。
また海軍砲台は戦艦コロラドに22発の命中弾を与え、駆逐艦ノーマン・スコットは艦長以下多数が死傷した。
だがこれは米軍の陽動作戦であった。
0730 米軍は上陸用舟艇約150で、陽動作戦のため手薄となった北西海岸に上陸した。
水際に配備された第3中隊と海軍陸戦隊は、米軍の砲爆撃と水際の戦闘のためほとんど全滅し
米軍は日没までに海兵1個師団と山砲4個大隊を上陸させた。
米軍死傷者は240名(うち戦死15名)であった。

日没とともに逆襲が準備された。三方から米軍を包囲撃滅するもので各部隊は移動を開始した。
2400 夜戦による逆襲開始。だが米軍砲兵の猛烈な弾幕射撃と照明弾によりほとんど前進できないうちに
夜明けとなり、約2500名にも及ぶ損害を受けて反撃は失敗に終わった。
この攻撃で、第1、第2、歩135聯隊の第1大隊長は其々戦死、戦車は4両を残すだけとなった。

7月25日 上陸した米軍は、サイパンからの増援を加え次第に態勢を整え逐次前進していった。
守備隊長 緒方大佐は、部隊の損害が大きく通信連絡不通のため部隊集中ができず、
攻撃を断念、態勢を整理することに決した。
7月26日 0400 新しい防御線に後退集結した兵力は約2000名、山砲8門、糧食1/2定量であった。
7月27日 この間テニアン島在島の15000名中、3500名の民間人は義勇隊を編成
よく軍に協力、戦闘に従事していた。
同日 テニアン最高指揮官の名前で中央に電報を発信、民間人の勇戦敢闘を報告した。
7月30日 米軍はテニアン市街を占領、戦況はいよいよ最後の段階に近づいていた。
7月31日 我が守備隊は守勢から攻勢に転じ、水源地、テニアン町南側付近、第3飛行場南側で激闘を展開した。
激しい攻防戦は夕刻まで続いたが、我が方は死傷続出し島南端のカロリナス高地に圧迫された。
水源地は米軍の手中に陥ち、最後の抵抗線に突入する態勢となった。
夜半 緒方連隊長は大本営とグアムの小畑軍司令官宛最後の報告を行った。
8月 1日 前夜半から早朝にかけて3度にわたる反撃を実施、激烈な白兵戦のあと日本軍は撃退された。
海軍の栗原大佐、設営隊長林技術少佐をはじめ多くの将兵が戦死した。
1855 米上陸部隊指揮官 シュミット将軍はテニアン占領を宣言した。
8月 2日 夜半 緒方連隊長は光輝ある軍旗を奉焼、残存部隊と民間義勇隊等約1000名は最後の攻撃を敢行した。
敵の猛烈な機関銃、迫撃砲火、火炎放射戦車などのため死傷者続出、緒方連隊長は後退中に戦死した。
また角田司令長官は手榴弾を持って壕をでたまま帰ることはなく、三和参謀長以下幕僚もその職に殉じ、
第56警備隊司令大家大佐も戦死、守備隊の組織的戦闘は8月3日の夜明けとともに終わった。

 その後の遊撃戦

 生存者は数人から数十人の集団となって米軍の施設、飛行機、自動車を破壊して遊撃戦を続けながら、
 友軍のテニアン奪還の日に期待した。しかしテニアン島はサイパン、グアムとは異なり、隆起珊瑚からなる
 平坦な島で、遊撃戦には不向きな地形であった。 昭和20年8月下旬、盛んに終戦を放送した米軍に対し、
 生存者の最上級者 桝谷中尉以下は投降した。終戦後の収容者は61名(民間に潜伏した者を除く)であった。

 
 戦果・損害
  陸軍 海軍 米陸上部隊
戦死者 約4000 約4100    389
戦傷者       1816

 各島嶼守備隊の勇戦敢闘

 島嶼守備陸海軍部隊は、戦略的悪条件にもかかわらず、日本軍伝統の真価を発揮して勇戦敢闘した。
 軍中央部の情勢判断と対策の遅延による兵力投入時期の遅延、
 米潜水艦や船舶不足による輸送の困難、築城資材の不足等、各島ともに十分な作戦準備の余裕がなく
 米軍の来寇を迎えたのであるが、現地部隊はこれら悪条件を克服して必勝の信念に燃え
 平素の訓練の成果を遺憾無く発揮したのであった。

 マリアナ失墜に伴い大本営は、比島、台湾、南西諸島にわたる海洋第一線を決戦場として、
 いわゆる「捷号作戦」計画により最後の反撃決戦を実施し、光輝ある戦争終結の端緒を開こうと企図した。

 昭和19年8月〜10月を目途として作戦準備を急ぐこととなった。

 
 その他諸島の防備作戦

 アギグァン島の作戦経過
 テニアン島南西約9KMの小さな孤島アギグァン(アグイガン)島には
 昭和19年4月21日 歩兵第50聯隊第2中隊の山田少尉の指揮する約40名が派遣されていた。
 艦砲射撃によって若干の死傷者をだしたが、主として夜間耕作によって芋を栽培、
 これを主食にして終戦に至った。
 終戦時の兵力は隊長以下60名で、テニアンからの脱出者、補給要員等で20名増加していた。

 ロタ島の作戦経過
 グアム島北方40KMに位置するロタ島は、昭和19年初頭までは何等の軍事施設もなく、
 サイパンから海軍の見張員6名が派遣されていただけであった。
 昭和19年3月、マリアナ諸島防備強化のため陸海軍部隊が進出、数度にわたる配備変更ののちに
 独立混成第10聯隊第1大隊を主力とする陸軍約1000名
 (他に海軍第56警備隊派遣隊 341空、265空派遣隊、設営隊など)を教育総監部派遣教官から
 今川茂雄少佐が守備隊長として指揮していた。

 サイパン、グアム、テニアンの米軍占領後はパガン島とともに敵中に孤立したが、
 地理的特性を利用して本土空襲に向うB29の行動をいち早く中央部へ打電し、大本営の作戦指導に寄余した。
 昭和19年3月以降の陸軍戦没者は84名、海軍は152名で、昭和20年9月1日の人員は1853名であった。
 昭和21年10月下旬から3回にわたって帰還、復員を完結した。

 パガン島の作戦経過    参考  遥かなるパガン島よ
 マリアナ諸島の北端近くに位置するパガン島は、本来は無人島で飛行場も不時着用として使用
 されただけであった。だが絶対国防圏上の要点であり、第31軍は同島をサイパン・テニアン基地群の
 一環とし、小笠原集団(とくに硫黄島)との連携基地として堅固に守備し、これを確保するよう指示していた。
 昭和19年6月13日 独立混成第9聯隊が臨時編成、天羽馬八大佐(のち少将 23期)以下
 約2000名が守備した。
 守備部隊は全員一致して陣地構築、訓練、食糧増産等、戦力の維持に努めた結果、
 昭和19年6月の空襲以来、1日平均20機の爆撃を受けるも、終戦まで損害はほとんど皆無であった。

 上陸当初は衛生、給養状態も良好であったが、現地物資の不足、補給の途絶によって
 栄養価は1日あたり1200カロリーまで減少した。その後の努力によって患者は減少したが、
 終戦までの人員の損耗は死亡279名、生死不明26名(サイパン出張等)、他に海軍の戦没者は
 49名にのぼった。
 昭和20年10月下旬から数次にわたって復員、天羽少将以下最後の帰還は昭和21年3月6日のことであった。


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