F1 2002 シーズン ハイライト (後編) | |
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公開終了@。公開終了A。 公開終了B。公開終了C。 公開終了D。公開終了E。 公開終了F。 分割してます。 283.0MB 36m52s | 2002年シーズンのハイライト後編です。 とりあえず第一期分の公開はこれにて終了させて頂きます。 |
F1 2002 シーズン ハイライト (前編) | |
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公開終了@。公開終了A。 公開終了B。公開終了C。 公開終了D。公開終了E。 分割してます。 273.0MB 35m35s | 2002年シーズンのハイライトです。 最初の3戦目くらいまでは高音域にノイズが入ってますので、再生環境によっては、お聴き苦しいところがありますが御了承下さい。 |
WRC 2002 第2戦スウェディッシュ | |
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公開終了@。公開終了A。 公開終了B。公開終了C。 分割してます。 77.9MB 25m29s | 雪のスウェディッシュラリーは、206がここでの強さをまざまざと見せつけた結果となりました。 グロンホルムがSS5でトップに立ってそのままトップを守り、このイベント2勝目を挙げ、2位には去年の覇者、ロバンペッラが入りプジョーのワンツーとなりました。 北欧のドライバーしか勝てないこの特殊なラリーで、スペインの英雄 サインツが3位に食い込む活躍を見せました。 4位はまだマシンに慣れていないとはいえ206のポテンシャルに助けられたバーンズが入って、プジョーは1、2、4 と上位を占めることになりました。 5位だったフォードのプライベートチームのトゥオヒノがチームオーダーで、最終サービスに故意に遅れてペナルティを受け、7位になり6位に繰り上がったフォードのコリン・マクレー がポイントを獲得しました。5位は兄コリンとの兄弟対決を制した アリスター・マクレーが入りました。 |
F1 ベルギーGP 10年間のスパ | |
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公開終了@。公開終了A。 公開終了B。公開終了C。 公開終了D。 分割してます。 88.8MB 9m59s | シリーズ中、最も長い スパ・フランコルシャン・サーキットは、アルデンヌの森の中を抜けるサーキットです。 オー・ルージュ、スタブロー、バスストップシケインなど名物コーナーが多く、ここで速いドライバーは本当に速いドライバーとまで言われます。1周が長いことと、高低差が100m以上もあり、コースの端と端で天気が異なることもあり、ピットインのタイミングが勝敗に大きく関わります。 ベルギーではたばこ広告規制法に伴い、今年のシーズン第14戦としてスパ・フランコルシャンで開催する予定だったベルギー・グランプリの開催を中止する事になりました。 今回は1992年から2001年までのハイライトをダイジェストで紹介します。 |
F1 モナコGP 22年間のモンテカルロ | |
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公開終了@。公開終了A。 公開終了B。公開終了C。 公開終了D。 分割してます。 98.3MB 10m03s | 3大伝統レースの1つと言われるモナコGPは、F1サーカスの中で最も独特の雰囲気を醸し出しています。 市街地を走る狭いコースは、抜きどころがほとんどなく、予選での順位が大きく影響します。地中海を左に見て走る海岸沿いにあるヌーベルシケインは、モナコ最大の抜きどころ。 カジノ前、ローズヘアピンと名物コーナーも多い。歴代優勝者も、アラン・プロスト、アイルトン・セナ、ミハエル・シューマッハら、チャンピオンクラスが繰り返し登場。特に、モナコで強かったアイルトン・セナはモナコマイスターという特別な形容で称されていました。 今回は1980年から2001年までのモンテカルロのハイライトをダイジェストでお送りします。 |
PIKES PEAK INTERNATIONAL HILLCLIMB | |
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公開終了@。 17.6MB 2m49s 公開終了A。 8.1MB 1m07s 公開終了B。 18.0MB 5m14s | パイクスピークはコロラド州、コロラドスプリング市の西方ロッキー山脈の一部にある標高4301mの山の名前です。1806年、ゼブロン・モンゴメリー・パイク中尉によって発見されその名がつけられました。 1915年に完成した未舗装のハイウェイを使って、1916年から始ったレースがパイクスピークオートヒルクライムでありまして、大戦時に中断がありましたが、インディ500と共に世界有数の歴史を誇ります。 レースは標高2861mのスタート地点から4301mの山頂までの高低差1400m、コース全長20km、156箇所のコーナーを一気に駆け登り、それに要したタイムで勝負が決ります。 コースは一部舗装されているものの、ほとんどは断崖絶壁のダートコースであり、危険を伴うだけでなく、ドライバーとマシンは薄い空気の中で挑戦しなければいけません。また、コースはスタートからゴールまで3つのセクションに分けられます。森林地帯でハイスピードコーナーが続くボトムセクション。複雑なコースによりドライビングテクニックが要求されるミドルセクション。そして、森林限界点(3660m)を越え、赤茶けた岩石と残雪の世界が広がるトップセクション。 決勝では、この3つのセクションを走破し、山頂のゴールを目指します。 今回は@が1986年、プジョー205T16のパリ・ダカール用にロング・ホイール化したマシンに巨大なウイングを装着したピーク・スペシャルの映像です、ドライバーはアリ・バタネン。 Aは1987年、グループBでも最高出力を叩き出した、アウディ・クアトロS1のピーク仕様の映像です、ドライバーはワルター・ロール。 Bは1987年、プジョーが405モデルの普及の為にパリ・ダカールに送り出した405T16によるピークのタイムアタックを記録したドキュメンタリー映像です、ドライバーはアリ・バタネン。 |
F1 2000 ミハエル・シューマッハ ビデオクリップ | |
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公開終了。 36.7MB 4m03s |
現在、歴代最多勝記録を更新中の彼は、メルセデスの英才教育を受け、SWC、ドイツF3などを経て、F1にデビューしました。 早くから次世代のチャンピオンとしての評価を得て、デビュー18戦目にしての初優勝、25歳にしてワールドチャンピオンとなりました。ベネトンでの2度のタイトル獲得後、フェラーリ復興の最終兵器として移籍。 96年以降毎年タイトル争いに絡み、2000年についにフェラーリに21年ぶりのドライバーズタイトルをもたらすなど、現代F1において「皇帝」と称される最強ドライバーとして君臨し、2002年にはファンジオと並ぶ5度めのタイトルを手にしました。 |
WRC ヘンリ・トイボネン | |
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公開終了。 36.3MB 7m49s | 1977年の1000湖ラリーにクライスラー・ベンジャーにより国際舞台にデビューしました。 1980年RACラリー、バルブを大型化したスペシャル・エンジンを搭載したGr2タルボサンビームロータスを駆り史上最年少ウィナーとなりました、この記録は未だ更新されていません。 1981年を以って、親会社のプジョーがタルボサンビームロータスの生産を打ち切ります、最も低予算なワークス・チームではありましたが、ヘンリは激走を見せ、タルボはマニファクチャラーズ・タイトルを獲得しました。
翌年からオペルのアスコナ400、マンタ400と乗り継ぎました。グループBの他のライバル達に比べ、大きくて重いマシンでは思うように成績を残せず、苦しいシーズンが続きましたが、その才能を認められ1984年、名門ランチアに移籍。 が、ランチアはもはやアウディの敵ではなく、ヘンリも勝ちには恵まれないままでいました。また、この年の後半戦からプジョー205T16がデビューし、圧倒的な強さを見せ付けていきます。 ランチアも同じレイアウトのマシンであるデルタS4を開発中でしたが、開発は遅れに遅れ、WRCデビューは85年の最終戦RACラリーになりました。 しかし、ヘンリの手によりストラトスや他のデルタと同様デビューウィンを果たすことになります。 86年のWRCは昨年からの連勝、ヘンリのモンテカルロ勝利で始まります。第2戦スウェディッシュのリタイア後、第3戦ポルトガルは観客を巻き込む事故により、
ワークス勢全チームがキャンセル、第4戦サファリはスペシャリストに任せて参戦しませんでした。
マルティニスポンサーのERCイベント、コスタ・スメラルダにてデルタS4で最期の優勝をします。第5戦ツール・ド・コルスでは彼は圧倒的に速かったそうで、2位とは2分以上の差が付いていたそうです。
事故が起こったのはSS18、左コーナーを飛び出して、崖下に転落、爆発炎上。86年モンテからコンビを組んでいたコ・ドライバーのセルジオ・クレストと共に他界しました。5月2日のことでした。 もし存命ならば、ユハ・カンクネンが持つWRC最多優勝記録はヘンリが持ち、更新していたことでしょう。 |
WRC PEUGEOT 205 T16 | |
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公開終了。 23.3MB 5m01s | 「ミッドシップ+ターボ+4WD」という勝利の方程式とでも言うべき革新的なレイアウトを引っさげて84年のツールドコルスでデビューした205T16はその年5戦中3勝。 本格参戦した85年は7勝し、早くもドライバーズ・マニュファクチャラーズのダブルタイトルを獲得。86年もタイトルを獲得しましたが、その年でグループBそのものが廃止され、プジョーも撤退を余儀なくされました。 今回は世界的なパワー戦争を象徴するグループBマシンの一つ、205T16です。 再生環境によっては音が大きいかも知れませんので、最初音量を絞ってご覧下さい…すいません。 |
WGP 1986 フレディ・スペンサー ライディング解説 | |
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公開終了。 31.8MB 2m51s | ライダースクラブの編集長である根本 健氏によるフレディ・スペンサーのライディング解説です。 2度目のゼッケン1を付けたスペンサーでしたが、その右手は病に蝕まれていました、後に脊髄の神経圧迫によるものと判明しましたが症状は重く、この年は1ポイントも獲得できず終わってしまいました。 |
F1 オーストラリアGP ビデオクリップ | |
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公開終了。 18.4MB 1m59s | オーストラリアGPは1995年までアデレードで行われ、その翌年からメルボルンで開催するようになりました。 公園内の一般道を利用したストリートサーキットは、高速コーナーとタイトなヘアピンのコンビネーションでサーキットは構成されています。特にチャレンジングなサーキットではないものの、多くのドライバーはこのサーキットを好んでいます。 一般的にこのサーキットはダウンフォースを多く必要とし、またタイヤにもきついサーキットとなっています。 今回はメルボルンのビデオクリップです。 |
F1 ジル・ヴィルヌーヴ トリビュート | |
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公開終了@。 59.6MB 6m18s 公開終了A。 10.9MB 2m02s | 生涯戦績 66戦6勝、PP獲得数 2回、ファステストラップ 7回とドライバーズ・チャンピオンシップを1度も獲得しておらず、記録だけを見てしまうと特に際立ったものではありません。 しかし今でもジルが人々の話題に上るのは、常に120%、全身全霊のドライビングは何かオーラのような輝きを放っており、その勇気、芸術的なマシンコントロール、限りないファイト、彼の走りは人々の心に例えようのない感動を刻みつけたからではないでしょうか。 1982年、第4戦サンマリノGPで、チーム・メイトのディディエ・ピローニが紳士協定を無視し、ジルの優勝を盗んでしまいました。これに激怒したジルは続く第5戦ベルギーGPでピローニを叩きのめすべく予選に臨むのでした。 そして予選2日目、ピローニがトップタイムを叩き出したのを見たジルはピローニの野望を打ち砕くため、人生最後のピットアウトをします。その時コース上にはマーチのヨッヘン・マスがいました。 ジルが猛スピードで迫ってくるのを確認したマスは、レコードラインを譲るためマシンを片側に寄せます。この動きとほぼ同時にジルがステアリングを切った方向は、マスと同じ方向だったのでした。マスのマシンのタイヤに乗り上げたジルのマシンフェラーリは150mも飛んで大破、マスの目の前に降ってきました。 宙に浮いたフェラーリは、着地の最初の一撃でフロント部を吹き飛ばし、シートベルトを止めてある部分も壊れてしまい、ビルヌーヴも首の骨を折っていました。さらに彼はマシンから20mほうり出されて金網に叩きつけられてしまいました。それは生身の体で耐えられる衝撃ではありませんでした。 1982年5月8日午前9時12分、この時からジル・ヴィルヌーヴは伝説のドライバーとなりました。 @はビデオクリップ、Aはゾルダーの事故映像となっています。 |
WGP 1987 フレディ・スペンサー | |
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公開終了。 37.9MB 3m25s | レースシーズンの開幕を告げるデイトナのプラクティス中に前のライダーの転倒を避けきれずにクラッシュし、鎖骨骨折。 第3戦西ドイツGPのフリー走行中に右高速コーナーで激しく膝をすりながらコーナーリング中にヒザカップが割れ、それが膝に食い込み裂傷を負う。 第6戦ユーゴGP公式予選3回目、タイムアタックを開始直後、前を行く遅いライダーに立ち上がりのラインをふさがれ、白線に乗り、必死にこらえるもスリップダウンし、またしても鎖骨骨折。 第9戦イギリスGP決勝、スタートからトップで周回を重ねるが、3ラップ目、リアブレーキがロックするという異例のトラブルに見舞われ、リタイア。 第12戦サンマリノGP決勝4ラップ目、ストレート先の左コーナーでF・キリが追突する形でフレディにからみ2台そろって転倒リタイア。 第14戦ブラジルGP、コンタクトレンズが曇るというトラブルが発生。 以上がフレディの'87シーズンの総括です。 通算獲得ポイントは4、「本調子で走れば最速間違いなし」といわれたフレディ、ツキに見放され、運に弄ばれた'87シーズンとなりました。 |
WGP 1992 NSR500 | |
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公開終了。 11.0MB 1m25s | 外観上、'91年型と大きな変化を見て取ることのできないNSRでしたが、実はそのエンジンは大きな変貌を遂げていました。 2気筒ずつの同時爆発でありながらも、爆発間隔を従来と変え、不等間隔としました。これによって、限界付近でのコントロール性とグリップ性が向上しました。 この新型NSRを武器にドゥーハンがシーズン序盤を制することになりました。開幕戦から4戦、独走で4連勝を達成し、その後連続2位を挟んでシーズン5勝目を達成。驚異的な速さを見せ付けたのでした。 またこの年、実験的ながらフューエル・インジェクションも導入しています。 4ストロークマシンと違い、吸入と排気を同時に行う2ストローク・エンジンは電子制御で正確な空燃費を制御することは難しく、壮大なトライとなりました。 また、GPマシンのような高出力エンジンでは、エンジン自体の要求する空燃費の範囲も狭く、毎回正確な燃焼をさせることは非常に難しいことでした。 '93年型NSRにはフューエル・インジェクションは実戦配備されましたが、位相同爆エンジンのような脅威にはなりませんでした。 |
F1 1980 ブラジルGP | |
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公開終了。 25.4MB 2m38s | FOCAはイギリス系のチームが所属しており、FISAはどちらかと言えばヨーロッパのメーカー系チーム(フェラーリ、ルノー、アルファロメオなど)側に立った運営を行っていました。 F1の運営やレギュレーションに対してFISAとFOCAはことあるごとに意見が対立していきまして、F1GPをめぐっての主導権争いは1980年6月1日、スペインGPで事件が表面化したのでした。 メーカー系であるFISA系チームが参加を取りやめたのですが、グランプリはF1興行権を持つFOCAによって開催され、FOCA系チームの22台が参加して強行されました。ところが翌日、FISAはそのスペインGPが違法レースであったと表明し、結局、1980年のスペインGPは世界選手権として記録に残らないレースとなってしまいました。 今回は1980年1月27日の第2戦インテルラゴスのレースです。 1位:ルネ・アルヌー(ルノー) 2位:エリオ・デ・アンジェリス(ロータス) 3位:アラン・ジョーンズ(ウィリアムズ) |
F1 1980 モナコGP | |
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公開終了。 16.8MB 1m44s | 1970年台半ばに組織された「FOCA」(F1製造者協会)は、現在、FOAとして組織されている団体です。 FOCAとはF1コンストラクターの組合のような組織でありまして、当時FOCAの会長職に就いていたのがブラバムのチームオーナーだったバーニー・エクレストンでした。 FOCAは、かつては各チームがグランプリレースを開催している主催者と個別に行っていた様々な交渉事を一手に引き受け、チームがレースに集中できる環境を整えました。 いっぽうF1世界選手権の統括団体であるFIA内には、元々FIA-CSI(国際自動車連盟スポーツ委員会)というひとつの委員会組織がありましたが、ジャンマリー・バレストルがFIAの会長に就任した後、これをFISAという個別の組織に独立させ、F1の運営やレギュレーションに対して口出しをするようになりました。(以下続く…。) 今回は1980年5月18日の第6戦モンテカルロのレースです。 1位:カルロス・ロイテマン(ウィリアムズ) 2位:ジャック・ラフィー(リジェ) 3位:ネルソン・ピケ(ブラバム) |
F1 ロータス ビデオクリップ | |
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公開終了。 22.3MB 2m21s | 天才的なデザイナーであり、ビジネスマンとしての手腕も高かった故アンソニー・コーリン・ブルース・チャップマン(ロータスのエンブレムにあるACBCの文字はチャップマンの頭文字から取っています。)により1952年に創立されたロータス。 1958年にはモータースポーツの最高峰F1に参戦しました。チャップマンの奇抜なアイデアとエンジニアとしての理論、F1に対する情熱は数多くの名車を生み、名ドライバーを送り出しました。 数多くのコンストラクターズタイトルを獲得するとともに、グランドエフェクトカー、スポンサーカラーなど現代F1の基礎をいち早く導入したのもロータスでありました。 しかし、1982年12月にチャップマンが急死した後、夫人であるヘイゼル・チャップマンが後を引き継ぎましたが低迷、天才セナの加入と最強ホンダエンジンの獲得で名門復活を感じさせましたが、1990年代に入り財政難に陥り、1994年を最後にF1より撤退しました。 |
WRC アウディ ヒストリー | |
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公開終了。 10.8MB 4m14s | アウディ特集の2回目です。 映像がかなり荒いのが申し訳ないのですが。 今回は「S1」のパイクス・ピークの映像も収録されています。 |
WRC アウディ ヒストリー | |
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公開終了。 49.9MB 3m30s | アウディ特集を2回連続で紹介します。 モータースポーツの世界で無名に近かったアウディは4WDを武器に、80年代前半のグループBというカテゴリーでWRCに嵐を吹かしました。 今回は82年のクアトロからA1、A2、スポーツ・クアトロ、S1までをダイジェストで一気に見せます。 |
F1 2002シーズン ビデオクリップ | |
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公開終了。 37.9MB 4m49s | シーズン・インする前に早いとこ紹介してしまいましょう、と言う事で今回は「ビデオクリップ」です。 プロモーション風な感じなので好き嫌いが分かれるかも知れませんが。 …何か気の利いた紹介文でも書けって感じですねぇ、すいません。 |
F1 1979 オランダGP | |
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公開終了。 16.1MB 1m39s | 1979年8月26日の第12戦、ザンドフールトのレースです。 1位:ルネ・アルヌー(ルノー) 2位:アラン・ジョーンズ(ウィリアムズ) 3位:クレイ・レガッツォーニ(ウィリアムズ) |
WGP 1990 オーストラリアGP | |
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公開終了。 8.82MB 3m13s | '90シーズンの最終戦を迎えたフィリップ・アイランドはフィナーレを飾る最高の舞台となりました。 500クラスではドゥーハン、ガードナー、シュワンツ、レイニーの最高の戦いが展開され、観客を興奮させる活躍を演じてくれました。 ガードナー、2年連続優勝。 |
F1 ヨッヘン・リント トリビュート | |
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公開中@。 14.2MB 1m28s 公開中A。 1.45MB 0m19s | 1970年、ロータスを駆るポイント首位のヨッヘン・リントがイタリアGP公式予選で最終コーナー”パラボリカ”でガードレールに激突。救急隊の不手際から病院に運ぶのに時間がかかり、救急車の中で息を引き取りました。 フェラーリのジェッキー・イクスとクレイ・レガッツォーニが、その後追い上げるものの、リントの後釜となったエマーソン・フイッティパルディの懸命の活躍によってポイントゲットを阻み、リントの成績を超えるドライバーが現れず、死してワールド・チャンピオンとなりました。 長いグランプリの歴史の中でも初めての出来事となりました。 Aは”パラボリカ”の事故映像となっています。 |
F1 '98 ミカ・ハッキネン ビデオクリップ | |
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公開中。 35.5MB 3m42s | 「トリビュート」には早いので「ビデオクリップ」です。 紹介は不要とは思いますが、F1デビューは1991年のアメリカグランプリ、ロータスでデビューしました。 1993年にテストドライバーとしてマクラーレンに移籍。1994年にはエースドライバーとなりますがマシンは走ってくれない辛いシーズンが続きます。 さらに、1995年にはアデレードでの大クラッシュにみまわれてしまい。もう走れないとまで言われました。クラッシュを乗り越えての1996年はまだまだ苦しいシーズンが続くのでした。 しかし、1997年最終戦ヨーロッパグランプリに初優勝を遂げました、これまで苦しんだ思いを爆発させるかの走りを見せ、1998、1999年と2連覇を達成、2000年は好成績を残しましたが惜しくもランキングは2位に。 ミハエルに引けを取らない速さ・強さを見せてくれましたが、2001年最終戦鈴鹿を最後に「長期休養宣言」をし、現在に至ります。 |
WGP 1982 年間ダイジェスト | |
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公開終了。 25.3MB 5m32s | 「打倒ケニー」を掲げたスズキワークスが、前輪16インチのホイール&ノーズダイブを押さえるANDF(アンチ・ノーズ・ダイブ・フォーク)を採用したRG−γをデビューさせました。 これはライダーの腕でケニーにかなわないのなら、マシンでコーナリングを速くしようという策でありました。このスズキのもくろみは見事に成功。81年にはマルコ・ルッキネリが、82年にはフランコ・ウンチーニがチャンピオンに輝きました。 さらにはホンダも1982年から、それまで4ストロークの楕円ピストンエンジンを持つ革新的GPマシンNR500をあきらめ、勝つために軽量コンパクトな3気筒の2ストロークマシンNS500を持ち込んできました。この年ホンダはフレディが2勝、片山敬済が1勝を挙げています。 この間のケニーはといえば、不運が重なったことに加え新型のワークスマシンYZRの熟成不足もあり、まったく精彩を欠く2年間でありました。失意のケニーは、1982年後半の5戦を欠場(クラッシュから小指を骨折してはいたのですが…)するほどでした。 |
WRC 1986 年間ダイジェスト | |
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公開終了@。公開終了A。 公開終了B。公開終了C。 85.1MB 17m49s 分割してます。 | グループBには後発だったフォード。勝つ為には絶対であった4WDの分野では全くの未経験だったにも関わらず第2戦スウェディッシュに登場したRS200は素晴らしい成果を納めました。 しかし、グループBは85年ツール・ド・コルスでのアテリオ・ベッテガの事故死、アルゼンチンでのアリ・バタネンの大クラッシュ、 86年ポルトガルでの観衆を巻き込んだ死亡事故などWRCにおいて重大事故が頻発してその余りに行き過ぎた馬力競争に危険性が囁かれるようになりました。 そして決定的な出来事がツール・ド・コルスで起こりました、ヘンリ・トイボネンと コ・ドライバーのセルジオ・クレストが事故死、コースアウトにより崖下に転落した デルタS4は爆発・炎上、二人とも即死してしまったのでした。 この事故で グループBの規格そのものが問題となり、FISAは1986年を以って グループBを廃止する決定を下しました。同時に アウディがWRCからの撤退を決定、フォードもエントリーを自粛し、ラリーはランチアとプジョーの2強で争われることになりました。 プジョーはメイクスタイトルの防衛に成功しており、注目はドライバーズタイトルの行方となりました。サンレモではプジョーのサイドスカートが規定違反で訴えられ、結局3台のプジョーが失格となりました。しかし、RACの車検ではプジョーは合格となってしまいドライバーズタイトルは最終戦、オリンパスラリーにサンレモでの判定も同時に持ち越されました。 グループB最終戦、オリンパスラリーはカンクネンは序盤に受けたペナルティを挽回できずアレンが最終戦を制しました。しかしその11日後、FISAは サンレモの結果を無効とし、ユハ・カンクネンが逆転で王座についてしまったのでした。 |
F1 1979 イタリアGP | |
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公開終了。 19.4MB 2m00s | 1979年9月9日の第13戦 モンツァのレースです。 アルファ・ロメオが28年ぶりに177でF1に帰ってきました。 イタリアGPでは、フェラーリの二人とも(シェクターとビルヌーヴ)タイトルを狙えましたが、ナンバー2のビルヌーヴはチームオーダーに忠実に従い、確実にシェクターを援護しました。 ビルヌーヴは勝てたにもかかわらず優勝を譲り、シェクターはワールドチャンプになる事が出来、ビルヌーヴもシリーズ2位になったのでした。 |
F1 1977 モナコGP | |
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公開終了。 19.6MB 2m01s | 1977年5月22日の第6戦 モナコのレースです。 手持ちの資料が無く、参考文献も無かった為リザルトのみ掲載します・・・すいません。 1位:ジョディ・シェクター(ウルフ) 2位:ニキ・ラウダ(フェラーリ) 3位:カルロス・ロイテマン(フェラーリ) 見所はブラバムのBT45BやタイレルのP34モナコ仕様(ハーフカウル)といったところでしょうか。 |
F1 1977 イタリアGP | |
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公開終了。 34.5MB 3m37s | 1977年9月11日の第14戦 モンツァのレースです。 手持ちの資料が無く、参考文献も無かった為リザルトのみ掲載します・・・すいません。 1位:マリオ・アンドレッティ(ロータス) 2位:ニキ・ラウダ(フェラーリ) 3位:アラン・ジョーンズ(シャドー) |
WRC 1985 年間ダイジェスト | |
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公開終了。 38.6MB 8m02s | 世界的なパワー戦争時代を象徴するグループBカーは各メーカーが総力を挙げ、当時の先端技術が惜しみなく投入されて開発されました。 プジョーは205T16のエボリューション・モデルE2を投入、アウディもクアトロの最終進化版と言えるS1を、ルノーはグループ4マシン5(サンク)を進化させた5ターボMAXI、MGはV6 3LNAエンジンをミッドシップにレイアウトしたメトロ6R4、ポルシェは911の外観を持ちながら、911カレラ4とはまったく違うミッドシップ4WDの959で参戦。 日本勢ではトヨタがTA64セリカツインカム・ターボ、日産はS110シルビアをベースにオーバーフェンダーによるトレッド幅の拡大、名機FJ20Eの排気量を極限まで拡大し、4連キャブで武装したFJ24エンジンを搭載したRS240をWRCに投入し、未曾有の総力戦が展開されました。 ランチアは開幕戦に投入予定だった038ラリー(デルタS4)の開発が遅れ、037ラリーをさらに進化させたエボリューション・モデルVを投入しますが、マルク・アレン、アテリオ・ベッテガらの腕を以ってしても勝利を挙げる事が出来ませんでした。 しかし、最終戦RACラリーにその最終兵器は姿を現したのでした。 |
F1 1977 第10戦イギリスGP | |
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公開終了。 18.3MB 2m00s | 1977年7月16日、シルバーストーンのレースです。 この日の一大センセーションは、これまでヨーロッパでは一度も話題にされた事のない25歳のフランス系カナダ人、ジル・ヴィルヌーブと次に来るターボ時代の先駆けとなる、ルノーRS01の衝撃のF1デビューでした。 |
F1 1971 第9戦イタリアGP | |
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公開終了。 6.53MB 57s | 1971年9月5日、モンツァのレースです。 この年のモンツァは超高速スリップストリーム応酬が繰り広げられました。実に26回もラップリーダーがかわり、最後まで数珠繋がりでフィニッシュ。 1位ピーター・ゲシン(BRM)と2位ロニー・ピーターソン(マーチ)の差は史上最僅差の0.01秒。しかも5位までが0.6秒差という大接戦でした。大殊勲をあげたゲシンですが優勝となると、ここでの勝利1度のみ。また、この時の優勝平均速度が242.616km/hで史上最速。 |
WRC 1984 年間ダイジェスト | |
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公開終了。 42.6MB 8m51s | シャーシはダラーラ、エンジンはアバルト、そして、外観はピニンファリーナというまさにイタリアの英才たちが結集して作られたラリー037は排気量を2.1Lと拡大し、大型のスーパーチャージャーとその熱冷却用に水噴射システムを採用したエボリューションUとなりました。 ランチアチームにとって脅威となるアウディは速さと信頼性を増し、開幕から3連勝しその強さと速さを見せ付けたのでした。 ところがそのアウディを過去の車とさせてしまったのが、ツール・ド・コルスに登場した ミドシップ・ターボエンジン+フルタイム4WDというプジョー205ターボ16でした。 アウディクアトロはあくまで市販車として販売されることが前提であったので、ミッドシップレイアウトを採用することは不可能だったのに対して、プジョー205T16は外観こそ大衆車である205に似せていますが、セミパイプフレームを採用しており、エンジンは排気量換算による最低重量を考えて、わざわざ1.8LのDOHC直列4気筒ターボエンジンを採用するという徹底ぶりからもわかる通り、まさに市販車の皮を被ったレーシングカーだったのです。 そして、その理想のマシンである205T16がGr.Bでチャンピオンを奪取するのに時間はかかりませんでした。 |
F1 ニキ・ラウダ トリビュート | |
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公開終了。 46.5MB 5m01s | デビュー当時はさほど目立った存在ではありませんでしたが、フェラーリ入りしてから一転、トップドライバーの仲間入りを果たします。 75年、初タイトルを獲得、防衛のかかった76年ドイツGP、何でもない緩い左コーナーでカウンターのおつりをくらい、大クラッシュ炎上、瀕死の大重傷を負うものの奇跡のカムバックを果たし翌年にはタイトルも奪還しました。 しかも79年、突如の引退の後、復帰84年には0.5ポイント差で3度目のタイトルを手にするといった偉大なドライバーです。 映像の中にはF-1史上に残る問題作であるブラバムBT46Bも収録されてます。 奇才ゴードン・マーレーがロータス79に対抗すべく開発したこのマシンはリアウィング下部に巨大なファンが取り付けてあり、このファンで車体下の空気を強制的に排出させウィングカーと同様の効果を得ています。このファンはミッションから動力をとってベルトドライブで回転させていました。負圧となる面積はウィングカーより大きく、ダウンフォースも強力でした。 このマシンはレース出走前からレギュレーションに対する合法性が問われており、レース後他チームからのクレームが相次ぎました。 結局、以後のレースでは出場を禁止されました。F1のレギュレーションには「空力的付加物は動いてはならない」という項目があり、これに違反しているとされたのです。ブラバム側は、上に置いたラジエターを冷却するファンであると主張したが認められませんでした。 |
WRC 1983 年間ダイジェスト | |
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公開終了。 27.2MB 6m17s | グループBは1982年から開始されましたが、同年に限り旧グループ4も出走できたため、完全なグループB元年は1983年からとなりました。 連続する12ヶ月間に200台以上生産すれば認可(ホモロゲーション)が受けられることから、販売戦略を考える事無く、市販モデルとはまったく無縁のラリー用スペシャルマシンを開発することができました。 フロントエンジン+フルタイム4輪駆動のアウディ・クアトロと、ミドシップエンジン+後輪駆動のランチア・ラリー037との対決で幕を開けたグループB規定のWRCでした。 ランチアはそのレイアウトからもうかがえる通り、ターマックを得意とし、一方のアウディはグラベルを得意としていました。 走り方も対称的で、コーナー入口から出口まで華麗なドリフトアングルを決めて抜けて行くランチアに対して、一方のアウディは「アウディ走り」とも名付けられたようにコーナー入口で1回マシンを逆に振ってから、その振り返しでコーナーに入っていき、あとはアクセル全開でトラクションをかけて抜けて行くという走り方でした。 また、このアウディクアトロ以来、WRCに根付いた技術と言えば、左足ブレーキでしょう。 これも曲がらないマシンを荷重移動させてより曲がるため、そしてターボチャージャー特有のターボラグを最小限度に抑えるために出てきた技術です。 アウディクアトロは乗り方でも革新の乗り方を要求されたのでした。 余談になりますが、何故にアウディがこのような走り方しか出来なかったかと言えば、当時のアウディの4WDは今の4WDとは違ってセンターデフが無く直結となっていたため、ターンインでは強いアンダーステアが機構上、拭い去ることが出来なかったのでした。また、ホイールベースも長かったため、余計に曲がりませんでした。 |
F1 Tyrrell P34 | |
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公開終了。@ 13.2MB 1m26s 公開終了。A 3.26MB 43s | 1976年シーズンに、タイレルが実戦に投入した異色マシン。このマシンの開発コンセプトは、フロントタイヤの接地面積を大きくし、空気抵抗を小さくする試みとして開発されました。 フロントタイヤを小径化して空気抵抗をさらに減らし、タイヤを4輪とすることで接地面積を大きくしました。通常フロントには、13インチホイールを使用しますが、この前4輪、後2輪のタイレルでは10インチ位のものを使いました。 @はジョディ・シェクターとロニー・ピーターソンのドライビング、Aはロニー・ピーターソンです。フォード・コスワースDFVエンジン音が収録されているのはAとなってます。 |
F1 1979 フランスGP | |
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公開終了。 14.8MB 1m31s | フェラーリ312T4(ジル・ビルヌーブ)とルノーRS10 ターボ(ルネ・アルヌー)の伝説の2位バトルです。 サイド・バイ・サイドでタイヤを接触させながらのバトルは必見!時間短いですが。 |
F1 クレイ・レガッツォーニ トリビュート | |
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公開終了。 35.2MB 4m23s | HONDAのTVコマーシャル『Do you have a HONDA?』のCMで嬉しそうにNSXを走らせていた車椅子のおじさんがこのクレイ・レガッツォーニさんです。 このクレイさん、73年に1年のみBRMに移籍した後、不振に陥ったフェラーリの建て直しの為呼び戻され、74年はフィッティパルディとチャンピオン争いを演じるという偉大なドライバーです。 残念ながら80年ロングビーチでのクラッシュで車椅子の生活を余儀なくされ、F1を引退しました。 |
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