chapter1-0:「起章」




眼に見えるもの、とらえられるものが全てではない。

逆に見えないからこそ、理解できることもある。

たとえば表面上はなんてこともない現代世界。

戦争もなく平和な時代を過ごしていても、裏では得体の知れない生物が蠢いている。

人類の大多数はその事実を知らない。
だがそれも仕様が無いといえる。
今の世を平和に生きる人々がそれを知ったとたん恐怖と絶望に見舞われるのは間違いないからだ。
時の権力者は恐れた。自分が操ってきた人々が恐怖に慄き自分の手から離れることを。
それからは人外の力を振るう存在に対処する機関が出来上がるのもすぐだった。

後にそれらと戦う人間――退魔士も現れた。
そして退魔士が対すべき存在。
神話や昔話にも見られるような夢物語と思われていた怪異。

即ち"魔"と呼ばれるもの。






―日本。
本州の中ほどに位置する、御桜と呼ばれる街の郊外。

中規模の山の裾野に位置する広大な平野は、傍目にもわかるほど異様な雰囲気に包まれていた。
そして、近くの人家からそう遠くない場所に彼らはいた。

距離を開けて対峙する影は互いに相手を警戒し、牽制している。

一つの影は、人間。
もう一つの影は、獣。

一見犬にも見える獣はその実、狼だった。
口外に飛び出すように突き出ているその牙は、流し続ける唾液でぬめぬめと光っている。
その眼は血走ったように紅く、とても野生の――自然の狼には見えない。
そもそも狼がこんな地方に生息していること自体が普通では無いのだが。

狼と対峙する人影に、臆した様子は見当たらない。
それどころか不敵に笑みを浮かべていた。
10代半ばの少年の姿は丸腰にも近く、別段体格も特別良いわけでもない。
そして目の前の獣を見つめる横顔は、整っているとは言えないまでも精悍な顔つきをしている。

「ようやく、鬼ごっこは終わりだな」

少年――いや、青年は不意に口を開くと、己を見つめる凶光を秘めた双眼に向かってそう告げる。
同時に、ゆっくりと間を詰めるために歩きだす。

「グルルルルッ………」

相対する狼は低く唸りながら少しずつ後ずさる。
その眼は少しも怯んでいないにもかかわらず。
獣としての本能が告げているのだろうか。

自分では目の前の人間にはかなわない、と。


はたして狼の内でどのような葛藤が行われているのだろうか。
生まれ持つ破壊衝動とそれに従順な本能。
生き続けるためには必要な判断力と共に警告を発する理性。

その間にも青年は無用心に近寄ってくる。

「獣としての矜持か、種としての生存本能か―――それとも」

立ち止まった青年の瞳は、憎悪などの感情は一切ない。

「"魔"としての存在理由か……」

黒い髪と同じ色をした瞳には、己に対して牙を剥く獣が映る。

「人さえ襲わなければ、生きていけただろうにな」

依然として変わらない口調。
それは狼にとっての死刑宣告にも等しい。
じわじわと己に迫り来る死の気配を前にして獣はある行動をとった。

「ギャゥゥゥッ……」

辺りを震えさせるような雄叫びを発してその身を屈める。
後ろ背のあたりから"何か"が外に出てこようとしていた。

(なんだ、あれは?)

初めて見た変種に青年は戸惑う。
そのはず、彼が戦ってきたなかで身体構造を変化させることの出来るものはいなかった。

「おいおい……マジか?」

青年は軽くおどけたような口調だが、食い入るように見つめている。
彼自身は、目の前の獣は"妙に素早い犬"としか噂を聞いていなかった。
自身が進んでやっているとはいえ、たまにこういったケースが起こるのである。
それこそ、死活問題ともいえるような。

お互いに沈黙を保ったまま、時間が過ぎる。

ヒュウッ、と流れるような一陣の風がその場を通り過ぎた。
それは、狼の"翼"で切り裂かれ、青年の着ているコートの裾をはためかせる。

眺めている間に変態は終わり、狼の背には立派な双翼が生えていた。
先ほどまで続いていた身体に走る震えも、今は見られない。
白い部分もあった眼が文字通り真っ赤に染まっている。
獣は、体に漲る力を感じていた。
なにより目の前の人間が近づいてこなくなったことが、 獣にとって一方的だった力関係が対等、もしくはそれ以上になったと確信させていた。

「くっそ、厄日だ」

獣の様子を見ていた青年は舌打ちしながら懐から何かをを取り出した。
音も無く装着したそれは手甲のようで間接部には金属板が見える。
馴染ませるように指を握ると、青年はようやく獣に向かった。

「グガルルルゥゥゥゥッ!!」

幸か不幸か、振り向いた瞬間に獣は跳んでいた。
いまだ本調子では無いのか、滑空するように翼を広げている。

青年はゆっくりと右手を振り上げたまま静止する。
そのまま左足を少し前に出して、半身と呼ばれる構えを保つ。

バヒュゥッ!!

高速で接近する獣の体表に寄り添うように風が吹き荒んだ。
悠然と己の首に爪と牙を突きたてようとしている獣を一瞥する青年。
何かのタイミングを計るようにその眼を細める。

その首に牙の先端が触れようとする瞬間。

青年は獣の頭を、極めて垂直に打ち下ろした。
まるでそこに来るのがわかっていたかのように。

「おっと」

鈍い音が響き、遅れてやってきた獣の身体による衝撃によろめく。
が、すぐに持ち直すと空いている左手で振り払った。

瞬時にして瓦解した頭では、自分がやられたことなど理解できなかっただろう。
ふらふらと数歩進んだ獣は、前のめりになって倒れた。
すでに意識などない瞳は、手を傷めたらしい青年の姿を映していた。

そして、変化した瞳の色も。

それきり、その一撃が全てを物語っているかのように辺りを静寂が漂った。

おもむろに顔を上げた青年は乱れた服を直し、足早に立ち去る。

残ったのは、静寂のみ。
そこが、ついさっきまで戦場であったことを忘れさせるように。



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