精神療法の失敗

 ここでは、成田善弘「精神療法の失敗について」『心と身体の精神療法』金剛出版、1996年(初出『季刊精神療法』20巻第3号、1994年)、 59-70頁、に基づいて、「精神療法の失敗」について考えていこう。


 「失敗」の原因には:
1、「治療者個人の未熟さ」「資質(の不足)」、
2、「方法の限界」:「精神療法という方法自体に内在する失敗」、がある、と成田氏は指摘する。

 ただし、成田氏は次のように強調する。
 
 そもそも精神療法は、「追試、追認の可能な科学的方法とは必ずしもいえず」「一回限り」という特徴を持つから、「方法の限界」と「治療者個人の未熟に由来する失敗」とは「明確には区別し難い」。

 したがって、「治療者は、自己の未熟に由来する失敗を極力少なくすべく努力」するが、それでも、「どのような方法であれその方法では失敗せざるを得ない場合があることを承知しておく方がよい」。

 なぜなら、「方法の限界を示すものかもしれぬ失敗」を「治療者個人の失敗」と受け取ってしまうと、「方法は全能」であり、「失敗」は「治療者個人の失敗」、というふうに考えてしまい、その結果、

1,「報われぬ努力を重ねて」治療者自信が傷つく、

2,「患者をその方法に無理矢理会わさせようとしたりしがち」になる、ということが起きるからである。

成功と失敗のモデル
 以上の点を前提にした上で、まず成田氏が提示するのは、精神分析的精神療法における「成功」のモデル(ここでは筆者が便宜上こう呼ぶ)と、ここから逸脱した「失敗」のモデルである。

成功のモデル
 成田氏によれば、「精神分析的な精神療法が成功しつつあるとき」には、治療者と患者との関係は、次のようなものである:

1,患者と治療者が「それぞれの役割」を守っている、

2,両者の間に職業的役割関係が成立している。

この場合、患者の役割は以下のようになる:

1,「自分の問題の解決を求めて専門家に助力を依頼する(依頼者になる)」

2、「治療構造を守る」
3、「自分の内界を包み隠しなく言葉にする」
4、「治療者の介入を受け入れて自分の言動の意味を理解できるようになる。それによって自分の問題(不安や葛藤)を今一度自分の中に引き受ける」
5,「自分の問題を自分で対処できるようになる。つまり患者(依頼者)でなくなるように努める」

これに対応する形で、治療者の役割は以下の5点になる:

1,「依頼に応えうる知識と技術を持つ(と想定される)専門家として患者の依頼を受け入れる。」

2、「治療構造を設定し、維持する」
3,「患者に傾聴し、理解する」
4、「理解したところを患者に言葉で伝達する。それによって患者の問題(不安や葛藤)を今一度患者の中にさし戻す」
5、面接の仕事の中での治療者の分担を少しずつ小さくする、つまり治療者でなくなるよう努める」

成田氏は、以上の役割が守られていれば、「治療が成功裏に進行しているとき」とみなしうる、と述べている。

 なぜなら、精神療法を成功させる第一条件は、まずもって、「患者に依頼者になってもらうこと」である。

 したがって、これに対応する形で、「治療者はまず、患者は何をどうしてもらいたいといって(思って)いるのかをはっきりさせる必要がある」のである。

 例えば、次のような主訴、というものが、治療の当初、患者から示されるだろう。
「ぐっすり眠りたい」「〜という症状を治したい」「催眠術をかけてほしい」「感情のコントロールができるようになりたい」。


 ところが、治療が進展すると、このような医師と患者との役割分担が消失する場合がある。これが治療の失敗となる。以下で成田氏が描く、失敗のモデルを図式化してみよう。

失敗のモデル
1,治療が進展する
    ↓
2,「患者自身にも(ときには治療者にも)」上記した、さまざまな「主訴」が「忘れられたり、ないがしろにされたりする」。
    ↓
3,「患者には(ときには治療者にも)」「今なんのために会っているかがはっきりしないままに会うことになり、次第に会うこと自体が目的のようになってくる」。
     ↓
4,「患者も治療者もその役割から逸脱し始め」「精神療法は失敗に向かう」。

 成田氏によれば、以上の場合、患者や治療者が、「役割」を「守れない、あるいは守らない」という事態がありうる。
 こういった逸脱は、精神分析においては、例えば、「抵抗」、「行動化」、「退行」、「転移」、「逆転移」といった概念で要約されている。
 先に挙げた5点に対応するさまざまな役割からの逸脱は、以下のようにこれらの概念に含まれている。


・抵抗:「治療構造を守らない」「内界を包み隠しなく言葉にしない」「治療者の介入を受け入れない」

・「行動化」:「内界にあるもの(感情、衝動)を言葉でなく行動で発散してしまう」

・「退行」:「患者がいつまでも患者(つまり依頼者)の立場にとどまりたがって、自分で自分の問題に対処しようとしない。

・「転移」:患者が治療者に「役割以外(以上)の情緒的かかわりを求める、たとえば専門家としてでなく母親として、あるいは恋人として振る舞ってほしいと求めること」。

・「逆転移」:「治療者がその理想の役割をつねに守れなくなる。あるいは守りたくなくなるとき、その底にある感情」。

 ただし、今日、「転移」は、「治療を妨げるもの」というよりは、「治療の仕事がまさにそこで行われる場所」と考えられ、「逆転移」は、「患者を理解するための鋭敏なリトマス試験紙のようなもの」と考えられ、「現在の精神分析家は自分の逆転移をモニターすることによって治療をしている」といっても過言ではない。

失敗のモデルにみられる、精神分析の特徴
 以上の点から考えれば、精神分析は、「患者が理想的患者の役割を逸脱するところ、つまりその時点では治療が失敗しているところを取り上げて、なにゆえその役割を守れないか、あるいは守らないかの検討に患者を誘い、患者をその理想的役割に差し戻そう」とする、というところ、あるいは、逆に、同様に治療者が逸脱する時点について、これと同様の作業を行う、という点に、その特徴がある、と成田氏は指摘する。

 「一見失敗と思われるところをその意味を検討することでむしろ治療の手がかりとし、理論の中に組み込み統合していく働きをもつ」。これが「精神分析を他の精神療法から際だたせている特徴」である、と成田氏はいう。

 これは、次のような点を自覚した上でのことである。
 
 一般に、精神療法の目的が、「患者を救済すること」「患者の病気を治癒させること」「患者を(その病気がなにゆえ生じているかという観点から)理解する」と考えられている。ところが、その結果、「患者を理解し、治癒させ、救済するという大変な仕事」が治療者に降りかかってきて、「それに応えようと努めるところから全能空想や救済者空想が生じやす」くなり、これが「失敗につながる」のである。


 このことについて別稿で成田氏は、「深い精神療法」は、「治療者の欲が深く、患者の傷が深く、患者の恨みが深い」ということになりはしないか、つまり、深い精神療法ほど失敗のおそれも大きく、失敗した場合の患者の傷つきも大きい」というかたちで、指摘している。

 これを踏まえた上で同氏は、「精神療法の目的」を、「患者にその理想の役割を守るようになってもらうこと、患者が理想の患者足り得ないことの理由と意味を検討し、その理解を患者と共有すること」と、「精神療法の目的」を再定義し、さらに、このように考えた方が「失敗が小さくてすむ」と述べている。

 さらに成田氏は次のように述べている。

 「若い治療者」「熱心な治療者」は、「職業的役割関係を越えた」「人間的」な「出会いやかかわり」を求める。成田氏が「役割の逸脱」=「治療の失敗」と捉える点を、こういった「若い治療者」「熱心な治療者」は、「かかわりの深まり」、「人間的な出会いととらえる」。

 しかし、このような「役割を越えた」「人間的関係」が発展すると、「両者にとってのその関係自体、つまり会うこと自体が目的」となり、「そこにさまざまな悲劇の可能性が生まれてくる」と。


 では次に、成田氏による分類にしたがって、「失敗」とは具体的に何かを考えていこう。

1、中断:

「中断は精神療法の失敗とみなされる」。


 治療の初期における「中断」:

 患者が治療方法や治療者(の技術や人柄)に失望して去っていく場合があるが、「これは失敗としては罪が軽い」。なぜなら、

1,いかなる精神療法も、いかなる治療者も、全能ではないから、失望して去る患者があるのは当然だからである。2,また、治療者の未熟や資質による中断であっても、患者が早くそれに気づいて去ったのなら、「それに気づかず深入りしてのちに大失敗を招くことに比べれば、むしろ懸命な判断といえる」。


 治療の中期における「中断」:
 「患者が、自分ばかりが心の内をうち明け内奥の秘密を告白するのに、治療者が匿名性に隠れて自らをあらわさないことに不満や恨みを感じ、あるいは傷ついて」中断する場合。この場合の原因は、「精神療法の本質に内在する不平等に対する不満」である。

 一方では「きわめて不平等な役割関係を規定しつつ、他方共感や人格的ふれあいを希求する」という「矛盾」を内在しているがゆえに、患者の側にこのような不満が生じ、「中断」=「失敗」が生じる。


 ここで治療者は、「精神療法という方法に内在する本質的不平等という矛盾に気づき、それが患者の治療のために本当に必要なものかどうかをつねに問わねばならない」。

 「必要と判断した場合もそのことに心の痛みを感じていなければなるまい。そのないところでは分析のしあらしや傷ついた患者による中断が生じやすい」。


2,恋愛あるいは性愛転移
「患者が治療者への恋愛あるいは性愛感情を抱いてそれに悩み、治療関係から身を引くという形で中断することが珍しくない」。

 成田氏は、「ある女性患者から恋愛感情を向けられ、彼女のさまざまな行動に困惑させられた」とき、患者と家族に次のように告げたという。

 「あなたが私に好意を持ってくださったのは人間としてはありがたいが、そのためにもともとあなたと私がお会いするようになった目的である治療がしにくくなっている。こういう事態は精神療法の過程の中で起こりうることで、本来は治療の中でその意味を検討していくことが望ましいのだが、今の私の力量や気持ちではそれがむずかしいので、別の治療者にかわってもらえまいか」と。
 これは患者に了承されたという。

 それと同時に成田氏は、「こういう事態を引き起こしたのは筆者の未熟であり、治療としては失敗」としている。しかし、これが「当時の筆者としてはとりうる最善の策」であったとも述べている。


「転移性恋愛が生じてその対応に困惑した治療者」でよく見られるケース:
 「若い治療者が患者の感情のうち恋愛感情の側面にのみ敏感に反応し、その断念を求めるという形でそれを取り上げようとしている」という場合。

 この場合「患者が治療者に向けている感情」は、「たしかに恋愛感情も含んでいる」いるが、しかしそれよりもむしろ、「信頼感、依存心、慰めを求める気持ちなども含む幅広いもの」なのである。


 したがって、「幅広いままにしばらくの間受け止めていて、次第に信頼や依存の問題として取り上げれば、患者もそれを見つめることができるかもしれない」。


 ところが、「若い男性治療者」は、「患者の感情のスペクトラムのうち恋愛感情の波長のところだけに反応して、そこを強調して取り出す」。


 「患者もそこを意識し、その部分が大きくなってきて、しかもそのような取り上げ方をする治療者への怒りや恨みといった感情が交じり合って、両者の関係ははなはだ錯綜したものになる」。


 「このような取り上げ方をする男性治療者の態度に問題がないとはいえない。その治療者の異性観や愛情生活に何らかの問題がある場合がある。人間と人間との深い関係すなわち性愛的関係と考えてしまうとしたら、そこが問題であろう」。


 ただし、「治療者の未熟」ばかりが、このような事態の原因とはいえない。というのも、そもそも精神療法は、二人の人間の心を開いた親密な関係をはぐくむ、という方法上の特徴を持つからである。そのため、そこに恋愛感情が発生することもあり得る。


 したがって、むしろ、そういう危険の上に成立している関係が、精神療法的関係なのである、ということを治療者が知っておくことが重要なのである。


3、陰性治療反応
 「治療が進展しようとするとき患者の症状が憎悪する場合」がこれである。

 これは、西園氏が「副作用」とも呼んでいるものであるが、成田氏はここに分類し、「少なくともその時点では治療の失敗とみなしうる」と述べている。

 原因としては、従来「患者の病理」があげられてきたが、成田氏は次のようにも説明可能であると指摘する。

「精神療法過程で患者は内界をあらわにし、ある変化を遂げるが、その変化自体が不安を引き起こす。たとえその変化が望ましいものであったとしても、内界をあらわにされ変化させられたことに対してはある恨みが生じるものである」。


 このような感情を成田氏は、「人間として無理がない気持ち」としている。だがこの気持ちこそが、治療において「陰性治療反応」と呼ばれている反応を引き起こすのではないか、と。


4、行動化
 これも「副作用」と分類されているが、ここでは「失敗」となる。なぜなら、「行動化が治療者の態度や介入によって引き起こされた、あるいは助長されたと考えられる場合」があるからである。

 例えば、「万引きなどの社会的問題行動に対して、治療者が道徳的判断をすべきでないと考えて」、あるいは「患者との関係を損なうことをおそれて」、あるいは「治療者の仕事は行動の意味の探求にあると考えて制止しない場合」に、「患者がそれを黙認と受け取って、行動化が拡大する場合」がある。


 この場合重要なのは「他者や自己を傷つける行動化ははっきり制止しなければならない」という点である。なぜなら「制止は意味の探求と両立しうる」からであり「行動化によって欲動充足が得られたままの状態では意味の探求はできない」からである。


 また、行動化が、治療者に対する患者からの、「コントロールを求める信号」であることもある、という。成田氏は、自身の「失敗例」として、以下のケースをあげている。


 「ある境界例患者を開放病棟で治療していた。患者はかなり緊張感が高く、いらいらしたとき壁をたたいたりしていたが、他の患者とトラブルを起こすことはなかった。彼は開放病棟でやってゆけると思われたので、引き続き開放病棟にとどまるよう説得していたところ、彼は突然筆者を殴った。やむなく閉鎖病棟に移した。のちにきいたところ、治療者を殴れば閉鎖病棟に入れると思ったという。彼がこういう非常手段に訴えざるを得ないほどコントロール不能の不安を持っていたことが、そのときまで筆者にはわかっていなかった。」

5、抑うつと自殺企図
 成田氏によれば、「精神療法がある程度進展したと思われる段階で、患者が抑うつに陥ったり、自殺企図に及ぶことは、多くの治療者が経験するところ」であるという。
抑うつに関しては、以下の二通りの解釈が可能である。

1、患者に抑うつを体験する能力が育ってきていることを示していて、「治療の成功のしるし」である。

2、患者にとっては「主観的苦痛の増大」である。自分の状態が悪くなった、と体験されるので、患者からは「治療の失敗」と受け取られることもある。

 この場合、治療者は患者に対して、「抑うつが人格の成熟のあらわれであり、治癒への道程であることを説明しなくてないならない」「精神療法の成功は歓喜に満ちたものではない。成功がもたらすものが不幸の直視だからである」。

 このように、「精神療法の成功」が抑うつを導く、と成田氏は説明する。しかし同時に、「患者が自殺してしまっては治療としては大失敗である」と強調している。

 たしかに、「治療という枠を越えたより広いあるいは深い人間的意味においては」「自殺も一つの意味深い行為であり、ときにはその人の生の完成であるかもしれない」。

 しかしながら成田氏はここで次のように断言する。「そういう議論は医師(治療者)のすべきことではあるまい」。


 上述した「成功がもたらすものが不幸の直視」という言葉は、成田氏の挙げる、次のような例から理解できるだろう。

 「分裂病の病的体験が消失し病識が出現したときに患者が自殺するといったことがしばしば語られている」。

 これはおそらく、「自分が本当に狂気であったと知ることは、おそらく筆舌に尽くしがたい驚愕と絶望の体験」だからであろう、と成田氏は分析している。

 つまり成田氏の表現によれば、「精神療法の成功と失敗はスペクトラムの両極にあることではなく表裏の事態」なのである。


 逆にいえば、「治療の成功」が「抑うつ」の発生として認識されたとしても、これは、それと同時に、「自殺企図」という「大失敗」という危険な事態を引き起こす前兆でもある、ということを成田氏は述べているのであろう。
 では、このような事態に際して、治療者はどのように対応すればよいのか。これは、「自殺企図への対応」の中で検討することにしたい。


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