恋愛転移とこれへの対処法

 まず、成田善弘氏は次のように述べている(成田、2000、pp.138-9)。

 患者が治療者に「性愛的感情」を向ける場合、まず、「治療者の今までの態度が知らず知らずに患者の性愛感情を助長することになっていなかったかを十分検討する」必要がある。

 例えば、「治療者の役割を超えて過度に熱心、献身的、おせっかいでありすぎなかったか。

 その患者との面接が治療者自身にとって、何か密かなたのしみになっていなかったか」といった点に関する点検が不可欠であるという。

 つまり、恋愛転移が患者側に起きていた場合、医師はまずもってその原因の追求をしなければならない。

 この点に関しては、すでに見た河合氏の見解とも一致している。

 河合氏もまた、強い転移が起きる場合は、多くの場合、カウンセラーがそれを引き起こしていると指摘していた。

 この点で、精神療法も心理療法も、その認識と技法に関しては同一である。

 次いで、患者に対する対応を、成田氏は次のようにすべきだと述べている。

 まず、「性愛転移が起こりつつある患者」については「常に同僚やスーパーバイザーと相談すること」が第一に重要な対応策である。

 その際に留意すべきは、すでに述べた、原因追求のプロセスにおいて、「自分ひとりで悩んでいたり、あるいはひょっとしたら一人で楽しんでいたりしない」ということである。

 また成田氏は、恋愛転移の原因について、次のような基本的な理解を示している。

 まず、「患者が治療者に性愛感情を抱くのは必ずしも特定の治療者だったからではない」。

 そうではなく、「精神療法過程で起こりうることであって、ある意味では、治療が深まって患者の問題の一側面が明らかになること」なのである。

 したがって、恋愛転移は、治療において出現する患者側の病理を原因とする現象なのであり、平木氏の表現する、「的外れな感情」であることに変わりはない。

 とはいえ、成田氏によれば、治療において患者側の問題の一側面が現れた、と解釈するべきなのである。

 20世紀初頭において、すでにフロイトは次のように指摘している。

 「それまで従順であった女性患者が、突如恋愛感情を表明して治療を妨害しはじめる」。

「このような変化は、決まって必ず、我々が彼女にその生活歴の中で特に苦しい、かろうじて抑圧している部分を告白するか、あるいは想起することを要求した時点において出現する」。

「つまりこのような恋愛というものは、すでに久しく存在していたが、今それを抵抗が利用して治療の継続を妨げ、全ての関心を治療から逸らさせ、分析医を苦しい窮地に追い込もうとしているのである。」

 以上の点を自覚できた場合、医師はどのように対応すべきか。成田氏は次のように
述べている。

 「患者は治療者への性愛感情を自覚すると気持ちが混乱し、悩み、苦しむものである」。

 「そういった患者の心の悩みが理解できるというコンテクストで、その性愛感情そのものを話題に取り上げることが望ましい」。

 つまり、医師は、自分に対して患者の恋愛感情が向けられている、という患者の認識自体は、患者がそれによって苦しんでいる、ということを理解した上で、認めて治療過程においてこれを患者と話題にする。

 その際重要なことは、治療者が患者の性愛感情を是認するわけではない、ということである。

 つまり、そのような感情を医師に対して向けている、という状態があってもかまわない、などと患者に知らせるのではなく、そういうことは認めるわけにはいかない、という点を明らかにすべきである。

 しかし他方で成田氏によれば、医師は「そういった感情が生じてそれに悩むことは人間的な事態であるという深い理解を差し出す」のだという。

 しかし、医師は、患者が向けてくる恋愛感情に対する分析を行っていかねばならない。

 なぜなら、恋愛転移は、「ときには、患者のもつ小児的な身体的接触への欲求が、性愛欲求という形を取って現われることがある」からである。

 「患者の歴年齢にまどわされて、患者の「小児的な欲求を性愛的感情と見てしまう」ことがあってはならないのである。

 恋愛転移とはこのように、患者が「共人間的な親密さ」を求めているのであり、その表現が「性愛化」されていることもあるという。

 その際には、「性愛感情と見えるもののそこにある患者の真の欲求」に対する治療者の感受性が要請されるのだという。

 さらに、たとえ「患者が治療者に向ける感情に性愛感情が含まれる」としても、そのほとんどの場合が、「信頼感、依存心、慰めを求める気持ちなどをも含む幅広いもの」なのである。

 そのような「幅広いもの」としてしばらく受けとめていて、次第に「信頼や依存の問題」として取り上げれば、患者もそれを見つめることができるかもしれないのである。

 以上のように、恋愛転移に対する対応として基本的なものは、

(1)医師が自分自身の内面と治療行為に、その原因がないかを検討すること、

(2)患者に対して医師は、恋愛感情があることを認め、それに苦しむ患者に共感を示しながらも、そのような感情が医師に向けられる、という状態に関しては認める事はできないという点を明らかにすること、

(3)恋愛感情が、実際には、他の感情の表現でないかについて検討し、そうであるとしたら、患者にこれを指摘し、患者自身にこの点を検討してもらうこと、

 である。

 以上のような対応が、恋愛転移が起きた際、医師がとるべき適切な対応である。

 他方、不適切な対応とはどのようなものであろうか。

 まず、上記の第一番目の対応策と関連しているが、治療構造をルースにすることが、患者側の不利益につながる、という点は、すでに成田氏の見解において見てきた通りである。

 次いで成田氏は、上記の第三番目の対応を、その感受性の少なさゆえに、医師ができない場合として次のような例を挙げている。

 「若い治療者が患者の感情のうち性愛感情の側面にのみ敏感に反応してしまう」ことがよく見られるという。

 その際に、「若い治療者は患者の感情のうち性愛感情の波長のところだけに反応してそこを強調して取り出してしまう」と、患者もそこを意識し、しかも「そのような取り上げ方をする治療者への怒りや恨みが交じり合って」、両者の関係が「はなはだ錯綜したもの」になることがあるという。

 さらに成田氏は、「患者が治療者に対して持つある程度の陽性感情は通常話題に取り上げる必要はないが、それが性愛感情に発展する場合は黙視すべきではない」として、治療において医師が、恋愛感情を話題に取り上げない、という点が、不適切な対応であるとしている。

 成田氏によれば、そのような対応においてさらに、「性愛感情の存在を知りながらそれに触れることが二人のタブーのようになる」という。その場合、「すでに治療者も共犯者」である、と指摘している。

 これに加えて成田氏は、次のように述べている。

 「治療者の方に患者への性愛感情が生まれたらどうしたらよいか。治療者の座を降りるべきである。治療者と愛人を兼ねることはできない。その先は、個人の生き方の問題であろう」。

 つまり、これは逆転移についての医師側の対応策である。

 繰り返して強調すべきは、医師-患者の人間関係は、あくまでも患者の治療が目的であり、それにそった治療構造が設定され、両者はそのためにふるまっていく、ということが定められている。

 患者がこれから逸脱しようとすれば、医師は、治療者であり専門家である、という理由から、これに適切に対応する義務がある。

 恋愛転移の場合で考えれば、例えば、患者が、医師との愛人関係を構築したいと要求した場合、それは、医師側から見れば、治療構造を破壊しようとしてきている、ということに他ならない。

 したがって、専門家であり治療者である医師の最大の義務は、患者の治療を最優先した形で対処していかねばならないのである。

 もし医師が積極的に患者の破壊行為に荷担する場合、すなわち、医師が患者の愛人となろうとするばあい、医師は患者の愛人という私的立場と、患者の治療者という公的立場を兼ねることはできない。

 もし愛人になる、というのであれば、治療行為は破壊されることになるからであり、それは、治療という、患者の利益に資する行為ではないからである。

 したがって成田氏は、そのような場合には、治療者の座を降りよ、と主張しているのである。

 以上が、成田氏の述べている恋愛転移、そして転移全般への対応策である。

 他方、精神科医の神田橋條治氏は、恋愛転移を「奢癖」(しへき)という概念で捉えることができるとして説明している。

 神田橋氏によれば、嗜癖とは、「特定の人や事物や行為への飽くなきしがみつき」である。

 さらに神田橋氏によれば、この現象は、アルコールなどへの依存症に見られる症状と同様であり、患者自身が自らを治療しようと模索する過程で習得された、患者による「その場しのぎの治療法」なのだという(神田橋、p.131)。

 このような嗜癖関係に、治療者と患者が陥る場合があるが、それはいかにして形成されるか。

 神田橋氏は、まず次のように説明する。

 人間関係の基本は「二者間関係」であるが、その「完成形態」は、ラブシーンや母子関係に見られるように、「言葉以前の泣き声をやり・とる関係」である。

 このような関係にいたる以前に人間は、「二等辺三角形」の関係とでもいうべき人間関係を構築している。

 これは、「完成形態」としての二者間関係とは全く異なり、「言語を通じた、合理的で、自己を客観化した二者間関係」である。

 対話を通じた精神療法、つまり、面接においては、治療者と患者は、この、二等辺三角形、つまりは、完全な二者間関係ではない、やや距離を置いた二者間の関係を維持させねばならない(神田橋、pp.233-4)。

 つまり、これが適切な治療構造である。

 しかし、患者にとって事態が急を要している場合、つまり、「不幸、不安、苦痛に満ちている患者」であれば、患者は、完全な二者間関係を求めようとする(p.235)。

 この場合、患者は、何らかの欲求にしたがって、これを治療者に要求していく。

 このような精神的な傾向が、神田橋氏によれば、奢癖なのである。

 このような嗜癖が登場していることの徴候は、薬物やアルコールの嗜癖の徴候と同じであり、具体的には、次のような兆候のもとで現われている。

1、やる・とる・、充足・不充足、という二者間関係の登場

2、患者が治療者、およびその周辺から、絶えず、特定のものをえようとする。

 これは、物質以外の言葉も含まれる。これら「奢癖物」は、患者の苦痛や不安を、一時的に和らげる、麻酔である。

3、しかし、奢癖は一時的な安らぎを与えるだけであるから、エスカレートする傾向を持つ。

 充足感がなくなれば、苦痛が倍加し、患者はさらに奢癖物を求めていくからである。

4、患者は、いま・ここ、での充足感に固執して、時間的・空間的な視野を失っていく。

 周囲では、疲労といらだちの雰囲気が生じる(p.235)。

 一見嗜癖行為に見えない家庭内暴力やリストカットも、神田橋氏によれば、嗜癖行為である。

 家庭内暴力は、暴力の快感への嗜癖ではなく、むしろ、悲しみを和らげるための「慰撫工作」である。

 神田橋氏によれば、悲しみに支えられていない怒りは持続性を持たないのであり、家庭内暴力は、実は悲しみによって支えられている行為である。

 他方、リストカットは、苦痛への嗜癖ではなく、「確かな感触の、いま・ここの自分」を得たいという欲求によってなされている。

 つまり、嗜癖行為が出現するのは、いまここに苦痛があるからである。

 そして、「十分に完成された嗜癖パターン」が見られる場合、しばしば、その嗜癖パターンが学習された過去の苦痛状況と、今ここでの苦痛状況とがどこか似通っていることを示唆するのだという。

 したがって神田橋氏は、このような、過去の苦痛の再現という点から見れば、嗜癖は「転移」という見地から検討することが有効だと指摘し(p.236)、転移と嗜癖との関係が表裏一体であることを示唆している。

 それでは、先に見た嗜癖の兆候が現われた場合にはどうすればよいのか。

 神田橋氏によれば、まず、奢癖を中止させねばならない。

 次いで、「行動療法的に」奢癖行動を阻止しながら、「二等辺三角形の関係」を築き上げていく。

 その際には、「直面化」により、治療者は、患者と近接した位置に座り、共に、患者の真の苦痛を眺め・語る。

 この場合、治療者が、このような「直面化」に付き添っていくことが重要である(p.237)。

 神田橋氏によれば、このような奢癖的二者関係の、「最大のもの」は性愛である。

 そして、「厄介な症例」の、ほぼ3分の1は性愛奢癖である。

 神田橋氏によれば、まず、治療者と被治療者が異性であるとき、性愛の情動が賦活されることは自然なことである。

 眺め・語る二等辺三角形の関係が維持されていれば、賦活された性愛の情動は、治療者と患者との間でテーマにはなるが、治療にとって厄介な問題とはならない(pp.241-2)。

 しかし、患者から二者関係を迫られると、困惑する治療者がほとんどである。

 このような治療者の問題点は、以下の三点にまとめられる。

1、患者の欲求が奢癖なのだと気づいていない、

2、「愛」という言葉に惑わされている、

3、二等辺三角形をつくる技術が稚拙(p.243)。

 とりわけ、二者間関係が登場したことの原因は、二等辺三角形のコミュニケーションが破綻した際に登場するのがほとんどである。

 これは、患者のコミュニケーション能力に起因するところもあるかもしれないが、「打ちやすいボールを返してあげるのが下手な」、治療者の技術の低さに責任があるのだという(p.244)。

 以上のように、神田橋氏は、適切な治療者・患者関係を維持していれば、このような問題は起きないが、起きたとしても、これを適切な治療関係の持ち込む技法があると指摘している。

参考文献

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