第2章 さくらその後
1.発端 さくら15歳 2000年の夏休み
父・藤隆の遺跡発掘調査に伴い、さくらは南極大陸を訪れた。そこは彼女の平穏な日常が終焉する地であった。南極大陸マーカス山で発見された巨人とさくらカードの接触が、世界の運命を大きく変えたのである。
さくらカードの本質は、時系列秩序に介在可能な因果律エンジンにあるといってよい。元々、次元空間の異なる宇宙の情報集積体であったその巨人(第1使徒)の存在は、マーカス山周辺の幾何学構造に不安定性をもたらしており、さくらカードの接近は、因果律エンジン発動による空間の強制的平衡化を引き起こしてしまった。時空の衝撃波が発生し、その負荷は相対論的物体が耐えられる限界を超えていた。荷電粒子の群れが超常空間のベクトルに沿って流入し、藤隆は核融合反応の光の中に消えた。
2.アメリカ放浪時代 さくら18歳(2003年)
「お父さん…」
その時、さくらは藤隆を見上げていた。だが、超高温プラズマによる逆光で、その表情をうかがうことはできなかった。
南極調査船の第2隔離施設を出たさくらが、第2東京大学に入学するまでの3年間、俗にアメリカ放浪時代と呼ばれるこのころのさくらを知る者は少ない。ポルノ男優、ダーク・ディグラーの崩壊していく日常を追ったドキュメントフィルム『ブギー・ナイツ(日本語吹替版)』(監督:ポール・トーマス・アンダーソン)に、アメリカ時代の彼女の一端を見ることができる。
ローラーガール。ジャック・ホーナーファミーリーだった時期の彼女の呼び名である。その由来は、どんな時でも(性行為の時ですら)ローラースケートを離さないさくらの病理性にあった。彼女の荒廃は、やがてローラースケートを捨てるときが来るまで、つづくことになる。
3.溶解する境界線 さくら30歳(2015年)
(弾は貫通したのかしら?)
血の海に横たわったさくらは、意識を失わない自分を不思議に思った。ただ、緩慢な苦痛だけがつづいていた。さくらカードはとうの昔になくしていた。
さくらカードから因果律エンジンを復元しその制御による時間秩序再構成の試み−人類補完計画−は、破局を迎えていた。物理定数に歪みを生じさせる規模の強力な輻射線と重い粒子の発生は、時空間構造の壁を突き破り、5次元的に圧縮された空間は、無数の平行宇宙を収束した。無限に存在する世界線は、無限の組み合わせで交流した。
4.果てしなき流れの果てに
一切の存在秩序は解体され、単一のエネルギー凝集体に還元されつつあった。希薄なった概念空間の中で、さくらは平行宇宙の膨大な広がりを感じていた。懐かしい意識傾向パターンが、そのひとつから流れて来た。さくらはそこに戻りたいと願った。
インラインスケートで坂道を下っていた小学5年生のさくらは、“ツインベルズ”の店長・真樹と出会った。挨拶を交わした時、さくらは真樹の自分に向ける何か遠くを見るような視線に気がついた。
再び鮮明になった世界で目覚めたさくらは過去の幻影の中にいた。
時空歪曲の気まぐれで友枝町に帰還した30歳のさくらは名前を変えた。今日も、小学生の自分が”ツインベルズ”の店先を通るだろう。膨大な時空構造に圧迫されそうな孤独感と確実にやってくる大破滅への絶望のなかで、さくらは彼女を焦がれるようにいつまでも見つめていた。