2000年05月の日記
*2005年10月修正版
『おしん』における橋田寿賀子の不幸・幸福曲線について(前編)
不幸な境遇が次第に好転していくが、すぐにまた不幸になってしまう。『おしん』の構成は基本的にこの繰り返しである。おしんとその旦那の結婚生活に関する動態を例にとって考えてみよう。
まず、幸福な新婚生活は、旦那の経営する呉服店の失敗によって、暗雲が立ちこめる。しかし、おしんが突発的に商才を発揮することによって、経営の危機は回避される。
倒産の危機から1年後、旦那の店は急成長を遂げ、自前の工場を持つに至ろうとしていた。ところが、よりにもよって、工場が完成したその当日に関東大震災が発生。店舗も工場も全壊してしまう。
とりあえず旦那の実家に居候する事になったおしんは、姑から冷たい扱い受ける。ついでに妊娠するが流産。しかしそれをきっかけに、姑との関係が好転する。
これらの例から理解されるのは、不幸・幸福の緩急があまりにもはっきりしていて、ほとんどコントにまで昇華されていることである。ただ、おしんの不幸な状況が急速に改善されてい様は、一種のカタルシスをも視聴者に与える。もっとも、おしんが老齢期に入る頃になると、さすがに急激なジェット・コースターは困難になり始め、作品は安定期を迎える。つまり、巨視的な観点に基づく不幸・幸福曲線は、次第にひとつの直線へと収束していくのである。その結果、作品に緊張感が失われてしまうが、数多くの話数を経ておしんに過度の感情移入をしている者にとっては、安心して鑑賞できるという利点が浮上する。こうして、橋田寿賀子的なエンタテインメントが完成するのである。
『おしん』における橋田寿賀子の不幸・幸福曲線について(後編)
『おしん』における不幸状態は、険悪な人間関係における虐待という形を取ることが多い。しかし、そんな状態においても、おしんを理解してくれる人物が必ず配置されることが、『おしん』の大きな醍醐味である。米問屋の大奥様、髪結いの師匠、テキ屋の親分(ガッツ石松)、旦那のおとん、といった純粋ストレートに善良な人達は、一部のオーディエンスの胸をときめかせて余りあるものがある。
また、不幸が幸福へと移行する際には、今まで邪悪だったキャラが急にいい人になるという現象が見られる。この現象もまた、「幸福→不幸」が突然生起するのと同じくらい、急性に発生するため、笑いを誘う。
要するに、曲線の傾斜が極端にきついのである。そのため展開が強引になり、その不自然さに対するおかしみが生まれる。他方、そのきつい曲線は、視聴者の作品に対する感情移入を促進させる。『おしん』の成功の源泉は、そこにあると見てよい。
TUTAYA新宿店・日曜日の黄昏
雨の日のアニメフロアに異臭が漂っている。同志よ、風呂に入って呉れ。
現実社会におけるダウナーからアッパーへの移行は、ダウナー系高校生がバスを乗っ取って、しまいにはSATに突入される形を取りがちで、身も蓋もない。