五月 二〇〇二年

 


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2002/5/28


未来を生きる実感
それは果たしてやってきたのか?

小学生の頃のわれわれが、今日の携帯やネットを見ると、恐らくそこに未来を感じるだろう。というか、今になってもそこに転がっている携帯を見ると「おおっ、未来だぜい」と喜んでしまう。ただ、この感覚にあまり普遍性はないかもしれない。同僚の新潟人O氏は、携帯にあまり未来を感じないらしい。

個人的な経験をもって表現すれば、われわれがいま感じている未来は、高校二年生のある日、NECの98が10万円台に突入したことをチラシで見たときから始まっている。

この経験は、例えば、1945年に小学生だった人間が、二十代前半においてスプートニク1号が打ち上げられたときに感じたそれと似通っているのではないか。あるいは、二十代半ばにボストーク1号が打ち上げられたときのそれと。彼は、未来を生きていることを実感したであろう。未来を生きていることのその感覚は、当時の東宝特撮映画を眺めれば、何となく理解出来るような気がする。

が、われわれがよく知っているように、その未来は尻窄みになってしまった。60年代に住まう人間が、21世紀初頭の今日における宇宙開発の状況を見れば、来るべきものが来なかったことに失望を覚えるだろう。

その代わり、われわれの側には携帯が転がっており、ぼけ〜っとサイト巡りをしたりしている。われわれはそれに未来を感じる。もう一つの未来がやってきたのだった。

新潟人O氏が、未来を生きていることの実感をえられないことは、この議論を基に説明できる。氏にとっての未来は、あのやって来なかった未来――宇宙開発な未来――だからである。未来は気持次第で気紛れなのだ。

そういうわけで、新潟人O氏の未来はたぶん一生やって来ないと思われる。「タイヤのない車を見たら未来を感じるねえ」などとたわけたことを言っていた天罰と解釈したい。

 

2002/5/24


おねいさんの家は燃えてしまう
ある世界の法則についてC


しょうがないのではないか、としか言いようがない。なぜならそんなものだからである。

おねいさんの家が火事
中原アヤ 『りんご日記@』 P.51


誰の家でも可燃物である以上、燃えても不思議はないのだが、おねいさんの家の火事は他の火災事案に比べて顕著な特色が見受けられる。おねいさんにとって何か大切なものが、必ず置き去りにされるのである。

それで、たまたま通りがかった知り合い男が、煙の中を突入する羽目になる。このお兄さんに対して、おねいさんは「軽薄、無愛想、いぢわる」等の印象をもっているのだが、この一件によって「案外いい奴」というパーソナリティが、お兄さんに追加される。つまり、お兄さんの人格は、おねいさんの家が炎上することによって、発見されるのである。

いけ好かないお兄さんが、人格の発見によって、好感の持てる人格に変異する物語は、少女まんがの有名な様式であり、すでに10年以上前に『さるまん』において指摘されている。あとは、具体的に何をもってすれば、人格が発見されるのかと言う点に集約されるだろう。とりあえず――、

妹が病弱
中原アヤ 『りんご日記@』 P.86


実は病弱な妹がいて、看病に精を出す男なのである。

死んだ彼女がおった
中原アヤ 『りんご日記@』 P.131


実は死んだ彼女がいたりするのである。普段は明るく振る舞っているが、暗い過去がぁ!ということ。


こうして、人格発見がある程度蓄積されてくると、おねいさんがお兄さんを決定的に好意を持ってしまうイベントが到来する[注1]。お兄さんが病気で倒れてしまうのである。

お兄さん倒れる

中原アヤ 『りんご日記@』 P.137


病気というのはたいへん使いやすいイベントらしく、『君が望む永遠』ではおねいさんを風邪で卒倒させたと思えば、今度は主人公の方を卒倒させ、主人公を邪険にするおねいさんを失墜させたりする。

もっとも、ギャルゲー主人公に関して言えば、こうした手法は適用しがたい面もある。主人公=鑑賞者であれば、その人格は鑑賞者にとってすでに発見されているものでなければならない[注2]

だから、ギャルゲーと少女まんがでは、感情移入の対象が倒置される。少女まんがでは、いけ好かないお兄さんに鑑賞者の感情移入を誘うために、人格発見の手法が用いられるが、ギャルゲーでは、いけ好かない気の強いおねいさんに対する感情移入を誘引させるために、この手法が使われる。

気の強いおねいさんに実は病弱な妹や死んだ恋人がいて、しまいには病で倒れて陽光の中で笑顔で死んでいったらもうもうもう。


[注1] 『ラブひな』では景太郎の海外留学か。
[注2] もっとも主人公が記憶喪失であれば別の話である。


 

2002/5/10


おねいさんはドキドキしてしまう
ある世界の法則についてB

以下、思いつくままに書く。

朝、幼なじみに起床を迫られる光景は、非常に憎い。「朝御飯だよ〜」と言われるのはたいへん腹だたしい。なぜなら、とても羨ましいことだからである。

われわれは、断じて幼なじみを初期値として配置する物語を許すことは出来ないが、ではデフォルトとして配置されない幼なじみはどうであろうか。ふと、考えてみる。

幼なじみには、ふたつの類型がある。冒頭に挙げた、昔から今までずっとつきあいのある幼なじみと、むかし関係があったが、一方の転校等で離ればなれになって今日に至る幼なじみである。ふだんの生活において、彼女の記憶からその幼なじみは遠い存在になっていいるケースもあれば、「ずっと、ずっと、待ってたんだよ」という場合もある。とりあえず、前者の方を見てみよう。

転校生というものはたいへん危険と言わねばならないであろう。登校時に遅刻に恐怖して学校に駆け込もうとするわれわれにぶつかってくるからではない。むしろ問題なのは、彼女が長年の間離ればなれになった幼なじみである確率が極めて大なところである。

恐らく、彼女は気の強いおねいさんであろう。教室の片隅にぼんやり座るわれわれを発見するや、「げっ」という顔をするだろう。ストレートな愛情表現の苦手な気の強いおねいさんは、殴ったり蹴ったりといった暴行を加えることをもってしか、われわれと関係を結べない。過去においてそうであった関係は、一定の期間を隔てたとしても、今日においても継続され得るだろう。だが、昔とは決定的に違う属性を、世界はわれわれに与えがちである。

理由はまったくもってわからないが、気の強いおねいさんは「記憶の中のわれわれ」と「今のわれわれ」の格差に内心戸惑ってしまい、あろうことかわれわれを意識の俎上に載っけてしまう。しかし、われわれのようなヘタレに好意を抱いてしまうことそのものが、気高いおねいさんにとっては屈辱である。

いつも殴り合いを繰り返している情景に関して、「仲のよい」に類する言葉を投げつけられた彼女は、おおいに怒るはずである。でも、その指摘は、おねいさんのわれわれに対する意識を過剰にするだけなのである。おねいさんは、帰り道、われわれの横顔を盗み見てドキドキしてしまうのだ。ああっ〜。――だが、これだけではまだ足りない。

やがて、おねいさんはわれわれの人格を再発見していく道程をたどることになるだろう。その際、おねいさんはわれわれに何を見出していくのか。このことについては、日を変えて後述する事にしよう。

おねいさんがわれわれの隠された人格を発見していく過程は、おねいさんがしおらしくなり、「もう、側にいてくれないと、ダメ」なところまで墜ちていく過程でもある。『ラブひな』なのである。だが、しかし、これでもまだ足りない。おねいさんはさらなる変態を遂げる必要があるのだ。(つづく)

 

2002/5/04


おねいさんは溺れてしまう
ある世界の法則についてA

記憶を失っているおねいさんを部屋に連れ込んだり、空から降ってきたおねいさんに押し潰されたりして、ヘタレなわれわれはおねいさんと懇意になれたとしよう。すると、程なくして、今度はおねいさんとプールや海に行くことになるだろう。理由を問うてはならぬ。1+1が2になる理由などそもそも無いのだ[注]

プールといえば水着である。それは甘美な言葉に違いない。だが、油断してはならない。プールでは必ずヘタレなおねいさんが溺れてしまうからだ。われわれは、人工呼吸をしなければならないだろう。果たしてわれわれは、やり方を覚えているだろうか。

ただし、おねいさんだけを溺れさせて、恥ずかしい「人工呼吸イベント」を発現させる必要もないように思える。むしろ、へっぽこなわれわれが溺れてしまった方が、よさ気なのではないか。

恥ずかしがりやなヘタレおねいさんが、友人おねいさんの「ほらほら、人工呼吸しなきゃ」という冷やかし的強要に耐えきれず、「ふえ〜ん」と困りながらもわれわれに顔を近づけてくるのだ! だが、世界は常に残酷で、その直前でいつもわれわれは我に返るのである。

もっともこの場合、恥ずかしがりやなおねいさんよりも、気の強いおねいさんが人工呼吸を強要される方が、より効果的な悶えを手に入れることが出来るかも知れない。恥ずかしがりやなおねいさんが、恥ずかしい顔をするのは当たり前なことなのだが、気の強いおねいさんが恥ずかしい顔をするのは、その基調人格から逸脱である。萌えの基本である。

「だっ、誰がこんな奴に」と彼女は恥ずかしがる。でも、恥ずかしがること自体、彼女がわれわれを意識の俎上に載っけている証左となっている。それに気づいて、ますます彼女は困惑する。人はそれを王道と呼ぶ。


[注] う〜ん?

 

2002/5/02


おねいさんは空から降ってくる
ある世界の法則について@

学校、公園、街頭。場所は問わないが、とにかく樹木の側を通るとき、われわれは注意を怠るべきではないだろう。なぜなら、突然ドジなおねいさんが空から墜ちてきて、われわれを押しつぶす可能性がおおいにあるからである。

理由は不明だが、世界は往々にして、小鳥の雛を巣から落下させがちである。樹の根本でぴーぴー鳴くそれを発見した優しいおねいさんは、それを巣に戻すことを試みるだろう。

ここでひとつの分岐が登場する。もし、優しいおねいさんがドジではなかったら、雛を巣に返還する過程において、樹から落下することはないだろう。しかし、ドジなおねいさんだったら、彼女は必ずや落下するに違いない。いや、落下してしかるべきだ。

だから、樹から落っこちてきてわれわれは押しつぶすおねいさんには、ふたつの属性が必ず備わっているはずである。彼女はドジで優しいのである。

ドジなおねいさんが、ドジな鑑賞者の感情を強烈に引きつける人格足りうることは、前々から議論してきた。また、この舞台状況は、ヘタレがもてるあの奇跡的な瞬間の到来を予感させる。

身を犠牲にしてわれわれに助けてもらったおねいさんが、ヘタレなわれわれ[注]に好意を抱くのは、断じて自然な事である。ただ、ここで留保すべき事がある。

『CCさくら』で、さくら父の藤隆は、樹木から落下してきたさくら母に押しつぶされた。それがふたりの出会いであり、彼はその後「まるで天使が降ってきたのかと思いましたよ」と恥ずかしい回想する。藤隆は頑丈な男だったので、落下してきたさくら母の体重に耐えられることができ、心配するさくら母に笑顔で応えるのだが、これでは駄目である。また、その後、お姫様だっこで保健室につれていったりしてはもっと駄目である。なぜか?

ヘタレなわれわれが、そんなに頑丈であるはずがない。だから、保健室へお姫様だっこする奴の姿に、自分を投影できないのだ。気を失って保健室に運ばれるのは、われわれでなければならない。

そして、目が覚めると、ベッドの傍らでドジできれいで優しいおねいさんが「だいじょうぶですか(うるる〜)」と心配して手を握ってくれているのだ。


[注] だから、こんなゲームが出来ちゃうんですね。


 

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