理性を歪曲する宇宙  『アルマゲドン』


太平洋の向こう岸で相も変わらず活況を呈す映画産業。その関係者の脳細胞に不穏の陰が漂うのをわたしどもが明確に意識の範疇に入れ始めたのは、『ディープ・インパクト』('98)に於いて、理性的な科学者達が白色矮星[注1]へのカミカゼ攻撃を決断したまさにその瞬間からでした。理知的で良心的に設計されたかの物語は、「特攻」と云う極めて土俗的で直情的、詰まりアレでナニな[注2]な結論によって、それまでの成り行きから斯様な結末をまるで予測していなかったわたしどもを大いに喜ばせる羽目になったのです。



90年代の後半に突如として狂い咲いた聖林莫迦宇宙映画路線は、映画史に燦々とその名を残す『インデペンデンス・デイ』('96)に端を発する物でした。独逸人演出家とプロデューサーの驚異的な頭脳が産んだ妄念の行き着く果ては、合衆国大統領がF-18に搭乗して侵略的な異星人と一戦を交えると云う理解と評価に困る情景でした。

特に多元主義を敬重する人々ではなくとも、無邪気すぎる土俗的なナショナリズムの発露には、軽侮心に基づく滑稽感に由来する喜びを感じる事が大なのですが、事情を複雑にしているのは、このナショナリズムの爆走する先に見えてくるものが、意外にも一種の普遍性であった事でした[注3]。一定の地域で産まれた生活の様式やものの考え方が、その普遍性故に他地域のそれを圧倒する様を高らかに肯定する大統領の演説は、今日を生きるわたしどもにとっては単細胞な感も否めず、「莫迦」と云う大文字とともに喜びを感じずには居られません。しかし、もう一方の心の内では、あの言説に含まれている(様に見える)普遍性に野蛮な雄叫びをあげたい欲望が渦巻いてしまうのであり、アレは「莫迦」で滑稽を感じるべきものなのよと云う理の言葉と感動してえと云う原初の衝動がせめぎ合い、わたしどもは作品に対する態度を見失って途方に暮れざるを得ないのです。

様々な意味合いの下に偉大で巨大な物語である『インデペンデンス・デイ』は、アルコール依存症に精神を蝕まれる父親が、家族の復興をかけて異星人の母船へ特攻することにより大団円を迎え、わたしども例によって大いに歓喜せしめます。そして、その時点でのわたしどもの心象では、この物語は孤高な例外であって、後に90年代後半にわたってごく一部の好事家を歓せしめると共に、ハリウッド娯楽映画の暗黒史を築き上げる事になる莫迦宇宙映画路線の偉大なる祖先になる事など、夢にも思わぬ事でした。故にまるで逆のお堅い路線を行くかに見えた『ディープ・インパクト』が、特攻と云う意外な共通項によって『インデペンデンス・デイ』と括られた瞬間は、文字通り深い衝撃であったと同時に、莫迦宇宙映画が路線やジャンルとして定着する気配が感ぜられたのでした。



すでに『ディープ・インパクト』の前年、莫迦宇宙映画はやや亜流的な位置にある『コンタクト』('97)を生み出していました。エイリアンの造形を如何様に描写するのかと云う問題は、しばしサイエンス・フィクションで論じられる課題ではありますが、この物語でファザコンのジョディ・フォスターが父親に変態したエイリアンと出会った時、わたしどもは映画館の座席からずり落ちそうになりました。謹直で思索的な色彩が、「莫迦」と云う言葉によって蒸発せしめられた様な気がしたのです。

『コンタクト』『ディープ・エンド』と続いた後、人類はいよいよ莫迦宇宙映画の神髄とも云うべき作品と遭遇する事になります。もはや伝説的と云っても良い偉大すぎる怪作『アルマゲドン』('98)の登場です。

『ディープ・インパクト』を経験したわたしどもには、その公開あたりから流布の始まった『アルマゲドン』の簡潔な予告編にアレでナニな臭いを見て取る事は、容易い事であったと云わねばなりません。98年も暮れようとするある冬の日、『アルマゲドン』は満を持して公開と相成り、わたしどもは喜々として先々行オールナイトへ足を運びました。そして吉祥寺の映画館で待ち受けていたものは、わたしどもの矮小な想像力を遙かに超える空想の世界でした。

思えば『インデペンデンス・デイ』で、宇宙飛行士への夢を絶たれたウィル・スミスは、人類未曾有の災難の中に思いもかけぬ形で宇宙への道が開かれている事に気づき、観客にさわやかな感動を与え、同時に巧みなシナリオ工学の勝利を意識せしめました。それから二年後、人類は気合いと根性で世界を変える事が出来ると信ずる無垢な土方たちを、「自由号」「独立号」と云う命名者の過剰に卓越したネーミングセンスを感じさせるシャトルで宇宙へ放出して、己の命運を託したのでありました。

わたしどもはここで指摘せねばなりません。『コンタクト』や『ディープ・インパクト』の地上では豊穣であるはずだった知性が、宇宙の際限無き空間で「莫迦」を現出させてしまった事を。それでは、地上では必ずしも豊穣ではなかった知性が宇宙空間へ至った場合、如何なる恐るべき事態が起こりうるものなのでしょうか。『アルマゲドン』は見事と云うほかに言葉のない綿密さを持って、その有様を描きました。それは、気合いと根性で重力法則すらねじ曲げてしまった男たちの血と涙と汗で充満するあんまりにもハードなサイエンス・フィクションでした。ウィリス親方はわたしどもの期待に一切背く事もなく、色々な意味で悽愴きわまりないシークエンスを重ね、度を超えた自己犠牲の精神の名の下に、「莫迦」の神々しい文字を宇宙空間の深遠なる闇に刻みつけ、わたしどもの歓喜と共に白色矮星へ突入して逝ったのでした。



映画館で感情をあからさまに発露する事を、良しとする社会もあれば、それを慎もうとする社会もあります。わたしどもの産まれ育った社会は、どうも後者の傾向にある様で、その成員であるところのわたしどもも、映画館では静粛で居ようと努めるのですが、『アルマゲドン』の物語浄化がピークに達してしまう親方回想フラッシュバックで、わたしどもの慎ましい精神はついに限度を超越してしまいました。「ぷっ」と云うわたしどもの吹き出しは、隣に座っておられた中年男性の方を少し驚かせたようです。



『アルマゲドン』で最高潮に達した莫迦宇宙映画路線は、それから二年後、『ミッション・トゥ・マーズ』('00)の火星人がわたしどもの思考回路を破壊する事を持って、その華々しい歴史に幕を降ろす事になります。


Armageddon (1998)
Directed by Michael Bay

story  Robert Roy Pool
Jonathan Hensleigh

adaptation Tony Gilroy
Shane Salerno

screenplay Jonathan Hensleigh
Jeffrey Abrams




[注1]
過剰な自己犠牲が滑稽に繋がる可能性をごく初期に示唆した古典作品に敬意を表して、この稿では体当たり攻撃一般を「白色矮星へ突入」と表現する事にする。

[注2]
アレでナニとは永野のり子が使う表現であるが、そのほどよい曖昧さが、政治的態度に関する保身に便利であったりする。「特攻」と滑稽を結びつけるのは、よく知られているとおり、わたしどものコミュニティの歴史的経緯から微妙な感情問題に至りうる。一応、実人生におけるわたしどもの態度はこの稿とは別の所にある、と記しておこう。詰まり、これも保身であり、意気地がない。話は変わるが、優しいおねいさんから「意気地なし」と優しく云われるのは一種の浪漫である。

[注3]
見方を変えれば、とても良くできた洗脳と云えるかも。




作成日2003/09/13


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