五 ケセラセラ
二十
年上の幼なじみと云う甘美で幸福なる響きは、鈴木の巨大な腹の中で今もなお反響しているかの様な幻想を松本は抱くことがある。今、蕎麦屋で真向かいに座り、いつもは饒舌な口を封鎖して、天丼を見下ろしている鈴木を、視界の上辺に確認すると、そんな心持ちになってくる。鈴木が初めて物理的に認識されうる存在として出現したとき、松本はおのれの呪わしき運命を改めて確認せざるを得なかった。その衝撃波は、半年の時を経てもなお、かすかな余震を心の奥座敷に及ぼし、悪しき記憶の消失は許されそうにもなかった。仕方なしに、松本はかつての仕合わせな幻想を鈴木の腹の中に投影する。そして、そのたびに漆黒の闇が心を満たす様に感ぜられ、心理療法として甚だ相応しくない行為をおのれがやってしまったことに気づかされるのである。
蕎麦屋を這い出た二人は、数分の後には、電気街の駅に降り立っていた。駅を設計した人物が想像すら出来なかった発展の過程をこの街がたどったことによる災禍は、狭い改札を詰まらせ、ひとびとは街へ放出される際には、ある程度の時間のコストを要請した。街に集まる人びとは、一様にして、腹のサイズについて統計的な偏りが見られた。通過の困難がもたらされたことも、無理ならぬ話だった。
ホームから改札へ下る階段の中途からは、その脂肪の海が見渡せた。蔓延する眼病のため、汚れある海を構成する人びとは、皆、涙を貯めていた。そして、生臭い臭気を漂わせていた。松本はたまらず「うへっ」と顔を顰めた。
「あれは、未来を永遠に失った臭いなんだな」
同じ様な臭気をまき散らせながら、鈴木は「にはは」と白痴の少女の様に少し笑った。松本は、鈴木の云わんとするところを理解できなかった。ただ、眼下に広がる腐海にこれからこの身を投じなけばならないと云う未来に対する確たる予想が、かれを早くも心の疲労で包み込んでいた。もっとも、その為、駅を抜け出ると、開放感があった。しかし、それも一瞬の後に消失するのが常であった。密集する建造物とそれに群生する看板たちによっ埋め尽くされて矮小になった空は、この世の果ての様に見えた。
初めてこの街に降り立ったときの不思議な印象は、松本が街を訪れる度に忠実に再現される。その時も、かれは歩行しながら左右に首を回し、鈴木の注意を引いた。
「脂肪を蓄積した連中ばかりぢゃないか」
童女愛好者やそうでなくとも生身の成人女性を愛せないひとびと、つまりこの街を訪れるのに正当な理由を不幸にして携えてしまったにんげんたちは、古来、巨大な脂肪組織を背負わされていると云う紋切り像で語られてきた。一定の空間に引きこもる誘引が強いためだとか、或いは、床に猛烈に転がるかれら特有の興奮の様式が回転を容易にする体型へ進化する圧力になったとか云われていたが、松本はそれをあまり根拠のない偏見だと思っていた。不幸なるにんげんたちへの偽善なる愛であり、また、本当は認めたくなかったのだが、そのような範疇に片足を突っ込みつつあるのを感じざるを得なかったおのれが、標準体重から微動だにしなかったことが、偏見の偏見たる証拠を突きつけるように思えたのだ。ところが、電気街に降り立ってみて、松本の儚い想いは、ナノ単位にまで解体されてしまった。中性脂肪の山が、築き上げられていたのである。
巨漢の鈴木は、その街の通行の困難を醸し出している巨漢の群衆を器用にすり抜けながら、高速な歩行を維持し、松本はかれついていくのに精一杯になり始めた。通行に支障を感じるような場所を高速に巡航しているにもかかわらず、松本は鈴木が他者と衝突した場面を目にしたことはなかった。それどころか、周囲の誰も、巧妙に物理的な接触の回避を試み、それに誰ひとりとして失敗している様子は見受けられず、この空間には不思議な力が働いているような空想が松本の頭を疼かせた。
鈴木は遅れがちな松本に気づくと歩速を緩め、松本の発言に対するかれなりの見解を愉快な口調で述べ始めた。
二十一
「せかいの片隅にいた誰かが、気づいたんだよ。俺たちはひょっとして独りぼっちぢゃないかってことを」
体脂肪の話題から、なぜ、そんな言葉が出るのか、松本の顔面は疑問符で埋め尽くされた。鈴木は、言葉を続けた。
「時の進展につれて、みんながそれに気づき始めた。そして、独りぼっちであることを前提にした仕組みが出来上がった。それは、それまでのせかいを覆っていた仕組み――つまり、“独りぼっちぢゃない”ということを前提にした仕組みだな――よりもずっと強度があった。だから、せかい中に広まっていった。そして、皆、寂しくなってしまった」
鈴木は松本の顔を見て、厭な笑顔をして見せた。(キミも寂しいのでせう)という幻聴が松本には聞こえてきた。
「いいや、寂しくなんかないぞ。いつも元気だぞう」
「ふふふ。強がりやさん♪ というか、何も云ってないぞ」
松本の混乱に満足を覚えた鈴木は、目的の地たる書店が近づいてきたのを認めると、結論を急ぎ始めた。
「独りぼっちな仕組みには、個人的な開放感という物があったんだが、でも、代償として、人生の意味だとか、自分が自分であることの確証を自力で探さなければならなくなった。独りぼっちではなかった時分には、それを個人で呻吟する必要はなかった。個人を越えた、より大きな全体が、生活の有り様をデフォルトにする代わり、自我の同一性を保障した」
鈴木は立ち止まった。
「独りで、いきなり、宙に投げ出される気分ってわかるかい? わかってるはずだ。それはとても気持ちの悪い物だ。誰もが、それに耐えられる訳じゃない。耐えられない奴は、代わって自分の有り様を考えてくれる他者に自分を売り渡さなければならない。でも――、価値のない物は売りようがないんだ」
ふたたび、鈴木は歩行を開始して、書店の狭い入り口に肉厚な身体を押し込んでいった。松本は慌てて追いかけた。
「で、けっきょく、どうなんだ?」
「精神には、物理的な抵当が必要だし、また物理なるせかいは精神の具象とも言えるんだ。“独りぼっちだ”って云う発見が、それを前提とした仕組みを産んだように。或いは、その仕組みがせかいを覆うにつれて、皆が自分のことを“独りぼっち”と思い始めたように。寂しいから、身売りしたい。でも、買い手は居ない。どうすればいい? 兎は寂しくなると死んじゃうぞ」
松本の頭の中には(ぢゃあ、死ねば)という気取った答えが浮かんできていた。
「寂しいと感じる哀れなわれわれの形而上な魂は、形而下たる脂肪細胞によって埋め合わされねばならなかったんだよ…」
「ちょっと待てい」と松本は突っ込んだが、鈴木は待たなかった。
「…ここは、せかいでいちばん寂しい場所なんだよ。精神を病んで隔離施設に放り込まれるか、あるいはおのれを失わないために巨大な中性脂肪をため込むか。どちらが真っ当な選択だったと言える? その回答は各々が信じる価値観によって、決定されるだろう。でも、どちらを選んだとしても、社会の全体が被るコストは同じなんだ。標準体重からおのれの身体を華々しく超越せしめることによる生活習慣病の発症を支えなければならない費用は、抗鬱剤の処方や身体の隔離に必要な物理的・人的施設を維持する費用と等価になる筈なんだ。何をやっても、犠牲は同じであり、つまり、われわれは最初から敗北していたんだよ」
鈴木の言説を聞くといつも、何かがとても間違っているような心地になる松本であった。取り敢えずかれは、「われわれ」と云う鈴木の表現に対して、「俺様は含まれぬぞ」と云う抗議を申し入れるのだった。
二十二
その書店を生き生きと縦横に飛び交う童女愛好家たちに眼には、いっさいの曇りは見受けられなかった。人びとはおのれの求めるものがなんであるかわかっており、そして求められているものは、確かに其処にあったのだ。だが、かれらはこの街を立ち去り、おのれの塒に帰還したとき、人類が将来を失ってしまったことを象徴するもので一杯になった紙袋を両手に抱えて途方に暮れるだろう。われわれはここまでやって来た。でも、還るところは用意されていたのだろうか、と。
書棚に詰めるだけ詰められた薄い冊子を次々と指でなぞり、熱病の様な欲求の憤激を示現するひとびとの間で、時折、冊子を引き抜いては、すぐに元に戻し、またそれを繰り返すだけの鈴木には、淡泊な印象が松本には感じられた。
「御前さんは、ぺったこんでつるっべたを本当に愛しているのかい?」
千日行に入った禅僧の様な顔で、ふたりの童女がお兄ちゃんの男根を翻弄する戯画に見入っていた鈴木は、そう問われると、すっと頁を閉じ、瞬く間に周囲に浮遊する永遠のお兄ちゃんたちと見分けのつかない表情におのれの顔を造形して「でへへ」と漏らした。だが、同好の友であるはずの永遠のお兄ちゃんたちが、いつも両手に大量の戦利品を抱えているというのに、鈴木は来店時と同じ、ほとんど手ぶら状態で店を後にするのが常であった。
松本は、日頃の発言との噛み合いを拒絶する様な行為を時として厭わない鈴木の態度について、ある憶測を立てつつあった。電気街は、鈴木にとってもはや――あるいは、最初からそうであったかもしれないが――物理的な充足を満たす場ではなくなっているのだ。電気街に律儀に足を運ぶのは、童女愛好家としての自分を確認したがためであり、言葉を換えれば、それは巡礼なのだ。自分と同じような考えを持ち、同じような生活をして、同じような絶望を抱える人びとがこのせかいに確実に存在していることを確認しているのだ。
電気街に然したる用もないのに、鈴木にくっついてのこのことやってくる松本も、同じような心地をうすうすと自己の内に感じ始めていた。かれの求める禁制となったヴィジュアルノベルは、わざわざこの街へ足を運ばなくても、未だ取り締まりの緩やかなその時期においては、足がつくのを別段に恐れる必要もなく、自宅の端末から易々と落とすことが出来たのだ。街は、こんなにも惨めな自分がこんなにも惨めであることを確証する捻れた自己愛の発露で満たされつつあったのである。
滝の如く生理的な化学反応の連鎖を暴発させつつあるひとびとの脳内をこれ以上刺激しない様、入念に選択され店内に流されていた平穏な環境音楽は突然、「二桁に達する妹たちが、義理の兄の貞操を奪わんと画策し、そして、兄を輪姦して廃人に追い込む」と云う、この場で知らぬものは居ない“お兄ちゃん強奪アドベンチャーノベル”、そのイメージソングの高らかな凱歌に取って代わられた。
度を超した個性が却って無個性を主張してはばからない妹たちの、悪性の腫瘍を脳に感じさせる様な声が響き渡るたびに、ひとびとは身体をぴくりと痙攣させた後、スピーカーの
あると目される場所に一斉に顔を向けた。直後に、自分の無意識の行動にはたと気がつき、そそくさと視線を戻した。松本はその様子を観察しながら、物憂そうな溜息を小さくはいた。
「どうして、こんなに人畜無害なひとびとが、世間に虐げなければならないのか」
「人畜無害だからさ。何も出来ないってことは犯罪なんだよ」
鈴木は、いつもの如く、春風に吹かれた様な清々しい顔で云った。
「生身のおねいさんと乳くりあうのも、絶対さわることの出来ない虚空のおねいさんに向かって、操作卓を連打することを通して吠え語りかけるのも、結果的に、汚れた蛋白質を体外に放出するに至るだけなんだ。さわれようとさわれまいと、関係ない。グルタミン酸が神経細胞のイオンチャンネルをばたつかせるだけだ」
其処まで語ったところで、鈴木は松本が居なくなっていることに気がついた。見回すと、プレミアのついた古典ノベルのパッケージが並ぶガラスケースに、顔を密着させている松本の後ろ姿が目に入った。
「見ろよ、美鈴ちんだぜ。初めてパッケージ版見たよ。嗚呼、切つないよう」
ヒロインの名前を呼びながら、松本はその物語を反射的に回想して、興奮を覚えていた。鈴木は肩をすくめ、誰にとも無く言葉を繋ぎ続けた。
「あくまで確率の問題だが、生身のおねいさんに恋着を覚え得た(世間からすれば)人並みな青春を送れば、野垂れ死ぬ様な人生を送ることもないだろう。では、それの叶わなかった不幸なる青春を送らざるを得なかったものはどうなるのか? 古人はそれは選ばれたるものの資格であると自虐的に語ったものだが……」
微妙に身悶えを始めている松本の背中を遠目にして、かれはポツリと呟いた。
「そういうもんだ」
二十三
松本は、奥の見えないその地下道の中央に差し掛かると、出口にたどり着け得ない空想に、苛まれるのだが、逆に、閉鎖された空間を好む鈴木の方は、巨大な体重を地球に逆らい支えているその足も、軽やかに見えた。松本が閉所を好まないおのれの属性を語ったとき、鈴木は意外そうな顔をした。
「せかいが自分の視界の範囲に置いてしか存在しないと云う確証は、安心感に繋がらないかね」
鈴木はそう云った。
自分を自分たらしめる儀式を電気街で終えたふたりは、下町の映画館へ向かっていた。電気街はその活気とは裏腹に精神の場末と云えたが、活気なく空気の淀んだこの街は、場末という概念を視覚的に認められる形にしている様だった。松本はこの街が苦手であった。電気街の他者は理解しうる他者であったが、下町のアーケードで仰向けになり、虚脱して屋根を見つめるひとびとは、松本の理解への努力を頑なに拒絶していた。
電気街から電車を乗り継ぐ際、長い地下道を歩かねばならなかったが、其処からすでに、腐臭を放つひとびとの生ける残骸が転がり始め、下町気分が漂い始めた。鈴木や松本の同志たちが世間に放出している臭気も、この腐臭迄は達し得ていない。
本は道端に鎮座している排泄物を踏み込まぬようびくびく歩くような心地であったが、鈴木は、巨大な牛糞を発見し、嬉しそうに小枝でつつく子どもの様だった。「う〜ん、高等遊民」とか「生きてることの不思議さ」とか「人生の先輩♪」など、脳天気なことを沸々と囁きながら、堂々と歩行していた。松本は自分とは違って如何にも軽快に世の中を渡って逝けそうな鈴木を、羨ましく感じた。同時に、人生の凄惨について、格好のケース・スタディと豊富なサンプルを提供し続けているかれらを目前にして、厳粛たる態度を取り柄ない鈴木が、松本の生真面目な気質を刺激した。
「あれは、俺たちの人生の終着点を具象しているのではないか」
恐る恐る云う松本を、鈴木は顧みて、近所に住む年上の優しい幼なじみの様な声色で云った。
「だいぢょうぶだよ♪」
言葉が明確な根拠を語られずに終了したため、松本は余計に不安を感じて、「何がだいぢょうぶなんだよう」と鈴木に取りすがった。
「安心していいよ。こんなに分かりやすい物ぢゃないよ。罰はもっと緩慢にやって来るんだよ」
鈴木はすごく嬉しそうに語った。
「そして、緩慢な罰は思案を絶するほど苦痛に満ちてるんだよ♪」
映画館は糞尿の臭気で満ちていた。館内に入った松本は、アンモニア臭で目を潤ませた。この映画館を訪れる度に、臭気の強度が増している気がした。
週末になると、社会のしがらみでパッケージ化に至らなかった作品を夜通し上映していたその映画館には、入場料と宿泊料を混同させる事に思いが至ったひとびとが結集し、恐るべき臭気で観客の嗅覚の受容体を侵し続けた。入場料の償却を貫徹したいと強く願う松本の貧乏性は、以前においては、この館内で襲いかかってくる幾たびの試練にも驚異的な持久を示してきたが、今度ばかりは一本目の上映が終了した時点で、鑑賞によって得られる利益が、入場料と臭気によって被る費用に早くも敗北した予感が、頭の中で巡回を開始した。
「出ようよ。防毒マスクが必要だよ」
鈴木からは返事がなかった。かれはぽかりと開けた口を高い天井へ向けて昏睡していた。松本は鼻の悪い自分が幸運なのか不幸なのかよくわからなかった。また、おのれも館内に漂う臭気の子分の様な微細粒子を喜々として放出しているくせに、肝要な臭気には精神の限度をあっさり超過せしめてしまう鈴木が、すこし哀れにも感ぜられた。
二十四
鈴木の両脇を抱え、その平べったい身体を館外まで引きずる作業は、戦友の入った死体袋をトラックに収容する様な心地を松本に感じさせた。券売機の前で我に返った鈴木は、夢遊病者の足取りでアーケード街を抜け、河口への接近を思わせる幅広な河川に沿った遊歩道に出たところで、再び力を尽くしてしまった。
ベンチに座り込み、上空に顎を晒した鈴木を背にして、松本は河川の対岸に並んだ外灯の列を眺めた。糞尿の臭気で映画を断念せざるを得なかったことや、道端で朽ち果てていく“高等遊民”のなれの果て、或いは、童女の淫乱を売り物とする書店で流れた楽曲に動揺を隠せなかった男たち。あまり仕合わせとは云えないその日の情景が描写されるにつれて、心のすきま風が増速した。居ても立ってもいられなくなって、かれは何らかの救いを求め、鈴木の方を振り返った。未だ復興の目処が立ってないように見受けられた鈴木の姿は、地下道や有蓋街路に転がるひとびと重なって、松本の視覚に投じられた。
「飲みに行かないか」
アルコールの吸引を欲した松本は、垂れかかる脂肪組織に押し潰されそうになっている鈴木に声をかけた。
「今日は、ちょっと勘弁だね。水素と窒素のあの忌まわしき化合物が鼻内にこびり付いているよ」
「別に飲まなくても良いよ。つきあってくれるだけでよい」
鈴木は「う〜ん」と発し、気の乗るようには見えなかった。松本は駄々をこね始めた。
「きみぃ、僕の酒が飲めないと云うのかね? 僕のことが嫌いなんだね」
迷惑そうな鈴木の笑顔に松本は更なる刺激を受け、「飲んでくれないと泣いちゃうぞ」と発言の痴態を上昇させていった。鈴木は駅近くの酒場に無理矢理連れ込まれる羽目を被った。しかし、彼我のこの関係は、酒場で時間が経過するに伴い、逆転していった。身体に取り柄の少ない松本であったが、アルコールの分解能力においてだけは、かれの身体は卓越した能力を誇っていた。いくら大量に摂取しても、便器へ波動砲を発射する決断を迫られることはなかった。
対して、鈴木の体内を彷徨うアルデヒド脱水素酵素は怠慢であった。にもかかわらず、酒に吸引された鈴木の姿を、松本があまり見たことのなかった事実は、鈴木の細かく計画的な心の密かな顕現であるようだった。体格の割にものを喰わない男であった鈴木は、また、あまり飲まない男でもあった。
ただ、その日は様相が異なっていた。初めは口を付ける程度の鈴木であったが、やがて酒量は、松本の知る限りではリミットと目されていた線を易々と踏み越えた。今日の鬱なる出来事の数々は、精神までも脂身で覆っているかのような大らかな鈴木にも、少しは鬱なるものとして認知されていたかの様に見えて、松本はかれに親近感を覚えた。だが、それも最初の内だった。
「観鈴ちんが哀しいのはね、死ぬことに理由が付されないからだよ」
アルコールが鈴木をこんなにも情緒的な心持ちにすることを、松本は知らなかった。吸引を開始した直後は、松本がせかいに対する恐怖を切々と語り、鈴木はそれを穏やかに聞いていると云う、かれらにとって日常の情景が展開されていた。が、松本が語ることを無くし、飲食に焦点を置き始めて暫く経った後、鈴木は眼球に光沢を溜ながら、脈略もなく語りを開始した。
素面で何かを語るときの、鈴木の興じた表情は、神経の鞘を不快に優しく撫でられるような心持ちを、ひとに対して投擲してきたが、半ば、恍惚として、そして、半ば泣きの入った顔に変貌しつつあった今の鈴木は、普段のおのれを棚に上げて、松本には煩累に思われてきた。
二十五
「われわれには生きる意味が必要なんだ。でも、せかいは空っぽで、幾ら探しても初めからそんなものは何処にも無かったんだよ。だから、せめて、物語には。われわれが作り得て、変数の操作が可能なもうひとつの小さなせかいでは、生きることの意味や理由があってほしいと願うんだ」
鈴木は俯き、麦酒が三分の一ほど溜まったコップを見詰め始めた為、周囲の騒音から隔離された奇妙な静寂が、暫し訪れた。仄かに酔ってきた松本には、濁ったその麦酒が、不健康な身体から排出された小水の様に見えた。
「神様が居てくれたらなあ」
ポツリと云った後、鈴木は熱を帯びた口調になった。
「創造者の存在は、体系の創始を例証するものだ。なぜなら“創造”者だからである。もし、その体系に始まりが想定されうるのなら、同時に終わりを想定することも可能である。その体系下では、始めも終わりもない循環の恐怖から逃れることが出来るのだ。その代わり、彼等には終わりが与えられる。では、終わりとは何か? 終わりは、何者にも経験され得ない事象だからその名を冠している。其処に待ち受けるものを誰も知らない。だからこそ、そこに救済の余地があるんだ。誰もわからないのに、どうして救済なんて無いってことが云える?」
松本は冷静だった。いつも俺はこんな風に、奴を煩雑な思いで満たして居るんだ。そんなことを考えた。対照的に、鈴木はおのれの口泡で松本の顔面を益々汚していった。
「何百年か前、気づいたんだよ。どこかのくそったれが。俺たちがひとりぼっちで、意味の無いせかいに放り込まれたってことを。救済も糞もない物語を生きねばならないってことを。それ以来、俺たちは知らない内にこの世に放り出されて、そして、気づく間もなくこの世から放り出される様になったんだ。それは、果たして、生きてると云えることなのか?」
眼から滴り落ちてきた体液が、鈴木の顔面をなぞり始めたとき、それまで沈静した態度でその狂態を観察していた松本も、心持ちが引きこもりを準備する物音を、頭の中で聞いた。鈴木は顔を覆って嗚咽を漏らし始めた。凡そ、かれに似合わないその行為を見詰めながら、松本は大いに困惑を持て余した。
かれは、ふと、普段の当人からは想像できない感情の露出が、生殖の契機になり得ると云う、鈴木が過去に語った言葉を思い出した。今、ここで、べそをかくかれこそ、その事例に当たると思われるのだが、生殖云々なせかいからは隔絶した空気しか感じられなかった。現実は、溝川の腐臭の様であった。
これが、美観の欠如した鈴木ではなかったら――。松本は仮定を膨らませた。きれいなおねいさんが対面で斯様な行為に出るのなら、その類型性が納得ある説明を圧縮して、おぞましそうに一瞥を呉れてくる周囲の客に送り込んでくれるだろうが…。それにしても、綺麗なおねいさんとなら一度くらいはそんな境遇に陥ってみたいなあ♪
松本は浪漫主義に暫し逃避を行ったが、時折鈴木の漏らす気味の悪い音声がかれ現実界へ引きずりおろした。ついには、周りの視線に耐えきれなくなり、松本は会計を済ませると、顔を手で覆ったまま動きそうもない鈴木の両脇を抱え、出口の方へ引きずっていった。鈴木の質量を腕に感じながら、今日はこんなことばかりやっている様な心象をかれは抱いた。
出口に差し掛かったとき、鈴木は小さな声で漏らした。
「俺は――、約束を守れなかったんだ。逃げ出してしまったんだ」
松本にその声は届かなかった。
二十六
酒場を出て、外気に晒されると、鈴木の心持ちは急激な立ち直りを敢行しつつあった。
「少し酔うたわ。今宵は望月ぢゃ」
不思議な日本語で、三日月に向かってそう吠え立てるので、まだ心身の状態は普通から幾分逸脱している様には見えたが、それでも先ほどの目に余る醜態からはよほどましな様に松本には思われ、少し安堵を覚えた。
「先程は、たいそう激していた様だが、今は上機嫌だな」
鈴木は松本の発言を受けて照れくさそうな顔をわざと作って見せた。
「眼に埃でも入ったのであろう」
「今時、そんな古典的な言い訳を云う奴がおるかえ」
「眼は、顔についているだけぢゃ無いのだよ。(近所に住む――以下略――の様な声で)心にだって目玉はついているんだよだよ♪」
「自分で云って、恥ずかしくないか?」
「てへへっ」
「ふふふ」
ふたりは随分と気味の悪い笑い方をした。
始発までまだ間もあったので、松本と鈴木は川辺の遊歩道を、時間を消化せしめるために、当てもなく歩いた。歩行中、鈴木は幼稚園の通学バスを乗っ取りたいと願うおのれの願望について、詳細な腑分けを頼まれもしないのに開示してきた。数十分に渡る論考の後、それの困難なことが勝手に判明すると、今度は根本的な解決として、バスの運転手そのものになる案が提案された。松本は、興奮しきって口をだらりと開けた巨漢の友人を一瞥して、代替案の実現不可能な壁が天空に達している抽象画を思い浮かべた。また、同時に、鬱なる境地から回復を見せたと思われていた鈴木が、喜怒哀楽の新たなる境地へ進出を開始していることに気づかされた。その足は、地響きを伴いながら、奇妙なダンスになり始めていた。
「大丈夫か?」
大丈夫ではなかった。鈴木はゴミ集積場に居並ぶポリバケツの列に、勢いよく頭部を突進させてしまった。横転したかれに、なかなか立ち上がる気配が見えなかったので、松本の胸には失神の可能性が横切り、またしてもこの巨体を引きずらねばならない予想されうる労力に多大な疲労感を感じた。
しかし、松本の絶望を跳ね返す様に、鈴木は一刻の後、ポリバケツを抱えてむくりと立ち上がった。
「失禁しちゃうよ。くそったれめ」
かれは喚きながら、川と歩道を隔てる鉄柵の上によじ登り、度の越えた器用さをもって、ポリバケツを脇に挟みながら、川に向かって放尿を始めた。松本は、あの体に軽業師の属性が備わっていることを唖然とした心持ちで確認したのだが、放尿中の巨体が前後に振り子運動を開始して、身体が均衡を失いつつあることを示し始めると、我に返った。川への突入は万難を排してでも阻止せねばならない決意が沸いてきたが、排尿中の人物を歩道側に引っ張るにしても、制御を失った小水が主人ばかりではなく、松本の身体までも汚すおそれがあった。かれが行動を起こすのを躊躇していると、鈴木はポリバケツと共に川へ落下していった。水しぶき音響が、静寂の闇をふるわせた。
川は黒々と見えたが、街灯に照らされて、鈴木の姿は辛うじて確認された。かれは腹を浮かべてながら、河口へ流されつつあった。
「知ってたか? おっぱいって天然の浮き袋なんだぜ。脂肪は浮くんだよ。だから俺様も浮くんだ。見ろよ。人生だって浮いているぜい」
かれは歌い始めた。音痴なのか、はたまた、そうではないのか。松本にはもはや何もわからなかった。
Que sera,sera
Whatever will be,will be
The future's not ours to see
Que sera,sera
What will be,will be
鈴木の姿はもう見えなかったが、遠い叫び声が聞こえた。
「ああ、すごい、素晴らしい、気持ち悪い」
つづく