六 にはは

二十七

鈴木の在所は、鉄道を用いて其処へ向かう松本にとってみれば、二駅向こうの距離に過ぎなかったが、ただ、駅を降りてからは、十五分ほどの歩行をかれに強要した。夏の日差しが、背中に淡い発汗を促した。

目的の地に近接してくると、人の通りうる道は肩幅ほどになり、両脇には二階建ての集合住宅が覆い被さるようにして生え並んでいた。地震や焼夷弾の洗礼を、上空に手を広げて欲している様な建造物達は、巨大な棺桶置き場に迷い込んだ心持ちをかれに与えた。

木造のその棺桶達は、その役割を果たし始めた当初は、彩色鮮やかな壁面を方々に晒していたと思われたが、長年に渡る風雨の擦り合いが、それらを一様に単色の濃灰色に変容させてしまった。どの建物も奇妙な遠近法の下にあるかの如く、松本の目には歪んで見えた。其の捻れが、建物の物理的な因子によるものなのか、はたまた、この土地の不思議な磁場が松本の認知の過程に干渉を及ぼしているのか、かれには皆目見当のつかないことであった。

そんな街路にあって、円筒のポストが唐突に姿を見せる十字路がある。モノトーンの情景にぽっかりと浮かぶ赤色の物体は、其の一帯を周辺から浮上させ、鈴木の巣くう魔窟の良き道しるべとなっていた。其の街路を左に曲がれば、かれを収容する外面からはまわりの建物と親和を有する集合住宅があるはずだった。しかし、松本は其の十字路をみすみすと一度は見逃してしまった。景観が微妙に異なるのを感じて道を引き返して、ポストのある十字路と思われる所へ戻った。「思われる」と云う言葉がついているのは、在るはずのポストが其処になく、この十字路が目当ての十字路なのか、判然としなかったからである。試しに道を曲がったところで、鈴木の宅は発見された。ポストは撤去されたものとかれは解釈したが、それが長年接していたと目される地面が他のそれと完全に調和しているのが見受けられると、心の隅に小さな引っかかりを覚えた。

鈴木は「ふぉふぉふぉふぉ」と宇宙人のような声を出して、闖入してきた松本を迎えた。先週末の痴乱に不安の影を感じていた松本は、幾分かの安心感を手に入れた。鈴木を逆光の下に置いているモニターの中では、血の繋がらない兄に不自然なほど従順な幼き妹が、モニターの外にいるかれらを兄と見立てて、微笑んでいた。

「せかいは概して不快なものかも知れないが、愉しいものが見つかれば耐えられるかもしれないな」

鈴木は、モニターの彼女を指さした。

「だから、血眼になって探したんだ。そして、見つけた」

端末は、小学生としか思えない体格を持つ女性と思春期の盛りにあると思われる男性の生殖行為をモニターに描画するため、猛烈なる演算を開始していた。だが、画面の盛り上がりとは対照的に、鈴木の表情は沈みつつあった。

「古典期のヴィジュアルノベルは素晴らしいものだ。人体の骨格を無視した造形、其の不自然さが卑猥を一層のこと際立てているようだ。何よりもメタファーで処理されない直截の描写が心躍らせる」

料理を評価するときの美食家のように不自然な言動は、機械の棒読みのような有様で鈴木の口から繰り出されてきた。床に散乱した書籍とパッケージを踏まないようにして、松本は暗い部屋に胡座をかく鈴木に近づこうとしたが、やがてものを踏まずに歩くことを諦めた。鈴木に近づくにつれて、床は見えなくなった。紙のパッケージが圧壊する乾いた音が聞こえた。やがて、床に座り込む形の鈴木を、松本が見下ろす形になった。鈴木はゆるりと顔を動かし、松本の方を見上げたが、モニターが光源になって形成する逆光のせいで、其の表情は窺い知れなかった。

「でも、もう勃たなくなったんだよ」

鈴木は肩を震わせていた。

「あれだけ俺様から乳白色な蛋白質の液体を搾り取らしめたのに、しおりんにハァハァ出来なくなったんだよ」

かれは立ち尽くす松本の両足に取りすがった。

「お願いだよ、助けてくれよ」

二十八

童女への劣情は、かれの人たる証ではないのか。鈴木と付き合い始めて、松本は童女愛好家の心理をそう解釈する様になった。人は、未来の行く末の思考的な模擬実験を繰り返すことによって、自然適応への優越を手に入れたが、やがて、実験がせかいを覆い尽くしてしまった。自然を直に生きる動物とは違って、天然たるせかいに模擬実験に適した人為的な認知の空間を作り、その中でしか秩序ある人生を全う出来ない様になった。人為の空間で生活することが叶わぬにんげんは、心療内科と云う社会の衝撃緩和材へ吸収されていった。

人為の空間からの逸脱は、そもそも、自然の直接的な認知を契機と成すはずだが、その達成が、人たる生活の放棄と等価であることは、人がそもそも不自然な存在であることの良き例証であった。だから、生殖に繋がらず、よって個体の増殖へ貢献しない不自然な性愛を謳歌する童女愛好癖は、不自然な存在たるにんげんにとって見れば、きわめて“自然”な性癖であり、むしろ個体発生に至る性愛こそ、不自然なものではないか。

そう考えると、電気街を行き交う巨漢のにんげんたちが、歪みを本質とする人類の先端を走っている様に、松本に眼には写り始めてきた。ただ、かれらの向かうゴールには、生殖の不能になった人類種の絶滅と云う終焉が、燦々と輝いて待ち受けていた。

ところが、おのれが全く持って正統な人類たる属性を持っていて、その先頭を突っ走っていると云う、かれらの社会的精神の均衡を保ってきたこの理屈を、当の鈴木は失いつつあった。童女すら愛せなくなり始めたかれは、これから如何様に生きればよいのか、皆目見当がつかなくなっている様に見受けられた。

鈴木から、その恐怖の内を突きつけられている松本も、その深度は違うものの、根元的な恐怖が胸の奥底からわき上がって来ることを感じていた。この場から逃げ出したいとすら思った。そして、そんなおのれに激しい罪悪を覚えた。

松本は、鈴木を友人として解釈できる立場を望み、それはある程度は叶い続けていると思っていた。社会性に欠けるからこそ、それに強くこだわるかれにとって、継続した人間関係を保証しうる相手が居ないことは、ひととしての何らかの欠落を意味するところであった。社会に健全に適応したいと願うかれにとって、友人はそれを実現してくれる便利なツールであった。詰まり、松本にとって、友人の存在とは、所詮それだけでしかなかった。

ただ、その一方で、人間関係に関するおのれの功利性を激しく非難する気質も、かれの中では並列していた。このせかいのどこかには、きっと損得関係のない友情が転がっているはずであって、真の友情は、詰まるところ、そう云うものだ。かれには、そんな情緒的な心持ちを追いかけたい気質も具有されていた。

松本は、だからこそ、友人の困窮に対して解決手段を持たないばかりに、その場からの逃避を念頭に置き始めるおのれが恨めしく、そんな想いが思考の停止をもたらして、ただ立ち尽くすことしかできなかった。一時凌ぎの手法として、端末から抑鬱薬、或いはもっと高揚させるために何らかの合法的な抗精神薬を発注することを考えたが、暗闇になれてきた網膜にモニターの周囲を散乱するカプセルが写り始めると、その案も自動的に挫かれることとなった。

(これだから厭だ)

松本は思った。そもそも、親しいにんげんなどはじめから作らなければ、斯様な葛藤に身を置くこともなかったのだ。他人の苦悩の解決におのれの頭を浪費することはないし、何よりも日常において安らかに眠っているおのれの苦悩が、誘発されて目覚めてしまうことも無かっただろう。

司法当局に通報して、保護プログラムにぶち込み、合成ステロイドを用いた去勢を受けさせることが、苛つきに駆られたかれの頭の中に浮かんできた。電話一本で済む、もっとも安易な方法だった。だが、つづいて“社会復帰した”鈴木の将来予想図が出現した。

「松本君! 心配かけたね」

曇りの欠如した笑顔から漏れ出る、歯に反射した光は、きっと青白く絶望的なチェレンコフ光の様に見えるだろう。

松本はその確信を疑うことはなかった。

二十九

外へ出たふたりは、住宅の過密を抜け、堤防とも土手もと解釈できる視界の開けた道を、寡黙に歩き続けた。時折、健康を維持するため自らに走行を課すひとびとが、ふたりの前を通り過ぎ、或いは、ふたりを追い越して地平線の向こうに消えていった。芝生に覆われた河原で肉体運動に人生を浪費してゆくひとびとの声が、にぎやかに響いて来た。松本は声のする方に顔を向けたが、そこでかれの注意を引いたのは、その声の発生源ではなく、竿をひっきりなしに振り回して、莫大な釣果を獲得しつつあった釣り人たちであった。松本は立ち止まって、その異常なる光景を指し示して問いを投げた。

「ありゃ、なんだ」

「すぐ上流で、放流をやっているんだよ。放流されたばかりの魚は、食い付きが良いらしい」

遠目でも、バケツから溢れそうになっているのがわかった。

「あんなに一杯、どうするんだ」

「ぜんぶ喰うらしい」

ふたりは再び静寂になり、歩行を開始した。直後、松本はおのれの腹の虫が音響を開始せんとする気配を感じて、じぶんの喰うことへの即物的な欲求に動揺と失笑を覚えた。かと云って、冗談交じりに「魚が喰いてえ」と今の鈴木に声をかけるのも憚られた。鈴木は、緩慢に心情の下流を漂っている様な顔で、虚ろを眺めていた。

松本は松本で、とりあえず、腹が空くのを我慢して隣を歩く男の処方を足りない脳で思念するのだが、足りない脳に為す術はなく、むなしく思考が空転するのみであった。しかし、たとえ、当人にとって納得ゆく案が浮かんでも、妙なところで誇り高い鈴木にとってしてみれば、おのれ如きの案など屈辱の極みに感じるに違いない。別に卑下してるわけでもなかったが、自然と干渉を遠慮するそんな気持ちが、松本をも沈黙の縁に立たせていた。かれが、友情と云うものがそんな干渉とか遠慮と云う言葉を超えたところにあることを知るには、もう少しの時間を必要としていた。だから、そんな考慮を払わなければならない関係が、もはや友情と云う名に値しないことも、その時のかれにはわからなかった。

「でも、全く救いのないわけじゃない」

脈絡もなく鈴木は口を開いた。

「しおりんも美鈴ちんも、せかいからの純然たる情報として、感覚の受容器と接した時点では、モニターのこちら側にいるわれわれとは随分と様相は異なるかもしれない。しかし、受容器を通過し、生体内の電気信号と云う形で収束と発散を繰り返す内に、すべての情報は、基準言語としての二種の文字しか持たない二進法にコーディングされる。信号は、頭の中の各所で発火して空間のパターンを作り、其処に何事かの意味を埋め込む。その時点で、俺たちを表出する情報は、しおりんのそれと等価なんだ。つまり、彼女はここに居るんだよ。同一の尺度で比較検討されうる単位に、どちらも還元されたと云う意味において。ひとりぼっちなことは寂しいばかりでもなかったんだ。ひとりぼっちでなかった時分には、異なるものを同じ土俵に乗っけることなんて無理だった。土俵に乗っけるにはみんなをバラバラにして、引き離さなければならなかったんだ」

「しかし、形式の同一性は意味内容の同一性に繋がるとは限らない」

鈴木の言葉を追う形で、松本は疑問を呈してみたが、鈴木の反応はなかった。松本は、続けて云った。

「確かに、俺たちは皆、似たもの同士になって来たのかもしれない。でもどうしてなんだ?どうしてこんなに寂しいんだ?」

いつもであるならば、松本の不安への答えを、たとえ無理な理屈であっても、快活にひねり出してくれた鈴木の姿は、もう其処にはなかった。ふたりは、沈黙を保ったまま、夕暮れの土手を何処までも歩いていった。

三十

鈴木が酔って川に落ちた日のこと。そして、おのれの性的不能について、落涙と共に自白した日のこと。その烈々たる印象は、松本の心根を包摂し続けたが、学期末が近づくと、過去の問答を手に入れる伝手を持たないかれは独力で試験の準備をせねばならず、自然と、多忙な日々を送る様になり、あの日の出来事も日々の生活の中に埋没していった。鈴木の姿を見ない様になったことに疑問を抱かなかったこと、或いは、その事実にすら気づかなかったことも無理あらぬ事ではあった。また、鈴木の暗転は、周期的な躁鬱の一環であり、従って時の流れが解決してくれる筈、と云う根拠もなく打ち立てられた楽観に、松本は勝手に放念をしていた。便りがないのは、元気な証拠であると。

学期の最後の日、試験の全日程を経て沸き上がる徒労と、長い夏の堕落した日々に対する幸福感に顔の筋肉を弛緩させて、教室の隅に座っていた松本の前に鈴木が現れた。鈴木は、薄幸とも多幸とも云えない中立的な様子であった。

ふたりは、眼の眼に迫った休暇の予定に関して、暫し言葉を交わした。松本はおおよそ二年ぶりに、田舎に帰ることを鈴木に伝えた。松本は親の愛に包まれたいと願う男であったが、同時に、その情を当の親に示すことに恥辱を覚えるごく当たり前の男であった。また、かれを養育してきた家庭環境に、松本は不足を覚えることはなかったから、望郷の念が成就されることに、少なからぬ心地の軽さを感じていた。

一方で、鈴木は、この夏をどうするかと問われると、「僕に帰るところなんてないのさ」と気障っぽく云い作って見せた。かれらは、たわいもない話題を二、三おこなった後、松本の浮き足も手伝い、早々に別れた。ただ、その別れ際に、鈴木は妙なことを云った。

「随分、静かな夏だな」

松本は不思議に思った。別に、夏でも冬でもうるさい場所はうるさいし、静かな場所は静かではないか。

「この教室は誰もいないから静かだけど、外に出たらひとが一杯でうるさいぞ、多分」

「そういう事じゃないんだ。俺達の産まれる直前くらいまでは、蝉の鳴き声で、空中が満たされてたって云うだろう? ヴィジュアルノベルの古典には、必ず夏の描写としてその音響が入ってるが、実際に、俺達はそんなものを聞いたことがない。ちょっと思ったんだよ。この耳で、あの声を聞くってどんな気分なのかと」

鈴木は窓の方を向いた。つられて、松本もその方角へ顔を向けた。

「これはひとつの空想なんだが、蝉は今でも鳴き続けていて、聞こえなくなったのは俺達が耳を塞いでるせいかもしれない」

松本の顔面は疑問符に覆われた。その顔の造形が、鈴木の微笑みの壷を刺激したらしく、かれは少し笑いながら教室を後にしていった。

翌日、故郷へと向かう列車の中で、松本は空調の冷気に身体を震わせていた。寒さに耐性を持たないかれは、天井にへばり付いている冷房を恨めしげに眺めた。松本は、おのれだけではなく地球規模にまで貧乏性を拡大させつつあったから、ここ半世紀の間、繰り言の様に謳われてきた「環境を大切に♪」と云う標語が、ここに来て無惨に打ち倒されている事態に接すると、心頭に怒りが到達するのを感じ始めた。

しかしながら、怒気が心頭に達したところで、実態としての寒さに代わりはなかったので、かれは、暖を求め、車窓に広がる田園の光景を視界に広げた。膨大な光量を伴った濃緑が、外空気の熱波を想像させた。窓に方頬を押し当て、「み〜ん、み〜ん」と蝉の鳴き声を心中で模声し始めた松本は、次第に、車内の極寒と屋外の熱気、その想像上の莫大な温度差に目を回し始めた。

故郷の土を踏んだ松本の生活は、怠惰そのものであった。去年、おのれの巣窟で身体を回転させていた暗い夏も、その形容が似合う日々であったが、田舎に帰還を果たしたかれには、自炊が迫られるわけもなく、三食昼寝付きの生活を堪能する事となった。かれの体重は猛烈な増加を開始したが、昨年の経験から、再び熾烈なる自炊の生活に戻れば目方も元の木阿弥になることが知れていたので、かれは安心して胴回りを拡大するままに放っておいた。だが、かれの目論見は外れることになる。

松本の善良なる両親は、息子が外へ一歩も出ず、喰うことと寝ることに懸命になっている様子に健康上の心配を抱き、散歩でもしてみてはと勧めた。かれは、「どうせ、長生きに値する様な人生ぢゃないよう」と親を泣かせる様なことを云いつつも、本当のところは長生きしたかったので、昼下がりになると、すたすたと出かけていった。

既知外じみた暑さのため、その時間に外出を行うにんげんはおらず、アスファルトから浮き立つ蜃気楼だけが、寂しく揺れていた。松本は視線をわずかに上げ、前方に広がる入道雲を視界の真ん中に収めてみた。夏は目の前に、何処までも広がっている様に思えた。

三十一

妙な話では在ったが、実際の所、鈴木はおのれの精神の変調に、来るべきものが来たという冷めた感慨をも持ち合わせていた。童女に情欲出来なくなりつつある身体は、一方では絶望だったが、他方では、おのれが事実上の十歳児たちに劣情を喚起せられるか否かは、ここに至って問題ではなくなりつつあった。本当に重大なることは、じぶんが生身の成人女性を愛せないことが、世間的に認知されることであり、かれ自身が不能になったところで、大した障害になるわけではない。誰も他者が自慰に耽る情景など、見ることはないのだ。

愉しいものをひとつ失ってしまったことは、鈴木にとって大きな痛手には違いなかったが、それは、他に愉しいものを探し出せば済む話でもあり、このせかいはかれの次なる欲求を満たしてくれる何かをひとつくらい残してくれるほどには寛容ではないかと、かれ自身信じる処もあった。過去に何度も愉しいものを失ってきたが、その度に、新たな欲求の拠り所を探し出してきた鈴木にとって、魂は喪失するからこそ、また、取り替えの効くものであった。大切なことは、童女街に出掛け、陰茎を直立させようとさせまいと、淫欲の海を漂流することであり、人離れることを望みながら最後まで人でありたいと本心では願っていた鈴木にとって、それがかれを人たる生き物にしている最後の一線であった。

かれは、それだからこそ、幼女への性欲を削がれるに至っても、お兄ちゃんと慕う近所に住まう幼女の常人とは思えない笑顔をモニター一杯に描出させるよう、端末の演算機を火照らせ続けたが、そんな日々を真夏の盛りに続けていたかれは、心持ちだけではなく、身体までも奇妙な変調を訴え始めていることに、気づくこととなった。

その胸焼けを含む腹痛が起こったとき、昨日から服用を始めた抗不安薬と身体が性に合わなかった為と鈴木は判断を下し、胃の内容物を幾度か便器の中に吐瀉してみた。しかし、一向に成果は上がらず、夕闇が迫る頃には、発熱を伴い始めた。かれは心と体の不快に苛まれながら、急性副腎不全とか急性腹症などと云う単語を心の宙に浮かべては沈めていた。次第に、低血圧、ショック、内視鏡、ハイドロコルチゾン投与と云うよくわからない単語が、尾鰭になって続い行き、みのもんた水準のおのれの健康知識が猛烈なる回転を始めていることに、苦い笑いを感じた。

翌々日に至り、かれの身体は快方に向かっていった。因果を為したと推測される薬物はゴミ箱に破棄され、以前用いて体を壊すことの無かった代替の薬品を服用しながら、かれは親愛なる“妹”の許へ還っていった。しかし、一時間ばかり経た後、トイレに駆け込み吐瀉を行わなければならなかった。

一週間の間に三度ほど、快方と悪化の繰り返しを経験して、かれはある恐ろしい想像に突き当たった。心だけではなく体さえも、幼女を受け入れられなくなってしまったのではないかと。

鈴木は万年床に仰向けになり、天井に貼ってある、かれを人たらしめていた大量の幼い婦女子が不思議な姿勢でこのせかいを覗き込んでいるポスターを見つめた。

(あれを貼るときは、すげえ苦労したんだ)

過去の思い出に浸りながら、かれは失神した。

鈴木が目を覚ましたとき、夜明けは間近に迫っていた。ここ数日の間、身体は僅かな栄養価の供給しか受けていない筈なのに、胴回りに縮減の気配は見受けられない様であった。本当に、脂肪細胞が寂寥を埋め合わせしているのかしらん、と考えながら身を起こすと、小康なる体調が僅かな空腹を訴えた。かれは、幽遠を彷徨う足取りで部屋を抜け出て、近所のコンビニへ向かった。

レジに納豆のパックをポツリと置いた鈴木は、店員がやって来るのを待っていたが、期限切れ商品の破棄に勤しむかれは、一向にレジの前にぼ〜っと立ち尽くす鈴木に気づく気配はなかった。鈴木は、本当に今、自分が此処に居るのかどうか変な心配が沸いてきたのだが、なぜか、店員に声をかけるのも躊躇われ、未精算の納豆を残して、目的を果たせずまま店を後にした。

暫く歩いた処で、後方に声が発せられるのが聞こえた。店員が納豆のパックを握りながら、走り寄ってくるのが見え、鈴木は、おのれがまだ他者の知覚の対象になっていることに安堵を覚えた。だが、其の青年が目の前で、かれにはよく理解できない怒号を、納豆を振り回しながら発したとき、鈴木はじぶんが声の出し方を忘れている事に気がついた。

両者にとって不幸なことに、青年の前頭前皮質は、育児放棄によるストレスの蓄積で、些細な歪みが生じていた。かれは、おのれを制御する術をあまり知らなかった。困惑を覚えた鈴木は、声による疎通が不可能なら肉体言語を用いるしか在るまいと決し、青年の鼻柱におのれのこぶしをぶつけてみた。相手が身体を転倒させるのを確認すると、かれは振り返って家路を戻り始めたが、間も無く、右腰から面妖な灼熱感が発せられた。

腎臓のあたりに突き刺さっている小さな刃物が、背中越しに見えた。それは何とも間の抜けた情景のように鈴木には思われた。

三十二

鈴木が土手を歩く度に、靴底に貯まりつつあった血液が、「ぐちゃ」と厭な音を立てた。朝焼けが景観を染め始める時間であったが、歩行や走行で汗腺をこき使う、普段なら散見され得る筈のひとびとは、その日に限って誰もかれと擦れ違うことはなかった。

かれの歩行速度は、普段と比べるのならば、随分と鈍化していたが、当人は、仕合わせな心地の軽さと伴に、何時までも歩いていけるような清爽感の下にあった。

朝焼けに恍惚となっているかれの足下を、血の臭いを嗅ぎつけて何処からともなくやって来た一匹のウェルシュ・コーギーが、彷徨き始めた。かれは最初、其の犬を自らが作った幻想だと信じたが、頭部を撫でて其の感覚が伝わってきたとき、その確信は少し揺らいだ。だが、やがて、それが幻かどうかは些細な問題に思えてきた。

「犬さん、犬さん、お腹が空いているのかな♪」

鈴木は、ドジなメイドロボのような口調でかれ(雄だった)に向かって云った。勢いのよい吠え声が其の問いを肯定した。

「生体の消滅は、存在形態の変化に過ぎないのだよ。消滅を迎える固有の情報パターンは、他者の記憶の中に分散され、そこで他者のそれと融合し継続する。僕らは居なくなる訳じゃないんだ」

鈴木は、道端にしゃがみ込み、視線の位置を犬と同じ高さに持って来た。

「君は僕を覚えてくれるかな? それだけで十分なんだよ」

かれは立ち上がろうとしたが、それはもはや叶わぬことであった。少し戸惑った後、鈴木は視線を犬のそれに戻した。

「でも、怖いこともある。情報のパターンは継続されたとしても、記憶の継続性までは保障され得ない。たとえ、パターンの完全な保存とシミュレートが別個体に置いて再現され、其の個体が生前の個人の如く振る舞えても、其処に自我の継続性はあるのだろうか?」

か細い鳴き声が目の前から発せられた。

「それとも、パターンに魂は宿るのだろうか?」

其の答えを誰も知ることは出来ないだろうとかれは思い、尻ポケットから血濡れた携帯端末を取り出し、三桁の番号を打ち込んだ。三年程前に有料化した救急車の出動費を目算しながら、かれは呼び出し音を聴き続けた。不思議なことに、其の電話はいつまで経っても取られる事はなく、やがて、右腕が端末を支える力を失って、地面に投げ出された。

朝の活動が為す物音が、せかいを満たしても良い時間帯だったが、鈴木の周囲は静まり返っていた。かれは其の静寂の中で、自分と姉を男手ひとつで育てた後、脳溢血で倒れこの世を去った父親のことを思いだしていた。行く末の案じられる弟に執拗なまで過保護な姉を心配させるようなことは謹んで呉れと云う、父親との約束を思いだしていた。

かれは、また、この街へ出て行こうとする自分をバス停で見送る姉の不安そうな笑顔を思いだした。

約束が守れなかったことを、鈴木は誰に向かってでもなく謝罪を繰り返していたが、次第に、耳障りな騒音が白濁しつつあるかれの聴覚へ浸食してきた。最初は、何事なのかと動揺を覚えたが、耳を澄ます内に其の正体が判明して、かれは心の声を上げた。

「あっ、蝉だ」

三十三

あの夏から一年が経過し、松本がこの街に住む様になって三回目の秋が訪れようとしていた。松本は、夏期休暇前日の教室で鈴木と別れて以来、かれと出会うことはなかった。

一度は、鈴木の宅を尋ねたこともあった。別れ際の寂しそうな笑顔が、休暇に浮かれる松本の心に細波を立て続けていたため、休みが明けて街に戻ったかれは、真っ先に其の扉を叩いた。幾ら待っても中から反応が返ってこなかったため、試しに取っ手を回してみると、鍵は掛かっておらず、ドアは難なく開いた。

いつもは薄暗く、目の慣れるまで内部の詳細がわかりづらかった部屋は、空っぽで真っ白になっていた。

それから一ヶ月ほど、機会あるごとに松本は鈴木の受講していた講義を覗いたり、かれがよくひとりでぼんやりと座っていたベンチに足を運んだりして、其の姿を求めたが、何処を見ても足跡すら残っていなかった。ふたりに共通の友人など居なかったし、また、鈴木はおのれの身の上話を一度たりとも松本に語ったことはなかったので、その出身地ですら不明であった。学校の事務でかれの在籍情報を照会する事も思い至ったが、学内の地下に根を張る過激派への警戒が、一般学生の情報利用を困難にしていた。

時が経つにつれ、かれがこの学校に在籍していたのか、或いは、そもそもかれと云うにんげんが存在していたのか、それすら松本には解らなくなっていった。其の混乱が終焉する頃になると、かれは、鈴木の居ない日常に違和感を覚えなくなり、再びひとりぼっちの生活を恙無く送る様になった。鈴木とはもう二度と会うことはないと云う予感は、かれを感傷的な心持ちにはしたが、元々が孤独な男であった為、付き合いあるにんげんが消えたところで、其の状態に順応するのに労力など必要はなかった。

三年生になって、大教室で詰まったあの校舎に通うこともなくなっていた。だが、ある日、其の建物の前を松本が通ろうとすると、かれがかつて出入りに使っていた非常口の灰色をした扉が、日だまりの中でひっそりと佇んでいるのに目を引かれた。

深まりつつある秋の肌寒さに身震いを感じた松本は、ひなたに転がらんと欲する猫の様に、そして、街灯に寄る蛾の様に、扉の袂に引き寄せられて、心持ちを甲羅干しにした。幾分か時間を浪費した後、頭の一隅に些細な違和感を覚えたかれは、重い扉を押し開けて、建物の中に入り、一年前にはよく通っていた二階の大教室に向かっていった。

講義の行われていない教室は無人で、蛍光灯だけがせかいを白く照らし続けていた。かれはその教室に入ると、それがまるで長年の習慣であるかの様にあの席に座った。その時、この場所で鈴木と初めて出会った事を、松本は埋もれた記憶の中から呼び覚ました。

かれは懐かしさに促されるままに、机上に目を遣った。シャープペンの細く端正な筆記が、其処にあった。

「ものがたりは、他者に自己を見出す過程の様なものだ。僕は人生というものがたりで君を見つけた」

言葉は、次の単語を持って終わっていた。

「有り難う」

松本は、かつてかれの友人がよくやった様に、「にはは」と白痴の少女の如く笑った。かれは他者の思いでになりたいと願っていたが、逆におのれが他者に記憶を寄生する拠り所を与えていた。その事に気づいたのだった。

けっきょく、ふたりは、他者の言葉を持ってしか、自己のことを語り得ぬにんげんだった。だから、松本は、鈴木と同じ様に、どこかで聞いたことのある言葉を机上に書き付けた。

「おめでとう」



第二章 イノセント フェン シー ドリームズ」へつづく


目次へ戻る

テレワークならECナビ Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!
無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 海外旅行保険が無料! 海外ホテル