第二章 イノセント・フェン・シー・ドリームズ



夕暮れの迫る廃工場の裏庭でこの世が物語であることを知った彼の人生は、その日を境に大質量な変貌を遂げた。中学一年の夏休み最終日の事であった。翌日、早速に父親のウィンチェスターを携えて登校した彼の活動によって、三名の生徒が絶命し、ひとりの教諭が不具になった。

十五年後、良心の命ずるままに二名の通行人を轢殺した彼のレクサスは、そこから五キロほど離れた踏切で上り電車により圧壊せしめられるまで軽やかに走行を続けた。車は隣接する駅のホームへ乗り上げ、人々の五体を散じながら炎上した。

五十年後、彼は四人目の配偶者の背中へドライバーを正確に三十回突き立てた。心神喪失でその罪を問われることがなかった彼は、またしても死を免れた。

二年後、感冒でいまわの際をさまよっていた彼は、とつぜんに叫び声を挙げて当直のレジデントを震え上がらせた。

「いえぇぇぇい、人生が寂しいぜい!!」

一 欠乏と飽和



松本の様に外界への関心に欠ける男にも、世界は不可思議な様相を持って立ち現れることもある。布団に潜った彼は、飲み屋で笑う人々のことをうじうじと考え、身悶えしていた。

先日、にわかに躁転した彼は引き籠もりを脱し、意気を洋々として半年ぶりに研究室を訪れた。が、師匠は不在で、代わりに在室していた、室内の天井を虚ろに見つめる二、三の院生に飲み屋へ連れ込まれた。しかし、いつもの如く、会話の輪に入れなかった。

「どうして彼らの笑いはあんなに無邪気で神々しいのでしょうか」

松本は師匠に尋ねた事がある。

「君みたいに、酒の席で楽しげなる集団をぼんやりと眺める以外、行為に見当がつかなくなるにんげんには、世界は不可解に見えるものなのです。眺めるという行為の宿命的な哀しさみたいなものです」

「――よくわかりませんが、取りあえず、先生の様なご職業に就くと、不可思議だらけで困惑されたりはせんのですか」

「君の歳くらいの時は、確かに不思議な事が多かった様に思います。しばらく経つと、むしろ何もかもが恐ろしくなりました。今は何を見てもはかなげで泣けてしまいます。それが不可解です」

「先生ご自身は、余りはかなげに見えんのですが」

「相変わらず君は礼儀を知らない人です。はかないことは、そもそもが明朗なんです。不可思議な内が余程の幸福なのです。人の輪に入れない内が、仕合わせなのです」

「そういうものでしょうか」

「そういうものです」

師匠は穏やかに笑った。

こぢんまりと乱調する酒宴の最中で、師匠の不在する所の理由を知った松本は、由緒不明の居たたまれない心地に襲われ、飲み屋を脱せざるを得なかった。童女への淫行を罪科として、師匠は一週間前に収監されたと云う説明は、彼を面白いくらいに恐怖せしめた。朝から続いていた人生で通算三百回目の社会的覚醒は、ここに於いてあっけなく崩落した。センチメンタルな彼は、帰宅後即布団に潜って一分ほど啜り泣くと、早々と失神してしまった。

それから十二時間に及ぶ惰眠の末に目を覚ました松本は、己の黄色く染まった視界に恐慌し、暫く布団から出ることに能わなくなった。世界はすぐに色彩を取り戻したが、滅びの予感は立ち去ろうとしなかった。心持ちを強引に変えようと「あ〜ん」とか「いや〜ん」とか間抜けな声を試しに出してみたが、あんまりにも間抜けであった為に、ますます彼は恐慌した。

そうこうしている内に、世界は松本を新たなる試練で打ち据えようとしてきた。学生相談室のケースワーカーから召喚状が届いたのである。「出てこないと、おねえさんがまさよし君の童女愛好癖を当局に告発しちゃうぞ〜」とか「生活安全課の監視対象だよ」などと例によって書いた当人の思考の有り様に不安を抱かせる文面は、むろんいつもの如く欺瞞ではあったが、やはりいつもの如く松本を怯えせしめること鰻登りであった。




学生相談室の白いオフィスで、みさ子はニコニコしながら世界と楽観的に相対していた。薄気味悪いほどに快活な性格造形の基、この世に生を受けた彼女は、ここ二、三年の内に彼女の勤務時間を着実に減少せしめつつある窮事について明るく独我的な思索に耽っていた。担当する不登校の引きこもり達――彼女に言わせれば、らっぶらぶの孤独な魂達――は、漸減の途をたどっていた。いずれも爽やかな笑顔で社会復帰を遂げたのではない。みさ子が職務上義務的かつ定期的な強制家庭訪問で向かった先が、誰も居ない空っぽの部屋になっていたケースが昨年は二件で、今年は五ヶ月ですでに三件。彼らの存在を法的に保証し追跡する業務はすでに司法管轄になりつつあった。もっとも死体で見つかった者はおらず、それだけが何よりだわ〜って全然なによりじゃねえですわ、とひとり突っ込みをしつつ、みさ子は松本を興奮の面持ちで待ちかまえていた。時々、席を離れてはブラインドの隙間から外界を覗き、「人がゴミのようだよ」と云ってみたりした。松本が強ばった笑顔で「今日はお日柄もよく」と恐る恐る入ってくると、みさ子はすごい勢いで彼を隣接する会議室に引っ張り込んだ。彼女は馬鹿力であった。

「何をなさるのですか、田中さん」

「みさ子とお呼びって、いつも申しているではありませんか。でも、できれば『おねえさん』と呼んでほしいわ、おほほ」

「何ですか、その気持ちの悪い笑い方は。それに『おねえさん』とは。三十を目前に控える二十歳をおおよそ十年経過した古株の成人女性のものの言い様とは考えられません」

「非道いよ、まさよし君。おねえさんは君をそんな口の悪い子に育てた覚えはないぞ。しかも、如何様な手だてによって、わたしの歳を突き止めたのかな。睨んだとおりの変質者だよ」

「いつもいつも『三十前だけど独身よ』と頼まれもしないのに、貴女が連呼するからです。それよりも、わたくしを下の名前で呼ぶのは止めてください。近所の年上の幼なじみみたいで居心地が悪いです。と云うか、そんな発想に至ってしまう自分が惨めになってしまうので余計に止めてください。――って、なぜわざわざわたしの隣に座ってくるのですか」

「だって、正面に座られると食い入る様に見詰められて恥ずかしいって、前回まさよし君は言ったよ。とにかく今夜こそは帰さないわ」

「今は昼ですよ。それに猥雑な言い様は感心しません」

「メタファーですわ。あらあら、お茶をお出ししてなかったわ」

「いらないのです。トイレが近くなって仕様がありません」

「頻尿なの? 神経性のものかな」

「知った事ではありません。――うっ、みさ子さん。何やらわたくしの腕にあなた様の胸部が押しつけられている様な気がするのですが。嗚呼、ダメです。それは性的嫌がらせです。学部事務局の今井さん(セクハラ相談担当)に告発せねばなりません。あっ、その顔は『童女愛好癖者の申し立てなんて誰が信じるものですか、おほほ』と思っているのですね。幾度も申し上げるとおり、わたくしに童女愛好癖はありません。至ってノーマルなのです。と云いつつ、何でさらなる圧迫をわたくしの上腕に加えるのですか。ああ、止めて、いやん」

乙女の様に顔を赤くした松本に、みさ子は思わず喰っちまいてえわと衝動し、劣情と職責への配慮が彼女の中で抗争を開始した。暫し思考を停止した彼女の隙を見て、松本はその魔窟を脱兎の如く抜け出した。

会議室に残された彼女は思案した。松本は極端な病理、例えば総合失調症の地獄を見るにはほど遠い健康体に見えた。引きこもりや登校拒否と云っても、脅迫すればのこのこと出てきて罠にかかる。しかし、病理との境界で生息する斯様な学生に限って、消息例が絶えない事に、焦燥とか逼迫の様な感情に縁遠いみさ子でも、彼女なりの感受性で憂慮を払わざるを得なかった。

みさ子は机に戻ると、意を決して申請書類のテンプレートを探し始めた。松本の部屋がある日、空っぽになっていたと云う未来の想像は、みさ子を些かセンチメンタルにした。けっきょく最後まで、彼女は自分の決断が松本の幸福に結実するのか全くわからなかった。が、その時の彼女にしてみれば、傍観は苦痛に感ぜられた。みさ子は孤独な人間に欲情する一種の幸福な変態だったのである。




松本の師匠は、松本が師匠と認めるが如くの資質を一応には備えた人であったが、ただ、松本にとって厭らしく思える習癖もあって、師匠は何やら気障な引用を嬉しそうに対話に挟み込む事が頻繁であった。無学な松本にそのソースが解るべくもなく、引用らしき文句には、彼の中で二重の括弧を以て括られるに仕方がなかった。松本は引用らしき発言があるたびに、師匠の書生臭さを批判するのであるが、師匠は素知らぬ顔で『われわれの背後にはひとつの永遠がある』などと宣ったりする。師匠によれば「その永遠が私たちを苦しめる」と云う事らしい。さっぱりな松本は、「ほえ」とか「ふへ」などと適当な発声で応じるしかない。

一年前、如何様な演習科目かもわからず、ただ「定員オーバーで取りあえず面接で選考」という恐ろしい事態を避ける為だけに、とにかく寂れてそうなゼミを履行した松本だった。だが、初めて教室を訪れてみると、繊弱そうな中年男が何やらもの寂しく微笑んでひとり教壇に直立していて、他に何者も居ない。「あれ〜、部屋間違えました」とそそくさと退去しようとする彼を、師匠は呼び止めた。

「君は何の間違いもおかしてはいないのです。そもそもこの世に間違いなど何もないのです」

松本はものすごい間違いをおかした様な心持ちになり、恐る恐る尋ねた。

「他の学生さん方はどちらへ」

「他の学生などと云うものはありません。君ひとりです」

「はあ」

「いい若い者がそんな嘆息を出してどうするのですか。君には未来があります。あずまきよひこは云いました。『まぶしい……。今の君は私にはまばゆすぎる…』。私には君に待ち受ける広大な可能性の地平がまぶしいです。余りにもまぶしくて失明しそうです」

一年の後、松本は布団の中でその未来の重みに耐えかねていた。同期は就職活動という想像を絶する行為に勤しみつつある。コンビニと家の往復以外に外出が困難になりつつある彼は、社会的共同を高らかに歌い上げる公共広告を恐れる余り、商業メディアとの接触を断っていた。幸いにして、そして不幸にして、学校に顔を出さなくなった彼の留年は決定していた。このままずるずる留年を続ければ、しばらくは時間稼ぎが出来る。しかし、親の定年は近い――。ああっ、いやっ、如何しましょう。

「今年度の学費は幾らでしたか。たしか、138万3000円ほどだったかと記憶しております」

師匠の話は続いていった。

「年間40単位とすると、1単位あたり、3万4575円です。専門演習は4単位なので、年間13万8300円のコストになります。途方もない金額です。統計に依ればゼミの学生は平均20名ほどです。つまり、13万8300×20名の計276万6000円でもって、ひとりの指導教官が購われているのです。君はそれを13万8300円で独り占めです。276万6000円-13万8300円、イコール262万7700円のボロ儲けです。これではまるで泥棒ではありませんか。はっはっはっ」

嗚呼、年間138万3000円。これだけの無駄が、価値を失った存在に費やされている。おとんにおかん、御免なさい。わたくしはあなた方の期待に応える事は出来そうにありません。ダメなのです。人を見ると目が回るのです。世界がぐるぐると回るのです。

松本は自慰に耽りたくなった。自慰を終えたあとのあの致し方のない不毛感に耽りたくなった。それで、ティッシュをたぐり寄せようと腕を伸ばしていると、呼び鈴が鳴った。哀れな彼は驚愕した。

新聞屋すら寄りつかなくなった松本の老巧化したフラットを訪れるのは、お節介な学校専属のケースワーカーくらいだった。居留守を使いたいと欲するのだが、そんな事をすれば、「いるのはわかってるんだよ。この童女愛好癖めっ」とみさ子の声が近所に轟き、ただでさえ社会的基盤の崩壊する大音響を聴きつつある松本の危うい生活世界は、塵芥に還るかも知れぬ。彼は、残された最後の世界を守る為、ものすごい勢いで扉を開けた。外見から中学生と推定される娘(美少女)が其処に真顔で立っていた。

「こんにちは、まさよしさん。今日から貴男はわたしのお兄さまですわ」

世界がぐるぐると回った。




「えへへ〜」とみさ子が歳に似合わない声色を出して、娘の背中から顔を出した。

「どう、このお嬢さん? きゃわゆいでしょう」

「――!」

「まさよし君は、ストレートロングの黒髪属性でしょう。もう、ぴったりでせう」

「うっ」

「うふふ、図星だね。おねえさんは何でもお見通しなんだよ」

「なっ、何を莫迦な。そもそもこの娘さんはどなた様でしょうか?」

娘の大きな瞳は松本の矮小な精神を貫通した。

「さをりですわ、お兄さま。そうお呼びください」

「名前も萌へ萌へでしょう。たまらないわ〜」

勝手に興奮したみさ子は背中から彼女を抱きかかえ、身悶えした。その景観に、松本は己に残された数少ない正気が圧壊しつつある音を聞いた様な気がした。

「あら、フリーズしちゃって。まさよし君もかわゆいわ」

危うくみさ子の魔の手が自身の身体に及ぶ寸前に松本は我を取り戻した。

「それで、けっきょくどなた様でしょうか」

「さをりさんは厚生労働省の社会福祉主事さんだよ」

「中学生で?」

「お兄さま失礼ですわ。さをりは国家公務員ですの。お兄さまより人生長いですわ」

「さをりさんは、君たち孤独なお兄ちゃんをこれでもかと救ってきたプロなんだよ。まさよし君も年貢の収め時よ。救われなさい」

「わたくしは救われていて、いつでも至福です。救われた人間を救う事は論理的に不可能です」

松本は努めて得意げな声色で申し立てた。さをりはちょっと笑って、さらなる近接を彼に行い、上目遣いをした。

「お・に・い・さ・ま」

「ぐっ――」

「ふふふっ。まだまだ救済される余地が大ありね、まさよし君。ぢゃあ、これから一週間、さをりさんとの同棲生活を堪能するんだよ。いや〜ん、おねえさん興奮してきたよ。ちなみに断ったら、生活安全課の怖い刑事さんが君を収監するよ。と云う事で、よろしくだよ」

みさ子は騒々しく帰還していった。注意力散漫な松本は、みさ子の云う事をほとんど聞いていなかった。ただ、「一週間同棲」と云う非日常的な言語が耳に残った。彼はその言葉の意味する所を思案し、再び固まった。

「お兄さま、お兄さま」

「ほへ?」

「何を固まっていらっしゃるのですか。とにかくお家に入れてください」

「なぜに?」

「決まってますわ。お兄さまはさをりのお兄さまなんですもの」

『今日の青空は素敵だなあ』

松本は暫し現実を逃避した。彼は知らなかったが、人生で記念すべき一千回目の逃避であった。




そもそも松本の生活世界に、他者が己の住居を訪れ、一定の時間を過ごすと云う想定は無い。彼は斯様な想定が自分に欠如している事を認知すらしていなかった。実際、彼以外の何人もその住居空間を侵すものは存在しなかったからだ。さをりがその住居空間の床に降り立った時、一連の想定が初めて松本の中で認知可能になった。彼は何を為せばよいのかわからず混乱して立ち尽くした。

「お兄さま、お茶をおいれしますわね」

(そうか! 来客時は取りあえず茶を出すのですな)

自慢ではないが、松本は暗黒に彩られる高校時代、茶道部に籍を置いた事がある。茶道部に男性部員は皆無であった。今となってはその当時の行為は、些か条理が不明で解しかねる所がある。一度でよいからハレムと云うものを経験したいと願う隠匿された心理が作動したのか知らん。松本はそんな事を考えつつ、「いやいや、このケースでは茶というものはむしろわたくしが入れるべきでしょう」と為されるべき行動の発見された悦びを胸に部屋をぐるっと見渡し、そして絶望した。彼の生活世界に日本茶は存在しなかった。

松本から見て、永久万年布団の向かい側にちょこんと座っていたさをりは、携えてきた不自然なアタッシュケースを開き、「ぢゃ〜ん」と云う効果音を発しながら急須と茶筒を取り出した。あの薄っぺらな空間からそれが出てくる原理は不明だった。

「旅館セットですわ。お茶菓子も完備ですわ」

「旅館セット!」

「さすがに、やかんとかポットとかは」

「ない!」

「と思って、やかんもお持ちしましたわ。みさ子さんの調査は万全ですわね」

「みさ子さんが何を?」

「何の事やら――。お湯を沸かしますわね、お兄さま」

「そのお兄さまと云うのは、止めていただけませんか」

「さをりにとってお兄さまは、みんなお兄さまですわ。他に呼びようがありませんわ」

「その言説に意味はあるでしょうか」

「意味のない言説なんか有り様がないですわ。それに、お兄さまも満更でもない様なお顔をなさってますわよ」

「ままままままま、まさか。わたくしの劣情喚起は標準的高校生高学年以上の容姿を必要としているのです。貴女の様な中学生クラス、いやひょっとしたら小学校高学年水準の骨格でわたくしの劣情を誘うなどと、5年は早いと云わねばならないでしょう」

「台詞冒頭の不自然な音韻が、如実に動揺をあらわにしていますわ。わかりやすいわ、お兄さま。みさ子さんがらぶらぶ光線を発射せざるを得ないのも納得ですわ」

「中学生がわかった様な口をきくんではありません」

「お兄さまより歳は上ですわ。申し上げたはずです」

松本はさをりをしげしげと眺めた。この娘はどうしても中学生低学年にしか見えない。しかしながら、中身は違うと云う。この複雑なるケースにおける己の劣情中枢の反応様態に、彼は興味がそそられ、暫くさをりの童顔を凝視した。

「お兄さま」

「―――」

「お兄さまっ」

「へっ?」

「そんなにさをりのお顔を見詰められたりされたら、恥ずかしいですわ」

その時、彼の言語中枢は密かな絶叫を行っていた。




師匠曰く「飽和は次なる欠乏の契機なのです」

この言辞は、劣情喚起の媒体物を如何なる様態に於いて保有すべきか、と云う文脈に於いて発せられた。

「君を自慰に耽せしめるイメージとかテクストを完全にデジタイズして、二進法という形で所有して然るべきなのでしょうか。その問いかけなのです。ところで、君はオナニーが好きですか?」

「はいっ! と、何を言わせるのですか。わたしは、目下、修行僧のような生活です」

「嘘ですね。ところで、ネットから無償の内に所有を果たせるイメージは、所詮、安かろう悪かろうな媒体物に過ぎません。有償の物理的出版物の豊穣な喚起力には劣る事は否めません。他方、如何なるものにも必ず飽きが来ます。どんなに素晴らしかった喚起物にもやがて私たちは反応しなくなります。それはとても哀しい事ですが、私たちには感傷に浸っている暇は与えられません。新たな喚起物を求めて私たちはその一生を彷徨うのです」

師匠はよく語る人であった。と云っても、話をせねば講義が成り立たないのであって、その職業の要請が師匠を語る人にせしめた様にも松本には思えた。演習に参加する学生が彼ひとりであった為に、師匠は二人しかいない教室で語り、研究室で語り、飲み屋で語り、義務的な九十分を過ぎると笑いながら何処へと去っていった。いったい何がおかしいのか、松本には皆目見当がつかなかった。

「いずれ何物にも反応しなくなる予期を前提にすれば、その都度、新たなイメージの入手に容易な二進法的情報に特化する事が合理的とも云えるでしょう。拾っては棄て、拾っては棄て、拾っては棄てるのです。もっともここで棄てるという表現は相応しくないかも知れません。メモリーの容量は膨大です。何も失われるものはないはずだったのです」

「良かったですねえ」

「忘却できなことも、一種の苦痛であったのです」

師匠は発声を中断して、ぼけっと上空を見渡した。「北半球の空は今日もくそったれです」と微妙な嬉しさを含有しているように見受けられた声色で独り言をして、松本を不可解せしめた。師匠には対話の合間に、唐突と天気の話題を押し入れてくる変わった趣向があった。松本は晴れを晴れと云って何事が楽しいのかとありがちな問いかけを投じた事がある。「人間は天気の会話に熾烈な想いを圧縮する滑稽で哀しい生き物です」と師匠は松本に答えを呉れた。

天気への言及の後、二人の間にありがちな如く、対話は途切れ寡黙が始まりだした。師匠は日常の動作に於いて、温暖な沈黙をしばしば行い、それが松本をして、よく語る師匠は仕事として良く語っているだけではないかと想像せしめる淡い根拠を作っていて、同時に彼を引きつける人格上の愛嬌みたいなものにもなっていた。

二人は教育学部の前に間が抜けた如く空いた広場のベンチに腰を下ろし、空間を眺めていた。その模様を警備員が警戒の色で見守った。やがて一陣の突風が、屑籠から新聞紙を奪い、不幸な松本の顔面にぶつけた。師匠は自分の存在を思い出した如く、「君は運の悪い男です」とその様子を眺めて評し、言葉を再開した。

「人間は己の死を予期できるケースもあれば、それにかなわない事もあります。君はどちらを望みますか」

「矢張り、突然死ではないでしょうか。予期できうる死は、真綿で首を絞められる様なもので、気が狂ってしまいます」

「一理ある事です。無難な言い方をすれば、結局どちらを望むかは、当人のパーソナリティに依る事なのでしょう。けれど、突然死を望む君は、大切な事を忘れています。君のため込むだけため込んだ劣情喚起物、詰まる所、夜のおかずはどうなるのですか。君はそれらを処分することなく逝ってしまわなければならないのですよ」

「嗚呼、何て事でしょう」

「『己の地上の生活の痕跡は、幾世を経ても滅びる事はないだろう。そういう地上の幸福を想像して、今、己はこの最高の刹那を味わうのだ』 まかり間違えば、君のため込んだ夜のおかずは、デジタイズ化によって朽ちない記録媒体に残存する事で、幾世紀も滅びる事もなく君の偏向した嗜好を人々に知らしめ続ける事でしょう。その想像が、今の私たちを苦しめ続けるのです」

嗚呼、何て事だ。松本は近所の商店街の真ん中で誰にも聞こえない叫声を放っていた。部屋の清掃にかかるさをりに無理矢理追い出され、外を彷徨う境遇にあった彼は、恐ろしい記憶を蘇生させた。

(夜のおかずが見つかってしまう)

果たして、それは発見の憂き目にあっていた。さをりは青ざめて帰宅した松本を明るい声色でもって苛めた。

「思った通りですわ、おにいさま。真性の童女愛好癖ですわ。えっち、すけべ」




師匠は研究室でよく松本にコーヒーを勧めたりして実に気さくな側面を演じて見せたりした。現実の世界で見受けられる師匠の行動や言辞という断片を基に、松本が勝手に己の空想の中で組み立て上げた師匠の全人格像に依れば、師匠は人にコーヒーを振る舞うほど世間的常識に従属した人ではない事になっているので、そんな世間並みの行為をされるたびに松本は違和感を覚えてしまう。しかも松本は松本でおぞましく遠慮深い質なので、「お腹一杯です」と些か意味の欠ける返答をしたりする。

「このケースに於ける遠慮は、却って遠慮の醸し出す好感をもたらさないのですよ」

「そうなのですか」

「君は不器用です。ところで、君は童女を好みますか」

「何て事を。わたくしのどう見ても善良な市民然とした外見から、如何様にそんな恐ろしい想像に至るのですか」

「『我々はあらゆる瞬間に我々のパーソナリティを演じている』と云う事ですよ」

「ほえ?」

松本のたいへんに信頼の足りない記憶に依れば、この話題が交わされたのは研究室の筈である。その場所は、崩壊を間近に控えたの建造物に入っており、近々、師匠は竣工を迎えつつある新校舎へ引っ越す予定であった。師匠は細々と段ボールへ書籍を積み込む作業をやっているらしく、研究室の古い壁と積み上げられた真新しい段ボールとの対比が、松本の視覚に圧迫と不吉なる予感を生じせしめ、彼を怯えがちにさせた。

「人間とはいったい何でしょうか」と師匠は言う。

「生ものではないでしょうか」

「生ものには違いありませんが、その生い立ちは特殊です。頭が良すぎるのです。他の生き物であれば、視界に入るものを自己の生体への危険を基準として区別します。逆に言えば、その基準を持ってしか世界は色分けされ得ません。実に単純なものです。対して、人間の脳神経は、世界をそんな簡易に色分けするにはオーバーパワーだった訳です。私たちは恐ろしく込み入った色合いの基に生活を行わなければなりません。この複雑の色分けによって、私たちは例えば月へ行く事が出来ます。しかし代償として、原初の世界というものを失ってしまいました」

「それと、わたくしが童女愛好癖と先生が指摘なさる事と、如何様な関係があるのですか」

「人間が不自然な存在故に、童女愛好癖はとても人間らしい行為であると言いたいのです。童女を愛好しても、子孫は増えません。だからそれは不自然な行為であり、非倫理的だとされます。一方で、不自然であるが故に、人間的な行為でもあるのです」


松本は、己のの偏向的嗜好の証左を為す書籍類を抱えて自慢げにしている少女の前で、上記にある師匠との対話を思い出していた。師匠の言辞を残らず彼女に吐き出すと、「まあそういう事なんですよ。それらのおぞましき書籍はわたしが如何に人間的である事を証明したいがために保有する所となっていて、アレしてナニする実用本位のものではないのですよ」と述べ、なんと我ながら美しい言い訳なのか知らんと恍惚した。

「では、この際、始末しても構わないですわね」

「ええぇぇっ、と、いやいや、ダメですよ。それはわたしが人間たる事の物質的な証拠なのですよ。人間を抽象だけで支える事は出来ません。何か物質的な支持が必要なのです」

「でも、お兄さまの童女愛好癖を示唆するこれらの書籍の存在は、お兄さま以外の人の眼には入りませんわ。生活安全課のガサ入れに遭えば別ですけど。つまり、これではお兄さまの人間性は社会的に認知されませんわ」

「わたしがそれを知っている、と言う事が問題なのです」

「ほれほれ〜」

次の瞬間、さをりは書籍のひとつを松本の視界に向かって開帳して見せた。松本は哀れにも欲情のこみ上げるのを感知して、密やかな興奮と戦わねばならなかった。

「止めなさい。汚らわしいです」

「お兄さま、顔が紅潮なさっていますわ」

「さをりさん、それは卑怯というものです」

「人生は卑怯で一杯ですわ。えいっ、生身のぼでぃアタックう」

その頃、みさ子は松本のフラットから10メートルほど離れた裏路地に駐車せしめたグレーのヴィッツ――通称、大学当局の弾圧カー――の中で歯軋りをしていた。松本宅から放たれる盗聴波に耳を傾けていた彼女は、「まさよし君の童貞を奪うのはわたしなんだよおお」と恐ろしい文言を放出し、大いに興奮を発したのであった。

つづく


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