二 一次的接触



夕暮れがあと一時間ほどに迫りつつある頃、さをりは部屋の清掃を完遂した。最初、さをりが基本とも言うべき部屋の清掃を主張したとき、松本はこの部屋の如何なる所に清掃の必要があるのかと反論した。「見よ」と松本はコンビニ弁当の空き箱で作られたピラミッド上のオブジェを指した。

「須く洗われて、積み上げられてるこの美しさ」

「鬱くしいですわね」

「とげのあるものの言い様に聞こえるのですが」

「コンビニ弁当を洗浄して、積み上げる労力がある内は、まだ大丈夫ですわね。でも、何ですの、このほこりっぽさは。いけませんわ、お兄さま」

「ほこり〜、誇り〜」

「そんな某漫画家級の言辞はいけませんわ」

かくして、松本は放り出され、前述の如くな事態に遭遇し、人生の危機が訪れたのである。今度はどのような危機の訪れる所となるか、彼は戦々恐々としつつ、さをりから返却を受けた童女愛好癖関連の書籍の抱え、ついでにそのカバーを見て、顔面を弛緩させたりもした。

「しょうがありませんわね、お兄さまは」

「はい? 何ですか」

「明日は、さをりとデエトをして頂きますわ。どこか連れて行って下さい」

「でえと!」

引き籠もる前はよく映画館に独り足を運ぶのを癖としていた寂しい男、松本は、映画館で戯れる大量の恋人達を思い浮かべた。一方で、今は亡き友人と過ごした下呂まみれの下町映画館の一夜まで蘇ってきて、顔面を歪ませた。かれは、物思いがよく表情に出る男であった。

「いやあ、残念至極です。明日は講義があるのです」

「嘘おっしゃい、お兄さま。知ってますわよ、計画留年の事を。まるで、出来るだけ学内にとどまろうと留年を繰り返す過激派の活動家みたいですわ」

「格好いい」

「童女愛好癖者が格好良いものですか」

「だから、何度も申し上げているではありませんか。わたくしはそんな大それた性癖の持ち主ではありません事よ」

「それでは、さをりとデエトしてくださりますわよね」

「なぜに、その様な結論に至るのですか」

「して下さらないと、児童相談所か所轄署の生活安全課のホットラインに密告を――」

「嗚呼、何て事を。後生だから止めて下さい。デエトでも何でもして差し上げます」

さをりは「えへへ」と勝ち誇り、台所の方角へ消え去っていった。夕食の準備を行うがためと、松本には推測された。やがて味噌汁の臭いが漂う具合になると、行為の仕様がなくなって、取りあえず布団に籠もってしまった彼にも、これはこれで良いか知らんと籠絡な気分が訪れを始めた。台所の方角からは、さをりのハミングするワーグナーの不穏な音律が漂流を始めた。

(ワーグナーを聴くと東欧を侵略したくなる)

松本はウディ・アレンの言葉を反芻した。




味噌汁に投入されたワカメを眺めた松本は、「健康」というタームに小一分ばかり幸福になった。ついで、真正面に鎮座して嬉々としているさをりを観て、微妙な空気を嗅ぎ取った。きゃわゆい娘が一メートル近辺に存在するこの事態は、満更どころか、油断をすると気が狂いそうになる。そんな予期が彼を苦しめる。しかしながら、この娘はなぜに嬉々としているのか? などという疑惑も膨張して呉れる。詰まる所、この混乱の醸成こそ、さをりが引きこもり専従ケースワーカーのプロ中のプロたる所以なのか知らん。でも、混乱を招来しては不味いのでは? 等々、散々に混乱する。

「お兄さま」

「はい?」

「いかがですか、鯖のみそ煮は」

「え? ああ、素晴らしいですよ。魚は人類を救うのですよ」

「どうしてですの?」

「魚を日に一回以上、二十年続けて摂取した人間と、そうでない人間とでは、平均寿命に有意の差があるのです。素晴らしい」

「長生きなさって下さいね、お兄さま」

「はい、死ぬまで長生き致します」

松本は快活且つ脳天気に笑い、鯖のみそ煮の摂取を再開した。視界の隅に、午後八時を指す時計の存在が認められた。珍しく上昇気流に乗った松本の思考は、更なる高見を目指し始めた。彼は考えた。このか弱い娘を独り帰宅せしめるのは危険極まりなく、人間の矜持にかかわる。送らねば。送らねば!

「と言う事で、夜も遅い事ですし、お送りしましょう」

「お兄さまらしくない社会的機転ですわ」

「貴女は、わたくしと言う人間を如何様にお考えなのですか。人の後ろ指をさされる社会の裏通り通行人の様な言い方をして。お兄さんは哀しいです」

「非道いのはお兄さまの方ですわ。みさ子さんのお言葉をお忘れなのですね」

「最近、物忘れが酷いのですよ」

「どうせい」

「どうせい?」

「どうせいですわ」

「同性?」

「(無視して)詰まる所、未婚の男女が同じの屋根の下、いちゃいちゃうにゃうにゃすることですわ」

「ををっ」

「素直に驚かれても困りますわ。今夜からさをりはここでお泊まりですわ」

「ををっ、って何と恐ろしい。未婚の男女がはしたないですわ」

「それが同棲なのですわ。それに、言葉を真似するのはいぢわるですわ」

さをりはぷいっと怒った顔をして見せた。




松本は、愛の溢れる善良で鷹揚な人間である所の自分を決して疑いはしなかったゆえに、娘と己の部屋で一夜、ひょっとしたら何夜をも時間を共有するという行為は、途方もない蛮行に他ならなく思えた。彼は動揺をぎゅうぎゅうに押さえ込んで、努めて穏和に語ろうとした。無理であったが。

「わたくしは健全な成年なのですよ」

「ちっとも見えませんわ」

「表裏が激しいのです。よく言うではありませんか。夜は野獣とか」

彼は自分で云って置いて恥ずかしくなってしまった。

「恥ずかしいのなら、最初から言わなければよいのに」

「……」

「ところでお兄さま。健全な成年男子であると主張なさるのなら、尚更さをりと一晩を経過するのに障害はありませんわ」

「理性を忘却したわたくしの恐ろしさを知らないようですな」

「健全な成年男子であるなら、さをりの様な小学生高学年〜中学生低学年然の容姿に劣情が誘発される事はありませんわ。それともお兄さまは、まさか汚らわしき童女愛好癖者の一味だと?」

「なっ何を言うのですか。はっはっはっ。わたくしが童女愛好癖者である訳がございませんでしょうが」

「言葉が変ですわよ。それはともかく、これでさをりが泊まる事の正統性が確保される訳ですわ」

崩れ行く戦線を目の当たりにして、松本は当てもなく部屋を眺め回した。さをりの外泊を拒否せしめる様なファクターが、この部屋の何処かに隠されては居ないかと思案した。やがて、彼は師匠の言辞を思い起こした。

『答えは簡単すぎると、かえって見つかり難くなるものです』

部屋の要素が彼女の外泊を拒みうるのではなく、むしろこの部屋全体がさをりを拒絶しうるのではないかと彼は着想した。物の占拠が居住空間を狭くしているのだ。松本は意気を揚々としてさをりに反論を述べ始めた。

「物理的に無理です。どうやってこの部屋で二人して寝ろと? しかも布団はひとつしかないし。あっ、その薄気味悪い笑みは何ですか。まさか、布団屋を呼び寄せる手際の良さなのですか」

「お兄さまは相も変わらず甘い方ですわ。布団はひとつ。人は二人。添い寝ですわ〜」

『ええっ』

松本の叫びと同期して、其処から百メートルほど離れたラーメン屋で二杯目のチャーシュー麺に突入しつつ、盗聴波を傾聴していた大食いなみさ子の叫声が、店を揺るがした。

「お待ち下さい、さをりさん。この布団はダメです。蚤や虱が生息してますよきっと」

「そうなんですか? どれどれ」

さをりは頭から布団に突っ込んでいった。松本は吃驚した。

「嗚呼、ナニをなさるのです。他人の布団にそう簡単に突っ込むものではありません」

「別に蚤も虱も存在が認められないようですが。お兄さまの香りがするだけですわ。なんだか、うふふですわ」

「何がうふふなのですか」

松本はべそをかかざるを得なかった


十一

被害は最小限に止めねばならぬ。そもそも、何の被害なのかも不明瞭のまま、松本の思考は新たなる驚愕的な回転を達成しようとしていた。もっとも、例の如く、ネジが一本はずれていた。それはとても不幸で滑稽な景観だった。

パジャマ装着済みのさをりは恐ろしい娘で、布団に立て籠もり無駄なる抗戦を試みる松本を足蹴にしつつ、異様な器用さで彼の胸元に潜り込んできた。松本は小学生のときに人生を分かち合った猫を想起した。猫は頑固に抱擁する松本の腕の中から、よく液体の如くすり抜けた。松本が短い回想から復帰して意識を明瞭にしたとき、二人の頭部は十五センチと離れていなかった。さをりの可愛い鼻息が松本に奇妙な絶望を教えた。

「うひょひょ」

「何ですの?」

「ダメなのです。いきなり向き合うなんて」

「お兄さまのお顔を見ていたいのですわ」

「何処からそんな恐ろしい台詞が出てくるのですか」

「寂しいのですわ」

「孤独は現代人の特権です。よく味わいなさい」

「暗いのが怖いのですわ」

「わたくしは世界の全てが恐ろしいです」

松本は身体を半回転して、さをりに背中を向けて、安堵の一息を放出した。すると、さをりは、松本の背中に顔面を密着せしめて、彼を恐怖のどん底に陥れた。彼女は額ですりすりしたり、くんくんと臭覚を発動させたりした。何たる技巧と松本はおののいた。

「せめて背中を向けて頂けませんか」

「お兄さまを抱きしめて差し上げたいのですわ」

「お気持ちだけで沢山なのです。感情が高揚して眠れないです。わたくしのかけがえのない健康が侵害されます」

「意気地のない事ですわ」

「そういう問題でもないと思います」

「仕様がありませんわね。お兄さまの健康を害しては、元も子もありませんわ。それに明日はデエトだし」

「デエト!」

「デエトですわ♪」

「浮かれていますな」

「人生が浮上しそうですわ」

これは技巧なのか知らん? 浅はかな知識では理解の及ばない効果を狙った職務上の技巧か知らん? 松本の斯様な解釈は、彼自身の哀れな嘆息の発端を作った。その技巧はたいへんに心地よかった。その居心地が罪深く思われた。技巧でしか愛情を恵んでもらえぬ不幸を彼は呪った。彼の人生は、愛情というものを作り事とか真実とか、簡易に分類できるほど人間との交渉に縁遠かった。ただ、幾分の時が過ぎると、彼にも後方に背を向けて転がっているはずのさをりに意識を向ける暇も生じてきた。彼は、さをりの背中が彼の混乱の間に密着せしめられている事をようやく知った。インターコースに不慣れな松本の身体は、さをりと物理的に接触しているという現実とその感触に、罪の意識を破壊せしめられた。

『この感じは、この感触は――うにゅあああん』

彼の誰にも聞こえない咆吼が、ひっそりと布団中を駆け巡ろうとしていた。


十二

週末、誰もが人生を浮上せしめる夜に師匠は松本を歓楽街へ引っ張って行った事がある。もっとも、松本はとっとと家に帰って布団の中に安楽を見出したかったのだが。

「矢張り、泡のお風呂でしょう」

とてつもない人混みの中で唐突にそんな事を言うのだから、只でさえ驚愕の感度の高い松本は大いに怯えた。

「せんせえい〜〜」

「君のその情けのない発声にも、だんだん飽きを覚えてくる今日この頃です」

「何ですか、泡のお風呂って」

「無論、業務用石鹸の香り漂ううにゃうにゃな空間ですよ」

「意味ではなく、意図を聞いているのです」

「とりあえず、君は変容すべきです。女体の神秘を知るべきです」

「それは随分厭なものの言い様に聞こえます」

「私もそう思います」

「発想がおやぢです」

「おやぢだから致し方ありません」

「では、そういう事でわたくしは帰宅致します」

「まあ待ち給え。成人を超えた異性が恐ろしく、また君の嗜好から逸脱しているとしても大丈夫です。矢張り君は童女然とした身体が所望ですね。肌がすべすべな」

「不潔。犯罪者」

「君も仕様のない男です。周りを見て御覧なさい。腐るほどの恋人だらけです。君はあの人々をどう思いますか」

「まあ、いいんぢゃないんですか」

「すごく恨めしそうな顔ですよ。確かに、大好きな人がこの世に実存すると云う事は素晴らしいものです。慕情が疎通し得なくてもよいのです。大好きな人と近接するときの高揚。あんまりにも高揚しちゃって、誤って衝突しちゃったときの恥ずかしさ。大好きな人といちゃいちゃうにゃうにゃすることの、途方もない悦びと気持ちよさ。大好きな人がこの世にいると云う幸福は、その人と会話の出来る幸福と等号なのではありません。聡明な君は解っているはずです。会話は、君の思い出の中で何時でも何処でも誰とでも実行は可能です。でも、私たちは触る事が出来ません。この世ならざるものに触れる事は決して出来ないのです。だから、時間を共有する実存の人を大好きなる悦びは、人を物理的に触れ得るその可能性への悦びなのです」

「だからといって、いきなり泡のお風呂は極端ではありませんか」

「触れることの凄まじさを君に知って欲しいのです。それと触る事が呉れる言語を絶する高揚を」

「南極一号でも」

「その問いかけは興味深いのですが、今は単に技術が追いついていないとだけ言っておきましょう」

「先生、泡のお風呂よりどっか飲みに行きましょうよ」

「そうですね。何やらそんな気分でもなくなって参りました」

危うく難を逃れ、膨大な安堵に包まれる松本の傍らで、師匠は先程までの揚々たる光彩を喪失した如くに見えた。それはいつもの穏和な師匠だった。

「おっぱいはたいへん気持ちの良いものですが、人はそれに責任を負わなければなりませんからね」

師匠はそんな事をポツリと云った。

つづく


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