五 遺書

二十五

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From: tanaben@faculty.ec.iba-tokyo.ac.jp
Sent: Monday, May17, 08:25 PM
To: damedameyo@1500hpweb.jp
Cc:
Subject: 遺書(ノ∀`)
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この便りを受け取った君は、平生の君の有り様から推察するに、法外な驚愕で腰を抜かす心地にあると思います。情緒的な回想をすれば、私は君を驚かす事が度々でありましたが、それは決して私の本意ではなく、むしろ特に驚くべきとは思われない事柄を君が勝手に驚くのを私が内心で驚かねばなりませんでした。私はそんな君を見るたびに、過去の己をいとおしむような心持ちになりました。

私が自らの性癖のために収監されたました。それは君も聞き及んでいると思います。私はもう何年もの間、法的な監視対象の下に置かれており、今更、このような境遇に至ってもさほどの動揺を覚える事はありません。私は真性の童女愛好癖者に違いありません。しかし、それだからこそ、己の性癖に罪を覚え、今の己を当然の応酬の結果と考えるのに吝かではありません。幸福なのかどうなのか判断はできませんが、私の人権を剥奪するに値する法的根拠が曖昧だったため、私は放免されこうして君に手紙を書いていられます。でも、今の生業は最早続けられ得ないでしょう。

私が人生の顛末を決断した直截の契機は、確かに其処にあります。ただ、職を失して生活を維持するのが困難になるその予想を恐れるがゆえの判断ではありません。むしろ、職業と云う社会上の負い目が、選択を先送りにしていました。何かのきっかけが必要だったのです。もっとも、今、私が君の前から姿を消す事で、君に講義の事務手続き上の煩いが、多少であれ生じる事には変わらないでしょう。私はその負い目を解消するために、私の行為する所の理由を語らねばなりません。君の崩壊に瀕する世界――と云っても、私から見ればまだまだです――へ私の終末の景観が少しでも役に立てれば、私の存在した甲斐もあったと云うものです。


中学一年の私をまず語らねばなりません。私が当時の己を反芻する時、彼の像は鋭い断絶の向こうにあります。君にしてみれば、それは当たり前の話かも知れません。それだけ歳月を経れば、容姿も思考のあり方も頼りのない継続で繋がっているだけでしょう。でも、多くの場合、その変化は緩やかに進行するもので、ある期間に於いて突如として断絶するのは希でしょう。私の人生はその希に当たります。私は幼少の己と今日の己を引き裂いている峡谷を、時間と空間の或る一点の内に思い起こせるのです。中学一年の夏休み、翌日に始業式を控えた陰惨な一日の記憶です。

私には特に懇親な友人が二人いました。仮に名前をIとKとしておきます。君は私の友人があると云う言葉に、裏切られた心持ちを抱くかも知れません。でも、今の私に友人が居ないのは本当です。中学生の私は、普通に友人と遊べるような、ごく当たり前の人間で、それだけ今の私が彼から遠い距離に至ってしまったのです。

三人は、例えば、学校から帰るとビデオゲームに興じるようなごく当たり前な中学生の如き生活を送っていました。その日も誰かの宅に結集して、幸福な自堕落を弄んでおりました。夏休みの最終日となると宿題に追われている世俗的なイメージがあります。恐らくは、日中に享楽を果たした後、宿題に襲われる積もりであったのかも知れません。もはや推測で語るしかない朧気な記憶です。

どうして三人が揃って夕暮れに外出を行ったのか、これも今となっては詳細を語り得ません。時間から勘案して、第三者の宅からそれぞれの家路へ帰還する道程と考えるのが妥当でしょう。私にはその経路と景観を思い描く事すら困難を覚えます。しかし、不可思議な事に、その中の或る空間、或る景観だけはありありと君に語る事が出来ます。

私たちの育った街は、郊外の住宅街と云って良いでしょう。十年を超える歳月をその街で過ごして、知らない路地など或る筈もありません。にもかかわらず、記憶の中の私たちは、知らぬ路地を歩行しています。私たちのたどり着いたのは、その街にしては珍しい景観、つまり人がふたり漸く並んで通れるような狭くて湾曲した路地でした。右手は工場を囲う灰色の塀で視界が閉ざされます。左手は、これもよく描き得ないのですが、路地と住宅を隔てるブロック塀かと思います。暫く先を進むと、右の塀が途切れ、工場の中が見えます。

私たちは特段、好奇心や勇気を志向する中学生ではありませんでした。それどころか、どちらかと云うと臆病の類に入る唯の中学生でした。故に、人気が無く廃れた工場へ躊躇もなく侵入した心理の経緯は謎に包まれています。しかし、敷地で視界に入る光学情報の記憶だけは今もっても確かです。機械類の撤去された工場は、簡潔に述べてしまえば、空っぽで綺麗でした。夕暮れが如何にも寂しげな情緒を添加して呉れていました。私たちは、廃屋の中へは入らず、建物に沿って歩行しました。私たちを待っていたのは、瓦礫と錆びた自転車と朽ち果てたタンスに彩られた廃園でした。私とIとKは、其処でこの世界が物語である事を知りました。


二十六

今の君が、それを理解してくれるはずはないでしょうし、出来れば、君がそれを知らないまま一生を終えて欲しいと心から願います。もちろん、世界が物語である事を知ると云う言い様は、一種の暗喩です。私は、あの廃園の一々を鮮明な心象で回想できますが、それをテクストの形で君に伝達は出来ません。それをテクストで述べた時点で、空々しくなるのは自明なのです。私は其処にもどかしさを覚えますが、同時に、幸運にも思います。私の不幸が君に波及することはないからです。私は、結局、上述のような命題めいた言い様で、私の歴史の中の断絶を君に語らねばなりません。

それを知った事でどうなるのか、と君は突っ込みを入れてる知れません。まず、事実から伝えましょう。翌日、夏休み明けの校内で、Iは殺傷事件の当事者になりました。私の知る限り、Iはそんな行動に繋がる世俗的動機とは無縁の男です。そして、彼と共に世界を知った私とKは、生涯、Iが取った方法で世界と関わる事はありませんでした。私には、Iが抱え込んでしまったものがよく解ります。私も同様に抱え込んでしまったからです。ただ荷物と向き合う方法が、彼と私とでは違いがあったのです。その違いを成したものを、未だに私は理解できていません。

世間に残された私とKは、言葉数を減らざるを得ませんでした。対話を行えば、苦しみを分かち合いたくなるものですが、それに触れる勇気はもはやどこにも残されていなかったのです。私たちは妙に抽象的なものに苦悶しているように、君には見えるでしょう。確かに、抽象からそんな苦しみを被る得るものか疑問かも知れません。私たちの荷物は抽象でありながら、同時に即物的な不快を伴う形而上の病理でした。

私とKは同じ大学へ進み、Kの人生は其処で終わっています。それどころか、私にはKの人生が終わったのかどうかすら判然としていません。消息の途絶えたKの部屋は、荷物が消えて白々しく平明でした。私は空っぽだった廃工場を思い出しました。近い将来、己も空っぽな部屋を残して消息を絶たねばならぬ予感に、情緒も覚えました。でも、その将来は間延びされて、結局、今に至ってしまいました。


私はそろそろ、ロマンスを語らねばなりません。君はそんなものを欲しないでしょうが、そんな君を悔しがらせるためにも、語らねばなりません。君の見たあの写真のかわゆい女性です。自分のような童女愛好癖者と一緒になった理由を、私は彼女に尋ねた事があります。彼女は委細を語る代わりに「貴男は天使のような人です」と底の抜けた事を天気でも評するような感じで述べるのです。詰まり、妻はそんな――たいへん恥ずかしいのですが――天使のような女性でした。

童女しか愛せない私が、妻に抱いた情緒は些かの説明に値します。その感情が確実に親愛から構成されていたのは間違いないです。ただ、君が女子中学生に秘かに送出する、あの如何ともしがたい眼差し程、熱を帯びたものではあり得ませんでした。私の情愛は、良く云えば、君の危険な衝動が昇華された末の、ある種の洗練の形と解釈できなくもありません。他方、私が妻との物理的な身体の関係に興味を持てないのは冷酷な事実として転がっていて、罪とは考えても卑しめたりはしなかった己の性癖を、妻に申し訳なく思い始めました。おおよそ人に不平を云う事のない妻は、私の性癖に関して、批判めいた口をきく事は最後までありませんでした。

絶えず不快な影に囲まれていた人生にあって、妻と送りつつあった日々は、新たな不安の種を内包しつつも、安定と緩和の心象で振り返り得ます。成人をした女性へ精神的に不能な私に、妻が人為の受精で子ども願望した時、己の人生が束の間である事を忘れかけていた私は賛成をしました。己の性癖に由来する後ろめたさが、幾分でも減じて呉れれば幸いだったのです。しかし、妻の孕んだのが娘と知った時、私は恐怖におののきました。誇り高き童女愛好癖者である私は、童女を愛して止まないからこそ、君の想像するようなおぞましい行為に及んだ事はありませんでしたが、未だ見えない娘を前にして、私は己の倫理を全うする自信に欠けつつありました。世界は再び暗い色合いで私の前に表れました。

娘は、先天の病を得て誕生し、人生を短い歴史の内に終えました。天使のような妻は、静かに心の病に蝕まれて行きました。部屋に籠もって、神経細胞の異常な興奮と戦わねばならなくなりました。過剰服用で幾度と無く病院に担ぎ込まれました。私は、ICUで意識を失っている妻を眺め、己の形而上の不幸を伝染性とする空想に暗く浸りました。この予感は最悪の形で報われてしまいます。

台所でアルコールを摂取してた妻は、次の瞬間には見知らぬ街路が目の前にあったと云います。あの廃工場の脇にある街路です。病室で意識を取り戻した彼女は、痴呆者に特有の宇宙を見た様な顔をしていました。いや、「様な」と云う語は適切ではないかも知れません。彼女は本当に宇宙を見てしまったのだから。

かつて宇宙を見たIは、翌日には人生を投擲してしまいました。Kは八年後に姿を消しました。私の人生は未だ続いています。私はこの差を、体質の違いの様に解釈していました。妻の顛末も予測の仕様がなく、私は出来る限り妻の傍らを離れまいとしました。結局、彼女は一月も経たずに、私が居眠りをしている隙にベッドを空っぽにしてしまいました。


私の物語もそろそろ終わりにせねばなりません。私は今、一人っきりで世界にぽっかりと空いた巨大な穴をのぞき込んでいます。この穴に独りで立ち向かわなければならないのは、この時代に生まれた人々に須く課せられる宿命です。穴の前で、私は不可思議な心持ちに絶えず晒されてきました。此処に居て生活をする事、つまり世界があると云う事が途方もない奇跡に思えてならないのです。そして、一瞬毎に感ぜられるその奇跡の希少性に、私は耐え難い重荷を感じます。



つづく


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