第三章 フラット・ホワイト・ユートピア



モダン・エッジは自由と孤独の時代である。

エマヌエル・スウェドボリが生まれたのは、地球に長い冬が訪れていた頃で、師走にもなるとテムズ川は河口まで氷結したものだった。

このテムズ川の流域は、特定のアカデミズムには意味深な場所で、人間を元来において独りぼっちであると想定して物事を考えようとした人々の発祥地とされる。

もっとも、エマヌエルは北欧人なので、時代的にはともかく、地理的にはあまりテムズ川とは縁がない。エマヌエルが独りぼっちになったのは、ボルドー港の埠頭に転がる数千の死体を眺めていたときである。黒死病が街を襲い、生き残ったのは彼ひとりだった。これまでの彼の行動を統制していた信仰からは、その事態に有効な説明を付すことのできなかったため、エマヌエルはそれからの十数年間、苛まれこととなった。

しかし、救いは案外な所からやって来る。ロンドンに滞在していた彼の目の前に、神が降下してしまったのである。

あまりの事態に、眼球を点状に収縮させたエマヌエルを見下ろして、神はおごそかに宣った。

「食べ過ぎるな」

一 接敵経路



松本が、みさ子の素行に関するある怖ろしい着想に至ったのは、『電撃萌王vol.8』をトイレで眺めていたまさにその瞬間であった。松本は専業主夫である。より精確にその社会的存在形態を描画するのなら、目下において彼の生活全般は、孤独な男に欲情する倒錯した性癖を誇示して止まないその女性の庇護におかれていた。俗に謂う、ヒモと称される事態である。

松本は童女愛好癖者であり、したがって、当人の嬉々として表現する所の大人の女性であるみさ子には、あまり欲情を催されない。自然、その夫婦生活は、みさ子の莫迦力により行動の自由を喪失せしめられた松本の身体が、一方的に蹂躙される基本形を夜な夜な展開することになり、精神、体力共に脆弱な松本は疲弊を覚えざるを得ない。みさ子のパッションに比べれば、彼の態度は相対的に冷淡ともいえた。にもかかわらず、みさ子がおのれ以外の異性へ欲情を発揮しうる可能性が言語野を侵犯したとき、彼は嫉妬に狂った。このご時世、松本のように優れて高機能な自閉を謳歌しつつある若者は、至る所で静かに腐臭を放ってる。殊に職業柄、この手の青年と近接する機会の多いみさ子が、そのチャンスを見逃すはずがない。

定時で早々に帰宅をしてきたみさ子へ、松本は咆吼した。

「貴女は、貴女は! わたくしというものがありながら、なんたるはしたなき行為の数々をっ!」

「あら、あら、まさよし君。必死な形相がおねえさんのハートを鷲づかみだよ」

「貴女はそうやって、いつもいつも狡猾に話題を逸脱せしめるのです。しかし、今日こそ、わたくしはおのれの言説を一貫して貴女の前に展開する決意なのです。そこに正座なさって下さい。小一時間ばかり、わたくしの説教を享受して然るべきです」

「今晩は、白菜とエビの中華風シチューだよ」

「ををっ、何たる健康そうな献立ではありませんか。野菜は一日350グラム。長寿への道をまっしぐらです。というか、またしてもわたくしのお話を脱線せしめましたね! 今日という今日は、もう許し難いのです!」

「おねえさんは、いつだって、まさよし君のことを許し放題だよ」

「――つまり、みさ子さん、貴女の貞操に関わる話題をしておるのです。今日はどんな男を血祭りに上げてきたのですか? わたくしの如き内気で繊細で端麗な青年を! わたくしはもう人類社会に対して申し訳が立ちません。あれ? みさ子さん、どうなさったのですか、って、しまったあああああ」

松本の嫉妬に情動を刺戟され、大人の時間モードへ突入したみさ子がにじり寄ってくるのを、彼は莫大な後悔の念と共に、為す術もなく見守るしかなかった。彼の口唇は速やかに奪われ、以降、六時間にも及ぶオペレーションの始まりとなった。そして――。

「わたくしは、誰からも愛されてないのです。貴女だって、歪曲せる性衝動のはけ口として、わたくしの身体を利用しているだけなのです。生活力の欠損したわたくしは、喜んで貴女に身体を売却しましょう。でも、それだけなのです」

物理的疲弊に連座した思考の情緒退行によって、松本はざめざめと枕を濡らし始め、それから三分後には高いびきの第一声を放った。その忙しげなる一連の動作を見守りながら、みさ子は、感傷的な呟きをした。

「わたしは、本当に君のことが好きなんだよ。いつだって、君のことを考えてるんだよ」




夜行性の活力で松本を困憊せしめ続けてきたみさ子は、同時に、朝に強い女でもあった。というか、一日中すべからくに対して強靱であった。彼女は深夜の重労働にもかかわらず、早朝に起床し、松本へ栄養源を供給すべく家事作業を行った後、マグロのように横たわる彼を後にして職場へ揚々と出かけるのである。今朝も、松本は人事不省をいまだに堪能しつつあった。みさ子は、「ごはんですよ〜」と言い放ちながら、松本のウィークポイントを優しく足蹴にしてみた。

「みさ子さ〜ん。わたくしのような、一昔前なら肺病持ちという表現が的確に似合ってしまう繊弱なる男子は、多量な睡眠をいつも必要としているのです」

「ご飯冷めちゃうよ」

「わたくしの如く社会的寄生生物は、冷や飯がお似合いでしょう」

「おねえさんは、もう行っちゃうよ。起きたら、ちゃんと顔を洗うんだよ。歯みがきするんだよ」

「歯医者送りを恐れるわたくしが、どうして歯の洗浄を怠りましょうか。それと、誤解をしないで下さい。治療に伴う物理的な苦痛を恐れるほど、わたくしはもうお子様ではないのです。電話をして、予約をして、そこに出かけるという行為が、デリケートなわたくしには耐え難いだけなのです」

「だいぢょうぶだよ。虫歯になったら、おねえさんが連れて行ってあげるよ」

「貴女に母親という役割を要請するほど、わたくしは落ちぶれておりません」

「えへへへへ〜」

「何ですかな? その気味の悪い笑いは。さては、貴女! わたくしに母親扱いされそうになったのを悦んでおられるのですね。冗談ではありません。わたくしが母親と呼べる女性は、地球上でただ一人。わたくしの優しげなるおかん以外に、その呼称を許される生命体は存在し得ないのです。なのに、なのに、どうしておかんは、かわゆいわたくしを、こんな惨めなる地上に放棄して、とっとと地球上から退去して仕舞われたのでしょうか!」

松本の母親は、熱烈なる登山愛好癖家で、一昨年の冬、某岳で遭難の後、行方知れずであった。運動全般を嫌う松本は、母の趣味に理解を及ぼすことができず、山を登るという行為の利得を彼女に問うたこともある。

「内気で繊細なる青年の身体を攻略した心地になるわあ」

彼女は慈愛の暴走した視線とともに、その答えを松本に投じた。因みに、松本の行動構造の形成に先天的かつ後天的影響をイヤイヤというほど与えてしまった彼の父親は、遭難の半年後に自決している。父は中年男の皮をかぶった乙女であった。

「わたくしは、わたくしは、もう誰も肉親はいないのです。貴女以外に、わたくしにはもう何もないのです。そんな不幸の絶頂なるわたくしを見捨てて、貴女はよくもぬけぬけと職場へと出かけられるものですね。信じられません!」

「そんなこといわれると、おねえさん困っちゃうよ」

当惑という情緒の表現になじみの薄いみさ子にも、この手の奇妙な論理展開に弱い側面があった。松本は、彼女の怯んだ眼差しに嗜虐心を煽られたらしく、更なる思惑の錯乱を開始して、たまらずみさ子の胸に飛び込んで、むせび泣いた。

「貴女はわたくしのものです。だから、わたくしを見捨てないで下さい! もう離しません。宇宙の終わりまでこうしていたい所存です!」

みさ子は、松本の唇を塞ぐことで誘った油断を利用して、壮絶な勢いで駆けだしていった。彼らの間で毎朝の如く展開される幸福な景観であった。




みさ子に逃げられた松本は、見ていて余り気持ちの良いものではない嗚咽をしばし行った。やがて空腹を感じたらしく、速やかに食卓の前へ移動し、朝食を咀嚼せんと意気込みを見せた。ものを喰うときの彼は、概して幸福かつ恍惚な顔を世間様にひけらかした。その形相は、一種のトリガーでもあり、しばしばみさ子の情動体験を誘発することになった。おのれが無防備な惚け面を知らぬ間に晒していたことを知覚した彼は、こんなことだから毎晩の如くみさ子の魔の手にアレでナニやらと苦悩を深め、厳粛なる顔に努めようとするのだが、副食代わりに体内へ吸収された塩酸ペロスピロンが、脳の配線に悪戯をしてしまい、彼は焦燥するばかりである。常日頃、健康のことを考えると気が狂いそうになる彼は、腎臓その他をいたわりたいが為に、投薬は避けたいと所望してる。しかしながら、幻聴を楽しめるほど彼は超人的でもない。

松本は、今おのれが経験しつつある感情が、中枢神経系用薬の作用に基づいていることを納得しようと、生産的とは感ぜられない努力に邁進した。その一方で、この焦燥の背後には、生理学的な要件の他に、ある怖ろしげで社会性を帯びた現象が、14歳の乙女の如く危険に微笑んではしまいか、と思われてきた。彼は、止せばよいのに、昨日、トイレの中で恐慌した一連の想定をフラッシュバックさせた。みさ子の不貞である。

昨日から今日未明にまで至った定例の修羅場が、記憶を放逐していた体であった訳であり、今や思い出を取り戻した松本の体内では、猛烈なる活動への欲求が、人混みへの恐怖を圧倒し始めた。みさ子を監視下に置くべく、松本は出奔の衝動に駆られたのだ。もっとも、その前に、まだ歯みがきもしていなかったので、歯医者行きの恐怖に震えながら、洗面台の前へ移動した。ところが不幸なることに、松本は極度のナルシストだったので、鏡の描画するおのれの顔を眺めている内に、自分がこんなにも端正なお顔をしてるのだから、みさ子の魔の手に云々、と自己愛を発動させ、歯の研磨も忘れてうっとりし始めた。松本は、同時に極度のはにかみやでもあり、自己陶酔が発現してしまったことを知覚するや否や、こんどは恥辱余って「きゃっ」と顔を覆ってしまい、なおかつ、そんな感情発露の手法が、年相応という美徳から桁外れに逸脱していることに悩乱した。けっきょく、広大なるインナースペースから松本が脱するのに消費した時間は、三十分に及んだ。

そんなこんなで、みさ子の勤務する学生相談室の建造物へたどり着いたのは、正午前である。彼女は既に、“繊細で内気で端正”なる引きこもり学生の探訪へ旅だった可能性が大なるように思われた。松本はやれやれといささか気障におのれの失態を呟きつつ、もはやなじみの場所に成り果ててしまった建物に軽い気持ちで入っていった。途中で、男性職員が彼を発見し、「奥さんをご訪問か? お熱いネエエ、ひゅう、ひゅう〜」と古典的なはやし立て方で、自称純粋なる松本の顔を朱らしめた。

「それで、そのう、みさ子さんはもう外回りですか?」

小動物のような怯えた視線で、松本は尋ねる。

「君の愛が通じたようで、田中嬢は今以てここでお仕事中だ」

松本は職員を置き棄てると、迅速かつ人目を忍び学生相談室へ侵入。カウンターの物陰からみさ子の視認に成功し、マニアックな笑みを浮かべた。

廊下に急遽、引き返し、「みさ子さんにわたくしが来たことは口外なさらないで下さい。それを知ったら、今晩、興奮の極みに達したみさ子さんによって如何なる惨状が呈するか、考えただけでもおしっこ漏らしそうです」と例の職員に涙目で訴えつつ屋外へ逃れ、入り口の監視に適した木立へと身を隠した。みさ子が姿を現したのは、一時間ほど後である。松本は、おごそかにはしゃぎながら、彼女のストーキングを開始した。彼は暇人であった。




松本の歩行する様は、きわめて鈍重である。もはや、数年前から、人と視線を交わすことすら能わなくなった。しぜん、背中は歪曲し、視線は地面をさまよい、不審者の体となり、「をい、君待ち給え」と職質され、「わわわわ、わたくしは童女愛好癖者ではありませんっ」と訊かれてもないことをすらすらと無意識に発し、交番へ任意同行され、一時間ほど油を絞られた後にみさ子に迎えに来てもらい、「怖かったよ〜、怖かったよ〜」と例によって退行すること度々であり、ただでさえ籠もりがちだった生活が、いっそう深化するも無理なからぬ話である。穴蔵生活が、相も変わらず彼から体力を奪い続けた結果、みさ子を追いかける作業すらも困難を極めつつあった。加えて、慣れぬ入射光が網膜を直撃。まさしく地獄である。

追跡の開始――といっても数十メートル背後から這々の体でよろよろ歩行しているだけなのだが――から五分後、早くも松本は家に帰りたくなった。学生とサラリイマンの謳歌するこの世が、彼岸の如くであり、高田馬場駅へ進行中と目されるみさ子の背中は蜃気楼である。しかしながら、みさ子が立ち止まって、あらぬ方角へ視角を展開するたびに、松本の厭世感は払拭した。熱心に見つめるその先には、必ず“繊細で内気で端正”なる引きこもり気味な学生らしきものがおどおどと歩行してるのだから、たまったものではない。松本は、みさ子の職業的眼目を嘆ずるとともに、さては今日とって喰おうとしている男体を物色して居るなと倒錯的想像の翼をひろげ、多重に渡る嫉妬に身を震わせた。

けきょく、男をとって喰うこともなく、みさ子は西武新宿線の準急に乗り入れ、松本は続いて別の入り口から同じ車両へ乗り込んだ。真っ昼間なので人は疎らだ。見つからないかどうかドキドキである。みさ子は座席に着かず、吊革につかまって、ぼ〜っと車窓を眺めている。おかげで、容易に発見されて、みさ子の激情を突発させることはなさそうだったが、今度は行き先のわからない移動というものが不安に思われてきて、やはり松本はドキドキしつつも、鷺宮を越えた辺りから暇を持て余し始めた。

思えば秋が進行中であった。みさ子の装いもそれっぽい感じで、今日はタートルに長いキルトSKのボトムだあああ、と松本の琴線を破壊するチョイス。背丈は160代の半ばで、松本が胸に飛び込むのにほどよいサイズではないか。好きだあ、大好きだああ、みさ子さんっ! 松本は、暇のあまり興奮して、ニヤニヤと微笑み、正面に座るサラリイマンへ不審と恐怖を与えた。田無を通過した直後に、彼はやっと我に返った。誇り高き童女愛好癖者である所のわたくしとしたことが、かような三十路女に発情するとは何たる不覚! 松本は後悔の念に苛まれつつ、ニヤニヤで固着した顔面を厳粛なるように造形しようと悪戦苦闘し、ふと、かわゆいみさ子さんはいま如何なる様態か、と景観を探れば、彼女は着座して、鼻提灯を拡張しつつあった。疲弊の様子である。

松本は胸がときめいた。あの頑強なるみさ子さえも、毎晩、深夜に及ぶオペレーションにお疲れなのだ。彼女もまた人間なのである。嗚呼、みさ子さんっ――、いやイカン、わたくしは筋金入りの哀しき童女愛好癖者。みさ子如きに視床下部を刺激されてたまるものか、でもでも。

興奮を鎮静しようと激情する松本は、電車が所沢にさしかかる頃になると、もうわけがわからなくなっていた。彼の正気を奪還したのは、所沢を過ぎた直後に行われたみさ子の一連の行動である。意識を回復した彼女は、「はわわ」とドジな汎用メイドロボの如くな顔をして車窓を振り返り、直後、「あらあら〜」と呑気な焦り方をした。寝過ごしたらしい。

次の駅で下車し、階段を上って向かいのホームへ降り、上りの電車で所沢へ引き返したみさ子を追尾した松本は、もはや心身ともにダメダメである。しかし、みさ子は、バナナの皮で一度つまずきそうになりながらも、闊達に無慈悲に駅の裏手へ進行していった。




それにしても所沢という街は極端な所で、線路によって分割された西側は、立派な商業地で造形されてる一方、東口は虚空である。四十五秒で住宅街に突入できる。それなりに広い公園などもあったりして、そこで親の保護観察もなく、童女の一団が戯れてたりしていて、おやおや、わたくしのような潜在的変質者がいつどこで目を光らせてるかわからないと謂うのに、無邪気なことだわい、ほっほっほ、と疲労でこっそり悲鳴を上げながらみさ子を追尾する松本も、思わず和やかなる心持ちになりつつも、『誰が潜在的変質者ですとおおお!?』と自分に突っ込みを入れたりして、錯乱、これはしたりと抑制系の神経を刺激する必要に駆られ、常備のベンゾジアゼピン系抗不安剤はちゃんと持ってきたかしらんとポケット探るが、シートが見あたらない。嗚呼、嗚呼、このままでは人間ではなくなってしまう。松本は涙腺を緩和し、ついでにみさ子の姿をロストしてしまった。

幸いなることに、みさ子は先にある十字路を右に曲がったことがすぐに判明し、追尾は続行された。みさ子が木造モルタル二階建ての集合住宅へ侵入し、階段を上がりつつあるのを確認した松本は、みさ子の監視活動に一応の成功を収めたことへ深い満足を覚え、俺もまだまだ社会的生物として棄てたものじゃないぢゃん、と高揚した。近年希に見る歩行の貢献で、大概に困憊してた彼は、今までの道のりに目眩を覚えつつも、帰途につこうと振り返り、そしてようやく、本来の目的をすっかり忘却していたことを思い出した。みさ子は、あそこで、昨晩の松本が被った如くなイヴェントを、“わたくしの如き繊細で内気で端正”な青年へ施行するに相違ないのだ。松本は乳酸を破棄して、突進。土蜘蛛の如く四つんばいで階段を上り、顔だけ二階の廊下から突き出す形で、前方を視察した。

みさ子は、いちばん奥の部屋の住人と立ち話中らしい。遠景でよく解らぬが、困惑の笑みとカテゴライズされる風の顔をしている。それでは、相手の“わたくしの如き繊細で内気で端正”な青年は如何なるものか、と松本の脳幹聴覚系中継核は音声情報の処理を怒濤に進めた。すると、聞こえてくるのは案外にも、可憐で儚げ、しかし、芯は頑強なる如何にも松本好みな乙女の声色ではないか。彼は壊乱した。みさ子にそちらの趣味があるとは思はなんだ。しかし、松本の思いとは関係なく、会話は進行中である。

「田中さん、困ります。自宅まで押しかけて来て…」

美少女風の声が、お困りのようである。松本はドキドキだ。

「素直にならなきゃダメだよ。昨日は相談室でおねえさんの胸に飛び込んできたのに。助けが要るんでしょう?」

『胸に飛び込む』とは如何なることか! 松本はもう気が気でない。

「(恥辱と当惑の混合した松本好みな声色で)うっ、五月蠅いのです。わたしは何でもないのです。貴女こそ、三十路の跳躍した癖に、おねえさんという一人称を用いたりして、深い病理を感じます」

「酷いよ、あやめさん。おねえさんは好きで三十を越えたんじゃないんだよ」

「大人の女性にあるまじき、そのいぢけた顔は何です? それで私を救おうなんて、一億年ばかり早いのです」

どうやら攻守が逆転したらしい。

松本は、美少女然とした声に誘われるように、そろそろと廊下を前進していった。みさ子の背中越しにのぞき込むと、途方もなく松本好みな可憐で儚げ、しかし、芯は頑強なる14歳女子中学生風な娘が居る。正気を落っことした彼はみさ子を押しのけ、思わず口走った。

「結婚して下さい!」

つづく


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