二 威力偵察



みさ子は、根がドジな女である。松本の稚拙なストーキングにも全く感づいてなかったらしく、彼が美少女へ妄声を発したとき、素直に吃驚した。

彼女は、問い質しても追従笑いするばかりの松本を精神的に捕縛拘束連行して、自宅に直帰する羽目となった。もうへとへとの体である。

一方、松本の方はどうかと云えば、可憐で儚げ、しかし、芯は頑強なる美少女との出会いにより、みさ子三十一歳のことなど眼中から投棄の模様で、顔は気味悪く弛緩し続けていた。彼は基本的に恋多き男であった。

そして、夜――。

「ま〜さ〜よ〜しく〜ん」

みさ子の鬼気迫る間延びした声が、夕方以降から続いていた松本のテストステロン分泌をようやく抑制した。彼は我に返り、ふと、前方を見れば、みさ子がじりじりと怖い笑顔で迫ってきている。

「如何なされたのですか? わたくしのラヴリーなみさ子さん」

「おねえさんはね、おねえさんはねえ〜〜〜っ! 君のことが、いつだって、いつだって――」

取り乱しの様子である。松本は、おのれの心理的優勢をしめしめとほくそ笑んだ。

「ほらほら、みさ子さん。一人称におねえさんなんて言葉を用いては、病理的な印象を人に与える、と娘さんに注意されたばかりではありませんか。それはそうと、あの美少女様はどなた様ですか?」

「教えないもん!」

「駄々をこねてはなりません。貴女は、立派な三十路女ですよ」

「三十路っていわないで! おねえさんは君のことが心配でたまらないんだよ。君が、他の女の人と――」

「なあんだあ、そんなことをご心配で。青臭い娘では、わたくしのタングステン合金の如き頑強な心など、微塵も動かすことはできないのです」

『うそぴょ〜〜ん』と、松本の声がその内面世界に木霊した。しかし、みさ子は反撃に出る。

「でも、どうしてあんなところにいたの? おねえさんの後をついてきたの?」

「はっはっは。どうしてわたくしがそんな変質者の真似をしましょうか、と言いたい所ですが、実はみさ子さんが不貞に走るかどうか心配だったんだよおおおお!」

「もう、まさよし君ったら〜〜〜」

一応の機嫌の回復を見たらしく、みさ子はニコニコした。しかし、松本が微細に観察すると、彼女のこめかみに微かな青筋が認められた。

(この女、妬いてやがる)

松本は浮かれた。




わたくしは、一人前のヒモとしては、かなり不足なのではないか?

あくる朝、みさ子が出勤した後、松本はそんな空想を腹立ち紛れに展開していた。昨夜のみさ子は、尋常になく激高し、小学校から高校に至るすべての期間において、通知票の体育をオール2で埋めた松本としては、終いには泣きながら容赦を願ったほどである。男尊女卑の野蛮なる大地、南国九州に生まれ落ちた彼としては、まさに屈辱の事態。彼は、復讐をかねて、昨日、思いもかけぬ出会い方をした美少女のもとへ出かけようと心の底から欲した。しかし、みさ子が怖ろしい。狡猾なる彼女のことである。かの美少女宅を監視下において、松本が間抜けな顔をさらしのこのことやって来るのを待ち構えてるのに相違ない。今度、捕縛されたら如何なることになるか、松本はその事態の片鱗をほんのちょっとシミュレートしただけでも恐怖で失禁しそうだ。

松本は、昨晩の恐慌の隙を狙って、みさ子の財布から抜き取った二三枚の大きなお金をひらひらとさせ、矢張り一人前のヒモであるならば、かような行為の一つ二つはせねば面目が立たぬと思惑しつつも、嗚呼、御免なさい御免なさい、みさ子さん、わたくしは下劣なる人間です、と小心から来る悔恨の念に苛まれもした。

小一時間ばかり混迷した後、一層のこと報復としてこの金で飲んでしまえ、とようやく結論に達し、選択的セロニトニン再吸収阻害薬で気合いを入れて、ハッピー丸出しで屋外へ飛び出た。が、気づけば、なぜか銀座線に何喰わぬ顔で乗車していて、しかも末広町で下車してしまっていた。崇高なる意志に反し、身体は勝手に秋葉原の非合法同人誌取扱地下書店へ松本を運搬しつつあるように感ぜられた。彼は「とほほ」と発しつつ、外神田三丁目の裏路地を、官警当局の目に怯えながら進み、ついでに、メイドさんのコスチュームプレイをした娘が、チラシを配布しているを発見。松本はメイドさんに目がない。しかも、その娘は容姿から14〜15歳と推測され、益々もって松本の痛い所を刺戟する有り様である。彼は少女の前に突進していった。が、いざ、彼女を前にするとチラシを受け取る以外に、採択すべき行為に見当もつかない。仕様がないので、「えへへ〜」と追従笑いなどをしてみる。すると、娘はまるで虫けらを目撃したかの如くな視線を照射してくる。被虐淫乱症の松本は快楽に震えた。

「あのう、何でしょうか?」

少女の声色は、警戒と侮蔑と少量の困惑から成ってるようだ。しかし、この如何にも松本好みの美少女風な声には聞き覚えがある。彼は娘の顔を子細に眺め、そして思い出した。

「おやおや、貴女様は昨日の超絶にかわゆい娘さんではありませんか」

「わたしは貴男なんか知りません」

「昨日、三十路の癖におねえさんという一人称を用いる奇特な女性のご訪問を受けませんでしたか?」

「確かに、その様に奇特な女性の訪問は受けましたが」

「その際、わたくしの如き内気で繊細で端正な青年に突如として求婚されませんでしたか?」

娘は得心のいった顔をした。




宿命とも謂うべきこの偶然の出会いは、松本を恍惚とせしめるのに十分な現象であった。

「これはもう、わたしたちは運命の赤い糸で結合されていると謂って然るべきでしょう!」

松本は喜色満面である。しかし、不審者を前にしては当たり前であるが、娘はあくまでクールである。

「仕事の邪魔です。何処かへ行って下さい」

だが、自虐性向の松本に、その手の攻撃は効用を持たない。むしろ効果は逆だ。

「嗚呼、貴女のその冷徹なお目目! わたくしのハートは縦深攻撃に晒されてます」

「露骨な感情表現は、インテリジェンスの欠落です。莫迦な男はわたしの好みではありません」

これはしたり、と松本は知的な青年モードへ急転換し、声色を一オクターブ低下させる。

「必然は、集合した偶然を淘汰圧にさらすことで獲得される構造のことなのですよ、おぢょうさん」

「――? ともかく、どうせ、わたしの美貌に血迷って、付けてきた挙げ句、偶然の出会いを装ってるに違いないのです。犯罪行為そのものです」

「そんな! 信じて下さい。わたくしは、ただ、非合法同人誌取扱地下書店へ向かう途中だったのです。というか、普通、自分で『わたしの美貌』と言ったりするものなのですか?」

「なっ――、つっ、つまらない突っ込みはインテリジェンスの欠如です! 貴男が変なことを謂うのがいけないのです」

娘の案外な反応に、松本は思索を促され、彼女の顔をじっと見つめる体になった。娘は更に慌てた。

「いくら、わたしの美少女な顔が目の保養になるからといって、そんなに見つめるのは犯罪です! かわゆい悲鳴で、公安当局を招来しますっ!」

松本は涙目になって逃走していった。後に残された娘は、松本との愚かなる交渉の過程で困憊していたが、すかさず、その背中に三十路女の不気味な声が投ぜられた。

「うふふふ〜」

「その気味の悪い声色は、みさ子さんですね」

「おねえさんは見てたよ〜。ハンカチを噛みながら、物陰で見てたよ。嫉妬でもうおかしくなりそうだよ。ところで、どうでした、まさよし君は?」

「あの人が、いつも貴女がおのろけなさってる意中の人物ですか? どうして、あんな人をらぶらぶになって仕舞われたのですか?」

「おねえさんにもわからないよ。おねえさんは、あやめさんを口説こうとしてるまさよし君にさえもドキドキだよ。そして、そのドキドキは、初めてまさよし君を見た時のそれと、寸分も変わらないんだよ」

みさ子は夢見る乙女のような顔をした。




美少女の思わぬ襲撃に敵前逃亡したものの、興奮冷め止まぬ松本の脳内では、自室に帰着した今なお、『アイ・ソー・ザ・ライト』がリピートしていた。ちなみに、ハンク・ウィリアムスではなくて、ニッティ・グリティ・ダート・バンドの方である。

恋は思考の枠組みをことごとく改変するねえ、などと彼は助平な微笑みで顔面を歪め、床を転がった。あまりにも転がりすぎて、そんな奇行に慣れてるはずのみさ子を、帰宅時に吃驚させた。さすがに、みさ子の気取られては、せっかくのたぐいまれなる幸福も壊滅する事態となりかねないので、松本はクールを装い、夕食の時などには、「えへん」と厳粛なる咳払いをしつつ、「時に、みさ子さん、わが母校の内気で繊細なる引きこもり学生どもの動向は如何かな?」と居住まいを正して、おのれの健全なる社会性をアピールすべく、話題を運ぼうとする。みさ子はみさ子で、「相変わらず、まさよし君みたいならぶらぶな子たちで、一杯だよ」と脳天気な返答をする。この調子では、一切がバレておるまい。松本はおのれの感情隠蔽技術に陶酔する。

今日のみさ子はいささかに元気を減じてる模様で、彼女のパッションの発動する気配はまったくもって濃厚ではない。松本は、ますます安堵の一方である。ところが、時間が経って夜も更けてくると、安堵も度が過ぎたようになって、グルタメート作動性ニューロンがかえって頑張ってしまい、彼はまるで眠れない。10mgのベノジールが功を奏しない。

愛欲の産出した陽気と徹夜明けの気持ち悪さが混合する中で、松本はみさ子の出勤をゆるりと見送った。さすがに、一日も経つと、みさ子に対する後ろめたさというものが沸いては来るもので、彼はしきりに彼女へ詫びを入れつつも、さてさて、そろそろ秋葉へ出立いたしましょう、などと懲りる様子もない。ところが、身を起こそうとしても身体がなかなか言うことを聞いてくれない。この二日間の歩行距離が、松本の基準において、天文学的スケールに達してたため、肉体がふて腐れを発動させた模様であった。

仕方なしに、松本はしばらくゴロゴロしていた。すると、昨日、娘からチラシを受け取ってたことに思い至り、自室を転がりながら捜索を行い、部屋の隅にそれを発見した。

『君はひとりぢゃないよ』

いきなり、かわゆい丸ゴシック体で、そんな文句がでかでかと煽られてる。けれども、この程度でたじろぐほど、松本の病理も浅くはない、といいたい所だが、彼はもろにたじろいだ。しかし、怖いもの見たさというものもある。松本は顔を覆った指の隙間から、そろそろと文面を拾い読みしてみる。

『聖霊はサタンと戦っています』

『宇宙エネルギーによって調和が訪れます』

『悪性腫瘍は電波が原因です』

『童女愛好癖者は病気です』

人生って、たいへんだよね。松本は逃避モードへ移行し、「ふっ」と天井の向こうにある見えない青空に目を細めた。形而上のエスケープは、その後、三十分ほど続き、素面に帰った彼は、いまだに呪わしき書面を手にしてることに感づき、慌ててゴミ箱へ直行し、紙片を破棄しようとして、その動作のはずみで、文末に記載されてる住所が視野に入った。杉並区○○一丁目とある。ここから徒歩で十分のご近所だ。そうなると、現金なことに、かの美少女の儚げなメイドさん姿が、蘇ってきてしまう。SNRIを急ぎ頓服して無理やり幸福になった彼は、軽やかに咆吼しつつ屋外へ突進していった。




いざ、記載の住所を探し当てたものの、そこは二階建ての建物で、一階はコンビニである。二階には表札といった、居を構える組織のアイデンティティを表すものはなく、そこが却って、松本を怯えさせることこの上ない。しかし、「宗教娘」というカテゴリーが、松本の感性に新たな境地を開いてしまったことも確かで、SNRIのバックアップもあって、彼は欲望に身を任せるままに、薄暗い階段を上り、扉の前に到達した。そろそろと扉を開けて、隙間から中をうかがってみると、正体不明のリズミカルな音声が彼の聴覚に届き始めた。彼の知覚は、それを○○宗系統のマントラと識別し、大いに震え上がった。八畳くらいの部屋では、十名ほどの人の群れが、祭壇らしきものへ向かって詠唱の真っ最中である。かなり熱中の模様で、恐らく侵入しても感知されないだろう、と松本は勝手に安心して、堂々と入り込み、娘はおらぬかと人々の頭を見回した。だが、どうもよくわからず、しばらくぼけ〜っと見学していると、松本を振り返る顔がある。彼は逃走を企てようとするが、今一度、詳細にその顔を観察すれば、果たせるかな、例の娘である。

「嗚呼、愛の力」

松本は例によって恍惚する。もっとも、娘にとってはそれどころではないらしく、怒り焦った、松本好みの顔で、急ぎ彼を建物の外へ連れ出した。

「どうして? なぜ、こんな所にいるのですか?」

「だって、チラシを配ったのは貴女ですよ、おぢょうさん」

「わたしはおぢょうさんではありません。あやめ、というちゃんとかわゆい名前があります」

「あやめさんですか〜。わたくし好みの素敵な御名前ですね」

そんなことを松本に言われ、あやめは一瞬まんざらでもないような顔をして、直後、恥辱を感じた如く、表情の居住まいを正し、松本に怒声を放った。

「ここは貴男の来る所ではないのです! 悪いことは言いませんから、早く帰って下さい。みさ子さんが貴男のことを心配してます」

「みさ子さんのことを持ち出されると、わたくしも困惑の一途なのですが、それはそうと、なぜに見ず知らずのわたくしに、そんなに親身なのですか?」

「誰がっ! 誰が、貴男のような人間に親身になるものですかっ! わたしは、ただ、神聖なるお父さまの愛が、貴男の如き下劣なる人間に汚されるのを見てられないだけなのです! 貴男なんかっ――、貴男なんか豚のように自分が汚れるのを楽しみがいいのですっ!」

あやめの暴言に追い立てられて、松本は泣きながらその場を離脱していった。

ちなみに、この現場も一部始終をみさ子に押さえられていて、彼にとっての真の地獄は、夜も更けた時間帯から始まることになる。その晩、みさ子は冷徹のマシーンと化し、松本の身体に陵辱の限りを尽くし、ついには、彼の頸部をぎりぎりと締め上げ始めた。松本は、言うまでもなく変態だったので、そんなプレーにも心地よく落とされてしまった。

みさ子は、松本の失神を確認するやいなや、くずり始めた。

「おねえさんには、もうどうすればよいかわからないよ。天国にいるさをりさん、この子たちを助けて」

つづく


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