四 逃亡

十七

極度にはにかみやの松本には、人に何らかの介入を行う契機を見出すのが難しい。あやめを追って外神田二丁目までやって来て、こうして物陰から、彼女の奉仕活動とやらを眺めてはいても、よい案が浮かばない。いきなり前を通りすがり、「おやおや、またしても奇遇ですね」などといつもの如く間の抜けた顔で発するのもワンパターンで、あやめの言う所のインテリジェンスの欠如である。それに、いきなり声などかけたりしては、やはり例の如く、我を失ったあやめの暴言という結末に至ってしまいそうで、それでは詮方ない。松本は、娘という微細な生き方に関して空想を膨張させつつ、ときどきあやめを視察しては、その娘っぷりを愛でて、かつ、一カ所に長時間とどまって不審者の徘徊通報されたり、あるいは、この一体の地下に巣くう非合法同人誌取り扱い書店を内偵中の公安関係者の注意を引いてしまったあかつきには身の破滅も間違いないので、微妙に位置を変えたりして、それなりに忙しい。やがて、お薬の時間がやってきて、水がどこかに落ちてないかと周囲を捜索するも、落ちているはずがなく、歩いて五分のコンビニに行くのも億劫なので、気合いと根性で丸飲みを試み、頓服に苦渋してる内に、あやめに異変が始まった。ふらふらと身体が揺らいでいる。駆け寄ってみれば、あやめは立ったまま目を回している。

「やっぱり落ちたものを喰ったのが、悪かったのではないのですか!?」

動転した松本は、取り敢えず場を和ませるために、冗談を言ってみる。しかし、あやめは目を回したままだ。

「どうなんですか? 救急車よびますよ?」

「――やめて下さい。おねむなだけです」

「帰りましょう。貴女は、ご自分の美貌がどれほどの睡眠によって支えられねばならないのか、わかっていらっしゃらないのです。美少女は公共の財産ですよ。貴女一人のものではないのですよ。こんな下らないことはもうやめて、帰りましょう」

「下らないないなんて――、貴男は酷い人です」

あやめは、「ふっ」とぶっ倒れて、高いびきを放ち始めた。松本は、トリクロルメタンで眠らせた少女を拐かすが如く誤解されないかと恐れおののきつつ、あやめをお姫様だっこして昌平橋通りまで邁進し、車を拾って、みさ子資金を消尽しつつ、所沢のあやめ宅まで戻り、美少女とはいえさすがに推測40kg前後、泣きながら彼女を二階に引っ張り上げ、部屋の前へ到達したのは夜半過ぎである。ところが、いくら揺さぶってもあやめの高いびきは止みそうもない。ぺちぺちと軽く平手打ちを喰らわせても意識を回復しない。最後の手段として、「お目覚めのキスをしちゃいますよ」と呼びかけても応じない。非常時も非常時なので、やむを得ず、松本はあやめの身体検査に着手し、部屋の鍵らしきものを探し当てた。扉を開け、ふたたびあやめをお姫様だっこしつつ、侵入。靴を脱いで床に足を接地するや、異様な感触にびっくらこいた。あやめをだっこしながら電灯のスイッチを探すという困難極まる作業の末、点灯に成功し、部屋の全容が明るみになるや、また吃驚。

壁がすべからくアルミニウムの皮膜である。バリゲートの如くタンスが行く手を遮っていて、大人一人がかろうじて通り抜けられる隙間しかなく、あやめをどうやってあの向こうに押し込めばよいか、途方に暮れるばかりである。下を見れば、異様な感触の実体が判明した。あろうことか砂が撒かれている。

あやめ宅の異常な装いが意味する所の検討を放棄して、松本は、とにかくタンスと壁の隙間にさいきん腹の膨張しつつある気配の感ぜられるおのれの身体を無理矢理に入れ込ませ、ようやく抜けるや、こんどはクローゼットが転倒していて、行く手を阻む。六畳ほどのワンルームが家具の配置により、迷路の体をなしており、そもそもこの娘はどこに寝てるのか、見当がつかない。

疲弊の極みに達した松本は、目を回転させつつ転倒し、高らかにいびきをかき始めた。


十八

あやめの魔宮のど真ん中で不覚にも意識を失った松本が、あやめの蹴りをその腹部に被ったとき、彼は、昨夜の紛乱からおおよそ八時間後の爽やかなる朝のひとときのまっただ中にあった。

「こんなところで、何をなさってるのですか?」

昨日の記憶をデリートしたらしいあやめの恐ろしげな眼光が松本にはまぶしい。

「見ればわかるぢゃありませんか? 爆睡の限りを尽くしていたのですよ。わたくしの愛らしい寝顔を見なかったのですか?」

「犯罪です。今すぐ出て行きなさい」

「出て行きますとも! それだけ元気だったら大丈夫です。もう、昨日は貴女をお姫様だっこしまくったりと大変だったのですよ」

「お姫様だっこ!?」

「(あやめの暴行を恐れるように)いやいやいや、何でもないですよ。わたくしは何もやましいこともしてないですよ」

「貴男は存在自体がやましいのです」

ナイーヴな松本とって、その発言は精神衛生上の打撃となって響き、腹部の苦痛もあって、しばし無言の内にうずくまった。やがてあやめの気配は消え、玄関で物音が始まった。松本はゴロゴロと転がりながら移動を開始し、巧妙に家具の隙間をすり抜け、玄関に到達し、外出の寸前にあるあやめを呼び止めた。

「何処へ行かれるのですか?」

「他人の詮索はよくないです」

「美少女はすべからく他人ではありません」

「それは変態の身勝手です」

らちがあきそうもないので、松本は戦略を変えて、同情を誘う手法を試みる。

「お腹が痛くて未だ身動きのとれぬわたくしを見捨てるお積りか?」

「貴男なんか! わたしはこれからオルグの清掃をやらなければなりません。昨日は、とんだ邪魔が入って――。どうして呉れるんですか! このままだとおとうさまに。もう、おしまいです」

「どうして、壁にアルミホイルが?」

「そうしないと、わたしの電波が筒抜けです」

「この砂は何ですか?」

「こうすれば、サタンは侵入不可です」

「本気ですか?」

あやめは答えを発さずに松本から玄関口へ向き直り、取っ手に手をかける。松本はすかさずその可憐な足首をつかみ、彼女の進行せんとする意思を頓挫させようと試みた。


十九

不運なことに、松本の物理的な妨害は、あやめの額を扉に衝突させ、彼女を涙目にする結果を導いた。

「もう、何度も何度も、こんな天然記念物級の美少女に、貴男はなんて無礼なことをするのですか!」

先日、非常時に発動せるあやめの怪力を図らずも目撃してしまった松本としては、彼女の怒号には精神的な意味合いのほかに、物質的な暴力の危険もともないかねず、ただ、ひたすらに恐ろしい。混乱した彼は、思わず口走ってしまう。

「怒った顔も素敵ですよ、おぢょうさん」

あやめは両手で額を抑えながら、へなへなと女の子座りをした。

「放っておいて呉れませんか。独りにして欲しいです」

「イヤです。独りになんかさせません」

「どうしてですか? わたしに何をしても手遅れなのです。資源の浪費です。わたしはダメな美少女です。かかわるだけ無駄です。わたしは――、わたしはアレを見たんですよ! 貴男にわたしのことなんかわかりっこないです!」

「貴女がダメだろうと無駄だろうと、そんなことは関係ありません。いま貴女を見捨ててしまったら、わたしのさをりさんはどうなるんですか! あの不憫な娘の人生に意味がないなんて、わたしはそんなことは許しません」

「貴男は、けっきょく、昔の女の負い目で生きてるだけなんですか? 貴男は、投資の回収に執着するあまり、傾斜する市場から抜けられなくなってるだけです。それは危険なことです」

「そんなの嘘です! さをりさんは斜陽産業ではありません! さをりさんは生きてるんです!」

「その人は生きていないんだよ。もう何処にもいないんだよ」

あやめは、女の子座りのまま前進し、松本へ近接しつつ、彼に初めて見せる類の感傷から構成された声色でひと言。

「可哀想」

あやめの憐憫に、松本は前頭前野が機能亢進する心地を味わい、ついには任務の続行を断念した。あやめ宅を放棄し、所沢駅へ駆け込む。が、時間が時間だけに、会社員の集団がホームに満ちあふれており、松本はトイレに駆け込んで軽く嘔吐。這々の体で逃げ帰り、出勤もせず待ち構えるみさ子の胸に突入した。

「さをりさんは、もう何処にもいないのですか? 生きてはいないのですか?」

みさ子は、涕泣する松本の顔面を、そこそこに豊満な胸へグイグイ押し込む。

「さをりさんは憎い人だよ。いつまでたっても、まさよし君を離さないんだから」

つづく


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