二〇〇三年五月
五月一日
調べ物の在った同僚C氏が図書館へ行く。活字の海に溺水してうたた寝し、調べ物は出来なかったと帰ってきた氏は驕慢な声色で云う。
五月二日
三十三年の歳月の内に、様々なおねいさんがOと出会い、そしてOの許を立ち去っていった。
二十代の冒頭、人生の手短な絶頂にあったOは、そんなおねいさんの一人と恋に落ちた。Oはその娘のためには命を捧げても良いと本気で考えていたのだが、関係の恒久化は些細な喧嘩によって結実を見ることはなかった。
数年後、風の便りで彼女が結婚することを知ったOは祝電を送り、「もう何も送らないで」と彼女から数年振りの電話を被った。
Oは余りそのおねいさんについて語ることは少なかった。「もう、遠い昔の朧気な思い出で余り覚えてないヨ」と厚い修飾で事の細微はいつも閉ざされた。しかし、本当は昨日の如く鮮明に覚えていて夜な夜な枕を濡らしているのだろううそつきめ、とわたしどもに問われたとき、Oは笑顔を無理強いして云った。
「ボクは時々、人類なんか滅んでしまえばよいと思っちゃうヨ」
五月三日
「十日が限界だネ。風呂に入らないで居られるのは」
五月四日
十日振りに風呂に入り、心地よさの絶頂に達した同僚O氏が「これで益々いい男に磨きがかかったネ、うほお〜」と奮を興しながら云う。
五月五日
しかし、風呂に入ったところで、あのサンダルの臭気は消えるわけでもない。哀しげなことだ。
五月六日
同僚C氏がカレーを喰って、仕合わせな顔をしていた。
五月七日
同僚O氏が同僚C氏からもらった不味い煎餅を、O氏が居ない内に喰う。
五月八日
小説Cの日々(その八)
80年代の初頭、埼玉の野に産まれたHは、極めて寛容な身体を両親から授かっていた。Hは「おねいさんの胸を揉み揉み」する情景を喜々として心象の内に描写することの出来る男であったが、同時に、同僚Cのふくよかな腹を揉み揉みしたいと何時でも心から願っていた。詰まるところ、性欲の対象が広義に渡っていた。
Hは社会的に変態と認知されうる己の属性に、その人生の全期間において苦悶せしめられた。Cが他の同僚と楽しげな会話を敢行するを見て湧き出てきた嫉妬に苛まれながら、Hは考えざるをえなかった。
「俺は一体どうしてあんなただの小太り男を愛して仕舞わなければならなかったのか?」
五月九日
会社の床に転がっているとき、國府田マリ姉のライブを同僚O氏と観ている夢を見た。
マリ姉の声量がたいへん小さく、O氏は野次を飛ばしていた。氏は狂信的なマリ姉ファン三人組に通路に引き出されて、囲まれ、腹を殴打された。
とても怖い夢だった。
五月十日
同僚O氏は「都会の風にあたってくるヨ」と云って、新宿へ出掛けていったが、金がなくて何も買えなかったらしい。
五月十一日
アカでヒッピー野郎の同僚Kを右傾化させようと大本営発表の音声ファイルを送り、「ほほほ」と気炎を上げていたら地震が来て吃驚する。
五月十二日
にんげん、産まれるときも死ぬときも独りぼっちでたいへん寂しい。
男色家の同僚Hは、同僚C氏の小太りな腹に顔を埋めれば幸福だと思っているらしいが、それもまた寂しい。
上司が「元気長持ち! ヘルサンG(医薬部外品)」を机に置いていくのも、とても寂しい。
五月十三日
同僚O氏は小物の癖に、総菜屋でライスを買うときはいつも「大」で、生意気だ。
五月十四日
四捨五入すれば三十代半ばに達してしまったばかりのOが駅の鏡の前に立ったとき、彼は「髪を切ればまだまだいけるぢゃん」と暫く自己愛に浸った。
三日後、Oは己の格好良さを実証するため、雨のなかを格好良く濡れながら歩いて、己の格好良さの超絶性にほくそ笑んだ。
五月十五日
男色家の同僚Hが、同僚C氏の椅子に座ってまんがを読んでいた。
C氏が戻ってきて「座れない」と云うと、Hは「俺の上に座れば良い」と恐ろしく清々しい声を響かせた。
五月十六日
手の平を見つめながら、同僚O氏が「何もかも包み込むようなふくよかな手だネ」と云うのを聞く。
五月十七日
結局の所、遠い過去もまだ見ぬ未来も、Oにとっては須く良い思い出だったのである。
五月十八日
同僚C氏の腹は、最近、また膨らんだ様に思われるのだが。
五月十九日
自称「気分屋という名の悪魔」こと作画監督のK氏は、結婚の機会のないままに人生が過ぎ去って行くのを甘受しつつある中年な昨今である。ただ、孫の顔をもはや見るに能わないことを思うと、寂しい心地になると氏は云う。
結婚願望に身を焦がす三十三歳独身の同僚O氏に聞かせたい言葉だとわたしどもは思う。
五月二十日
一ヶ月ぶりに布団で寝た。十二時間寝た。
五月二十一日
C253の事は良く覚えている。性器を挿入しているカットで、作監のK氏が明け方に「おれは股間の帝王だぜい」と興奮の面持ちで修正をしていた。
このカットは、伝票記載漏れのため、一時所在を確認できなくなったのだが、今日めでたく朝鮮半島で発見されて安心だ。
五月二十二日
取引先を押さえた同僚O氏が「これで御前の貞操は奪ったぜい」などと下品な喩え方をする。
五月二十三日
Oは自身の少年時代を「とんでもない美少年であった」と恍惚と回想するのであるが、その自己愛は容姿の老化が進捗するにつれて、困難になりつつある。Oはめげずに「愛らしい年寄りになるから良いのだヨ」と云うが、どうであろうか。
五月二十四日
泡で固めるバルサンは、誘拐する時に使うポリウレタンフォームみたいで、格好良い。
五月二十五日
下に着るTシャツが払拭してしまった。仕方なくアニメージュ付録のでじこTシャツを着て会社に出る。「ほれほれ〜〜」と見せびらかして、倒錯的な気分に浸る。
五月二十六日
「関西は女子中学生を車に押し込むような人間ばかり居て、こわいよこわいよ〜〜」と同僚O氏が叫いて五月蠅い。
しかしながら、それでも氏は関西のおねいさんと結婚することを夢見ているらしい。
五月二十七日
「病弱娘! 良き哉、良き哉」と仕事中に悶えていると、上司のK氏に「何が良いのかね?」といきなり声をかけられ吃驚。
五月二十八日
「バス通勤は女子高生と沢山巡り会えるから、とっても良いものだネ」と同僚O氏が云う。
五月二十九日
コンビニからお中元ギフトのパンフを貰って来て、同僚O氏の机に置いて遣る。氏は「素麺美味しそうだネ、カルピス乳製品詰め合わせ美味しそうだネ、いちごアイス凄いネ」と頁に顔面を肉薄させる。
窓の外を眺めると夏らしい空が広がっており、「良い青空哉」とわたしどもが云うと、氏は青空の下が最も似合わないにんげんが何を笑止なと嘲りの言葉を発声する。
五月三十日
生身の女子高生に囲まれても、余り悦びを感じない様になったのはいつ頃からなのか、もう覚えてはいない。いや、少しは嬉しいのだが。
五月三十一日
女子高生に興味を惹かれなくなった事象を評価する上で重要と思われる事は、大人のおねいさんを嗜好の焦点に変えつつある欲望構造の変化が、可愛らしい女子高校生のおねいさんへの情愛を失わせた点である。斯様な嗜好に於ける変動は、社会的生物としての人間存在の有り様に叶う物として、道義的な適切性を帯びまくっていると云わねばなるまい。
女子高校生は、運命の分岐点に置かれた墓石のようなものと空想することがある。その年齢層を脱したおねいさんが嗜好の範疇に入れば、かれは人類社会の適正な担い手として、世間の大通りを平和な顔で闊歩する事が出来るのだが、女子高生年齢帯に及ばない、例えば女子中学生が愛欲の対象になったとき、かれは童女愛好者の烙印を押され社会から追放されるだろう。
中高一貫の女子校と云うものがこの世界には存在する。中学生と高校生のおねいさんが混合するその通学風景を眺めて、中学生の方にどきどきしていたらもう全てがお仕舞いである。助けて呉れ。