HOME>>>日本語エリア>>>『中国史のなかの日本像』目録

第一節 倭王の貢物

 中国の正史に日本列島のことを最初に書きしるした『漢書』は、楽浪の海中にある倭人は「歳時をもって来たり、献見する」と伝えている。

 「献見」すなわち「朝貢」とは、主従名分を確認する外交行為であるとともに、文物その他をかわす変則貿易でもある。変則というのは、民間で行なわれるような等価交換ではなく、中国王朝は周辺諸国から献上された貢物に対して、ふつう数倍から数十倍以上の値打ちのあるものを賞品として下賜するならわしである。

 古代の東アジア世界においては、こうした朝貢システムによって、各国の文物は国境をこえてひろく流通するのである。したがって、倭人が楽浪郡に「歳時をもって来たり、献見する」ということは、なんらかのものを輸出していたことをも意味するのである。

 ところが、『漢書』の倭人記事はその末尾に「云」という一字があり、間接の伝聞による情報をほのめかしている。このためか、倭人の貢物も楽浪郡の賜品も明記されていない。後漢になると、倭国の使者は洛陽に姿を現わすようになり、朝貢の実態についての記録もしだいに現実味を帯びてくる。

 時代はずっと後になるが、延暦二十三年(八〇四)中国南部の福州長渓県にながされた遣唐大使の藤原葛野麻呂は、空海の達筆を借りて地元の観察使に差しだした書状で、「蓬莱の?を執り、崑岳の玉を献ずる」(『性霊集』巻五)と述べて、朝貢のよしを明らかにしている。

 中国への貢物を「蓬莱の?」と「崑岳の玉」にたとえているのは、ただの文飾にすぎないかもしれないが、魏晋から隋唐にかける日本観の主流をみごとに表現している。 

1,『後漢書』の朝貢記事

 紀元二十五年、王莽が紀元八年に「新」という短命な王朝を建ててから、およそ二十年ほど中断していた漢王朝がふたたび復活し、劉秀(光武帝)はその六月に即位して、年号を建武に改め、洛陽を都と定め、後漢の幕をひらいた。

 『後漢書』(東夷伝序)によれば、この年に「?、貊、倭、韓」の諸国は万里をこえて朝貢してくるとある。ここで「倭」が「韓」の前にならんでいるのは、なにかの事情を示唆しているかもしれない。

 『後漢書』を調べてみたところ、「韓伝」には洛陽朝貢の記事が一回もなかったのに対して、倭伝には二回もあり、倭人が一足さきに漢王朝に使者を送りだしていたことが裏づけられる。

 一回目の使者は倭の奴国から遣わされ、建武中元二年(五七)洛陽に到着していた。『後漢書』(倭伝)には「貢を奉じて朝賀する。使人は自ら大夫と称する」とあり、さらに「光武帝、印綬をもって賜わる」とも記録してある。

 右の記事から、倭人の使者が朝貢の目的で遣わされたことは明らかであるが、どんな貢物を献上したかは不詳である。また漢王朝の賜品は「印綬」とあるのみである。おそらく一回目の遣使では、これというほどの物品がかわされていないとも考えられ、特記されなかったのであろう。

 二回目について、『後漢書』(倭伝)は「安帝の永初元年(一〇七)、倭国王の帥升らは生口百六十人を献ずる」と書きしるしている。ここに、「生口」という倭国の貢物がはじめて登場してくる。生口の解釈をめぐって中日両国とも諸説あるが、なんらかの特技をもった人間であろう。

 倭国はあわせて二回の使者を出しているが、その貢物についての詳述がなく、漢王朝にどのような印象を残したのかは明らかではない。ところが、光武帝より賜与された金印は江戸時代の天明四年(一七八四)福岡県の志賀島から出土し、漢王朝の日本像を断片ながらうかがわせる。

 つまり、この金印のツマミ(紐)は蛇の形をデザインしている。陰陽五行の思想では、青竜は東方、朱雀は南方、白虎は西方、玄武は北方をそれぞれ鎮守していると信じられる。いわゆる四方神の信仰である。

 倭国へ授けられた金印が蛇(竜とも理解できる)紐につくられていることは、倭人を東夷の民族と認めるあかしである。そうならば、東夷につきまとっている種々のイメージは、はるばると荒海をわたって朝貢してくる倭人に重ねあわせられていることもありうる。 

2、『魏志』の朝貢記事(上)

 俗に『魏志・倭人伝』と通称される『三国志・魏志』の倭人条に「その人は寿考であり、あるいは百年、あるいは八、九十年」とあって、神仙郷の長寿不死の伝聞をちらつかせている。こうした神仙郷のイメージをさらに強めさせたのは、朝貢品として倭からもたらされた宝物にほかならない。

 『魏志』(倭人伝)は倭国の物産について「真珠・青玉を産出する」と述べ、また倭国の遣使朝貢を五回にわたって記録している。以下、遣使のいきさつを順次に紹介する。

 (1)景初三年(二三九)の遣使。

 後漢の末期ごろ、各地の農民蜂起がその勢いを日に日に増しつつ、いつしか漢王朝の命取りとなった。二二0年、後漢があっけなく滅亡し、中国は魏・蜀・呉の三国に分裂した。こうして、領土をめぐって争奪戦の絶えない三国時代が始まったのである。

 景初二年(二三八)、朝鮮半島に勢力をはった公孫氏が魏の猛攻にやぶれ、「倭・韓」を統属していた帯方郡がここで魏の領有に帰してしまう。その翌年の六月に邪馬台国の卑弥呼女王はさっそく帯方郡を経由して、使者を洛陽におくった。

 「景初二年六月、倭の女王は大夫難升米らを遣わし郡に詣り、天子に詣って朝献せんことを求める。太守の劉夏は吏を遣わし、将いて送って京都に詣らせる。」(1)

 卑彌呼の使者は、魏の都がおかれていた洛陽にたどりつき、「男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈」を献上した。貢物には従来の「生口」に、あらたたな品目として「班(斑)布」をつけくわえた。

 今や皇位についたばかりの少帝(曹芳)は遠方の朝貢使を大いに喜び、同年十二月に詔書をくだし、卑弥呼を「親魏倭王」に冊封するとともに、女王の「忠孝」を褒めたたえた。この詔書には「汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ」との注文がつけられている。

 魏帝は使者をあつく遇して、倭人の「孝順」を心から期待しているところに、いうまでもなく「倭人は柔順である」との先入観をのぞかせている。そして、倭人の貧弱な貢物にもかかわらず、魏からの回賜品はまさしく目を瞠るほど豪華なものであった。

 すなわち、朝貢品の見返りとしての「絳地交竜錦五匹、絳地??十張、?絳五十匹、紺青五十匹」とは別に、さらに特別の褒美として「紺地句文錦三匹、細班華?五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠・鉛丹各五十斤」を追加して賜わったのである。

 「絳地交竜錦」とは、赤い生地に竜のもようを織りまぜた錦のことである。奴国王に授けた蛇紐の金印を連想させ、詔書の「忠孝」や「孝順」の表現と考えあわせると、「東方の君子国」という倭国像がそのまま受けつがれていることは推察される。

 (2)正始元年(二四0)の遣使。

 卑弥呼への印綬・詔書・賜品はいったん帯方郡におくられ、その翌年の正始元年(二四0)、太守の弓遵は建中校尉の梯儁らを遣わして、それらを倭国にとどけさせた。この記事は「倭王は、使に因って上表し、恩詔に答えて謝する」をもって結ばれている。

 原文の「因使上表」にある「使」は、魏の来使なのか倭の遣使なのか、この文では判定しにくい。ところが、『晋書』(宣帝紀)には、「魏の正始元年正月、東倭は重訳して貢を納める」とある注目の一文が書きとめられている。

 ここの「東倭」は邪馬台国をさしているのか、それとも邪馬台国と対立していた狗奴国のことか、または九州より東方にあった大和地方の勢力なのか。さらなる考究を必要とし、ここでは結論を急ぐことをさけたい。

 『魏志』(倭人伝)と『晋書』(宣帝紀)の記事をつなぎあわせて考えれば、正始元年に倭人の使節が洛陽をおとずれ、貢物をもたらしてきたことは事実として認めてよかろう。ただし、貢物の品目が記録に漏れているのは惜しまれる。 

3,『魏志』の朝貢記事(下)

 正始元年の朝貢記事はいくつか疑問の点を残しているとしても、正始年間の魏倭交通はじつに頻繁なものであった。

 三世紀の中ごろとなると、中国では三国分裂の局面にいよいよ収束のきざしが現われはじめ、日本では女王支配の終焉を告げようとする動乱がついに水面上に浮かびあがってきた。両国間を行き交う使者は、政権の存亡をかけて必死な外交努力を強いられていた。

 (3)正始四年(二四三)の遣使。

 この年の十二月に、卑彌呼から遣わされた大夫の伊声耆をはじめとする八人は、洛陽に到着した。このたび使者らの献上した貢物は「生口・倭錦・絳青?・緜衣・帛布・丹・木★・短弓矢」とあって、量質とも空前の豪華リストである。

 右の朝貢品をみると、「生口」以外には、これまでにないものばかりである。「倭錦・絳青?・緜衣・帛布」はいずれもカイコの糸からつくられた絹織物のたぐいであり、麻などの繊維を材料として編んだ「班布」に比べて、飛躍的な進歩があった。

 また弓矢などの武器類がはじめて貢がれたのは、倭国の直面していた緊迫の情勢をほのめかしているとも考えられる。

 (4)正始八年(二四七)の遣使。

 王?が帯方郡の新しい太守として着任したばかりの正始八年、邪馬台国から倭の載斯と烏越らをはじめとする使節団がこつぜんと郡に現われ、狗奴国との不仲がついに戦争状態にエスカレートしたという急報をとどけてきた。

 新任の太守はさっそく張政を遣わして、二年前に魏帝からくだされた卑弥呼への詔書と難升米への黄幢をもたらし、邪馬台国の軍勢を応援した。三国時代もその後半期になると、朝鮮半島の情勢を気にしてならない魏にとって、「親魏倭王」の統率する倭人勢力がますます重要性を増してきたのである。

 このたびの遣使は洛陽には行かず、帯方郡にとどまったものだが、外交往来の常として倭国からの貢物があったと推定される。ただし『册府元亀』が「白珠五千枚・青大句珠二枚・異文雑錦二十匹」の貢献をこの年の記事として扱っているのは、明らかな間違いであろう。(2)

 (5)泰始二年(二六六)の遣使。

 卑彌呼の死後、年わずか十三歳だった宗女の台与(壹与とする説もある)はその後継者に推され、内外の紛争によってストップしていた対魏外交をふたたびひらき、大夫の率善中郎将掖邪狗ら二十人を遣わし、正始八年(二四七)から来日していた張政らを送還して、かさねて魏都の洛陽に詣り、「男女の生口三十人」のほか、「白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雑錦二十匹」を献上した。

 『魏志』(倭人伝)は使者派遣の年次を明らかにしていない。ここで、「泰始の初め、使を遣わし、重訳して入貢する」とある『晋書』(倭人伝)の記事が注目に値する。

 魏の咸熈二年(二六五)十二月、魏から政権をゆずりうけた晋は、この年を泰始元年とした。まさにその王朝交替のさなか、倭国の使者が洛陽をおとずれたのである。『晋書』(武帝紀)は王朝誕生の大事として、「(泰始二年)十一月己卯、倭人が来たり、方物を献ずる」と、遣使の年月日まで詳しく記載している。

 『册府元亀』は正始八年の遣使とは別に、「晋の武帝の泰始元年、倭人国の女王は使を遣わし、重訳して朝献する」と「(泰始)二年十一月、倭人が来たり、方物を献ずる」との二回にわたる朝貢記事をかかげている。また『日本書紀』は神功皇后六六年の記事に、『晋起居注』をひいて、「武帝の泰初二年十月、倭の女王は(使を)遣わし、重訳して貢献する」と注記している。(3)

 司馬炎(武帝)が即位したのは泰始元年(二六五)十二月半ばをすぎているから、かりに倭国の使節がそれより前に洛陽についていたとしても、武帝に朝見できるのは、どうしても翌年のことになると推察される。

 泰始二年の遣使は『日本書紀』と『册府元亀』がともに「女王」から遣わされたとあり、『魏志』(倭人伝)の記事とつなぎあわせると、この「女王」とは台与のことをさしていると考えられる。しかし、『魏志』(倭人伝)に女王の献上品リストが載せてあるのに、『晋書』は詳細な期日入りのみで、中味がまったくないのは、なぜなのか。

 私見では、台与の使節は泰始元年(二六五)十二月よりさきに洛陽に到着しており、魏のラストエンペラー元帝に貢物を献上してのち、政権の交替があったため、翌年(二六六)十一月に新王朝の晋にも朝見したと推測される。ここでは、叙述の便宜上、複数年次のできごとを泰始二年(二六六)にまとめて考えることにする。

 このたびの献上品リストをみると、前回(二四三年)とおなじ生口と錦類のほか、あらたに宝石類がくわえられていることがわかる。このように遣使ごとに追加される貢物の品目は、ある意味では倭人のイメージづくりに役立ち、中国王朝の日本観を更新させる役割を果たしたものである。

>>>>>>>> 2-2

僥儗儚乕僋側傜EC僫價 Yahoo 妝揤 LINE偑僨乕僞徚旓僛儘偱寧妟500墌乣両
柍椏儂乕儉儁乕僕 柍椏偺僋儗僕僢僩僇乕僪 奀奜奿埨峲嬻寯奀奜椃峴曐尟偑柍椏両 奀奜儂僥儖