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| 第二節 復元された倭錦 |
前節では、弥生時代の倭王らによる朝貢記事を拾いあつめ、中国にもたらされた貢物をリストアップしてみた。中日間の民間貿易がほとんどみられなかった時代だけに、これらの朝貢品は、中国人にとって文字どおり珍しい舶来品であり、遙かなる倭国を知るうえで稀少にして重要な実物だったのである。
倭国の朝貢品のなかでまず目をひかれるのは、織物のたぐいであろう。『魏志』(倭人伝)がその細目を詳記しているのも、それらを目にした人々の並々ならぬ関心の一端をうかがわせる。
これらの献上品にふくまれる絹製品は、中国が極秘にして輸出をかたく禁じていた養蚕と製絹の技術を倭人がすでに知っていたことを物語り、魏王朝に意外なショックを与えたのかもしれない。生口とともに絹類が朝貢品として持続しているのも、中国で好評を博している証拠とみられる。
本節では、卑弥呼の「倭錦」をはじめ、中国にもたらされた布と絹の史実をたどり、それが中国人にどんなイメージを植えつけたかを考えてみたい。
1,ローマと倭国
『魏志』(倭人伝)に「禾稲・紵麻を種え、蚕桑をして緝績ぎ、細紵・?緜を産出する」と特記される一文に、どんな倭国観が示されているのか。東西の世界をむすぶシルクロード全般の視点から、そこにかくされた意味を考えてみよう。
中国では今から約五千年前の新石器時代に、絹作りがすでに始まったが、漢代になってようやくその成熟期を迎える。そして中国産の絹織物は、陸路をへて西と北、また海路をへて東と南の各地に運ばれ、史上にその名を馳せるシルクロードを形成したのである。
中国は製品としての織物はどんどん輸出しても、肝心なカイコの存在を極秘にして国外への輸出をたかく禁じていたようだ。そのため、絹製品は、西方世界にとってながく神秘的な存在であり、さまざまな奇談を生みださせた。
古代ローマの名高い詩人ウェルギリウスはその詩集『農耕詩』(前二九)で、セリス人は木の葉から繊細な羊毛を採集する情景を歌っている。ローマ人は、絹の原料となる羊毛をアジアの森林から無尽に取れると思いこんでいたらしい。
二世紀ごろのギリシア歴史家パウサニアスは『ギリシア案内記』のなかで、ローマ人に興味津々と語られていた羊毛樹の伝説を荒唐無稽としりぞけ、絹をつむぐ糸は「蜘蛛のような昆虫」から得ていたと説く。つまり、セリス人は「セル」と呼ばれる昆虫を籠に飼い、キビとアシを食べさせ、五年目になると、昆虫は飽食のためにお腹がパンクし、そこから無数の糸を取りだせるという。
ローマ宮廷では、光りかがやく絹の衣装は財富と権力とを象徴し、その値打ちは黄金とおなじ目方で取り引きされるほど高いものといわれる。したがって、「蜘蛛のような昆虫」を入手して、みずから絹をつくることは、ながらくヨーロッパ人の夢だったのである。
この夢がついに現実となったのは六世紀中葉のことで、それにはいくつかのエピソードが伝承されている。
そのひとつは、中国のことをよく知っていたインドの僧侶がビザンチン帝国にやってきて、皇帝のユスティニアヌス一世に「蜘蛛のような昆虫」とはカイコのことで、その卵さえ手に入れれば、絹作りがたやすく出来ると報告したら、皇帝は高い報酬をえさに、蚕卵の密輸をそそのかしたそうだ。
そこで、二人のインド僧は、ふたたび中国に潜入し、カイコの卵を小さな箱に隠して、ひそかにビザンチンの宮殿にまで持ってきて、それを幼虫に孵らせて桑の葉を与えつつ、繭を結うまで待って、糸を取りだすことに成功した。ローマ人の絹作りはこれによって始まったとされる。
このような伝説はさまざまな形で盛んに伝えられ、文献記載のみならず、絵画の題材になった例さえある。新疆ウイグル自治区にあるタリム盆地は、かつてシルクロードの重要な経過地のひとつであった。その南路に沿うダンダンウィクリの遺跡から発見された有名な板絵には、塞外へ嫁がれる中国の皇女がこっそりと繭を帽子のなかに隠してこの地にもたらしたという伝説がありありと描かれている。
ヨーロッパにおける養蚕術の伝入は、権威ある『中国大百科全書』をはじめ、ふつう五五一年とされている。そしてヨーロッパ産の絹織物が中国に輸出され、注目を浴びるようになるのは、ずっと後の時代になる。
こうしたシルクロードの事情を念頭に置きながら、冒頭にひかれた『魏志』(倭人伝)の記事を吟味すると、この一文の重さがおのずとわかってくる。つまり中国が秘伝のお家芸としていた養蚕と製絹の技術を、ローマ人より数百年も前に倭人がすでにもっていたという事実である。
おそらく貢物として献上された光りかがやく倭錦を目の当たりにしながら、中国人は不思議がってその驚きを隠せなかったと想像される。
2,麒麟錦と日本裘
唐代の大詩人杜甫の『厳中丞の西城晩眺十韻に和し奉る』と題する五言律詩に、「花羅は?蝶を封じ、瑞錦は麒麟を送る」という対句がある。『杜子美詩分類集注』は、これについて次の註釈をくわえている。
?蝶と麒麟は羅錦の上の文繍である。漢武の時、西域は?蝶の羅を献じ、日本国は 麒麟の錦を貢ぐ。人をして眼目を眩ませる。
明代の陳仁錫という文人はその著『潜居類書』(卷九三、服御部六)において、「麒麟錦」の項を立てて、『韻府続編』をひいて「漢の武帝の時、日本は麒麟の錦を貢ぎ、金光にして目を眩ませる」と解説している。
漢の武帝の治世(前一四一~前八七年)に、倭国から麒麟文の錦が献上されたということは史書に明記がなく、にわかに信じがたいが、あるいは遡及的な伝説であるかもしれない。それはともかくとして、倭人は早くから精緻な錦物をつくれるという認識は、中国人の脳裏に焼きついていたのであろう。
東アジアのシルクロードが半島を経由して、さらに日本列島にのびていった時期は、今のところ判然としないが、紀元前一〇〇年ころの弥生遺跡から絹布の遺品が出土している。金属技術や稲作文化などを日本にもたらした渡来人たちが、養蚕と製絹の方法をも伝えたにちがいない。
邪馬台国の時代は、考古学での弥生時代の後期にあたる。そのころ、絹の製造技術はかなり発達したようで、本場の大陸へも逆輸出しはじめた。半島を経由して魏に朝貢品として流入したのとほぼ同じころ、海路をへて呉にも商品として輸出していたらしいことは、『三国志』(呉志)の孫権伝に述べられている。
つまり、呉の黄龍二年(二三0)、孫権は将軍の衛温と諸葛直をして、甲士万人を引率させ、夷洲と亶洲に遣わした。伝聞によれば、亶洲は徐福のとどまった島で、島民はときどき東シナ海をわたり、会稽にやってきて布を貨るという。
日本から織物の輸出がいよいよ本格的になってきたのは、七世紀半ばから以後のことである。そのころ日本から出された遣唐使は、多くの絹類を貢物として中国にもたらしていた。『延喜式』(大蔵省、賜蕃客例)は唐の皇帝への献上品として、次のような品目をあげている。
大唐皇(銀大五百両、水織?・美濃?各二百疋、細?・黄?各三百疋、黄絲五百?、 細屯綿一千屯)。別に綵帛二百疋、畳綿二百帖、屯綿二百屯、紵布三十端、望?布一 百端、木綿一百端、出火水精十顆、瑪瑙十顆、出火鐵十具、海石榴油六斗、甘葛汁六 斗、金漆四斗を送る。
右文によって明らかなように、織物類がその献上品の大半を占めているわけである。この貢物リストを裏づける史料は、中国側の文献にもある。『册府元亀』(巻九七一、外臣部、朝貢四)は第十次の遣唐使(七三三年出発)のことを「美濃?二百匹、水織?二百疋を献ずる」と記録し、『延喜式』の記載とぴったり符合している。
これら遣唐使によってもたらされた織物類は、唐の人々からどう評価されたのだろうか。唐代最高の詩人といわれる李白の詩に詠まれた「日本裘」は、この問題を明解に答えてくれるであろう。
『李太白詩』巻十六所収の『王屋山人魏萬の王屋に還るを送るの詩』をみると、「身に日本裘を著け、昂蔵と風塵を出づ」という二句がある。李白はこの「日本裘」について、「裘はすなわち朝卿の贈る所の日本布をもってこれを為る」と注記している。ちなみに「朝卿」とは阿倍仲麻呂のことで、唐に仕えて名前を唐風の「朝衡」に改めていた。
詩中の「昂蔵」とは、風貌堂々として気宇壮大な様子であり、李白の詩『潘侍御の銭少陽を論ずるに贈る』にも、「繍衣柱史何昂蔵、鉄冠白筆横秋霜」と「昂蔵」の用例がみえる。日本裘を身につけると、いかにも脱俗して仙人にでもなったような雰囲気を漂わせるという意味であろう。(4)
以上みてきたように、日本から伝わってきた絹と布は、エキゾチックな情緒とユートピアの幻想を呼びおこし、文人らに重宝されていたのである。
3,倭錦と異文雑錦
邪馬台国の女王は魏への貢献品に、三回とも絹類をくわえている。それをまとめて示すと、次のごとくである。
(a)景初三年(二三九):班布二匹二丈
(b)正始四年(二四三):倭錦・絳青?・緜衣・帛布
(c)泰始二年(二六六):異文雑錦二十匹
養蚕や紡績の技術は前述のとおり、おそらくは弥生時代の初期から、半島経由の渡来人らによって将来されたのであろう。日本語の訓読によると、渡来人の二大系統の秦氏と漢人はそれぞれ「ハタ」と「アヤ」と読み、いずれも紡績と深いかかわりがあったことがうかがわれる。
応神天皇三十七年(三0六)、渡来漢人の阿知使主らは呉に派遣されて、兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人を日本に連れもどした。このことは、日本の紡績技術が江南系に属していたことを想像させる。
邪馬台国の貢物は、時代とともに班布・倭錦・異文雑錦としだいに高級化し、技術の発展をものがたる一方、これらの織物が魏から喜ばれていたとみることもできよう。
紡績史研究の権威とされる太田英蔵氏は、班布は倭国産の細紵布らしく、縞織か格子織の絞染だろうとし、倭錦と異文雑錦も同じ織技によったものであると推論している。さらに、『魏志』(倭人伝)の「細紵と?緜を産出する」ことについて、つぎのように分析する。
細紵とはカラムシを績み紡ぎ織った細布であり、魏国は中国の北部を領しており、 紵よりもむしろ常民は大麻の粗い布を衣料としていたから、倭人の精巧な紵布に興味 をおぼえ特記したのであろうことは、出土する中国北方の紡輪の大きさから察せられ る。(5)
しかし「倭錦」とは、一体どんなものであろうか。具体的にいえば、どんな模様をしているか。
一九八五年に、NHKと川島織物とが中心となって、倭錦の復元試作を企画し、苦心に苦心をかさねて作りあげたのは、奈良時代以前の遺物といわれる「赤地山菱文錦」を基本的デザインとする、入子菱と小形三角形の組みあわせ模様のものである。(6)
ここの「倭錦」は「やまとにしき」と訓読みするべきか、それとも「わきん」と音読みするのが正しいなのか、意見のわかれるところである。ただし「倭」が「錦」を修飾している以上、中国によくみられる錦類とは異なることは、まず間違いなかろう。
『日本書紀』や『新撰姓氏録』などに徴すれば、天羽槌雄神は倭文氏の先祖で、文布を織ったと伝えられる。文布は倭文布とも倭文とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物である。倭錦と倭文とは関連があったかどうかも、さらに考究する必要があろう。
倭錦を復元するという作業は、まことに大胆かつユニークな試みで、結論の賛否はともかく、茫然としか想像できない古代の風景を具像化して体感させる点で、大きな意味があると思う。
つぎに「異文雑錦」とはなにかを考えてみよう。
語句について「異文の雑じった錦」との読み方もあるが、中国語の表現法からすれば、むしろ「異文の雑錦」と素直に読むほうが正しいと思われる。「雑」は種類の多いこと(二十匹もある)を言っている。
古代漢語では、「異」の本義は「区別する」だが、「異なる」と「優れる」の派生義もある。したがって「異文」は「中国のと異なった文様」か、「ずば抜けて傑出した文様」と解釈されるが、あるいは両方の意味合いがミックスして、この二字に込められているかもしれない。
「文」は「紋」に通じ、模様のことである。この模様は「異文」といわれるほど、魏の人々につよく印象づけたものにちがいない。それは倭錦のような「入子菱と小形三角形の組みあわせ模様」のものでは、そうも特筆されはしないだろう。
ここで思いだされるのは、漢の武帝に献上されたという麒麟錦のことである。「人をして眼目を眩ませる」麒麟文ではなくとも、魏人を珍しがらせるような倭国風の模様がこれらの「雑錦」に織り交ぜてあったのであろう。要するに、「異文」は非日常的な「異郷」を連想させ、神仙郷のイメージを補強させることになる。