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| 第一節 韓志和伝説 |
蘇鶚の著わした『杜陽雑編』に、倭人韓志和の神業ともいうべき彫刻の技芸が、虚構とも真実ともつかない説話のように語られている。『杜陽雑編』という書物は、『新唐書』・『郡斎読書志』・『四庫全書』などには小説として著録されている。この視点からみれば、韓志和の物語は史実と異なって、虚構の成分を多くふくんでいるにちがいない。
しかし物語の主人公を、陳舜臣氏の述べたように新羅人でもアラビア人でもなく、とくに日本人としたのは、「やはり唐代の中国の日本像のなかに、(中略)小さな精巧なものをつくるのが上手であるというのがあったから」である。(2)
森克己氏も「この一篇の物語は極めて怪奇な、ありそうにもないような話であるが、ともかくも、この怪奇な物語によって日本人には韓志和の如き精妙な技術の所有者があるということを大陸の人々の脳裏に刻み込んだに相違ない」と論じている。(3)
1、韓志和の技芸
唐の蘇鶚の著した『杜陽雑編』三巻は五十三条の独立した記事から成り立ち、代宗の広徳元年(七六三)から懿宗の咸通十四年(八七三)にかけての唐代十朝のことを主として記しているが、筆墨の多くは周辺地域の異聞奇談や珍物宝器などの記述に費やされている。
これらの記事は、真偽はともかくとして、読者を興味津々の世界へいざなう。たとえば、巻中に詳しく述べられている倭人韓志和の事績も、じつに面白い筋書きとなっている。次に、その全文を読みくだしながら、適宜に解説をほどこしてみる。
「飛竜衞士韓志和は、もとより倭国の人である。木を彫って鸞・鶴・鴉・鵲の状を作るのが得意である。その飲啄動静は本物と区別がつかない。関捩を腹の中に取りつけ、これを発動すれば、ただちに雲を凌いで高さ百尺ほどに飛びあがり、一~二百歩も遠く飛んで始めて落下する。また木を刻んで猫児をつくって鼠や雀を捕らえさせる。飛竜の抜群な技芸がついに皇帝に報告され、それをご覧になった皇帝はたいへん喜んだという。」
韓志和はたんなる彫刻の名手だけでなく、物理学にも精通しているようで、木彫りの鳥獣の腹内にからくりを巧みに装着し、それを発動すると、鳥類は二百メートルほど空中を高く飛ばせ、木猫はネズミとスズメを逃さずに捕らせることができる。
ちなみに、鸞は鶏に似ていて、羽毛は五色をまじえ、鳴き声は音楽の調子にぴったり合うという空想の神鳥で、鳳凰の一種とされる。また、鴉はカラスのこと、鵲は喜鵲ともいって、七夕の夜空に牽牛と織女が天の川を渡る橋をかけてくれるカササギそのものである。この神業にも匹敵する腕前の実演をご覧になった皇帝はたいへん喜んだという。
「志和はさらに高さ数百尺の踏床を彫り、その上に金銀の彩絵を描いて飾り、見竜床と名づける。これは置いたままでは竜形が見えないが、もし踏み台に足を乗せれば、たちまち鱗鬣爪牙が顕われる。始めて進るにおよんで、皇帝は足を履むと、竜が夭矯として雲雨を得たかのように現われてくる。皇帝は怖れ畏き、ついに撤去させた。」
さきの木鳥と木猫の実演を唐帝からもてはやされたことに、かなり自信をつけた韓志和は、今度こそと思って豪華なベッドを念入りにこしらえた。金銀の彩色に飾られたベッドには、竜形の彫刻をかすかにほどこしている。遠くからは気づかれないけれども、踏み台に足を乗せると、たちまちに光る鱗片・揺れ動くたてがみ・するどい爪・むき出すきばが生々しく現われてくる。あまりにも真に迫まった不気味さに、さすがの唐帝もびっくり仰天、さっそく撤去を命じた。
「志和は上の前に伏して「臣は愚昧にして聖躬を驚き忤らうことを致してしまった。願わくは別に薄伎をたてまり、やや至尊の耳目を娯しませ、死罪を贖いたく存ずる」という。皇帝は笑んで「汝の出来る伎を朕のために披露してくれ」と仰せる。志和はついに懐中から桐木の合子を取り出す。数寸四方で、中には物があり、蠅虎子と名づく。その数は一、二百ほどあり、丹砂をもって赤く塗っているという。」
ところで、精魂をこめて仕上げた侈麗な「見竜床」を披露して意気揚々となった韓志和は、思いがけなく期待を裏切られ、皇帝からカンカンと怒鳴りつけられてしまった。そこでかれは、「勘弁してくだされ、今よいものをご覧にいれますから」といって、懐中に忍ばせていた桐の箱をそっと取りだした。箱の中には丹塗りの「蠅虎子」(蜘蛛の一種)がぎっしりと詰めてある。
「すなわち分けて五隊となし、涼州を舞わせる。皇帝は楽隊を召してその曲を奏(4)させ、而して虎子は盤廻宛転して、拍子に中らざるものはない。詞を致す所になるとすなわち隠々として蠅声のごとく発する。曲が終わるにおよんで、尊卑の等級があるかのように累々として退く。」
文中の「涼州」はすなわち涼州曲の略で、唐の段安節の編んだ『楽府雑録』(舞工)に、緑腰・蘇合香・屈拓・団円旋・甘州とともに挙げられた唐代軟舞曲のひとつである。もともと西涼一帯(いまの甘粛省あたり)の地方楽舞だったのが、唐の開元年間(七一三~七四一)西涼府の都督をつとめた郭知運によって長安にもたらされ、宮廷舞楽としてはやりだした。
韓志和の彫り刻んだ蠅虎子は、唐の宮廷楽隊の伴奏にあわせて、当時流行の涼州曲をみごとに踊ってみせたのみならず、空中を跳躍してハエをとらえる特技も、唐帝の前で堂々と披露した。
「志和は虎子を臂に載せて、皇帝の前において蠅を数百歩の内に猟らせる。鷂が雀を捕えるように、穫れないものはほとんどない。皇帝は、その小しく観るべき技を嘉みして、雑彩の銀碗を賜わった。志和は宮門を出て、ことごとく他人にそれを譲ってしまう。年を逾えずして、ついに志和の行方がわからなくなった。」
韓志和は蠅虎子を手にして、それを放つと、数百歩内外のハエを正確にとらえさせる。こうして、「見竜床」の件でしくじったが、涼州曲をおどり、ハエをとらえる「蠅虎子」の披露によって、その非凡な彫刻技芸をようやく鑑賞眼のもっとも厳しい唐帝に認めさせるに成功したのである。
「宮門を出で、ことごとく他人に転施す。年を逾えずして、ついに志和の所在を知らず」をもって一編の物語を結ばせるところに、韓志和たる人物の神秘性をますます深め、その出身地とされる「倭」の神仙郷伝説を匂わせている。
2、飛騨工の伝承
韓志和の彫刻技芸の記事は、『杜陽雑編』のほか、沈汾の『続仙伝』、杜光庭の『仙伝拾逸』、馮贄の『雲仙雑記』、李昉らの『太平御覧』、曾慥の『類説』などの唐宋時代の筆記小説類にも転載されており(5)
、その流布の広さをうかがわせる。
江戸時代の儒学者松下見林は、もっとも早くこの記事に注目した一人である。彼は元祿元年(一六八八)に歴代の中日関係資料をあつめた『異称日本伝』を書きあげ、巻上に『太平御覧』から韓志和の記事を採録して、次のように考証している。
「穆宗は日本の嵯峨天皇、淳和天皇の世にあたる。むかし本朝の飛騨国に匠氏が多く、巧みに宮殿・寺院を作り、また木偶人をつくって動容周旋するのは生き物のようである。今に至っても飛騨工と称する。韓志和のごときはおそらく飛騨国の人だろう。道術があって品性も廉い。」
松下見林の唱えた飛騨工説は惜しくもその根拠を示していないが、那波利貞氏の詳しい文献考証によっていくらか補強された。那波氏はまず「『杜陽雑編』に見えたる韓志和」を世に問わせ、つづいて前稿の言い尽きぬところをおぎなって「補遺」を公表した(6)
。以下、いささか私見をまじえながら、那波説を紹介してみる。
平安時代から、飛騨工は木彫りの特技をもってたびたび宮中に呼びだされ、名声を天下に馳せるところとなった。むかし、数人の飛騨工が日夜となく思案をめぐらし、生身のごとき人形を作りあげたところ、ある宮女はこの人形に恋いをして男女のちぎりを結び、ついに「木子」と名づけた子供を生んだという奇談は、天文元年(一五三二)に編まれた『塵添?嚢鈔』に語られている。
飛騨工というと、だれか特定の人物と思われがちだが、じつはふるく飛騨国に住みつく大工の名人を総称したものにほかならない。江戸時代の中ばごろ、易学の研究をもって知られる新井祐登は宝暦六年(一七五六)に『牛馬問』四巻を著わし、韓志和を飛騨工の一人と想定して、次のように述べる。
「何とやらむ題する書に、飛騨の匠は一人の名にて入唐せしなどと来歴を引きて書きたる本あれども、その愚説案に落ちず、飛騨は良匠の多きなれど、そのうちより一人ふたりは異国へも行くなるべし。」(原文)
飛騨工のもつ神業はかえって災いのもとなり、かれらは為政者の欲望を満たすため奴隷のように酷使され、その苦役に耐えられずに逃亡を企てるものがあとを絶たなかった。延暦十五年(七九六)十一月、朝廷は逃亡者をとらえさせ、もし隠すものあれば勅命に逆らう罪を問うという捕獲令を諸国にくだした(『日本後記』)。役人の追っ手をおそれて逃げまわった飛騨工のうち、ついに波立つ荒海をよこぎって海外に活路をもとめる冒険者もいたと想像される。
山崎闇斎の門に入って神道の奥秘をきわめ、柔道と剣道を得意とした井沢長秀は、正徳五年(一七一五)世に出した『広益俗語弁』(正編巻十三)に、飛騨内匠という職人の数奇な入唐経歴を載せている。韓志和の物語りに似たりよったりの伝奇ものである。あらましは次のとおり。
むかし、飛騨内匠という者は唐へわたろうとして、木製の鳶をつくり、これに乗って築前をすぎるとき、彼をうらむものが矢をはなったが、内匠にはあたらず、木鳶の片羽を命中した。その羽の落ちたところを羽形といい、のちに博多とあらためた。しかし、それでも内匠はおそれず、片羽だけで唐にわたった。在唐中、唐人を娶ったが、妻が妊娠十か月のころ、日本に帰ってしまった。まもなく男の子が生まれた。この子が十三歳になったとき、肉親さがしに父の国へやってきた。内匠はわが子のことかどうかを疑い、「ほんとうにわが子ならば、仏像の半分を作ってみよう。わたしもあとの半分を作るから、もし両方がぴったり合えば、信じてあげよう」といった。結局、それぞれ作ったものを合わせてみると、りっぱな仏像となったから、わが子のことを信じたという。
飛騨内匠がすなわち韓志和その人であるとは考えられないが、飛騨国の職人のだれかが中国へわたっていたことは、右の伝説からも十分に想像されるのではないか。
さて、韓志和の関係史料を詳しく考察した那波利貞氏は、『今昔物語』二十四に出てくる絵技をもって鳴る百済川成と腕比べをした飛騨工の話に目をつけ、韓志和が唐に名をあげてから帰国し、そして画壇を独歩した百済川成とわざを戦わせたと推測している。もっともそれも想像の域を出ないもので、事実の真相はおそらく永遠のなぞにつつまれるであろう。
3,伝説の土壌
文字に現われるものは少数の例をのぞけば、ほとんどは事件後の追記にほかならない。したがって、史実というものは伝聞の過程において、いつしか虚構の成分を加えられることはしばしばある。その逆に、一見して奇想天外の伝説でも、なんらかの形で真実を屈折して反映していることも考えられなくはない。
それでは、韓志和の彫技にまつわる逸話がいったいどんな事実を映しだしているかを、検討してみる必要があるように感じられる。『杜陽雑編』の記事について、東野治之氏はきわめて慎重な態度をとって、次のように述べる。
「唐、蘇鶚の撰した『杜陽雑編』には、奇巧にたけた日本の工人韓志和の話が載せられており、これをもとに那波利貞氏や森克己氏は、日本人の美術工芸方面の技術が唐の人々を感嘆させるに足るものであったとされている。しかしたとえ史実を下敷きにしているとしても、『杜陽雑編』はあくまで説話集であり、この話がどこまで事実であるかは明らかでない。(中略)このような説話から日本の美術工芸に対する一般的評価を推測することは、なお危険であるとみた方がよかろう
。」(7)
たしかに那波利貞氏のように、伝説に現われる人物を歴史のなかから無理やりに引き出すのは、たいへん危険な作業である。しかしながら、このような伝説を人々はなぜ興味津々と語りつづけるか、という問題も無視はできない。この意味で、説話というのは史実に劣らないほど、この時代この地域の読者の心の機微を率直に表わしているかもしれない。
韓志和という人物は実在なのか虚構なのかをしばらくさておき、遣唐使団の人員構成をしらべてみると、大使・副使・判官・録事のいわゆる四等官および留学生(僧)と船員のほか、メンバーに知乗船事・造舶都匠・訳語(通訳)・主神・医師・陰陽師・画師・史生・音楽長・卜部・雑師・音楽生・玉生・鍛生・鋳生・細工生・傔人などがふくまれている。
そのなかで、玉生・鍛生・鋳生・細工生は彫刻の技術をもつ職人たちだったと思われるる。かれらのだれかが阿部仲麻呂のような留学生、円仁のような学問僧、藤原清河のような役人とおなじく、唐にとどまって帰らず、チャンスをつかんで持ち前の特技を披露してみせたということは十分にありうるではないか。
伝説はまったく空想から出てくるものではなく、時代ごとに地域ごとにそれぞれ異なった伝説が語られることからもわかるように、それを生みだす土壌というものがいる。とくに、虚実なかばの『杜陽雑編』のような書物は、「説話」だからといって一蹴されてはたまらない。
そして、これらの記事をささえる土壌とは、遣唐使時代からの頻繁な人員往来と盛んな文物流通にほかならない。次の各節はこの意味で、伝説の土壌として設けられたものである。
韓志和は実在の人物なのか、それとも虚構の人物なのか。かれの披露した彫刻の特技はどれほど信じてよいか。これらのなぞを解きあかそうとしても、無意味な徒労にひとしいであろう。問題は一般庶民の感覚の平均値をもっとも直截に映しだす唐代の小説が、このような神業にも近い特技の持ち主を倭人と記していることである。