HOME>>>日本語エリア>>>『中国史のなかの日本像』目録

第一節 華夷同祖の意識

 江戸時代の伊藤松貞が著わした『隣交徴書』(初編巻之一)に、峨嵋山居士と号する宋・文博の『日本国賛』を載せている。この五言律詩のなかに「孰ぞ彼土此土を分たん、相去る纔かに咫尺なり」との詩句があり、従来の偏遠にして到達しがたいという日本像と大きく趣を異にしている。

 宋末元初の馬端臨によって編纂された『文献通考』(巻三二四、四夷考、倭条)をみると、唐宋時代を境にして、日本に対する中国人の距離感に著しい変化が現われている。

 つまり、漢魏時代の日本は、楽浪郡や帯方郡から一万二千里も離れていて「その地は遼東を去ること甚だ遠い」とされるが、唐宋時代になって海路による交通が盛んになり「?浙を去ること甚だ迩い」と書かれている。

 唐宋以来、中日間の交通は、海岸ぞいの北路から東シナ海を横断する南路へと切りかえられ、また季節風の利用や造船技術の発達もつたって、両国間をむすぶ航路を大幅に短縮させることに成功した。

 しかし、右の『日本国賛』と『文献通考』にみられるような距離感は、おそらく心理的要素を多くふくんでいるであろう。その背後には、文明の同質や民族の同種といった認識がつよく働いていると思われる。 

1,呉人の後裔

 日本民族の起源について、中国の文献では、江南の呉越民とのかかわりで記述されることが多い。そのひとつとして、倭人がみずから「呉の太伯(泰伯)の子孫」を名乗っていることは、多くの歴史書に記録されている。

 その伝説が最初に登場するのは、『魏志』よりすこし成立の早い魚豢の撰んだ『魏略』である。残念なことに、『魏略』はすでに散逸して伝わらないが、『翰苑』という唐代の書物にひかれた逸文に「その旧語を聞くと、自ら太伯の後という」とみえる。

 ところで、倭人がその子孫であると自称する「太伯」とは、いったい何者なのだろうか。まずはその人物像を明らかにしておこう。

 『史記』(呉太伯世家)によれば、太伯は周の太王(古公亶父)の長男だが、父の胸中を推しはかり、王位を三男の季歴にゆずるため、断髪文身して荊蛮の地に落ちのびた。土着民は彼の義をしたって身をよせるもの千余戸におよび、かれを呉の開祖に推したという。

 こうして国ゆずりした太伯は、孔子から「それ至徳というべきのみ」(『論語』泰伯篇)と激賞され、儒教の世界では賢人として尊敬される。

 呉は春秋時代(前七七〇~前四〇三)揚子江下流域をその生息地とし、「春秋五覇」のひとつにかぞえられる強国である。呉は中原に鹿を逐うなかで、文明度の高い漢民族と関連づけて、自らの正統性を主張する必要があった。その必要から、越は夏の少康の子、斉は周の太公望、晋は周の成王の弟、呉は周の太伯といった具合に、非漢民族の始祖伝説がつぎつぎと生まれてきた。

 ここで注意すべきは、倭人がみずから呉民族との同源を主張していることだけでなく、越民族との関連もあったと中国人が意識していたことである。『魏志』(倭人伝)に「夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身し、もって蛟龍の害を避ける。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕り、文身しまたもって大魚を厭う」とあるのは、その一例である。

 三世紀ごろ、倭人は中国江南の呉越民と共同の起源を持っていると伝えられるが、それが唐宋時代に入ると、秦漢移民の子孫たちがそのまま日本住民の一部をなしていると信じられるようになった。

 倭人の太伯後裔説は、『魏略』と『翰苑』のほか、『梁書』・『晋書』・『北史』・『通典』・『太平御覧』・『資治通鑑』などの唐宋文献にもみられる。この伝説がひろく引用されるのは、儒教上の理想人物としての太伯を東方の君子国の始祖に置くという解釈の合理性があるのみならず、奈良時代より始まった日本文化の唐風追随が中国人に親近感を与え、従来の日本像を変えさせたのも一因だったと考えられる。 

2,秦王国の発見

 大業四年(六0八)、隋の使者として文林郎の裴世清は、遣隋使の小野妹子らに伴われて、倭国へ赴いた。『隋書』(倭国伝)によれば、隋使一行は百済をへて都斯麻国(対馬)に至り、さらに一支国(壱岐)・竹斯国(筑紫)をへて「秦王国」にたどりついたとある。 このなぞの秦王国について、松下見林は『異称日本伝』において安芸の厳島とし、本居宣長は『馭戎慨言』において山陽道西端の国名の誤記と主張し、また山田安栄は周防の音訳とみるなど、まさしく諸説の分かれるところである。

 秦王国という表記には、古来の徐福伝説がからんでいるとみたほうが妥当であるかもしれない。「その人は華夏に同じであり、もって夷洲と為すも、疑うらくは、明らかにすることができない」とつづく裴世清の感想は、その証拠となろう。

 夷洲(亶洲をふくめて)は『後漢書』(倭伝)と『呉志』(孫権伝)では、徐福の止住した地として伝えられている。また『太平御覧』(巻七八二、外国記)には、「周詳、海に浮かび、紵嶼に落ちる。その中に紵が多く、三千余家あり、徐福童男の後という。風俗は呉人に似ている」と記されている。

 『隋書』(倭国伝)の記事は、裴世清の帰国報告をもとにして書かれていることは疑われない。「文字はなく、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。仏法を敬う。百済に於いて仏経を求め得、始めて文字を用いる」とあるのは、従来の日本像とはっきり一線を画し、仏法を信じ文字を知っている開化民族として、日本を認識しているのである。

 ふたたび秦王国の記事に目をもどすと、徐福の子孫を思わせるような秦王国の住民をここに「華夏に同じ」と評価している。それは「性は質直にして雅風があり」、「仏法を敬う」、「文字を用いる」といった記述とともに、隋代の新しい日本像を示唆するものである。

 「華夏に同じ」という秦王国の実像と伝説に語られる蓬莱の虚像とが交錯するなかで、はじめて日本に足を踏みいれた裴世清は、その戸惑いと驚きの心情を隠しきれず、「夷洲と為すも、疑うらくは、明らかにすることができない」とつづく記述に、すべての疑念を投げかけている。

 こうした疑念は唐以降になると、しだいに薄れてくる。五代のころ、義楚の著わした『釈氏六帖』は、徐福の止住した蓬莱を日本の富士山に比定し、その子孫が「秦氏」を名乗っているとして、「今、人物は一に長安の如し」と書きしるしている。これは『隋書』の「その人は華夏に同じ」よりも、一段と評価を高めているのみならず、語気にはなんの躊躇もみられない。

 「礼儀の邦」という隋唐時代から始まった斬新な日本像は、人間同士の直接の接触によって形成されていくところに、最大の特色があったのである。 

3,転生伝説

 日本文化の著しい唐風化は、結果として中国との文明の落差を効果的に縮小させ、また両国の人種的な相違の影をしだいに薄める形で、中国人の日本像に色濃く投影されるのである。こうした影響は、太伯後裔説のほかに、仏教的な転生伝説にも顕著に見てとれる。

 奈良時代から江戸時代にかけて編まれた多くの聖徳太子伝をひもとくと、中国の南北朝時代の乱世を力づよく生きぬいた高僧慧思(五一五~五七七)が亡くなってから、聖徳太子に生まれ変わったと記されている。(3)

  『法華経』をはじめ大乗仏教をとなえて、他宗派からしつこい迫害をしかけられ、幾度となく生死をさまよった慧思は、五五八年の正月に心機一転して、金字の『大品般若経』と『法華経』をつくることを発願し、ひろく僧俗の善知識をつのった。

 大願成就の吉日に、慧思は自叙伝ともいうべき『立誓願文』をしたため、「一切十方の世界中」に生まれ変わることをおごそかに誓ったのである。そのとき慧思は、漠然とした未来よりも、仏教弘伝の新天地へ熱い視線をむけるようになったのであろう。

 慧思の死後、信者たちは右の再誕予言に基づいて、かずかずの転生伝説を創作するのである。そして、伝説はさらに伝説を生みだして、一人歩きするようになると、慧思の再誕地は、最初の「遠遊」や「無仏法処」から、しだいに「海東」や「東国」へと具体化されていく。

 中国の感覚からいえば、仏教は西方より伝わってくるから、中国より東にはなかったものである。ことばを換えれば、求法は西へ、伝法は東へといった図式は、中国人の脳裏に刻みこまれている。この意味で、慧思の東方転生が、東海中にある日本へつながっていく伏線となったのである。

 これまでに、「慧思の日本への生まれ変わり」という伝説は、日本だけにみられる信仰とされ、中国発生説に疑問を投げかける学者が少なくなかったようである。けれども、「日本への生まれ変わり」は、慧思にまつわる雄大な転生劇の一コマにすぎず、中国に発生する土壌的な要因があったのである。

 たとえば、作者不詳の中国の『大唐七代記』(正しくは『大唐国衡州衡山道場釈思禅師七代記』)は、南北時代に六たび生まれ変わってから、第七生は「倭国の王家」に生まれ、仏教を弘めたと書きとめている。この本の成立時期は詳らかでないが、思託の『大唐鑑真伝』(正しくは『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』)とすこぶる類似している記述がある点から、八世紀のなかばをくだらないと推定される。

 近ごろ、仏教学者の京戸慈光氏の紹介によってその存在を学界に知られるようになった『浄名経関中釈抄注』という書名の敦煌文献にも、中国の各王朝に転々と生まれ変わった慧思は、とうとう海のかなたに再誕して国王となり、『法華経』をひろく流布させたとみえる。(4)

 ついでに、機敏をあらそう禅僧たちの名問答とされるこぼれ話しをここにひとつ紹介しておこう。

 ある日、洞山良介という高僧は座禅の合い間に、「慧思が生まれ変わって倭国の王となった話を聞いたけど、本当か嘘か」と弟子らの学力をためそうとして聞いてみた。そこで、道膺は「慧思の人となりを考えれば、仏さまになるのも嫌な質だから、ましてや国王になるはずはない」ときっぱり応対したという。

 道膺は八三五年から九〇二年にかけて生存していた人物であるから、唐の末期には禅宗の間で慧思の倭国転生説を常識として知っていたことがわかる。

 また、鑑真が入唐僧の栄叡らに請われて、渡日を決意したとき、「むかし聞いた話では、南岳の思禅師は遷化してのち、生を倭国の王子に託して仏法を興隆し、衆生を済度しているという」と語ったことは、唐の天宝元年(七四二)の出来事で、淡海三船の『唐大和上東征伝』に語られている。

 ここで注目すべきは、慧思の倭国転生を、鑑真は「むかし聞いた話」と断っていた点である。その話を裏づけるものとして、慧思が「倭州の天皇」に生まれ変わったと明記された碑文は『大唐七代記』にひかれている。碑文の最後には、「李三郎帝の即位する開元六年歳次戊午二月十五日」という日付がついている。

 「碑の下に題していわく、倭州の天皇、彼の聖化する所である。聖人の遷跡より隋代に至る以下、禅師の調度、金銀書・仏肉舎利・玉典・微言・香炉・経台・水瓶・錫杖・石鉢・縄床・松室・桂殿、未だ傾けず朽ちずして、衡山の道場にみな悉く安置している。今代の道俗、瞻仰し帰敬する。」

 「李三郎」とは、唐の叡宗の三男に生まれた李隆基のニックネームで、先天元年(七一二)に即位してから、「玄宗皇帝」と呼ばれる。「開元六年」は養老二年(七一八年)にあたる。慧思が「倭州の天皇」に生まれ変わった伝承を記したこの碑文は、鑑真の問答より二十四年も前に書かれたもので、「むかし聞いた話云々」とある『唐大和上東征伝』の記述を裏づけてくれる。

 鑑真にしたがって渡日した唐僧思託は『大唐鑑真伝』で「その智者禅師は、南岳慧思禅師の菩薩戒の弟子である。慧思禅師はすなわち日本に降生し、聖徳太子となる。智者は唐国の分身で、思禅師は海東の化物である」と述べ、さらに『上宮皇太子菩薩伝』に「思禅師は、のちに日本国橘豊日天皇の宮に生まれる」と明記している。

 慧思の倭国転生説は、唐代から興味津々と語りつがれていたようで、明空の『勝鬘経疏義私鈔』、思託の『延暦僧録』(上宮皇太子菩薩伝)、法進の『註梵網経』などにも記述されている。宋代では、道原の『景徳伝燈録』などにみえるのみならず、宋人の沃承璋が亡くなって日本の国主に生まれ変わったという類話まで流布していたようである。(5)

 このたぐいの伝説がとくに唐宋時代にひろく流布したのは、この時代の新しい日本像と無関係ではなかろう。 

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