HOME>>>日本語エリア>>>『中国史のなかの日本像』目録
| 第一節 風月は天を同じうす |
前章の第三節では、遣唐使の風貌や学殖について、わりと詳しく論じてきた。本節では、入華僧にスポットを当てて、生身の人間を通して成り立つ日本像を、空海・最澄・安覚の三人を例として考察してみたい。
インドに発祥した仏教は、中国の道教や日本の神道のような特殊な宗教とは異なり、普遍性を持っているために、国々のなわばりを容易に乗りこえては異文化を包容していく。仏教の信者にとって、民族の妨げも華夷の隔たりも、原理として存在しない。彼らは、それぞれの国家や民族に生まれながらも、それらすべてを超越する仏の世界を共有しているからである。
中日の仏教交流を遣隋使の派遣から数えても、すでに一五〇〇年近くの歴史を持つことになる。その間に、国交のあった唐代はともかく、国交のなかった宋代と元代では、東シナ海の航路を行き交う人々の姿は、ほとんど僧形ばかりだったのである。
中日間の盛んな文化交流の歴史をふりかえってみると、あまりにも華夷の名分にこだわりすぎる儒者よりも、雄大な世界観を持つ僧侶の果たした役割は、遙かに大きいといわざるをえない。
さて、中日交流の主役を演じた僧侶たちは、どんな世界観を持っていたのだろうか。長屋王が中国の高僧らに寄贈した袈裟のへりに刺繍された偈句は、それを絶妙に言いあらわしている。
山川域を異にすれど、風月は天を同じうす。
これを仏子に寄せて、ともに来縁を結ばん。
このような連帯意識が生まれてくる背景には、死を賭して海をわたってきた日本僧の学殖と品格への高い評価がある。彼らが、中国にやって来て、名師を尋ね、聖地を巡礼し、経典を求め、修業にあけくれる姿は、好学のイメージをまわりに印象づけ、めぐり会いの人々から好感を持たれたのである。
こうして一人一人への好評は、徐々に積み重なって、いつのまにか日本人の全体像としてまとまり、「好学の士」という日本像を肉づけていくことになるのである。
1,五筆和尚
延暦二十年(八0一)に、日本の朝廷では藤原葛野麻呂を大使とする十八回目の遣唐使の役員が任命された。遣唐使のメンバーには、「三筆」の一人にかぞえられる橘逸勢や文名をもって一世を風靡した菅原清公などの顔ぶれも並んでいるが、なかでも平安仏教の双璧と併称される最澄と空海の二人は、とくに注目を浴びる。
延暦二十三年(八0四)七月六日、遣唐使一行を乗せた四隻の船は、そろって肥前国(長崎)松浦郡の田浦より出港した。船団は出発してまもなく風雨にさえぎられ、離れ離れとなってしまった。航海中の恐るべき様子を、大使の第一船に乗りあわせた空海は、次のように書き描いている。
「すでに本国を後にして途中におよんだころ、暴雨は帆を穿ち、悪風は舵を折る。高い波は空にそそぎ、短い舟はキリキリゆらつく。(中略)浪にしたがって昇り沈みし、風にまかせて南北する。」(『性霊集』)
海上を漂うこと一か月あまり、船員たちが「水尽き、人疲れき。海長く、陸遠し」と、ほぼ絶望的な苦境につき落とされたところ、第一船はようやく中国南部の福州長渓県の海辺に吹きつけられた。
八世紀中葉より以降、入唐コースが北路から南路に切りかえられてから、遣唐使はまず江南の明州か揚州から上陸し、地元の役人の誘導を得て長安へと向かうのがならわしとなっていたから、福州の海岸にいきなり姿を現わしてきた巨大な遣唐使船は、当然のことながら不審に思われ、足どめを食らって厳しい尋問をうけることになった。
大使の藤原葛野麻呂は、福州の観察使あてに、事情を説明した書状を差しだして、上陸の許可と朝廷への取り次ぎを懇願したのである。ここで誰も予想しなかったことに、空海の代筆になった書状に目を通した役人は、その流暢な漢文と優美な書法を絶賛し、遣唐使への対応もがらりと変わったという。
疑惑を晴らした大使一行は上京を許され、同年十二月に長安入りを果たした。そこで、空海は留学僧として青竜寺の恵果に密教を教わり、かたわら「八分」の書体で名を馳せる韓方明を師と仰ぎ、書道の研鑽にもあけくれていた。
空海の達筆ぶりは、「弘法も筆の誤り」ということわざを挙げるまでもなく、ひろく知られるところである。彼に「五筆和尚」のあだ名がつけられており、その由来をめぐっては、五つの書体に精通していること、両手と両足に口でそれぞれ一本の筆を操って五行の文字を一度に書けたこと、韓方明より五通りの筆法を伝授されたことなど、憶測や俗説がかなり幅をきかせている。
近ごろ、円珍関係資料を調べていたところ、図らずもある貴重な史料に出会った。唐の大中七年(八五三)、唐商人の船に便乗して福州の連江県についた円珍は、地元の開元寺に泊まり、寺主の恵灌と親しく会話を交わすなかで、「五筆和尚」の話が飛びだしてきた。
円珍の「両宗を弘め伝うる官牒を請うの案」(草本)に記されるところによれば、恵灌は「五筆和尚は健在か否か」と尋ねたら、円珍は空海のことと知って「すでに亡くなった」と答える。この凶報を聞いたとたん、恵灌は胸を叩いて悲しみ、「未曾有の異芸」を讃えて故人を追憶したという。
もし円珍の記録をそのまま信じるならば、「五筆和尚」のあだ名は、唐人が空海の「異芸」を讃えてつけたもので、それは大使にかわって書状を揮毫したという史実とも符合するのである。
空海の在唐中の事跡として、もうひとつ書道関係の逸話がある。二年間の留学を終えて帰国しようとした空海は、憲宗皇帝の勅命をうけて、皇宮に飾られた王羲之(大王)筆の屏風のために欠字を書き補ったそうである。空海の将来品には、「大王諸舎帖」がふくまれてはいるが、それは右の伝説を裏づける証拠にはならない。
在唐中の空海が書道家としても活躍していたことは、右のような伝聞だけでなく、れっきとした証拠がある。
そのひとつは、永貞元年(八〇五)、恵果が亡くなってから、空海は衆僧に推されて、碑文を草し、それを揮毫したことである。石碑そのものは発見されていないが、一五〇〇字あまりの碑文は『性霊集』(巻二)に抄録されている。
もうひとつは、唐人の送別詩に、空海の書芸を謳われていることである。たとえば、胡伯崇の『釈空海に贈るの歌』には「天より吾が師に仮くる伎術多く、なかんずく草聖は最も狂逸たり」とあり、また朱千乗も送別詩の序文で、「梵書を能くし、八体に工なり」と賞賛している。(1)
2,聖語に徴あり
延暦期の遣唐使の四船のうち、第三船は遭難して大破、第四船は杳として消息を絶った。もっとも幸運だったのは、最澄らを乗せた第二船であった。この船は空をつきさすような怒濤に翻弄されながらも、運よく揚子江口にのぞむ明州の?県に打ちあげられた。
唐の貞元二十年(八0四)九月十五日、最澄ら主従の三人は明州をあとにして、待望の天台山へ向かった。二十六日ようやく台州にたどりつくと、最澄はさっそく刺史の陸淳にまみえ、お土産のかずかずを献上した。陸淳は、文房具などを受けとって部下らに分かち、金十五両を返した。そこで最澄がこの金で紙を買って天台関係の書籍を書写したいと申しいれたところ、陸淳はこの希望を聞きいれ、写経の手間を道邃に取り計らわせた。
道邃は修禅寺の座主で、天台宗の第七祖と崇められる名僧である。このころ、たまたま陸淳に請われて、台州の竜興寺で『摩訶止観』を講義していたところであった。最澄と道邃の記念すべき出会いは、まさにこの寺だったのであろう。
台州を離れて、最澄らは天台山への道を急ぐ。「聖地のなかの聖地」とされる仏隴に着いたのは、十月六日のことであった。仏隴の座主行満は、最澄の求法の熱意にふかく心を打たれ、天台宗を開いた智顗の遺言を思いださせられた。
智顗はかつて弟子らに向かって、自分が亡くなってから二百年をへれば、東の国に生まれ変わって、天台宗を興隆しようと予言したのである。
この予言はみごとに的中したかのように、ちょうど二百七年目に、行満が「東の国」からやって来た最澄に出会ったのだ。そこで、行満は「法財を傾け、法宝を施し」て、最澄にできるかぎりの声援をおくったのである。
行満は最澄との出会いで智顗の転生予言を思い浮かべ、この人こそ智顗の生まれ変わりだ信じていた。最澄への送別詩に詠みこまれている「何れかまさに本国に到りて、踵を大師の風に継ぐべし」とある二句も、こうした思いを吐露している。
天台山巡礼を終えて台州に戻ったのは、十一月五日のことであった。それから約四か月の間、最澄はひたすら道邃のもとで研鑽に励み、翌年二月十五日、道邃から「付法文」を授けられた。道邃はこの法系の相承を表らわす「付法文」のなかで、またもや智顗の予言にふれ、「今、聖語に徴あり、最澄三蔵に遇えたり」と語り、最澄を「如来の使」にたとえて讃えたのである。
その後、最澄はさらに越州にまで足をのばし、「一百二部一百十五巻」の書籍をかかえて、意気揚々と出港地の明州に帰り、刺史の鄭審則に印信(証明書)を求めた。
鄭審則は「印信」の文中で、「礼義の国より来」た最澄について、「南のかた天台の嶺に登り、西のかた鏡湖の水に泛かび、智者の法門を窮め、灌頂の神秘を探る」と顕密両方の求法の成果を挙げてのち、「法門の竜象たり、青蓮の出池たり」と賛辞を連発する。
このように、求法に情熱を燃やす最澄に、唐人らは「礼儀の国」や「高僧の智顗」などのイメージを重ねあわせて、強い連帯意識を感じとったようである。こうした連帯意識の土台となっているのは、前述のごとく国家や民族をこえての仏教的世界観である。
唐人の送別詩から証拠となる詩句を拾ってみると、崔★(莫・言)は「法を問う言語は異なれど、経を伝うる文字同じなり」といい、行満も「異域の郷音は別なれど、観心の法性は同じなり」といっている。また台州の刺史陸淳から最澄へ渡された『公験』に「形は異域と雖も、性は実に同源なり」とみえるのも、「形」「言語」「郷音」の障壁を乗りこえて、「性」「文字」「法性」に同一性を見いだそうとする日本観が現わされている。(2)
3,不退転の学僧
宋代では、中日の国交が途絶えていたにもかかわらず、僧侶の往来は依然として衰えをみせない。これらの入宋僧のなかに、絵画にすぐれ、書道を善くし、詩文に堪能で、仏理に詳しいといった異色の人物が多かったのである。
宋の咸平六年(一〇〇三)、入宋した天台僧の寂照は、『宋史』(日本伝)に「華言を暁らないが、文字を知り、繕写は甚だ妙である」と讃えられ、また宋の真宗より円通大師号と紫袈裟とを授けられたのである。
寂照との筆談を通して、宋人は「国中、多く王右軍(王羲之)の書を習う」ことを知り、また「寂照は頗るその筆法を得ている」と感心した。(楊億『談苑』)
その後、寂照は中国にとどまり、「華言」を覚えるようになり、楊億の『談苑』によれば、「戒律を持すること精至である。内外の学に通じ、三呉の道俗はもって帰向する」とあり、江南での人気の高さが推察される。
後年、入宋した成尋は天台山から開封へ向かう途中、蘇州に立ちより、その日記『参天台五台山記』に「円通大師の影を拝むために、普門院へ向かう」とある。この普門院こそ寂照がその住持となったゆかりの地で、寂照を祭る影堂が残っているのである。
成尋はその影堂に香をささげ、その肖像に書き添えられていた『普門先住持日本国円通大師真影賛』を日記に書きうつした。
このように、宋人は寂照の遺徳を偲んで、彼を追憶するために、堂を造り、影を祭り、賛を捧げるのである。宋人の手によって描かれた寂照の肖像には、宋代の日本像を反映させていることはいうまでもなかろう。
入宋僧といえば、もう一人、宋人の心をつよく打った人物を紹介しなければならない。彼の名は安覚といって、その事跡は宋・羅大経の著わした『鶴林玉露』(丙編、巻之四、日本国僧)に詳しく記されている。かなり長文になるが、記事の前半を訳してかかげよう。
「私は少年のころ、鐘陵において日本国のある僧と邂逅した。その名を安覚という。自ら言うには、その国を離れることすでに十年となり、ことごとく一部の大蔵経を覚えて帰ろうという。念誦ははなはだ苦しく、昼夜となく、経文を遺忘するごとに、すなわち仏前に叩頭して、仏の加護を祈る。このとき、すでに大蔵経の半分ほどを覚えている。夷狄の人、異教の徒、その立志の堅苦にして不退転な態度は、このようなものとは驚くべきである。」
著者は右文につづいて、朱文公(朱熹)の「今世学者」の不勉強のさまを嘆いた言葉を引いて、「この僧を視ると、殆ど愧色がある」と、中国の「今世学者」に深い反省を促している。
入宋して十年目、大蔵経の半分をすでに諳んじることができたにもかかわらず、残りの経文を暗記するために、昼夜となく励んでいる求道者に心を打たれざる人はいなかったろう。
「夷狄の人、異教の徒、その立志の堅苦にして不退転な態度」に対する感嘆は、「中華」と自認し、「夷狄」を見さげる人々への警鐘を鳴らしている。このように羅大経は、安覚という人物を通して、みずから持っている「夷狄観」と「異教観」を改めされ、安覚を生みだした日本への認識にも変化をもたらしたにちがいない。
安覚(一一六〇~一二四二)は、名を良祐といい、色定法師とも称される。筑前国にある宗像社の座主兼祐の長男として生まれ、二七歳のときから大蔵経を自力で書写することを発願し、四十年あまりの歳月をかけて、安貞二年(一二二八)ようやく大願を成就したのである。安覚の書写した五〇四八巻の経文のうち、四三三一巻は福岡県の興聖寺に現存しており、貴重な文化財となっている。
さて、安覚の入宋年次は、今のところ明らかにされていない。ただし、『泉湧寺不可棄法師伝』や『元亨釈書』(巻十三、)などによれば、帰国は建保二年(一二一四)とあり、そこから逆算すると、入宋は一二〇三年以前とみられ、ちょうど写経の最中だったことがわかる。
安覚が大蔵経の自力書写を着々と進めながら、その手で書き写した経文を同時に暗記していたことは、日本側の文献にみられず、『鶴林玉露』によって始めて知られる。不退転の求道者としての安覚のもうひとつの側面をここにみることができる。(3)