HOME>>>日本語エリア>>>『中国史のなかの日本像』目録
| 第一節 日本像の断絶 |
中国人にとって日本の原像とは、「神仙の郷」や「宝物の島」などの表像を生みだした「東夷観」にほかならない。「東」にまつわる太陽信仰、「夷」にまつわる君子幻想は、すでに第一章で述べられた。
ところが、「東夷」の持つもうひとつの「顔」も、ここで忘れられてはならない。もうひとつの「顔」とは、華夏の文明人に対する東方僻地の野蛮人というマイナスイメージである。
人的往来がきわめてまれだった秦漢時代から、中国人はほとんど想像によって日本像を構築してきたが、唐宋時代になっても選ばれた使者や僧侶にしか接するチャンスはなかった。これらの事情により、唐宋時代までの日本像は、主として東夷観のプラス面を浮き彫りにしたものである。
それにもかかわらず、東夷観のなかに隠されていたマイナスは、ときとして顔をのぞかせることがある。たとえば、『旧唐書』(日本伝)は「その人、入朝する者は、多く矜大にして、実をもって対えず。故に中国これを疑う」と、その誠実さを疑問視している。
また宋代の『癸辛雑識』(続集下、倭人居処)をひもとくと、女子については「体は絶だ臭い」と、男子については「下体に避止する所なく、草をもってその勢(男根)を繋ぐ」と、扇子については「不肖の画をその上に作る」というように、酷評の連発である。
これらのマイナスイメージは、日本像の主流とはならなかった。しかし、元代になると、中日間に直接の戦争が起こり、状況が一変した。従来のプラスイメージ主導の日本像が継承されなくなり、かわってマイナス色に塗られた日本像がくっきりと浮き彫りにされるようになった。ここに、日本像の断絶が現われてきたのである。
1,趙良弼の報告
フビライは遷都して二年のち、すなわち至元三年(一二六六)に、黒的と殷弘らを招諭使として、朝鮮経由で日本に向かわせた。そのとき、フビライが使者にさずけた朝貢勧告の国書は、東大寺尊勝院にその写しが所蔵されている『蒙古国牒状』であり、元初における世祖の日本像を示している。
国書の主旨は、モンゴルの天下領有と高麗の臣服を知らせ、高麗と隣接する日本がふるくから中国と通交していたのに、一回も使者を派遣してこなかったのを責め、「通問結好して、以て相親睦」することを要請し、もし通好しなければ、聖人の四海を一家とする理念にそむき、このような場合は武力行使も避けがたいことを警告したものである。中村栄孝氏は、国書の体裁に言及して、次のごとく述べる。
「その体裁は、書きだしに、『大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉ず』とあり、とりわけ、結びを『不宣』として、臣としないことを明らかにしてあり、モンゴル人から、字句が丁重で、自制の意が書面にあふれていて、中国には前例がないといわれている。フビライは、中国王朝の継承者として、日本が不臣の朝貢国となり、円満に国交を結ぶことを望んでいたものと察しられる。」(1)
大元帝国は成立するや、中国王朝の継承者として、東アジアに華夷の秩序を回復しようとした。したがって、その日本像は国書にも示されているように、「武力行使云々」の言葉をのぞいて、基本的に唐宋以来のそれを受けついだものである。
至元六年(一二六九)、秘書監の職にあった趙良弼が使者として日本に派遣された。元使のたずさえた国書は「日本は素より礼を知る国と号する」とあり、「親仁善隣」の国交関係の締結を呼びかけている。
「けだし王なる者は内外を区別しないと聞く。高麗と朕とはすでに一家となった。王の国はじつに隣境である。それがゆえに、かつて信使を馳せて好を修めようとしたが、疆場の吏のために抑えられてその意を通じることができなかった。(中略)しかし、日本は素より礼を知る国と号する。王の君臣は、こんなことを決してしないだろう。(中略)ここで、少中大夫秘書監趙良弼に命じて国信使に充て、書を持って往かせる。もし王がわが国に使を発して来れば、親仁善隣を果たし、国の美事となろう。
趙良弼一行は「好を日本に通じ、必ずや達するを期せん」(『元史』)という使命を負うて、まず高麗に行き、至元八年(一二七一)九月にようやく太宰府に到達した。趙良弼は使命を果たせないまま、翌年いったん引きあげたものの、ふたたび日本に遣わされた。二度目に渡日した元使は『元史』(日本伝)によれば、「十年六月、趙良弼は復た日本に使し、太宰府に至って還る」とあり、「文永の役」(一二七四)の前年に帰国したことが知られる。
趙良弼は、日本に関する最新情報を元の朝廷にもたらしてきた。『元史』(世祖紀)に、「十年六月戊申、日本に使する趙良弼、太宰府に至って還る。具さに日本の君臣爵号・州郡名数・風俗土宜をもって来て上る」としるされている。『元史』の趙良弼伝に、帰国報告の内容がさらに詳しく述べられている。
「臣は日本に居ること歳余あり、その民俗を視ると、狼勇嗜殺にして、父子の親・上下の礼を知らない。その地は山水多く、耕桑の利はない。その人を得ても、使役することができない。その地を得ても、富を加えることができない。もし舟師を発して海を渡るならば、海風に期なく、禍害を測ることができない。これはすなわち有用の民力をもって無窮の巨壑を填めるようなものである。臣に言わせれば、日本を撃つことは何の利点もない。
ここに、現地調査をした元使の日本像がはっきりと現われている。つまり、悪地劣民の日本は「有用の民力」を用いてまで征服するに値しない、といった回避的な日本観がすでに台頭しつつあった。
「礼を知る」日本との「通好」を目的とした元使は、「狼勇嗜殺にして、父子の親・上下の礼を知らない」という日本人像を中国に持ち帰った。日本観の豹変の始まりである。
2,蒙古来襲
フビライは「撃つことなかれ」という趙良弼の忠言に耳を貸さず、その翌年の至元十一年(一二七四)に、大軍を発して日本攻略を決行した。いわゆる「文永の役」である。
元朝はその無敵の「モンゴル鉄騎」によって、欧亜二州をまたぐ大帝国を創りあげ、かかる兵威を背景として、日本を招諭しようとした。前後二度の国書のむすびに、自信過剰の念と日本軽視の意をのぞかせている。
すなわち、至元三年(一二六六)の国書は「冀わくは今より以往、通問結好して、もって相親睦せんことを。且つ聖人は四海をもって家となす」といいながらも、「通好しないことは、一家の理に背く。もし兵を用いることともなれば、彼我の望むことではなかろう。王はその利害を考えてくれ」と結んでいる。同じく至元六年(一二六九)の国書にも、前掲文につづいて「もし使者の派遣を猶予し、兵を用いるに至れば、望ましくない事態になりかねない。王はそれをよくよく考えてくれ」とある。
以上のごとく、元朝は日本との通好をせつに望みながらも、つねに強大な軍事力をたよりに、日本を威喝している。また一方では、北上氏によってしだいに強化されつつあった鎌倉幕府は、武力行使をにおわした元の国書を強硬な態度で拒否した。結局、両者の衝突は戦争という最悪な形で、行なわれてしまった。
文永十一年(一二七四)十月、高麗に結集した総勢二万五千六百人の遠征軍が九〇〇隻の船に分乗して日本に向かい、対馬・壱岐を攻略してのち、博多に上陸し、本作戦を展開した。モンゴル軍の集団戦法と鉄砲などの新兵器になやまされた幕府軍が大きな痛手をうけたものの、遠征軍のほうは「大風雨」(『東国通鑑』)に遭って、また「矢尽き」た(『元史』)ので、あっけなく撤回した。これは日本史上にいう「文永の役」の経過である。(2)
フビライは、第一次日本遠征の翌年(一二七五)に、また宣諭使として杜世忠らを派遣して、日本の動静をうかがわせた。しかし元使が日本につくと、主戦派の執権時宗は鎌倉の滝口でこれを切り、「私親を絶し、通問をせぬ」決意を示した。(3)その消息が元に伝わると、日本再征論がにわかに高まった。
その間に、元は南宋をほろぼし、中国全土を掌中におさえたので、東南アジアの秩序再建に目標を転換し、占城・安南・爪哇の遠征と並行して、日本再征の計画を着々と進めていった。
日本の弘安三年(一二八0)の秋、フビライは六年にわたる再征の懸案に決断をくだし、征東元帥府を征収日本中書省(征日本行省・征東行省・日本行省とも略称する)に拡張させて、日本をモンゴルの属領にすることが再征の目的であることを明示している。
弘安四年(一二八一)の正月、蒙古・高麗・漢人(北方人)・蛮子(南方人)の混成軍が動員され、五月から続々と日本へ向かった。遠征軍はその兵力を第一次の約五倍に増強し、惨烈な激戦を予想していた。ところが、閏七月一日の夜から突如として大風雨が荒れくるって、遠征軍の船団はあっけなく沈没し、あるいは破損をうけて戦闘能力を失ってしまった。日本史にいう「弘安の役」である。
『元史』(日本伝)は、「八月、諸将は未だ敵を見ないのに、全師を喪ってもって還る。(中略)十万の衆、還り得たものは三人のみ」と伝えているが、遠征軍の損失実情について『元史』の相威伝に「士卒を喪うこと十の六、七」とあり、また同阿塔海伝に「師を喪うこと十の七、八」とあるのが、もっと真実に近いであろう。
元初の対日観は東アジアの華夷秩序を再建するなかで、島夷の日本を修貢体制に組みこませるのに重点をおいていたが、幕府側の強硬態度にそれを挫かれて、目的達成のため武力行使に走ったのである。征戦失敗の後は、和戦両様の姿勢をかまえながらも、僧侶を使節として派遣するなど柔軟な態度で対日交渉をつづけた。
3,回避的な日本観
モンゴルの支配によって、騎馬民族の思想・文化・風俗などが、強制的な面も避けられないが、続々と中原にもたらされてきた。にもかかわらず、中国王朝の正統な継承者と自認するフビライにとって、いかにして高度な宋文化を模倣し、その政策を継続していくかが、最大の課題となっていたにちがいない。このような視点からみれば、日本との直接折衝が行なわれるまで、元王朝の思い描いていた日本像は、そっくり宋朝のそれを受けついだものである。
たとえば、日本を遠征する前に、フビライが使者に携えさせた国書をみると、「冀わくは今より以往、通問結好して、もって相親睦せんことを。且つ聖人は四海をもって家となす」(至元三年)とあり、また「日本は素より礼を知る国と号する」「親仁善隣を果たし、国の美事となろう」(至元六年)とある。さらに、至元三年に高麗王への国書にも、「日本と爾国は近隣と為る。典章政治、嘉するに足るものがある」と賛美している。
フビライの積極的な対日外交は、宋以来の中日貿易の再開に多大な期待を託しているものと思われる。『平家物語』によると、平氏の府中の調度品は「揚州の金・荊州の珠・呉郡の綾・蜀江の錦、七珍万宝は一つとして闕けることはない」とあるごとく、ほとんど宋物が中心となっている。中国にとって、貿易の利は多大なものであろう。
中村栄孝氏は宋代の貿易重視政策を受けついだ蒙古の動向について、次のように指摘している。
「フビライは、はやくから海上貿易に関心をもったが、一二七六(建治二)年に、南宋の首都臨安を占領すると、さっそく市舶司をたてて貿易商を取り締まり、七八年には、積極的に南海諸国との通交貿易の復活をはかり、翌年、南宋が滅亡すると、外交および財政政策の一環としてその制度を継承した。そうして、八四(弘安七)年からは、貿易を統制して、利潤を政府に集中していった。晩年、九三(永仁元)年には、市舶司を、泉州・上海・?浦・温州・広東・慶元(寧波)の七ヵ所とし、市舶則法二十二ヵ条を定めて、独占的貿易体制を確立した。この前後に、中国と交通するもの二十二ヵ国に達し、中国船も、海上はるかにインド方面まで進出している。やがて、五年後には、?浦・上海両市舶司を慶元に合併した。日本の商船が往来していたのは、前の時代と同じように、この慶元港である。」(4)
ここで、注意すべきなのは、「文永の役」と「弘安の役」のさなかにもかかわらず、両国の間に、公然と商船の往来が絶えず、経済の交流が頻繁に行なわれていたことである。 『元史』から実例をひろってみると、至元十四年(一二七七)条に「日本は商人を遣わし、金を持って来て銅銭を買う。これを許す」とあり、至元十五年(一二七八)条に「沿海の官司に詔諭し、日本国人の市舶を通じさせる」とみえ、至元十六年(一二七九)条に「日本の商船四艘、?師二千余人が慶元の港口に至る。哈刺歹、牒してその他の目的がないのを知り、行省に言って交易させて帰国させる」とある。
このようにみてくると、元の対日政策は宋の積極貿易とほとんど変わるところはなかった。この意味で、元の日本遠征も単なる軍事征服ではなく、海外貿易を考慮にいれての行動であるかもしれない。第二次の日本遠征軍の出発に際して、フビライが「人の家国を取るには、百姓・土地を得んことを欲する」(『元史』日本伝)と「漢人の言」を引用して諸将を戒めたことは、遠征の本音を吐いているとみてよかろう。
前述のように、太宰府に一年あまり滞在して「文永の役」の前年に帰国した趙良弼は「その民俗を視ると、狼勇嗜殺にして、父子の親・上下の礼を知らない。その地は山水多く、耕桑の利はない。その人を得ても、使役することができない。その地を得ても、富を加えることができない」と報告し、日本遠征の利なきことを主張した。
日本遠征にこうした消極的な態度をしめしたのは、ひとり趙良弼にとどまらず、他の廷臣諸将のうちにもみられる。たとえば、『元史』(巻一六0)の王磐伝に「日本小夷、海道は険しくて遠い。これに勝っても、すなわち武功とはならない。もし勝たなければ、すなわち威厳を損ずる」とみえ、また同巻一六八の劉宣伝によれば、劉宣は日本三征のうわさを聞くと、占城・交趾征討の功過を論じてのち、次のように主張している。
「いわんや日本は海洋万里にして彊土濶遠であり、二国の比にならない。今次の出師は、衆を動かして険を履み、たとえ順風を得て彼岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、わが師に後援はない。万の一に戦闘が不利となれば、救兵を発すると思っても、ただちに海を飛渡することはできない。」
元初の日本重視の政策が主として経済的な理由によったものだとすれば、二回もの遠征失敗によって、日本への関心がだんだんと薄くなり、そこから回避的な日本観が生まれてきたと推論することができよう。
秦漢から唐宋にかけて、日本像のパターンが「神仙の郷」「宝物の島」「器用な民」「礼儀の邦」「好学の士」とあるが、それらは重なり、互いに包容しあう関係にあるわけである。たとえば、「神仙の郷」から「礼儀の邦」、「宝物の島」から「器用な民」への継承がはっきり見てとれる。また、「好学の士」は「礼儀の邦」を肉づけていることも明らかである。
ところが、元代の日本像は、従来より絡みあっていた日本の群像とは明確に一線を画し、伝統的な日本像の断絶を意味するものとなったのである。