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| 第二節 孤遠の島夷 |
日本遠征の失敗は、元王朝の命取りのみならず、鎌倉幕府の滅亡をも早めさせた。幕府の弱化と御家人の窮乏によって、地方に勢力をはった有力守護が台頭し、貧困におちいった浪人武士が既存体制から逸して横行した。そのなかから、九州や瀬戸内海沿岸の武士・漁民・商人らを主体とした武装貿易商団が生まれ、武力を背景に朝鮮や中国の海岸へ頻繁に出かけた。いわゆる「倭寇」のおこりである。
また一方では、第二次の日本遠征(「弘安の役」)により、元は宋から接収した海軍力をほとんど失い、その結果として海防の弛緩を招致してしまった。十四世紀の初頭から、広州・泉州・慶元(明州の改称)の市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、沿海地域の防衛問題が深刻になりつつあった証拠である。注意すべきは、これらの海防策は主として日本の動向に対して講じられたことである。
一三六八年、明王朝が立ってモンゴル族の支配に終止符を打った。従来どおりの東アジア秩序を回復させようと、日本にも修好の使節を遣わしたけれど、元代以来の内外情勢がすでに大きく変わり、明王朝の復旧計画はあっけなく失敗に終わった。
その後、倭寇といわれる日本の海賊がしだいに猛威をふるい、中国の東南沿岸を荒らしつづけた。明王朝は再三の要請にもかかわらず、倭寇の跳梁を徹底的に取り締まってくれなかった日本に愛想を尽くしてしまい、日本を「不征国」のリストに加えて、断交を宣言するに至ったのである。
1,軌道修正
『元史』(巻十四、世祖紀)の至元二十三年(一二八六)条に、フビライ自身が「日本は孤遠の島夷」といったように、遠征の失敗を転機として日本との心理的距離がしだいにひろがりつつあった。つまり、地理の遠隔・渡海の危険・国土の貧乏・人民の卑劣などを理由に、日本から視線を外らそうとする意図が明らかに見てとれるのであった。
フビライの治世に、ときに日本用兵の建議もあったが、いずれも実施に移されることはなかった。しかし、フビライは日本招諭の宿願をついに諦められず、至元二十一年(一二八四)参政の王積翁と補陀禅寺住持の如智を遣わし、従来と違った口吻で、日本の来朝をうながした。元使のたずさえた『宣諭日本国詔文』は中国側の文献にはみられないが、日本の『善隣国宝記』巻上にひかれている。
「天命を受けた皇帝、聖旨を発して日本国王に諭す。むかし、彼国はよく遣使して入覯する。朕はまた使を遣わしてこれに相報する。すでに約束を交わしており、汝の心にそれを置き忘れていないだろう。このころ、彼国は信使を執って返さないため、朕は舟師を発して咎めさせた。古えは兵を交わして、使者はその間を往来する。彼国は一語も交わさずして、固く王師を拒む。したがって彼国はすでに敵国となり、さらに遣使するべきではないが、ここに補陀禅寺の長老如智らが陳奏し、『もしまた舟師を興して討伐すれば、多くの生霊が被害を受ける。彼国のなかにも仏教の感化があり、大小強弱の理を知っているはずだ。臣らは聖旨の宣諭を齎奉し、必ずや多くの生霊を救う。彼国はまさに自省し、懇心して皈附するだろう』という。奏請を許して、今長老如智と提挙王君治を遣わし、詔を奉じて彼国に往かせる。善なるものは和好のほかになく、悪なるものは戦争のほかにない。果たしてこれを思慮して帰順すれば、すなわち去使とともに来朝するべし。したがって彼者に諭し、朕はその福禍の変、天命に任せる。ここに詔示し、わが意をすべて汲み取ってくれ。」
右の国書には元初以来の日本観と著しく異なる点がいくつかみられる。まずは、「興師致討」や「多害生霊」のような武力行使の方針をやめて、「和好之外、無餘善焉」「戦争之外、無餘悪焉」といった無条件の修好を表明したこと。次は、日本を「仏教の感化があり」「大小強弱の理を知」る国と認め、自主的な来朝をうながしたこと。または仏教尊重の日本国情にあわせて、はじめて僧侶を使者に起用したこと。このように、遠征失敗後の日本観の転換は明らかなものである。
フビライ(世祖)についで即位した成宗は、右のような新しい対日政策をさらに継続させ、日本征服の方針を徹底的に放棄した。大徳二年(一二九八)に也速答児が日本用兵を建議したとき、成宗は「今はその時にあらず」と不賛成の態度をはっきりと示した。その翌年に、成宗は如智と同じく補陀禅寺の高僧であった一山一寧を日本に遣わし、詔書には次のような言葉が述べられている。
「先ごろ、世祖皇帝はかつて補陀の禅僧如智および王積翁らを遣わし、ふたたび璽書を奉じて日本に通好させる。みな中途に阻まれて還る。ここに朕が即位してからは、諸国を綏懐し、それを海の内外に広げて遐遺するところはない。日本との好みもまた遣問すべく(中略)道行もとより高い補陀の寧一山を遣わして諭し、商船に附して行き、きっと使命を達成してくるとの請があり、朕はこれを許し、先帝の遺意を成さんと欲する。惇好息民の事に至っては、王はそれをよくよく考えてくれ。」
成宗が補陀山(普陀山)の禅僧を使者として遣わしたことはいうまでもなく、フビライの故智にならったもので、「惇好息民」の遣使目的も「先帝の遺意」を遂行するためである。
石原道博氏は、元初のフビライの日本観と成宗の日本観の相違をするどく洞察し、「成宗の詔と、さきの世祖の詔『蒙古国牒状』とをくらべてみると、蒙古の日本にたいする態度は、内容はもとより文の全体からうける感じからいっても雲泥の相違である」と指摘している。(5)
上述のごとく、二回の日本遠征を境目にして、元朝の日本観は大きく変わったことがうかがわれる。一方、モンゴル族の支配下にあった漢民族の日本観はまた別な形で変化しつつあった。これについての考察は、紙幅の制限上、他日に期したい。
2,海防の強化
元の日本遠征が失敗に終わってから、日本商船の武装化の傾向がいっそう顕著となり、元王朝はそれをつよく警戒し、沿岸都市の安全をはかって市舶制度の軌道修正を余儀なくされた。
たとえば、至元二十九年(一二九二)には、日本の商船が四明(今の寧波)に至り、貿易を求めたが、役人の検査で「舟中に甲仗みな具」えていたことが発覚した。略奪などの「異図」に備えて、元は都元帥府を設置して海防を固めさせた。(6)
また大徳七年(一三0三)には、江南沿岸にしばしば出没する日本船の警備として、千戸所を定海に設けて海防を強化させるとともに、市舶司を廃して禁海令を発布した。(7) 十四世紀初頭のおよそ二十年間、沿岸商人の密貿易がにわかに台頭しはじめ、日本船の海賊行為も目立ってきたため、市舶司の置廃がしきりに繰り返された。以下、『元史』巻九十四・食貨志から市舶廃立の記事を抜き出してみる。
[成宗]大徳元年(一二九七)行泉府司を廃止する。
大徳二年(一二九八)?浦と上海の市舶司を慶元市舶提挙司に合併する。
大徳七年(一三0三)商人の下海を禁じ、市舶司を廃止する。
[武宗]至大元年(一三0八)泉府院を復活させ、市舶司のことを整治する。
至大二年(一三0九)行泉府院を廃止する。市舶提挙司を行省に編入する。
至大四年(一三一一)また市舶司を廃止する。
[仁宗]延祐元年(一三一四)市舶提挙司を復活させる。商人の海外渡航を禁じる。
延祐七年(一三二0)また提挙司を併合する。
[英宗]至治二年(一三二二)泉州・慶元・広東三処の提挙司を復活させ、市舶の禁を 厳しく監督する。
このように、元朝は日本商船の武装化および遠征失敗後の日本の復讐を恐れて、初期の中日貿易奨励方針から、しだいに消極的な閉関主義にかわり、日本との通交を回避する方向をたどった。
3,白骨の山
日本遠征の惨敗は、これまでの「弱倭」のイメージを一掃し、凶悪残忍な日本人像を生みだした。こうしたイメージ転換は、元王朝に海防政策の軌道修正を迫るのみならず、中国人の日本像をも塗り替えさせることになった。
南宋遺臣の鄭思肖は、「夷狄」のモンゴルをうらみ、『元賊謀取日本二絶』に日本遠征の失敗をひそかに喜んでいたが、この詩にも「倭中の風土は素より蛮頑なり」といっている。鄭思肖はまた『元韃攻日本敗北歌』をつくり、その詩序に元軍の日本襲撃の様子を次のように伝えている。
「辛巳六月の半ば、元賊は四明より海に出る。大舩七千隻、七月半ばごろ倭国の白骨山に至る。土城を築き、駐兵して対塁する。晦日に大風雨がおこり、雹の大きさは拳の如し。舩は大浪のために掀播し、沈壊してしまう。韃軍は半ば海に没し、舩はわずか四百餘隻のみ廻る。二十万人は白骨山の上に置き去りにされ、海を渡って帰る舩がなく、倭人のためにことごとく殺される。山の上に素より居る人なく、ただ巨蛇が多いのみ。伝えるところによれば、唐の東征軍士はみなこの山に隕命したという。ゆえに白骨山という。また枯髏山ともいう。」(8)
「唐の東征軍士」云々は何をさしたものか、詳らかではないが、六六〇隻あまりの軍艦が海底に沈没し、二十万人の兵士が白骨山(枯髏山)に骨を埋めたことは、恐怖をそそり地獄そのものを想像させる。古代の中国人が東海のかなたに憧憬しつづけた「神仙の郷」および「宝物の島」は、いつのまにか恐怖の対象とされる「白骨山」や「枯髏山」に変わってしまった。
『元韃攻日本敗北歌』は、日本人の性状についても言及している。それをみると、秦漢時代の柔順な東夷像または唐宋時代の礼儀正しい風雅な君子像に取ってかわり、戦闘的かつ凶暴な倭人の男女像がありありと描かれている。
「倭人は狠ましく死を懼れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。幼いころ犀角を取って小珠をえぐって額の上に埋めこみ、水を善くして溺れない。倭刀はきわめてするどい。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし。」
このように、元代の中国人にとって、日本はもはや異質な空間となり、倭人はすでに避けるべき凶敵に化してしまったのである。元の文人呉莱は『論倭』を著わし、「人は我が嗜欲に同じからず」「地は我が疆土に接せず」といった「小小の倭奴」を撃破してもなんの利益もないことを力説ている。こうした回避的な態度は、元朝後期の代表的な日本観といえよう。